風の旗標


二回目

閉ざされた幕屋に差し込む光がちょうど、粗末な筵のうえに横たわっていた孔明の顔に当たり、そうしてようやく眠りから解けた。
最初、その光がわからなかった。
陽光だということはもちろん理解していたが、いったいいつの時分の光なのかがわからなかったのである。
朝の陽射しにしては、つよい。

ぼやけた頭に、だんだんと現状が思い出されてきて、孔明はあわてて起き上がった。
朝の陽射しなどではない。
容赦なく大地を這う者を叩きふせるような、これは夏の昼の陽光ではないか。
起き上がろうとして、肩からかけられていた上衣がすべり落ちた。
思わずひろいあげて、柳眉をしかめる。
自分の物ではなかった。
そうして、不自然に空いたおのれの隣の空間を、無意識のうちに手でさぐっていた。

そうだ、糜夫人の埋葬を終えたあと、現状報告をたがいにし合って、それから、疲れ果ててそのままここで眠ったのだった。
言葉もろくに交わしていられなかったが、となりに、あの男がいたのはまちがいない。
衣だけを残し、いったいどこへ消えたのか。
そうして、なぜこんなに日が高くなるまで、放っておかれたのだろう。
曹操はどうした。そうして、主公についてきた民衆はどうした。

苛立ちがこみ上げてきたが、孔明は吐息をはくことで、これを抑えた。
落ち着け。この苛立ちは、ままならぬ状況と、恐怖からくるものだ。
感情を乱してはならない。ましてや、八つ当たりなどという、みっともない真似だけはするな。

孔明にとって、主騎である趙子龍は、つい甘えてしまう人物であった。
甘えてしまうあまり、本音があまりにつよく出すぎてしまう。
あとで一人になって思い出したときに、よくあんなわがままを、さらりと流してもらえたものだと、ひやりとすることさえあるのだ。
それだけ世間に慣れているというのか、それとも、もともと忍耐強いのか、そのあたりはわからないが、そうした趙雲の性質に、甘えているということは事実である。

もう一度息を吐き、そうして、おのれが十分に冷静になったのを確かめると、立ち上がり、幕屋をでた。
とたん、初夏の陽射しが面貌を打つ。
まぶしさに、袖で陽射しを避けていると、声がかけられた。
「あんたの目が覚めたなら、すぐに江夏に行けってお達しだった。さっそく行こうぜ、軍師どの」
馴れ馴れしい口調であるが、そこに不快さは感じられない。
なぜだろうと思った孔明であるが、すぐに思い当たった。
その傭兵長、青竜と名乗る男には、徐州の訛りがあったのだ。
しかし傭兵という職業柄ゆえか、各地を転々としているためなのか、徐州の訛りにくわえて、さまざまな地方の独特の訛りが入り混じっている。
この男の口調は、叔父上に似ていると、孔明は思った。
そういえば、背の高さや、がっしりした体つきも、いかにも徐州出の男に見える。
「青竜とかいったな。まだ聞いていなかったが、貴公は徐州の出身なのか」
すると、傭兵というわりには穏やかな面貌をしている男は、親しげに笑みを浮かべて、答えた。
「あんたとおなじさ」
「ほう、ではどこの? 琅邪ではないな」
「うん、琅邪ではないが、そのあたりはあんまり口にしたくないのでね。俺もいろいろあったのさ、わかるだろう」
男が、言外に、徐州で起こった、曹操の大虐殺についてを示唆していることに、孔明はすぐに気がついた。
同時に、糜夫人のことが、濃く思い出される。
最後に別れを言わなければ。

そうして、周囲を見まわした。
あまりに疲れていたせいか、昨夕に見た幕屋が、どれほどの数であったかおぼえていない。
おぼえているのは、まるで潮騒のように聞こえてくる、民の声であった。
頭をめぐらせてみれば、幕屋には『劉』の字の織り込まれた旗指し物と、おなじく『張』の字のある旗指し物がはためていており、それは、ついてきた民を守るかのように、野営をしたかれらの周囲をくるりと囲むようにして点在していた。
民の数はざっと見ても五万はいる。
新野に押し寄せた民の数よりも、増えている。
おそらくは、それまで曹操が自分たちに手を出さないと信じて、大人しくしていた民が、劉備についていく民を見て不安になり、同調してしまっているのだろう。
この数は、もっと増える可能性がある。
食糧も足りない。民を守るための兵も足りない。
このままでは、また徐州の二の舞だ。

