風の旗標
五回目
馬をめちゃくちゃに走らせながら、孔明は行く手のなにひとつも見過ごすまいと目をこらしていた。
夏の日差しは容赦なく孔明たちに降り注ぎ、汗がだらだらと、体中を伝う。
馬に乗り、これを、その能力の限りまで走らせるという運動は、かなり重い動きとなるが、弱音を吐いている場合ではなかった。普段であれば、とてもではないがこなせなかったであろうことが出来ているのは、気がはやっているせいである。
疱瘡は、いまわしい病であることにはちがいないが、まったく治らない病というわけではない。
この病を克服したものは、二度と、この災禍に遭わなくてすむこともわかっている。
たしかに、十万人ちかい難民が集ってきてしまっているいまの状況のなか、疱瘡患者がいるということがわかったら、民はますます動揺し、混乱するであろう。
恐慌に至った民というものが、どれだけ無軌道になるか、それは孔明も知っている。
民か、妻か。
もしも、自分であったなら、どちらを取ったであろうか。
すぐに答えのない選択である。
劉備は、しかし、問題をこう置き換えたのだ。
大勢か、少数か。
とったのは、大勢のほうであった。
どれだけの悲愴な覚悟がそこにあったか。想像すら拒む心のありようではないか。
滝のように流れる汗のために、徐々にまともな思考力が奪われていくなか、心の奥底から、腹が立つほど冷静で卑怯な声が、こうささやいてくるのが聞こえてくる。
主公の判断はただしい。いまさら馬を飛ばしたところで、甘夫人は助かるまい。
趙子龍が死に慣れているという主公の言葉もただしい。
かれならば、いざとなれば甘夫人が苦しまずに死ねるようにもできるだろう。
冷徹な男ゆえ、そのことが傷みとして心に残ることもあるまい。
孔明は、楽なほうに逃げたがる心が、おのれを正当化しようとして囁いてくる声を、馬上で懸命にはねのけた。
馬を飛ばして追いかけたところで、甘夫人が助かるとは言い切れない。
たしかに病に対する知識はあるが、疱瘡はむずかしい病だ。治せる自信などまったくない。
けれど、なにもしないで、このままいいわけを連ねて、ひとりだけ先に江夏へいくなど、ご免だ。
まして趙子龍にすべてを委ねるなどという、無責任きわまりないことがどうしてできよう。かれを信頼していないのではない。信頼しているからこそ、危ういと思うのだ。
かれはあまりに冷徹であろうとしすぎる。芯から冷徹な人間ではないのに、本人も周囲も、かれの強さを過大評価しすぎているのだ。
趙子龍という人物は、信頼していた人間との確執で、十年以上も弓をうまく引けなかったほどの繊細さを持っているのだ。
その傷は癒されたとはいえ、思いつめてしまう性質というのは、元来のものだから、直る、直らないの問題ではない。
おのれでも持て余してしまうほどに繊細な心を守るために、かれは冷たい矜持を作って、それを覆い隠してきた。隠した自覚もなかったにちがいない。
一見、冷静でなにごとにも動じないふうに見える顔の下に、かれはびっくりするほど無垢な心を持っているのである。
だからこそ、おのれを信じるものを守るために、血の雨をくぐることができるのだ。
かれにとっては、敵は、あくまで外から来るものでなければだめなのだ。
いかな主公の命令とはいえ、慣れ親しんだ夫人をおのが手で殺めてしまったなら、かれの心は傷つくだろう。
そうして、自分が傷ついていることにうろたえて、崩れてしまう。立ち直れまい。
馬上から仰ぎ見る太陽は、馬の動きにあわせて揺れているように見える。
その位置は頭上高くあり、すでに昼が過ぎていることを教えてくれた。
そういえば、なにも食べていないが、腹が空かないのは異常かな、などと、孔明は考えた。
むかしは、腹が空いていなくても食べるように気をつけていた。
司馬徳操の私塾に通うまでは、生活もどこか野放図で、姉がいないと、好き勝手に過ごしてばかりいた。それに、腹が空いていないほうが、頭が冴える気がした。
そんな孔明の生活態度を見て、改めるようにと注意したのが、徐庶だった。
医食同源だと言って、勉学のかたわら、どうやって稼いでいるのか、ほんのすこし自由になる食糧を持ってきて、孔明に分けてくれたのだった。
いまもって、あんなに優しい男はいないだろうと思う。
