風の旗標


一回目

泥のような眠りであった。
何日もまともに眠っていない孔明と趙雲は、糜夫人の死が、ひとつのきっかけであったかのように、劉備と合流したあとに、簡単な合議に参加したあと、どっと疲れが押し寄せてきて、そのまま、劉備が用意してくれた幕屋のなかで、ふたりして、崩れ落ちるようにして眠った。
ろくに寝具も用意されていない地面の上に、筵が敷かれているだけのところに横たわる。
おたがいに、口をきく元気もなかった。
とくに孔明の面やつれはひどく、病人のようにさえ見えた。

そうして、幼い兄弟のように折り重なるようにして眠っていたのであるが、朝方に、趙雲のほうが先に目を覚ました。
となりの孔明の身につけている、これは鬢の油の香であろうか。鼻腔に心地よい、いかにも孔明らしい清雅な香である。
その孔明はというと、自分の身を庇うようにして、袖で自分の顔を隠すようなかたちで眠っている。
「妙な寝相だな」
ひとりごとをつぶやきつつ、趙雲は、孔明の腕を下ろしてやる。
そうして、袖の下からあらわれた顔を見たときに、おどろいた。
孔明は泣いていた。
寝ぼけた頭に、なぜ目が覚めたか、その理由が浮かんでくる。
そうだ、孔明がうなされていたのだ。その声で目が覚めたのだ。
糜夫人の死が、それほどに重かったのだろうかと、暗いなか、その顔をもっとよく見ようと目をこらす。
夢でも悲しい目に遭っているのかと思うと気の毒であったが、こればかりはどうしてやることもできない。
起こすことも考えたが、いまここで眠っておかねば、つぎにまともに横になれるのは、いつになるか。
もともと、孔明の体質は丈夫なものではない。
心のほうはわからないが、体は休まっているはずである。

手探りではあるが、起こさないように慎重に涙を拭いてやりながら、趙雲は、自分もまた、眠ったおかげで、だいぶ体力が回復していることに気がついた。
とはいえ、義陽に連れて行かれるあいだに受けた傷は、たやすく癒えるものではない。
こいつくらいなら守ってやれるが、混戦になったなら、そして、張飛くらいに強いやつと一騎打ちをしなければならない状態になったら、おそらくは負けるなと、冷徹に計算した。
こんなときに。
忸怩たる思いがあるが、いまさらどうしようもない。

いま、自分たちをとりまく状況は最悪だ。
当初の孔明の計画は、そもそも先に劉備の軍師となっていた、徐庶から引き継いだもので、曹操が南下してきた場合さいは、これと交戦することなく、南へ逃げる、というものであった。
南とひとくちに言っても、どこ、とは、徐庶はまだ決めかねていた。
避難先が決まるまえに、徐庶は曹操に母親を人質にとられてしまい、計画は頓挫してしまうかたちとなった。
そこへあらわれたのが、徐庶の弟弟子にあたる孔明で、徐庶の計画を現実に沿わせつつうまく進行させた。
さらに紆余曲折のすえ、避難先も、樊城での後継あらそいを逃れた、劉gの待つ江夏とさだまった。
劉gは、樊城を出奔するさいに、豊富な物資と船を運び出しており、新野城の面々を迎え入れる余裕をもっていた。
だから、いよいよ曹操がやってきたとわかったとき、かねてからの計画どおり、新野における劉備たちは、江夏へむけて南進するはずであった。

そうはならなかったのが、樊城の後継者争いからはじまった忌まわしい事件のためである。
荊州の平和を守るためという目的で、劉表は壷中なる組織をつくっていた。
そもそもは、戦乱で親を亡くした子供たちを養育する機関であったのが、劉表や一部の豪族たちの思惑によって、これは刺客を養成するための組織に変貌していた。この組織の頭領たる男は、かつて趙雲と因縁のある男であったのだが、これはもうすでにこの世の人ではない。
問題は、倒したとばかり思っていた、壷中のなかでも、もっとも陰惨で狂気にとりつかれている『風狗』の存在だ。
これが、壷中の解体となるきっかけを生んだ孔明と趙雲に、深いうらみを抱いており、さまざまな手をつかって、孔明の作戦の妨害をはじめた。
そのはじめが、先発隊として、江夏にむかっていた関羽と、劉備の夫人たちを、壷中の残党によって襲わせたこと。
この襲撃により、関羽の一行から糜夫人ははぐれてしまい、不運にも、混乱のなか、糜夫人は事故のために命をおとした。