ふたたび、身を震わせんばかりの苛立ちがこみあげてきて、孔明はおのれの拳をにぎり、堪えなければならなかった。
保身のためならばいくらでも阿り、そしていざとなればたやすく裏切る。
それが民の本質だ。曹操はそれをわかっている。
もしも彼らを置いていけば、どうなるであろう。
殺されるであろうか。それとも、捕らえられて奴婢にされるくらいで済むであろうか。
可能性は五分五分。
早くも不安と疲労をにじませている民の顔という顔をみつめて、孔明はおのれが、まるで河原の石を眺めているような感覚に陥っていることに気づき、暗澹となった。
わたしは、かれらを憎んでいるのだろうか。
それとも、わたしの性質がもともと暗く冷たいものであるからこそ、かれらを見捨てようと考えているのだろうか。
あの男ならば、そうたずねたらば、なんと答えてくれるであろうかと思い、孔明は、ふたたび頭をめぐらせる。
しかし、どこを見回しても、趙雲の姿はなかった。

「あんたの主騎なら、先に出立したぜ」
孔明の行動を読んだらしく、青竜は言った。
孔明としては、行動を先読みされたことが気に入らない。
むっとしながらも、たずねる。
「なぜだ」
「短く『なぜ』と来たか。あんた、面白いな。殿様のお達しだよ。あんたが眠っているあいだに、殿様が自分で采配したのさ。あんたの主騎の趙子龍、あれはひどい怪我を負っていて、とてもじゃないが、武将として働けない。
だったら、先に江夏に生かせて、劉公子に船をだしてくださいよと頼みに行かせたほうがいいという判断だそうだ」
「では、関将軍と一緒に江夏へ行くというのか。そして、わたしにも先に江夏へ向かえと? では、主公はだれがお守りする」
「天下の豪傑、張益徳がいるじゃねぇか、と、これは殿様の言葉だな。あんたの殿様、のほほんとしてらっしゃるが、なかなか考えているな。
万が一、曹操がやってきて、殿である張益徳と対峙したとしても、どうだろうね、殺そうとするだろうか。張益徳は、夏侯氏から妻を娶っている。曹操は、もともと夏侯氏の出だろう。つまりは同族ってやつだな」
「そんなに甘い状況ではない。曹操が、そんな感傷で動くものか」
「どうかね。曹操の身になって考えてみろや。荊州はなかば落ちたも同然、いや、これで落ちないほうがおかしいだろう。で、この勢いにのって、江東の孫氏を下し、つぎに返刀で益州へ。
となるとどうだい、武将は一人でも多いほうがいいわけだ。まして益州なんてのは、天然の要害。いかな曹操といえど、これを容易に攻めるのはむずかしかろう」
孔明は、流暢に語る男をじっと見つめた。
青竜は、褐色の肌をした、頑丈な体つきをした男である。
しかし、その大きなまなざしは、強い意志がそこにあることを物語っており、鼻梁もなかなか奇麗に通っている。口が大きすぎるのが難であったが、それとて下品には見えない。
この男、傭兵というわりには、学がありすぎる。
こんなふうに、先を読む力をわざわざ披露してみせて、自分を売り込んでいるつもりだろうか。
とはいえ、なんとしてもここでいいところを見せようという、がつがつした気配が感じられないのも事実だ。

どこか、ちぐはぐである。
糜夫人を助けるための行軍中にもらした、いかにも壷中のことを知っているような口ぶりといい、信用できない。
引き連れている、蛮族と漢族のいりまじった傭兵たちの顔ぶれからしても、壷中と繋がっている男だとは思えないのだが。

そうして、孔明はつぎに、ここに趙雲がいないことに不安をおぼえていた。
なにも雛が親鳥を見失ったような感覚ではない。
壷中のこと、そしてその背景にあるであろうことを、いちいち説明しなくても理解しているのは趙雲だけであるし、本音をぶつけて話ができる相手も趙雲だけであった。
糜竺がいるが、これは、糜夫人のことがまだ堪えているだろうから、あれこれと相談して、心労をかけてしまうことを、孔明は遠慮したかった。