そして、かれはいま、どうしているだろうかと懐かしく思う。
曹操は新野に徐兄を連れてきていないだろうか。
かれこそ道案内をさせるにふさわしい者はない。
いや、徐兄はそんな命令は断るだろう。好んで下ったわけではないのだ。
降伏した理由すら消えてしまったいまとなっては、もう徐兄が曹操に仕える理由はない。
そこまで考えて、ぐらりと視界が揺れた。
と、同時にいかなる幻想か、すこしばかりやつれた徐庶が、真新しい墓の前で額づいているのが見えた気がした。
そうか、戻ってくるのは無理だな、母上の墓を守ると手紙に書いていたもの。
君は母上を選んだ。
わたしはまた、死というものに、大切なものを奪われてしまったのだな。
「しっかりしろ! おい、全員止まれ! 休憩だ!」
銅鑼の音を叩くような力強い声に、意識が遠のきかけていた孔明は、正気をとりもどした。
徐庶の幻想は頭から消えていて、かわりに現実として、おのれの轡を横からつかんで、馬の速度を落すように誘導している、青竜の腕が見えた。
いかん、落馬する。
孔明はぱっと目をひらくと、力を失いかけていた指先に力を入れて、自分で馬の速度をゆるめた。
と、同時に、力を入れた指や手のひらに痛みが走る。
どうやら、手綱を掴み続けていたおかげで、肉刺ができたようだった。
青竜の引き連れている傭兵たちは、じつに頭領の命令に従順で、止まれと命令されると、すみやかに止まった。
無駄口を叩くものすらなく、休憩場として定めたちいさな林に馬を止めると、かれらのなかでも、特に人相のよい者が選ばれて、ちかくにあった農家から水を分けてもらいに向かった。
そのあたりの配慮も行き届いていると、孔明は真夏の熱にいじめられて、くらくらした頭を懸命にうごかしつつ、思う。
こうした傭兵たちは、ふつうは盗賊と変わらない。手近に民家があれば、これから食糧を奪ったり、家畜を奪ったりすることも平然とおこなう。
「軍師さんよ、ここに座りな。俺の部下がいま水を持ってくる。そうしたら、あんたのその煮詰めた豆みたいな赤い顔も、すこしまともになるだろうぜ」
言われて、孔明は、自分が短時間のあいだに日光を浴びつづけたため、肌が炎症をおこしていることに気がついた。孔明の肌は焼けずに、赤く腫れるのだ。
ここに座れ、と青竜が言った場所は、林のなかの、とくに大きな幹を持つ巨木の木陰であった。
その根元に、青竜が馬にくくりつけていた布がしかれてあり、そこに眠れということらしい。
あまりの厚遇ぶりに、思わず孔明は笑みをこぼした。まるでこれでは、どこぞの姫君のようだ。
だが、断る理由もない。
孔明としては、ふつうに座ったつもりであったが、しかし膝はすでに言うことを利かなくなっており、その場にがくりと崩れるようなかたちになった。
地面に手をつきそうになると、横から青竜が手を貸してくる。
「気持ちはわかるが、無茶が過ぎるな。ほら、ちゃんと座れるかい。恥ずかしがることはねえよ。ほら、俺の部下だって、みんなへばっているだろう」
言われて見れば、この暑さにみな草臥れてしまったのか、みんみんと蝉が大声で鳴きつづける林のなかで、青竜の部下たちは、めいめいが好きな場所に座り込むか寝転がるかしている。元気なものとて、草叢にひそむ飛蝗を足で追い散らしながら、どこかぼんやりとした様子だ。
「すこし時間を置かないと駄目だ。あんた、長距離の行軍の経験がないだろう」
たしかにそのとおりであったが、孔明は素直にうなずくことができず、むっつりと黙った。
しかし青竜のほうは、孔明の反応に気を悪くすることもなく、やれやれ、というふうにため息をつくと、林のなかを見まわして、言った。
「残念ながら、俺も、俺の部下たちも、曹操の精鋭部隊である青州兵ほどの体力も技術もない。それはあんたの馬も同じだぜ」
馬といわれて、孔明は、はっとして顔を上げた。
「もしや、馬がつぶれたのか」
馬がつぶれてしまったら、代わりの馬を探さねばならない。
孔明は、後からやってくる劉備のためにと、自分の出発において、代えの馬をあえて用意しなかったのだ。
疲労のために言葉すくなになっていた孔明が、やっと人間らしい表情になったことがおもしろかったのか、青竜は声をたてて笑った。
