七夕フェスタ リクエスト企画 第三弾 まー様からのリクエスト
反典略
前編
建安十六年。
たび重なる羌族への締めつけと、のしかかる重税に悲鳴をあげた民の怨嗟の声を受け、涼州の英雄で、みずからもまた、羌族の血を引く馬超は、韓遂ら、有力氏族たちと連合し、叛乱を起こした。
怨嗟の声をあげたのは、羌族ばかりではなく、この乾燥した厳しい土地にすまう漢族もおなじである。
そして、漢族と羌族の双方の血をひき、その風貌も誇らしく美しい馬超は、かれらの旗頭にすえるのに、ぴったりな男であった。
本人もそれを熟知していた。
そうして、太陽のように燦々と輝きを放てとばかり、派手な鎧で身を飾り、はなばなしく戦場を駆け抜けた。
これで実力がなければ、あわれな道化師の死体が、草原を、町へ帰っていく行軍の穂先に、さらしものとして掲げられていたところであろう。が、そうはならなかったところに、馬超という名前の伝説が、早くに生まれた原因がある。
馬超の武勇は、誇張でも、勢いだけのものでもなかった。
一時は、曹操をして、遷都を考えさせるほどに馬超らの勢いはすさまじかった。
これは、洛陽も目前ではないかと、馬超たちの周辺で、楽観的な空気さえ流れ始めた頃であった。
かずかずの苦難を乗り越え、そして自らの運命を切り拓いてきた曹操という男の器量に対し、度量はあったが、若すぎた馬超のあいだに、勝敗の差が出たといってよい。
連続する勝利は、楽観を呼び、そこに弛緩を生じさせた。
その弛緩こそが、馬超の命取りとなってしまう。
勢いに乗るべしとする馬超と、慎重にと進言する韓遂の意見の対立がめだってきたのであった。
馬超と韓遂のあいだが、進軍するにつれ、不和になりつつある、との情報を手に入れた曹操は、家臣たちと謀り、韓遂に誤字を修正した箇所ばかりの手紙を送りつける。
それを目にした馬超は、修正したのは、ほかならぬ韓遂ではないかと疑い、この疑惑に怒った韓遂と完全に決裂。
ここに連合はやぶれ、馬超は敗退した。
馬超はあきらめず、羌族を中心とした北方の蛮族に呼びかけ、ふたたび叛乱を起こす。
それほどに馬超の羌族においての名声は、高いものであったのだ。
涼州の民も、『あの錦馬超』ならばと、ふたたびかれに期待をかけたのだ。
そうして、二度目の波に馬超は乗ることができた。
一時は、自らを征西将軍と名乗り、ふたたび盛り返す勢いをみせた。
しかし、こんどは、馬超の独走におののいた者たちによって、馬超は帰る土地を締め出され、故郷を追われることとなってしまう。第一戦において、曹操がみせた反逆者への残酷な仕打ちが、ぎりぎりのところで、あまたの民、そして将兵たちを竦ませた。
結局、馬超はここでも、曹操にまけてしまったのだ。
その後の馬一族は悲惨であった。
曹操は、叛乱した馬超の一族をゆるさず、すぐさまその家族をすべて捕らえると、二百あまりいた氏族をすべて処刑にした。
馬超は、たった一人のこった従弟の馬岱、そして妾の董氏とともに、鶴鳴山において『五斗米道』を主催する、新興宗教の教祖・張魯のもとへと、身を寄せるしかなくなってしまったのである。
董氏は、長年馬超に連れ添っていた妾のひとりであり、馬超とのあいだに、秋、という息子をもうけていた。
羌族の娘で、くるぶしまで届くほどの長く美しい黒髪を持っており、その男勝りな気性と美貌が馬超の気に入り、攫われるようにして、氏族の集落から連れ帰られた。
しかし、董氏のほうでも馬超の男ぶりの良さや、強引ながらも優しい面に惹かれて、結局、ふたりは仲むつまじくなった。
馬超は、当時の武将としては、ごくごくふつうに、複数の妻を持っていたが、勝気で物怖じせず、忍耐強い董氏は、特に気に入りであった。
よほどでないかぎり文句も言わないので、戦場にも連れて行っていたから、おかげで董氏だけが、曹操の手から逃れることができたのであった。
馬超は董氏の生んだ息子の秋をとても可愛がっており、秋、秋、と言ってしょっちゅう、その手に抱いては、暇さえあれば外に連れ出して、共に空を眺めたり、大地の風を嗅いだりした。
そうして張魯のもとで待つ妻のもとに戻り、夜はその手料理に舌鼓を打って、従弟の馬岱と酒をともにする。
三人には不文律があった。
それは決して、亡くなった一族のことを口にしてはならない、ということであった。
だれが言い出したことではない。もし口にしてしまえば、場が暗くなる、などという単純なものではなかった。
二百名、という、あまりに重過ぎる人命の犠牲は、残されたたった三人では、とてもではないが、耐えて抱えていることができなかったのである。