先に江夏に行った?
関羽のあとを追うかたちで、だろうか。
主公の考えがわからない。
たしかに子龍は怪我を負っていたから、白兵戦は無理だとしても、指揮くらいはできるはずだ。
まして、当然のことながら、なんの訓練も受けていないであろう五万以上の民を移動させるのには、ただの兵卒だけでは足りない。
行軍経験のある、士卒長以上の人間が、百人は欲しい。そして、その百人を束ねるのに、有能な武将が必要だ。

ふと視線を感じて見れば、青竜が、癪にさわることに、またもにやつきながら、じっとこちらを観察しているのであった。
「なんだ、わたしの顔になにかついているか?」
「いいや、べつに。しかし出立するにしても、まず先に顔を洗ったほうがいいと思ってな。ひどい顔だぜ。よっぽど、奥方の死が堪えたのかい、いかにも泣きはらしました、って顔だ」
糜夫人の死を茶化されたように感じられて、孔明は瞬間的にかっと頭に血をのぼらせたが、しかし思いとどまった。
その場にいたのは、二人だけではない。
周囲には、劉備の幕屋を守る士卒や、張飛の部将、そして糜芳らもいたからである。
「これだけは言っておこうか。なんのつもりかは知らぬが、これ以上、わたしに関わるな。はっきり言うが、貴公はとても不快な男だ。ここで長く稼ぎたいというのであれば、すこしは言動に気をつけることだな」
孔明が本気で怒ったことに気づいたか、青竜は、とたんに身を引いて、なだめるようなしぐさをした。
「おいおい、怒らないでくれよ。悪かった、なんかあんたが同じ徐州だと思うと、ついつい馴れ馴れしくなっちまった。
けれど、その顔を何とかしたほうがいいのは本当だぜ。仮にも軍師が、思いつめた顔をしてちゃあ、あんたに従う連中は、不安になっちまうってもんよ。ただでさえ、まともな状況じゃねぇんだ」
「それはわかっている」
「それに、あんたと喧嘩したら、こっちとしてもいろいろ面倒だ。あんたが殿様の軍師っていうだけじゃないぜ? 
これを先に言ったほうがよかったな。趙子龍と江夏で合流するまで、あんたの主騎は、俺がする」
その言葉に、孔明は、大いに眉をしかめた。
いくら劉備の采配とはいえ、簡単に承服できるものではない。
そして同時に、新野城を出てからこのかた、劉備とまともに差し向かいになって言葉をかわしていないことに気づいた。
つねに第三者がそばにいた。
その本意がわからない。

ちらりと、劉備の幕屋のほうを見る。
気遣いだったのかもしれないが、こちらが自分から目を覚ますまで、まったく放っておかれたこともなにやら不安であるし、いまひとつ信用できない男で、しかも傭兵を、わざわざ主騎につけること、そして関羽、趙雲、そして自分というふうに、べつべつに江夏に向かわせることの意図がわからない。
これは、なにか情報の相違があるのだろうか。
早いうちに、話をしておかねばならない。

その前に、小癪なことではあるが、この男のいうとおり、泣いて腫れている顔をなんとかせねばなるまい。
そうして、孔明が水場へ向かおうとすると、青竜が声をかけてきた。
「詫びの印に、いいものを貸してやるよ。俺なんかも、あんたと一緒ですぐに涙の出るほうなんだが、さすがに大将としちゃあ、あんまり泣き顔をさらしていられねぇ。そういうわけで、顔を洗ったあとに、こいつを塗るのさ」
と、青竜は、懐から小瓶を取り出し、その蓋をひらいて見せた。
とたん、鼻腔を突き抜けるような、よい香がした。
「薄荷だな」
「すくなくとも、もうすこしマシにな顔になるだろうよ。悪い夢でも見てたんだろ。あんた、もともとの見てくれがいいから、乱れると悪目立ちするんだよ」
「夢か。たしかに見ていたな」
「なんだい、徐州の夢かい。俺もたまに見るがね」
「いいや」
青竜から差し出された小瓶を受け取り、孔明は答えた。
「揚州の夢だ」