そして、つづいての妨害が、いちばんの頭痛の種である。
風狗は、壷中の残党に命じ、民に、曹操が来襲すれば、掠奪の恐怖にさらされるばかりではなく、徐州の民のように虐殺されると吹聴してまわらせた。
このために、民の一部は、恐慌をきたし、とうとうおのれの土地家屋を捨てて、劉備と一緒に南へ逃げたいと申し出てきた。その数たるや、何万という規模である。

さあ、どうする。
趙雲は、涙は止まったけれども、苦悶の表情を浮かべつづけている、孔明の、男女の境のあいまいな、柔和な線を持つ、その姿を見つめた。
孔明は、臥龍という号をもっているが、その寝姿は、たしかに龍のようにしなやかに見える。
見た目だけではなく、どんな状況をも、力強く突破できるのが、この軍師なのだ。
状況は、じつに悪い。
だが、こいつならば、なんとかしてくれるのではなかろうかと、根拠はないが、そんなことを、趙雲は漠然と考えていた。


孔明は、曹操の気質をよく研究していた。
曹操という男は、たしかに酷薄な面を持っているが、それは反抗する者に対してであり、従順な者には、厚い心を見せる。
徐州での悲惨な虐殺は、そのあまりの凄惨さゆえに、何年も経ったあとでも世間に生々しく記憶されている。
「あれは、凡人にはとうてい理解できないことではあるが、一種の示威行為であったのだ」
と、ほかならぬ、徐州からの避難民であった孔明が語ったことがあった。

それは、樊城の騒動が起こる前の、初夏のある日のこと。
いつも部屋に閉じこもり気味の孔明を、視察に連れて行ったとき、孔明自身が語ったことであった。

「あなたは、曹操という男に会ったことはあるか」
ない、と答えると、意外そうに孔明は柳眉を器用に片方だけ上げて、それから、小首をかしげてたずねてきた。
「天下の曹操だぞ。仕えたいとは思わないまでも、いっぺん、顔を見たいと思ったことはないのか」
そういうおまえは、会ったことがあるのかとたずねると、孔明は、こんどは、ぎゅっと眉をしかめて答えた。
「会いたいなんぞ、思うわけがないだろう。顔だけは見てやりたいと思うが、会ってどうする。
もし会うとしたら、そうだな、鎖につながれた状態で、引き据えられてきたところを見たいところだな」
いつになくつよい毒を吐く孔明に、いささかたじろぎつつも、こいつのなかにある徐州での災難は、やはり傷になっているのだと趙雲は想像した。
感情的に嫌悪している。だからこそ、主公の軍師になることを承諾したのか。
そんなことを考えていると、孔明がふたたび口をひらいた。
「会いたくはない男だが、けれど、その気性は理解できる。味方に厚く、敵に酷い。なぜかわかるかい。それが曹操の考える、天下取りへの早道だからだ」
よくわからぬ、説明してくれ、と趙雲が催促すると、公の場では、意外にも寡黙で、聞き手に回ることのおおいこの軍師は、おのれの意見を述べる場ができてうれしいのか、一度、満足そうに笑うと、つづけた。
「覇者としてのおそろしい印象が強ければ強いほどに、曹操は楽に民を支配することができる。曹操の発想もまた、わたしとおなじく性悪説で、民は恐怖によって支配するのがもっとも易いと考えているのだ。
民は、厚くもてなせばつけ上がり、身勝手なことばかり口にして、反抗する。
そのことを、曹操はゆるさない。
民は羊のように大人しくあるべきなのだ。自分の示す道に向かって、黙ってついてこればよい。
反抗するものは潰す。徹底的に、潰す。
そうすることで、覇者・曹操に対し、民はますます畏怖の念をいだく。
あなたはもしや、見知っているかもしれないが、董卓のことを覚えているか。あれは、漢帝室にとどめを刺した男だな。
あやつもまた、民に酷くあたったが、曹操と董卓の決定的にちがうところは、曹操には、民に酷くしなければならない理論的な理由があり、董卓の場合は、その理由が、本能的な欲望から生まれるものであったということだ。
董卓は、ひたすらおのれの欲望を満たすために他者を犠牲にしたが、曹操は、欲望のためには動かない。むしろ、自制心のつよい男だ。
曹操の目線は、凡者のそれとはちがって、天のように高いところにある」