「安心しな。馬はつぶれちゃいない。だが、つぶれかけてはいたな。人間もそうだが、馬も休ませなくちゃだめだ。悪くない馬だが、持久力はそこそこだ。
いまここで休んでも、向こうはきっとゆっくりだろうから、夜には追いつけるだろうさ。焦ったら、共倒れだぜ」
徐州の訛りがあるから、という理由ではなかろう。男の声は、決して耳にやわらかく響く質ではなかったが、ふしぎと心を落ち着かせるものがあった。
追いつけるというその言葉を、疑いなく信じたくなる。
だが、孔明は、そこで簡単に男を信じようとするおのれを叱った。
これとて、またも楽な方向に逃げようとするおのれの弱さの一部ではないのか。
こうしているあいだにも、甘夫人の容態が急変しているかもしれない。
この暑さ、病人にはたまらないだろう。
とはいえ、馬がへたばってしまっている以上は、もう動きようがないのだった。
青竜の言葉はただしい。
ここで孔明も倒れてしまったら、意味がないのである。
いざというときが、いつくるかなんてのはわからないものだ。
それはもしかしたら寝ているあいだにいきなり来るかもしれないし、あるいは、まったく油断して、うとうとしているときに来るかもしれない。
いつも気を張りつめていろというのも、おまえの性格からして、いい忠告じゃないことはわかっているが、せめて、ここぞというときに万全でいられるよう、食事はちゃんと摂っておけ。
そう言ったのは徐庶だった。
わたしは君のことばをまた忘れてしまっていたよ。それというのも、君がいてくれないからだ。
いまさらどうしようもない恨み言を悲しく胸の内でつぶやきつつ、孔明は上半身を起こすと、幹に背をあずけて、持ってきた乾飯を口にした。
ちょうど、青竜の部下が水を持ってきたので、それと交互に口に運ぶ。
そうしてしばらく口をもごもごと動かしていたのであるが、ふと、横顔にちくちくと刺さるものがある。
なんであろうと胡乱な目を向けると、青竜が、なにやら珍しい動物をながめるように、孔明を見つめているのであった。
「人が食事をするところを凝視するとは行儀のわるい。徐州の人間は、そのような躾を受けないはずだが」
孔明が言うと、青竜は、わるかった、というふうに片手をあげて、図々しくも孔明のとなりにどさりと腰掛けた。
木陰とはいえ、暑いものは暑い。
孔明は、迷惑に思いつつ、身体を動かして、距離をとった。青竜に害意はないようであったが、不用意に近づかれるのは、やはり苦手なのである。
孔明が迷惑そうな表情を隠さずに、食事をつづけていると、青竜は、またも人の顔をじろじろとながめているのであった。
自然と孔明は、趙雲のことを思い出していた。趙雲もまた、ふとしたときに、なにかを懸命に探すような表情で孔明を凝視する奇癖の持ち主であるが、趙雲に見られることは、孔明にとって不快ではなかった。
なぜだかはわからないが、当然のことのように思えたのだ。
だが、青竜は、あいにくと趙雲ではない。
こうして比べてみるとよくわかるが、趙雲というのは存在感があるようなないような、そのあたり気の遣わせない態度が、じつに見事であったのだと孔明は気づく。と、同時に、あせりがまたもこみ上げてくる。
なんとしても助けたいと思う。
叔父のことも徐庶のことも、糜夫人のことも助けることができなかった。
けれど、今度こそはちがう。
死という、得体の知れない、しかし逃れがたいものから、まだまだかれは生きる人間なのだと、庇ってやりたい。
頼むから、莫迦なことは考えないでくれと、祈るような気持ちになる。
そんな切迫した孔明の脇で、青竜は、じつにのん気な声でたずねてきた。
「あんた、長子だろう」
場違いな質問に、孔明はおおいに眉をひそめつつ、首を青竜のほうに向けた。青竜のほうは、すっかりごろりと地面に横になっており、気持ちよさそうだ。
「残念ながらちがう。兄が孫家に仕えている」
「ああ、そうだったのかい。高飛車な癖して、なんだかんだと面倒見がいい、けれど人から傅かれることに慣れているところが、長子かなと思ったんだが」
「すっかりまちがっているというわけではない。兄は長いあいだ遊学のために家を空けていて、そのあいだ、ずっと次子であったわたしが長子の代わりとして育てられていた。家督を継ぐように命じられたのもわたしだったからな」