揚州の夢と口にしてから、孔明は、すぐに口にするのではなかったと後悔した。
徐州で起こった虐殺は、まだ世の中のことがぼんやりとしかわからない少年のころにおこった。だから、さほど鮮明に記憶に刻まれているというわけではない。
まして自分は、もともと屋敷からほとんど外に出ることのない、部曲の兵に守られている身分であった。
市井の子供であったならばともかく、徐州での大虐殺の恐怖は、孔明のような身分の者にまでは、容易に及んでこなかった。
そのあとにつづいた父の死、そして叔父の待つ揚州へ至る旅。
記憶が鮮明になってくるのは、このあたりからだ。

民は、保身のためならばいくらでも阿り、そしていざとなればたやすく裏切る。
あんなに民のためにと、太守として献身した叔父を、その首に賞金がかけられていると知ったとたん、予章の民衆は、武器を手に追ってきた。
自分たちがいったい何をしたのだ。むしろ、してやったことのほうが大きいではないか。
あまりに理不尽な仕打ちであった。
それまでは、太守さま、太守さまと慕っていた者たちが、豹変して、敵になる。
それは、はじめて孔明が目の当たりにした、人間の『悪』の部分であった。
向けられる罵詈雑言の数々、容赦ない暴力によって、自分たちを守ろうとした者が命を落としていく、悔しさ、悲しさ。
なぜと問うても、そこに答えはなかった。

顔を洗いながら考える。
曹操は、民に二つの選択を付きつける。
生きるか、死ぬか、どちらか、と。
その手法はもしかしたらいちばんわかりやすく、そして正しいのではと思うことすらある。
けれど、胸の内のどこかが、それはちがうと訴えてくるのだ。
なにかがちがう。それだけではないはずだ、と。

しかしそう考える一方で、民を憎み、軽蔑し、そしてなにより恐れている自分を容易に見つけることができてしまう。
矛盾だらけだ。
憎んでいるもの、軽蔑しているものに対し、まともな道を示せるものなのだろうか。
だからこそ、五万余の人々を目のまえにしても、為すすべもなく、苛立ちしか見せることができないのではないだろうか。
これで軍師か。しっかりするがいい。

己を叱りつつ、青竜が貸してくれた薄荷の水で腫れた顔を冷し、そして、孔明は、劉備のもとへと向かった。
まず聞かねばならないことが二つある。
なぜ、関羽と趙雲と、そして己との、三つにわけて江夏に向かわせる必要があるのか。
五万余の民をどうするつもりなのか。

劉gは、たしかに樊城から、多くの物資を江夏に運び出していた。
しかし、それは五万以上の民を養えるほどのものではない。
嫌な予感があったが、孔明は、それを振り払った。
まずは先入観をなくして話を聞きたかった。
幕屋には、劉備のほかに、おどろいたことに、いつ引き返してきたのか、関羽とともに移動していたはずの劉封と、憔悴しきった面差しの糜竺と糜芳の兄弟、そして張飛がいた。
なによりまず、目を引いたのが糜竺であった。
一晩で一気に老け込んでしまったように見える。
目の焦点すらあっていない、まるで幽鬼のようではないか。
そしてつづけて張飛であるが、これはあきらかに怒っていた。
自分に対し、まだまだいろいろとわだかまりがあることはわかっていたが、幕屋に入るなり、その大きな眼でにらみつけられたとき、さすがに孔明もうろたえた。
いったい、なにを怒っているのであろうか。

最後に劉備を見たとき、孔明は、直感的に、なにごとかがあったことを悟った。
ちらりと、劉封と糜芳のほうを見る。
この二人は、もとより孔明に対し、敵愾心をあらわにしている者たちである。
なにより、劉備の養子である劉封が、関羽のもとからわざわざ引き返してきて、この場にいる理由はなんなのか。
劉備は、じっと荊州の地図を見ていた。
孔明が入ってくるなり、その顔をあげてまっすぐに見つめてきたのであるが、そのまなざしは、孔明がぞっとすることに、忘れたくても忘れられない、あのまなざし、刺客に襲われたときに、叔父が最後に見せた、安心させようと無理に笑ったときのまなざしにそっくりであった。
反射的に孔明は口にしていた。
「お人払いを。お時間をいただきたい」
しかし、劉備が口にしたのは、それに対する答えではなかった。
「ゆっくり休めたか。すぐに江夏に行けるな」
「いいえ。江夏にはまだ参りませぬ。主公、どうぞお人払いを。二人だけで話がしとうございます」
劉封が、口をひらきかけたのを、孔明は目で牽制した。