しかし、酷い男であるのはまちがいなかろう。あんたの言葉は、わかりやすいようで、わかりにくいな、と趙雲が正直に言うと、孔明は、意外にも素直に応じた。
「すまない、わたしはどうも、対話というものが、いまもって苦手なようだな。
つまり、董卓の価値観は、自分の欲望を満たせるか満たせないかが重要で、じつに下世話なものだった。
曹操の価値観はちがう。おのれの理念のためになるか、ならないかが、あの男の行動基準となっている。
つまり、曹操は、途方もないほど誇り高いうえに、自信家なのだよ。
だから、自分の高い理念に反抗する『一部の民』の犠牲など、天下にあまたいる、自分に従うことを是とした、大勢の守るべき民のためには、仕方のないものだと考えている。
曹操は、その卓越した政治手腕でもって、おのれの力の及ぶところの民には、平和と秩序を与えた。
征服された民は、一時は前の君主に義理立てをして、曹操を恨むことがあるかもしれない。
しかし、時間が経てば、やがては曹操の治世に慣れて、これに忠心をみせるようになる。
曹操は、そのことも十分理解しているし、とかく要求の多い民を、うまくなだめる方法も知っているのだ。
押さえつけるばかりではない。ときに、赤子をあやすときのようにやさしく、しかし、動かねばならぬときには苛烈に動き、そうして力を示して、曹操は、おのれの民をあつかって、うまく心を掴んだのだ。
そうでなければ、曹操が自ら都を空けて、南下できるはずがない。
背後に憂いがなにもないからこそ、曹操は堂々とやってくるのだ。
北の公孫氏も、西の馬氏も、波に乗っている曹操にとっては、なんてことのない敵だ。
こんどの曹操は本気だろうな。もう年だから、焦りも多少あるのだろう。
いま南を制しておかねば、自分の代で天下統一はむずかしいであろうと考えているのだよ」

そんな曹操への評価を、淡々と述べる孔明に、趙雲は、こいつは、ほんとうに人の耳に無頓着なところがあるなと危なく思いつつも、いささか意地悪な気持ちになって、たずねた。
あんたのことばを聞いていると、曹操という男、なかなかの男のように思えてくる。
あんたは曹操の実力を、ずいぶん高く評価しているようだ。
もしも徐州のことがなかったら、あんたは曹操に仕えたか、と。

すると、孔明は、真っすぐに目線を向けて、きっぱりと言った。
「たしかに曹操の手腕は並ではなく、その器も英雄だ。おそらく千年に一度の人物であろうよ。
だが、わたしはあえて曹操のとる手法に異議を唱えたいのだ。
民は、ほんとうに恐怖だけでしかまとめることができないのか、と。
力を示すというその行為は、簡単に殺戮に結び付けてよいものなのだろうかと」
では、おまえがもし民をまとめるとしたら、どうするつもりだ、とたずねると、孔明は、やはり真摯な表情のまま、答えた。
「曹操の手法はわかりやすい。曹操の前に立たされた者がつきつけられる選択肢は、いつもふたつ。
従うか、従わないか。
ことばをいいかえれば、生きるか、死ぬか、それしかない。
だが、物事は、たったふたつの選択肢だけで解決するものだろうか。わたしは、三番目の選択肢を探しているのだよ」

つまり、探しているということは、曹操とはちがう手段を、いまもって見つけていないということなのではないかと、呆れて趙雲が言うと、孔明はしかし、悠然と笑みを浮かべて答えた。
「だから、あなたはとても運がいい。曹操が見つけることのかなわない、三番目の選択肢を見つけることができる者の主騎になれたのだから。
子龍、曹操が千年に一度の傑物ならば、わたしもまた、千年に一度の天才なのさ。いまは残念ながら明確な答えを得ていないが、きっと探し出すことができるだろう。なぜならわたしのほうが、ずっと若いし、そのうえ賢いからな」

そのことばを聞いて、趙雲は、呆れるというよりも、ああ、なるほど、これでは、こいつは、曹操に仕官なんてできなかったろうよと思った。

そんな強気な発言をしていた者が、いま、うなされて涙をながしていた。
この数日間に起こったことのすべてが、いま夢となって孔明のまえに現われているのだろうか。
よくわからんやつだ。
だからこそ、目が離せないというのもあるが。