「兄貴ってのは、体の具合でも悪いのかい。それとも本妻腹じゃなかったのか」
「本妻腹で、きわめて健康だったよ。あんまり親しくする機会がなかったから、どんな人かもよくわからない」
だが、確実にわかっていることは、わたしを憎んでいる、ということだ。
孔明は胸のうちで付け加えた。
孔明は、自分で自分の容姿が好きではないが、その理由は、やはり親兄弟のだれにもまるで似ていないということも含まれている。姉に言わせると、兄は死んだ父に似ているそうだ。
孔明がおぼろげにおぼえている父というのは、すでに病みついて床のなかにおり、蒼ざめ、頬がげっそり痩せた顔を、無理に笑わせようとしている人だった。
はっきりしたことは覚えていないのだが、かわいがってもらった記憶はある。
同じ姿をしているというのなら、すこしはやさしくあってもよさそうなものだ。
それとも、側にいる家族にはやさしいのだろうか。
家督をうばった妾腹の子である自分は疎まれても仕方ないが、姉や弟までないがしろにするのがゆるせない。
そして、叔父が死んだとき、なんら悔やみのことばも述べてこなかったことも、孔明のなかで怒りが消えない理由なのだ。
おそらく、そんな孔明の内心の動きが顔にあらわれたのだろう、寝転がったまま、青竜は言った。
「あんまり仲がよくないみたいだな。孫呉の諸葛子瑜といったら、徐州の王氏とも血縁となって、徐々に力をつけている男だ。同じ兄弟として誇らしいとは思わないのか」
なんでこんな質問をされるのだろうと苛立ちつつも、兄が孫呉で力をつけているのは事実であるし、生きていく以上は、かならずだれからもされることになる質問だろうと、孔明は思いなおした。
答え方としてはふたとおりある。
適当に相手にあわせて、誇らしいと思うと嘘をつくか、もう一方は、兄は兄だ、と突き放したことを答えるか。
孔明は後者をえらんだ。
この青竜という男、やはり妙に知りすぎている。油断ならない。
誇らしいと答えたら、なぜに嘘をつくのかと詮索してくるかもしれない。
「兄は兄だ。わたしには関係ない」
「そういうものかね。やはり家督のことが問題になっているのかな。樊城の劉州牧も、死ぬ間際まで、長男と次男、どちらに家督をつかせるか、ぎりぎりまで迷っていたというからな」
ここで孔明は緊張した。どうしても思い出されるのは、それこそ、樊城で起こった、いまだ悪夢のように思える事件のことである。壷中のことを暗に口にしているのだろうか。
しかし、孔明の緊張をよそに、青竜はのんびりと、林の木立のあいだから見える空をながめている。
「よかれと思ったことなのに、かえって悪い結果をあとに残していくことになるというのは、皮肉なものじゃないか。あんたの父君とて、兄弟仲を割くためにそんな取り決めをしたわけではあるまい」
「父がどうしてそのようなことを決めたのか、わたしも知らない。叔父はわたしがひとり立ちできるようになったなら教えると言っていたが、そのまえに死んだ。姉ならなにか知っているかもしれないが、あいにくと疎開しているから、いま知ることはできない。兄は知らないだろう」
だからこそ、いまだに怒っているのだ。
兄のことを許せないという理由は、まだほかにもあるのだが、兄の立場からすれば、孔明は、父と叔父という、ふたりの大切な肉親の愛情を独り占めした、いやな弟に見えたのかもしれない。
子供のような理由だが、理由が幼稚であるからこそ、表に出てくることがないため、なかなか解決しないということもある。
「古い家はいろいろあるものだな。あんたの名前は知っていたよ。諸葛なんて姓はめずらしいから、妙に印象に残る。話しついでになんだが、あんたは自分の父君が元気だったとき、いくつだった」
「またずいぶんと不躾な質問がつづくものだな。なぜわたしの家のことを知りたがる。戦に関係があるのか」
趙雲はこんなに馴れ馴れしくしないのにと、またも比較して苛立ちつつ、孔明がいうと、青竜のほうも図々しさをみせて、寝転がったまま、にやりと笑うと、さらに言った。
「気になるだろ。あんたはいろいろふしぎなんだよ。あんたの背景にあるものが知りたくなる。べつに知ったところで、どうしようってもんじゃない。純然たる興味なのだが、答えるのがいやかね」