焦りがあった。勘が当たってしまった。
そうして、つよく己を責めた。
糜夫人の死がいちばん堪えているのは、わたしではない、この方ではないか。
妻を死なせてしまったことで、このひとは、自らを追いつめようとしているのか。

「人払いをする必要はないだろう。孔明、おまえはいますぐに江夏に向かえ。曹操が樊城に入ったそうだ」
曹操が樊城に入った。
早いな、と孔明は考えた。
とすれば、劉jと蔡瑁は、しばらくこちらに構ってはおられまい。
それは曹操も同じことである。
このあいだに、一歩でも多く南に向けて移動しなければならない。
樊城に抵抗する気配がないとわかれば、曹操はすぐに追ってくる。
「重ねてお願い申し上げます。お人払いを。どうか!」
つよく言うと、さすがに劉備も根負けしたのか、地図を手にしたまま、ちいさくため息をつくと、なにか言いたげにしている劉封や張飛を手で制し、幕屋に出て行くようにと指示をした。
糜竺が、去り際に、まるで頼むといわんばかりに、孔明の肩を優しくゆすって去って行った。

みなが去ったのを確かめてから、孔明は、あらためて劉備に向きなおると、前置きもなしに切り出した。
「自暴自棄になってはなりませぬ。ここで民と心中なさるおつもりか? 主公、たしかに民のことは計算外でございました。しかし、ここで民を守り、そして連れて行けば、逆に民にとっては不幸なことになるばかりでございますぞ。われらには、彼らに与える食糧もまともにないのです。
それに、曹操の気性は、ほかならぬ主公のほうがよくご存知のはず。ひとたび逆らったものには容赦しない。いまならば、まだ間に合います。民に」
ここで孔明は逡巡した。
劉備は怒り出し、自分をここから追い出すかもしれない。
だが、穏やかではあるが、はっきりと諦めの色を浮かべている劉備の表情を見て、おのれを励ます。
駄目だ、ここでこのひとを見捨ててはならない。
叔父は助けられなかったが、このひとは叔父ではない。助ける。
「民に、玄徳に唆されたのだと言えと、知恵をつけてやるのです。もちろん、曹操はこのような嘘をすぐに見破ることでしょうが、しかしそう言われてしまえば、これを無碍に扱うこともできなくなるはず」
劉備は、それを聞くと、黙って目をつむり、腕を組んだ。
怒りを抑えているのか。
孔明が、緊張してその答えを待っていると、やがて、劉備は静かに言った。
「そうして、儂は義人としての己を捨てねばならんというわけか」
「命あっての志でございます。主公が死ねば、だれがその志を継ぐというのです」
「雲長が継ぎ、おまえが継ぐのだ」
「民とともに死ぬことは、名誉でもなんでもございませぬ。後世の者は笑いましょう。己の名を傷つけることを惜しむあまりに、劉玄徳は志を果たせずして死んだと。それでもようございますか。
主公は、ここで死んではならぬお方でございます。どうぞ、ご再考を」
孔明の、おのれでもひやりとするほど激烈な言葉にも、劉備の表情は変わらなかった。
そうして、悲しそうに首を振る。
「民が壷中ってのに唆されて、儂のところに集ってきたのは知っている。けれど、最初はどうであれ、やっぱり儂を頼ってきてくれたのだから、これに応えなかったら、儂は男じゃなくなっちまう」

孔明は徐々に苛立ちをおぼえはじめていた。
この論理は、そうだ、襲ってくる民に対し、ひたすら背を向けて逃げることを選んだ叔父と同じものではないのか。
民は、最初はこちらにすがる。
しかし、やがて、ろくな食糧もなく、つらい逃避行のなかで、だんだんと、不安と不満を募らせてくるだろう。
民はたやすく心を変える。
弱いからだ。
そうしないと生き残れないからだ。