孔明が言うところの三番目の選択肢は、いまのところ見つかっていないのだろう。
だが、なぜだかこいつには、ことばのとおりに選択肢を見つけられるのではと思わせる、なにかがある。
それに、たしかに、こいつは若い。時間はたっぷりある。
生き延びられればの話だが。


新野城の人間だけが逃げるというのであれば、たとえ壷中の横槍が入ろうと、無事に江夏にたどり着けるであろう。
しかし、機動力にいちじるしく欠ける、何万の避難民というお土産つきの状態では、それはかなわない。
もしも、民が、曹操が南下してきても、そのまま騒がず恭順の意を示していたなら、おそらくは曹操は、これを酷く扱ったりはしなかっただろう。
それは、孔明の言葉どおりだと思う。
だが、現実として、劉備に従うといって、家や土地を捨ててついてきてしまった民を、曹操は許すまい。
おのれに背中を向けたものに、どうして慈悲を示さねばならぬのかと、曹操ならば、いうのではないか。
民を元の土地に戻したとして、曹操から一度は逃げたという、この事実は動かない。曹操が民を許すか否かは、ぎりぎりのところだ。
ただ、いまさら虐殺はなかろうという予感がある。
虐殺になんぞせず、むしろ奴婢に身分を落としてしまうなどの、曹操にしては『穏便な』方法をとったほうが、曹操には楽であろうからだ。
なぜかというと、次に進みやすくなるからだ。

次、つまりは江東の孫家を平定する事業。
荊州を足がかりに江東。江東を平定したあとに、返す刀で益州へ。
益州に向かうにしても、やはり荊州は土台となる重要な土地。
ここで民の恨みを不用意にかっては、足元がぐらつくこととなる。
そのような不安定な状況に陥ることを、曹操は嫌がるはずである。
曹操はもう歳だ。
孔明のいうとおり、おそらくは、この南下によって、すべてのけりをつけるくらいの気持ちでいるにちがいない。
江東を制圧し、荊州を中心に兵を動かして、つぎは益州。
益州をおさめる劉璋は、劉表とはちがって気の弱い男だと聞いた。ほとんどの勢力が滅んでしまったと聞けば、みずから降伏を願い出てくる可能性もある。
そうして巴蜀を平らげたあとに、涼州の羌族の勢力の後援を受けている馬超を平定すれば、天下は曹家のものとなる。
曹操の考えは、だいたいはこんなところで、外れていないはずだ。
この野望を阻むためにも、ともかく、いまは生き延びねばならない。

従うか、従わないか。
問われれば、やはり趙雲も、否、と答える。
この世にたったふたつだけの選択肢しか、存在しないものだろうか。
本当にそうなのか。
もしも、孔明が、三番目の選択肢を見つけることができるというのならば、それがどんなものなのか、この目で見てみたい。

闇に慣れた目で見れば、孔明は、こんどはあぶら汗を流しながら、なにかうわ言も口にしているようだ。
自身が末っ子だったため、弟がいたら、こんなふうにいろいろと世話を焼いたのだろうかな、と趙雲は思いながら、その額に浮かんだ汗を拭いてやる。
俺がもし、いま戦場に立って死んだとしても、その後の歴史に、影響はないだろう。
けれど、こいつは、きっとちがう。
気心が知れているから、贔屓して見ているのではない。
孔明は、ここで死んではいけない人間だと、心のなにかが告げている。
俺がいますべきことは、主騎として、こいつをなんとしても、江夏へ連れて行くことだ。
せっかく過去から解放されたのだ。未来はいま、無限にひらけた。
文字どおり、眠れる龍が目を開けたとき、いったいどんなふうに世の中を動かしていくのか、その様を見てみたい。
おかしなことだ。
いままで、生きることに執着することなど、一度もなかった。
むしろ、武人としての志を、いかに貫き、そしていかに見事に死ぬか、それに尽きると考えていた。
考えてみれば、見事に死ぬのなら、やはり見事に生きなければいけないのだな。
失念しがちな、あたりまえのことを気づかせてくれるのが、孔明なのだ。