「父が元気だったときは、わたしはまだ物心がついていなかった。物心がついたときには、父はすでに病みついていた。どうだ、満足か」
「ああ、満足だ。だからだな」
一人合点している青竜に、孔明は剣呑なまなざしを向けた。
「なにを納得している」
「いや、なんだってあんたが劉玄徳の軍師になったか、そしてなんだって劉玄徳は、あんたをあえて厚遇して迎えたのか、その理由さ。
あんたはたしかに見た目だけでいったら、天下に稀な器に見える。人相学の権威に見せたら、それこそいろんな美辞麗句を並べ立てそうだ。
けれど、実際にはどうだい、まったく未知数だ。
俺は劉玄徳の軍師が曹操のところに引っこ抜かれたと聞いたとき、こりゃあ、劉玄徳は、もう軍師なんて迎えないと思うか、そうでなけりゃ、あせって、つまらないやつを軍師にしちまうかなと思っていたのだ」
「実物を目の当たりにした感想はどうだ。見てくればかりのつまらないやつに見えるか」
孔明がきついことばを浴びせると、青竜は、やはり寝転がったまま、そのことばを手で払うようにして、答えた。
「突っかかるなよ。悪気はないのだ。というより、どうもあんたには嘘偽りないことばを真正面から向けたくなる。
飾ったことばを出したところで、あんたはそれを見破るだろう。そうなると、こっちとしても気持ちがわるいからな」
「誉めことばだな」
「そうさ。あんたを最初見たときに、俺はこう思った。『なるほど、劉玄徳は、外交に力をいれるつもりか。もしかしたら、曹操に下ることも頭に入れているのかもしれない。だから、すこしでもいい条件に持ち込めるよう、最初が肝心というわけで、いい印象を残せる、見てくれのいいやつを選んだのか』とな。
けれど、あんたやあんたの殿様を見ていると、どうもそれもちがう。で、俺はわかった。あんたが劉玄徳の軍師として選ばれた理由、そしてうまくやっていけている理由は、世間知らずだからだ」
孔明は、地面に向けた指先に触れる小石に気づき、これを青竜にぶつけてやろうかとも考えたが、しまいまですべて聞いてからにしようと思いとどまった。
「世間知らずのわたしだと、どうしてよいのだ」
「あんたは、実務というものを、実際に見て育ってこなかった。家督を継ぐものして、裕福な家のなかで、蝶よ花よと育てられ、いつも守られて過ごしてきた。
あんたからは、どうも逼迫した雰囲気が感じられない。生活に困ったことがないやつの空気がする。そうだろう」
事実、そうであったから、孔明は黙ってうなずいた。
「だから、劉玄徳の軍師になるのに、よけいな知恵がなかったから、純粋に劉玄徳の人柄や志を評価してついていくことを決めることができた。陳長文(陳羣)のように、世間をよく知っていて、それに目端が利くやつは、劉玄徳のもとでは苦労ばかりすると計算ができるから、長くもたない。
そこへいくと、あんたはそうじゃなかった。いい意味で素直なのだ。
劉玄徳はあんたの素直さと、世間ズレしていないからこそ、かえって苦労を厭わず自由に動くことを期待して、軍師に迎えたのだ。
まあ、そんな大胆なことができるんだから、並みの度量じゃないとは思うね。もしも俺だったら、まったくの世間知らずの、とりあえず名前は知られているが、実務経験のまったくないやつを要職になんて、こわくて就けられない。
殿様のその大胆な賭けが成功するか否か、俺はそれに興味がある。いや、面白い、じつに面白い」
「勝手に面白がっているといい。傭兵のくせして、そこまでわが陣営のことをくわしく知ってどうする。主公に仕えたいとでもいうのか」
そうならば、多少は態度を変えねばならないだろうと考えた孔明であるが、青竜は、なにやら意味ありげに笑みを浮かべるばかりで、答えることはしなかった。
「劉玄徳の器はでかい。その器に惹かれてたくさんの人間があつまる。その群れは、国というよりも、一種の宗教にも似ている。共通するのは、どいつもこいつも劉玄徳が大好きだ、ということだ。
縦はがっしり繋がっているが、横の繋がりは、じつはあまり強くない。
なぜかというと、劉玄徳自身が束縛をきらう男なので、自ら率先して、おのれの手勢を積極的に組織化しようとしなかった。
だから、とりあえず上下関係はできあがっているが、能力よりも、いかに劉玄徳に尽くしているかがいちばんに来る序列になっている。あとはなんとなく横並びで、突出することが許されない雰囲気ができあがっているのも事実。