「では、わたしも主公とともに残りましょう」
「だめだ。おまえは江夏へ行け。そして、儂が生き残れなかった場合は、雲長の助けとなって、志を継いではくれぬか。もう嫌になっていなければ、だけどな」
「なんということをおっしゃいますか。そのような遺言めいたお言葉、孔明は聞きませぬぞ。
わたしだけ江夏に先に行けば、世人は、諸葛亮は主を見捨てて逃げた男だとわたしを謗りましょう。そのような不名誉を、わたしに与えるおつもりか!」
孔明がまなざしもつよく言い返すと、劉備は、深く深く、ため息をついた。
「おまえは見た目を裏切って、とんでもない強情者だよな。儂は、軍師ってのは、主が右といったら右、左といったら左と、素直にほいほい言うことを聞く者だと思っていたぜ」
「そのように混ぜっ返されても無駄でございます。軍師とは、主を生き残らせるための策を練る者。主を見捨てて生きるは軍師にあらず」
「そんな言葉、聞いたことねぇ」
「いま、孔明が作りました。先人の軍師と呼ばれた方々がどうであったかは、この際、どうでもよろしい。わたくしは、わたくしの信じるように動きます」
「たわけもん。そうして、儂と、五万の民と一緒に死ぬつもりか。民はこれから、もっと増えるぜ。曹操の評判は悪すぎらぁ。自分たちも徐州の民みたいになっちまうんじゃねぇかと、みんなびくびくしている。
そこへ、儂に付いて行っている連中がいると知ったら、それなら自分たちもと集ってくる民が、これからもどんどん増えるだろうさ」
「そこまで読んでらっしゃるのであれば、さきほど孔明が申し上げたとおりにしてくださいませ。曹操は、民が反抗しなければ、これに手を出しはいたしませぬ」
「それじゃあ、民の気持ちはどうなっちまうんだい。孔明、おまえは儂が生きれば大事は為せると思っているようだが、そうじゃねぇ。逆だ。
民がいるからこそ、儂の志は為るのだ。たしかに、民はたぶらかされたのかもしれねぇが、ほかにも逃げるところはあったじゃねぇか。それなのに、儂のところに来てくれたんだ。だったら、儂はこれを守るぜ。
もしもここで民を見棄てたら、世人はどうだかしらねぇが、儂は儂を、きっと生涯ゆるせねぇだろう。そうして、二度と大事を為そうなんて考えなくなるだろう」
「お心はわかりますが、しかし」
なおも反駁しようとする孔明に、劉備は、首をつよく振って、先を言わせなかった。
「おまえはまだ若い。理詰めで動きたい気持ちはよくわかる。だがな、世の中ってのは、そうそう理詰めでは動かせねぇんだよ。
おまえにゃ、儂のやり方は、まどろっこしいうえに、まちがってばかりかもしれねぇな。だが、その目をしっかり開けてみててくれ。儂がどんな死に花を咲かせるかをな」
ぞっとした。
嫌悪にではない。恐怖のためであった。
許されていないことはわかっていたが、思わず立ち上がり、孔明は劉備に詰め寄った。
「死んではなりませぬ! なぜにそのようなことをおっしゃいますのか!」
そうして、間近に寄って、劉備の表情を見つめたとき、孔明は、そこに、紛れもなく、自暴自棄の産物などではない、明確な、劉玄徳としてのつよい意志をみつけた。
孔明は、言葉がつづけられなくなった。
その透明な、しかしつよいまなざしに、なにもかも、自分が民を嫌悪していることすら、見透かされているような気がした。
じっと、真っすぐに、劉備は射抜くような視線を孔明に向けてくる。
「孔明、おまえにとって、民ってのはなんだ。自分の優秀さを映し出す鏡か。ひたすら奴隷のように従っておればいい者か」
「それは」
「奥は、おまえを息子のようだと思っていると、最後に言ったのだろう」
不意に、糜夫人の最後のことばを突きつけられて、孔明の心は揺れた。
と、同時に、なぜそのような言葉を持ち出してくるのかと、劉備の意図に腹立ちさえした。
「なら、おまえは儂の子でもあるということじゃねぇか。親は子に従えってんだ。江夏へ行け。雲長と合流し、儂の志を継げ。
いいか、勘違いをするなよ、なにも儂の代わりに、つぎは雲長に仕えろって言っているんじゃねぇんだ。儂は儂の志を貫く。おまえはおまえの志を貫け。
ただし、その目は絶対に閉じちゃならねぇ。なにがあっても、その両目でしっかり見とけ。そうしておまえは生き残れ。
儂のことを、莫迦な親父がいたと思ってもいい。ひでぇやつだと恨んでもかまわねぇ。おまえはさっき言ったな。生き残ってこそ、志を貫けるのだと。儂は義に殉ずるんだ。けれど、おまえはそうじゃねぇだろう」
「ですが」
「口答えもなしだ。生き残れよ、孔明。さあ、青竜と江夏へ行け。先に雲長が待っている」
さらに孔明が言おうとすると、劉備は、手でそれを押し留めて、首を振った。
「もう聞かねぇ。おまえの言葉にゃ魔力があるからな。さあ、行け。頼むから行ってくれ」
「わたしを奥方さまと同じように、子のようだとおっしゃってくださるならば、なおのこと、聞いてくださいませ。生きてください。それだけでございます。なぜそれが許されないのですか」
「駄目だ、聞かぬ。行け」
「主公」
「くどい」
孔明は、なおも言葉を探したが、しかし、怯えもなにもない、決然とした劉備の表情にぶつかって、もうなにも言えなくなってしまった。
そうして、仕方なく拱手すると、幕屋を出た。