そうして、疲れ、やつれた顔の輪郭を見ているうちに、また自分も眠くなってきた。
あとすこし。
らしくもなく、ふたたび目をつむり、眠りに入ろうとしたそのとき、幕屋の外で、耳に障る男の声が聞こえた。
ふたたび、目をひらき、身を起こして耳をすませば、どうやら、張飛のものである。
その声に応じるようにつづいた低い、威厳すら感じられる声に、趙雲はおどろいて身を起こした。
関羽である。
先行して江夏にむかっていたはずの関羽が、なぜここにいるのか。

趙雲は、自分の羽織っていた衣を、眠りつづける孔明にかけてやると、立ち上がり、幕屋を出た。
そうして、思わず眉をしかめる。
ひどい朝靄であった。
あちこちに幕屋が立てられているのだが、その輪郭が定かではないほどだ。
雲が下りてきて地上を覆ったようなその光景に、趙雲はなぜだか、ひどく嫌な予感をおぼえた。
視界のわるさが、いまの状況に、あまりにぴったりくるものだったからかもしれない。

張飛と、関羽の声は、ちかくにある劉備の幕屋から聞こえてきた。
人払いがされているのか、無用心にも、幕屋の入り口にさえ衛士がいない。
そうして見わたせば、いつもどってきたものであろうか。甘夫人を乗せていた安車の姿も見えるのだが、これには厳重に兵士がついていた。
夫人の安車のそばには幕屋があり、そこに夫人がいるようだ。
侍女たちがもう動き出しているのが、靄のなかの輪郭で見えたため、挨拶をしようと足を向けると、衛士たちに止められた。
「奥方さまは、まだお休みでございます」
普段であれば、そうか、で引き下がるところであったが、休んでいるというわりには、侍女たちの動きが慌しいこと、そして、衛士の表情が厳しいものであることが、なにか引っかかる。
それでも無礼はできないため、大人しく引き下がり、ほかのあちこちで、動きはじめている兵卒や部将たちに挨拶をしつつ、趙雲は、声の聞こえる幕屋へと向かうのであるが、その途中で、こんもりと盛り上がったちいさな土の塚の前で、亀のようにうずくまっている糜竺の姿をみつけた。

その塚は、糜夫人の墓であった。
墓標もなにもない、簡素なものである。
いずれやってくるであろう曹操の兵たちによって、墓を暴かれ、死体を辱められるのを恐れたために、こうした造りとなったのだ。
劉備と孔明と、そして趙雲をふくめた主だった家臣たちが、糜夫人のために、みずから手を泥で汚してまで建てた。
兄の糜竺は、その後、一晩中、ずっと妹のために、墓守をしていたものらしい。
そうして、そのかたわらには、すこしぐずり気味の阿斗をあやしている、甘夫人の侍女のひとりがいた。
古くから、甘夫人の面倒をみてきた寡婦である。

甘夫人は、正夫人として迎えられた女ではなかった。
劉備には、旗揚げして以来、何人かの妻がいた。
劉備は、義兄弟の縁にはめぐまれたが、家庭には恵まれない男であった。
迎える妻は、不安定な生活ゆえの心労からそうなってしまうのか、たいがいが体をこわし、夭折してしまう。
そんな正室たちの面倒を、逆に一手に引き受けていたのが、甘夫人であった。
そして新野においても、公的な場では、正夫人の待遇を受けていたのは、徐州一の資産家で、名望も高い糜一族の女である糜夫人であった。
しかし、糜夫人の体が弱く、ほとんど劉備の世話をやくことができないためと、さらには甘夫人が男児を生んだことから、甘夫人と糜夫人の立場は逆転した。
しかし二人の夫人はとても仲が良かったので、表立って対立することはなかった。
糜夫人が死んだいま、劉備の妻は、甘夫人ひとり、ということになる。

そうして、阿斗をなだめる女の姿と、もしかしたら疲労のために、半ば寝入ってしまっているかもしれない糜竺のうしろすがた、そして朝靄の沈黙のなかにある甘夫人の安車という光景に、趙雲は、ふと、なんともいえない奇異さを感じ取っていた。
糜夫人は、からだの弱い女だった。
甘夫人は、対照的に頑丈で、病らしい病をしたことがないのが自慢だと、常から豪語しているほどである。
なぜ、生まれた子を、体が弱い糜夫人に預けていたのだろう。
甘夫人の体調が悪いとは聞いていたが、体が弱いとわかっている糜夫人に預けねばならなかったほどに、衰弱しているのだろうか。