これじゃあ、あとから入ったやつはやり辛いだろう。まして軍師になんてなってみろ。
まずやらなくちゃいけないことは、横並びになっている群れを能力別に仕分けて、きっちりと組織化することだ。
そうなりゃあ、当然予測できるのは、既存の上下関係のなかで、上のほうにいた連中の抵抗だな。義兄弟の二人の抵抗、糜家の抵抗をまずはやり過ごさなくちゃならん。
さらに地盤がないから、どこかにそれを作らなくちゃいけない。どれもこれも大仕事だな」
「そうだ。大仕事だった」
「だろうな。まだわだかまりがあるんじゃねぇかなと思ったのだが」
「それはない。わだかまりがもしあったとしても、幸いなことに曹操が吹き飛ばしてくれたよ。いま、われらはみな、前を見ている。死ぬためではなく、生きるためだ」
春に劉備に仕えて、まだ数ヶ月。
それでも、受けとった信頼や志を無にしてなるものかと、おのれの手で、確実にここまでやってきた。
障害はあったけれど、すべて越えることができた。
かつて敵だった者も、いまは味方になっている。
それを考えると、孔明は、あらためて、味方のだれをも助けたいと思った。
こちらも苦労したが、いきなりいままでのやり方を変えろと、実績のろくにない人間から命令されて、反発するのは当然である。
反発されたことの恨みより、むしろ、よくぞ心をおさめてまとまってくれたという感謝の心が多くある。
死んではならない。みな、口は悪いし素行にもいささか問題はあるけれど、根は気持ちいい者たちばかりなのだ。
疲れて萎えていた思考力がもどってきた。
まずは子龍を止める。甘夫人を助け(できる、できないは、この際、後回しだ)、子龍は怪我をしているから、これを戦力として入れることはできまい。
取って返して主公に合流し、民を指導して、一刻も早く江夏へ向かう。
いや、子龍を江夏に向かわせ、劉公子(劉g)からの援軍を急がせるのだ。
劉公子の軍と合流して、曹操がまずは差し向けてくるであろう軽騎兵をやり過ごす。
そのあいだに、主公は船で江夏へ向かわせ、船に乗ることができない民は、そのまま南に向かわせる。その指導は、自分がしよう。
やはり民の存在が足枷になる。
予章で民が突如として蜂起したとき、逃亡のさまたげになったのも、暴徒と化した民であった。
いけないな、また『民』などと、大きな動物のように考えているではないか。
直らない癖はないと言ったのは、だれであったか。徐兄であったか、それとも子龍だったかな。
そんなことを考えているうちに、眠気が襲ってきて、孔明は目を閉じた。
さほど寝ていないことは、首筋の痛み方で見当がついた。
ふと見れば、となりで寝転がっていた青竜がいない。
まわりを見わたせば、青竜の部下たちは、まだおのおの休んでいて、さして変化はないように見える。
孔明は馬の様子を見るために立ち上がった。青竜の部下たちは、孔明が動くと、顔だけを動かして、その行方を追っている。
男たちの視線を受けつつ、孔明は林の中を進んだ。
鬱蒼たる林のうえにひろがる空を見上げれば、その色がさきほどより薄く感じられる。
地上での人間たちの動きもそ知らぬ顔で、木々のあちこちに潜んでいるのだろう蝉が、邪魔をするなといわんばかりに鳴きつづけている。
予章での出来事を、いまもって昨日のことのように思い出せるように、いま過ごしている数日間も、生き残ることができたら、鮮明に思い出すことになるのだろうかと孔明は考えた。
この難局を乗り切ることができなかったなら、これから先の、いかなる苦難も越えられまい。
そうして決意して見上げた空が、木々のすきまから辛うじてみることができる薄青色だったことを、生きているかぎり、覚えていることにしよう。
視線をもどし、ふたたび馬を探しに歩き出すと、ふと、前方の木々のあいだに、自分が率いてきたのではない安車が停まっているのが見えた。
どうやら女車である。
とっさに甘夫人のことを思ったが、そんなわけがないのだと打ち消した。
自分を追って、女車でだれかが追いかけてきたと仮定するのも奇妙だ。
いったい何者かと誰何しようと近づいて、孔明は、足を止めた。
その安車から、ほかならぬ青竜が降りてきたのである。