とたん、忙しく動き回っていた人々がおどろいて、こちらに目線をあつめてくる。
そうして孔明は気づいた。泣いていたのである。
『また顔を洗わねばなるまいな』
混ぜっ返すことで冷静さを取り戻そうとしながら、孔明は人目も気にせずに、袖で涙の始末をした。
おそらく、どのようなやりとりがあったのか、みな想像はついているのだろう。
普段ならば黙っていないであろう劉封や糜芳たちも、孔明の様子になにも口を出してこなかった。

江夏へ行かねばならぬのか。
江夏には、一足先に関羽が行っている。

と、孔明は、奇妙なことに気が付いた。
じつに劉備らしくないことに、本来ならば孔明の主騎である趙雲のことについて、ひとことも触れなかった。
江夏に向かったのは、関羽だけではないはずだ。
青竜は、はっきりと、趙雲も江夏に向かったのだと言っていたではないか。
それに、なんだって? 恨んでもかまわない?
なにを恨むというのだ。こちらの話を聞かないことか?

孔明は、劉備の幕屋を振り返った。
しまった。感情にまかせて、肝心なことを聞き逃してしまっている。
義に殉ずるのだという、その言葉に偽りはあるまい。
とはいえ、そこまで決意させている理由が、なにかほかにあるのではないか? 
劉公子(劉封)はどうしてここにいる。
関羽のところから、どうして戻ってきている。
甘夫人の警護をしていたのではないのか。
関羽がその任を務めているのだろうか。
糜夫人のことがあったあとだというのに、それでは守りが手薄になりはしないか。

待て。

おかしい。どうして阿斗さまを糜夫人が見ていたのだ。
ご生母たる甘夫人より、糜夫人のほうが病がちで、この逃避行のなかで、乳飲み子を見る余裕などなかったはず。
甘夫人はどうなさったのだ。

不意に、赤ん坊の元気な泣き声が耳に飛び込んできて、孔明はそちらの方向に首を向けた。
阿斗が糜竺にあやされていた。
血のつながらぬ、義理の叔父と甥である。
一見すると微笑ましいその光景であるが、孔明はますます混乱した。

なぜ志を継ぐものとして、関将軍とわたしだけが指名された?
だめだ。もう一度、主公に話を。

そうして、劉備の幕屋にもどろうとする孔明の前に、ぬっと、無言のまま、張飛があらわれた。
初めて会ったときよりも、さらに剣呑な表情であった。
それこそ目線がかたちになるのだとしたら、そのまなざしだけで、孔明は串刺しにされていたにちがいない。
巨漢の男より射すくめるように睨みつけられたといっても、相手は多少は気心のしれた張飛であるし、孔明も混乱していたがために、恐ろしさよりも、戸惑いのほうが大きかった。
ここまで睨まれる理由として思い当たるのは、糜夫人を守りきれなかったことであろうか。
そうして孔明が黙っていると、張飛は、唐突に孔明の腕をつかむと、無言のまま、ぐいぐいと劉備の幕屋から遠ざけるように引っ張っていった。

三回目につづく
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