そうして、劉備の幕屋でつづいている、いい争い。
幕屋の中では、劉備と関羽、張飛の三人が、はげしい言い争いをしているようだ。
張飛だけが暴れているというのならともかく、冷静沈着な関羽までもが口調を荒げているのはめずらしい。
民の処遇についてか。
ならば、孔明も交えてすべき議論であろうに。
不快をおぼえた趙雲であるが、ふと、おかしくなって、口元に笑みを浮かべた。
困ったことだ。
どうやら俺は、すっかりあの軍師の味方になりきってしまっているらしい。


どうやら、幕屋のなかには、三人の義兄弟しかいないようであった。
人払いをされている中へ入っていくのもどうかと、一瞬ためらいがあったが、中からは、なにやらただならぬ雰囲気が伝わってくる。
やはり、孔明を起こそう。
そうして、踵をかえそうとしたとたん、またも張飛の声が聞こえてきた。
その声の調子が、ただ怒りにまかせているというのではない。
あきらかに、涙のふくまれていることに気づいた趙雲は、おどろいて、足をとめた。
この三人の義兄弟は、いつも仲がよいというだけではなく、衝突することも多かった。
もちろん、すぐ仲直りをするのもかれらなのであったが、幕屋の向こうから伝わる空気は、いつものじゃれ合いのような衝突とは、種類がちがうようであった。
入るべきか、それとも去るべきか、迷っているうちに、関羽が、きびしく張飛を叱責する声が聞こえてきた。
中で大きな物音がして、張飛が、どうやら暴れだしたのが気配でわかる。それを、関羽が止めようとしているのだ。
それでもまだ、趙雲は、中に入ることをためらっていたが、いつになく張飛がねばって、暴れるのをやめようとしないのがわかった。
中で、物が倒れるおとが、つづけざまにして、関羽の叱責がつづく。
しかし、それでもなお、張飛はなにやら怒鳴って、暴れるのをやめようとしない様子だ。
張飛は、劉備や関羽のいうことならば、じつに素直に言うことを聞く。
なのに、その制御がきかない状態というのは、かなり深刻な状態だということではないか。

ここへきて、趙雲は、ためらうのを止めた。
入り口にある幕をかきわけて中に進むと、想像した以上の状況になっていた。
関羽に腕をとられて、押さえられている張飛が、なおも、顔を朱に染めて、劉備に突っかかろうとしているのである。
劉備のほうは、泣きはらした目をしたまま、張飛の獣じみた顔から目を背けるようにして、だまってその拳を受け止めようとしていた。
それを、懸命に関羽が止めているのだ。

「何事でございますか!」
関羽に加勢するかたちで、趙雲は張飛を押さえにかかる。
身の丈が八尺の大男がふたり、九尺のさらに大男がひとり、そして七尺五寸の男がひとり。
さほど狭くもない幕屋であったが、四人が揃うと、とたんに息苦しく感じられる。そのなかで、張飛が、縄張りをあらされた虎のように怒り狂っているのだ。
「離せ、離せ、こんちくしょう!」
張飛は、顔をくしゃくしゃにして怒りの涙を流しており、歯をむき出しにして、じっと耐えるふうに黙っている劉備に、いまにも噛み付きそうな勢いである。
なにがあったのかはわからないが、張飛がここまで怒るとなると、尋常ではない。
そして、劉備が黙って耐えている、その様子からして、あきらかに、劉備が張飛を怒らせたのだろうと想像がつく。
さらに、劉備は、自分の非を認めている様子だ。

「よくも、この、エセ仁君が!」
たとえ義弟による罵倒にしても、ひどいことばに、趙雲は叱責した。
「なんてことを言うのだ。おい、なにがあった!」
まるで空気をかきわけて泳ぐようにして、関羽と趙雲に両脇から押さえられながらも、なお、劉備に向かおうとする張飛にたずねると、不意に、張飛の体から、がくりと力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
そうして、そのまま、亀のように地面にうずくまると、地面をどんどんと拳で殴りながら、泣きだしたのである。

なにがどうなっている。
孔明を起こさねば。

咄嗟に足を動かし、孔明が眠る幕屋へ向かおうとする趙雲を、それまで沈黙を守っていた劉備が、止めた。
「子龍、おまえに頼みたいことがある」
そのことばに、すかさず反応したのは、関羽であった。
「兄者、益徳を止めはしたが、思ったことは、こちらも一緒だぞ」
おそらく夜を徹して、江夏へむけて南へ進んだところを戻ってきたのだろう。
その顔には、歴戦の武将に似つかわしくない疲労が、はっきりと浮かんでいた。
苦々しい関羽の表情と、泣き崩れる張飛。
そして、対象的に、なんら感情を浮かべていない、無機質な劉備。
おかしい。こんなことはおかしい。
だいたい、関羽は、糜夫人とはぐれ、そして阿斗ともはぐれたことに責任を感じて、うまく逃れることができた危険な道を、わざわざ戻ってきたわけではあるまい。
趙雲が、その真意をさぐるべく関羽の顔を見つめると、その視線を避けるように、見事な黒髭をたくわえた巨漢は、ぷい、と顔をそむけた。
何かあった。

劉備のほうはというと、背をまるめて男泣きをする張飛に、ちらりと目を向けたあと、趙雲がいささかたじろぐほどに冷淡に、その脇を通りすぎて、趙雲の前に進み出た。
劉備は、ひどい顔をしていた。
糜夫人をうしなったことが、よほどの衝撃だったのだろうか。
目は赤く充血し、瞼も腫れている。声も嗄れているようだ。
「子龍、おまえの怪我の具合はどうだ。正直に言え」
そうたずねてくる劉備の表情は、趙雲がこれまで知る、どの顔よりも翳りのまさる、陰惨ささえ感じさせるものであった。
「馬には乗れます。戦にも、十分に耐えられますぞ」
「そうか?」
いいざま、劉備は、いきなり、趙雲の、胸の怪我に向けて、拳を打ってきた。
さほど強い力で打たれたわけではないが、その拳の振動が、肋骨全体を震わせる。
思わず痛みに顔をしかめた趙雲を見て、劉備は言った。
「むずかしいようだな。おまえには戦列から離れてもらう」
「しかし」
咄嗟に趙雲の脳裏に浮かんだのは、それでは孔明の守りはどうなるのか、ということであった。
だが、地面に突っ伏したまま、嗚咽をもらしつづける張飛の声に我にかえる。
たしかに孔明を守るのは大切な仕事のひとつであるが、落ち着け。全体から見れば、孔明一人の問題ではない。孔明よりも、まずは主公だ。
自分が、知らないあいだに、すっかり優先順位をまちがてしまっていることに、趙雲はうろたえつつ、それを悟られまいと、表面はあくまで落ち着いて、たずねた。

「では、それがしの勤めは民の警護でしょうか」
「いいや」
短くいうと、劉備は、こちらへこい、というふうに、趙雲を手招きした。
「民の警護は儂と益徳がする。関羽は江夏へ先行し、劉公子からの援軍を依頼しに行く。おまえには、別の部隊を率いてもらう」
「では、軍師の主騎はだれがつとめますのか」
趙雲のことばに、劉備は小さいため息をついたあと、答えた。
「孔明は、あの青竜という傭兵たちに頼む。まず、先発が関羽、つづいて孔明、そして儂が民を率いて、益徳が殿(しんがり)だ」
「傭兵たちに、軍師を任せるのですか?」
「叔至も同行させりゃあ、問題ないだろう。奥を守るために、青竜がみせてくれた働きからすりゃあ、十分に信用してもいいのではないかと、儂は思うぜ」
たしかに、唐突にあらわれて、雇ってくれと申し出てきた青竜は、樊城の騎兵隊から糜夫人を守る戦では、勇猛果敢に戦った。
たんに戦ったというだけではない。あの男は、傭兵団の頭として、見事に指揮をつとめていた。
孔明は、警戒しろと言ったが、戦場での働きだけを参考にするならば、信頼してもよいのではと、趙雲も思う。
「それがしが率いる、別働隊というのは、いったい、どのようなものなのでしょうか」

趙雲がたずねると、劉備は、さらに身を寄せてきて、これから話すことにしっかり耐えろよ、とでもいいたげに、ぽんぽんと肩をたたくと、趙雲の耳に、事情を打ち明けた。

劉備から語られたそのことばに、趙雲は、糜夫人の死以上に打ちのめされた。

二回目につづく
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