張魯は、貧民を中心に、生き神さまとさえ崇められているほどの人格者で、天師さま、天師さま、と呼ばれ、みなに好かれていた。
張魯は、この乱世にあっても、やはり劉璋や劉表の、幼少をさほど苦労せずに過ごしている裕福な士大夫とおなじで、三代目の教祖として、幼いころから特別に育てられていた。
そのあたり、やはり長子として、ほかの兄弟たちとは別待遇で育った馬超と、気が合ったのであろう。
それに張魯は、武勇に長け、正義感の人一倍つよい馬超を気に入っていた。馬超のほうも、曹操に追われる己をかばってくれた張魯に感謝していたし、束の間の、夢のように平穏な生活を、気に入っていた。
とはいえ、馬超の生活の場は、つねに戦場であった。
家族も恋人も友も、つねに戦場で得てきた。
戦場こそが、かれの家であり、固定されて動くことのない、穏やかな時間こそが、仮の宿りなのである。
一方の張魯としては、馬超のように切羽詰った事情がなかった。
つまり、『羌族の代表』としての強迫性である。
逆にあったのは、『五斗米道』(すでに『天師道』と呼ばれつつあったが)の教祖として、自分を頼ってきた、流民たちの生活をいかに守るか、という責任である。
馬超は、自分に期待して、数多くの兵卒を預けてくれたひとびとの心を、その言葉を忘れていなかった。
だから、志半ばで、このまま戦うことを止めるわけにはいかなかったのである。
馬超はおのれの心を隠すことはしなかったし、宴や議事の場でも、そも、信者たちが貧しい生活にあえいでいるのは、天下の乱れ、曹操の圧政が原因である、それをつぶさねばならぬ、と訴えた。
もちろん、大本の腐敗は漢王室にこそあるのであるが、そこを攻撃できるほどに馬超は勇気がなかった。
当時において、漢王朝はいまだに大地における我らの『父』であり、我らは帝の『赤子』なのである。子は父を批判『できない』。つまりこの場合の勇気とは、儒の気風強くのこる時代において、父を罵倒する勇気のことである。
そうであるがゆえに、あえて責任を曹操に向けた。
もちろん、現実をしっかり見据えている者たちは多く、いや、ほとんどの世情に長けた者は、世の乱れの要因は、曹操などという人物ひとりで説明がつかないものだということを知っていた。
それをいまさら曹操に帰することすら、時代遅れだという気風が出来上がりつつあった。
『五斗米道』は多くの流民を、五斗の米さえ寄進すれば、だれであれ受け入れ、食客としてやしなう宗教団体であった。
であるから、救いをもとめ、各地から多くの民がやってくる。
だからこそ、情報の集り方もハンパではない。
張魯は、鶴鳴山という中原からすればド田舎の山にひっこんでいる身でありながら、中原の士大夫顔負けの情報を、その耳にあつめていた。
もちろん、張魯の元につどっていた、ほかの武将も同様である。
そのために、『時代遅れの田舎者』である馬超と、時代をよく知る武将たちとでは、衝突することもたびたびであった。
馬超は、長子たるゆえか、世渡りが下手であったといわざるを得ない。
この不満を、五斗米道内に同志をつくることで解決しようとせず、直接、張魯に訴えた。
困ったのは、張魯のほうである。
張魯は、たしかに馬超に安息の場を与えてくれたものの、張魯自身に野望はなかった。
彼は己をたよってきた信者の安息こそが第一であり、馬超を迎え入れたのも、貧窮した民を迎え入れるのと、さほど変わらぬ感覚であったのである。
そこが、宗教者と、生まれながらの武人の、意識の差であった。
そこで、張魯は腹心の武将、楊柏に相談することにした。
じつは、馬超の男ぶりのよさにほれ込んでいた張魯は、自分の娘のひとりを、妾しかいない馬超に妻として、与えようとしたことがある。
しかし、それを反対したのは、楊柏という将軍であったのだ。
この楊柏、将軍という肩書きこそあるが、もともとが貧農の息子である。それが張魯にひろわれ、そのご恩返しとばかりに懸命に働いて、働いて、ついに将軍という肩書きがもらえるまでに、出世したのである。
「二百名ものおのれの家族を見捨て、たった一人の妾と子供、そして従弟だけしか救えなかった男、それだけしか愛せなかった男でございますぞ、それが、他人を愛せる男と申せましょうか」
張魯は、直感の人であると同時に、感受性のつよい、思索のひとであった。
であるから、楊柏のことばを、最初は跳ね除けたものの、よくよく事実と照らし合わせれば、そのとおりであると思うようになっていた。
もとより、名門の馬家の御曹司である馬超からすれば、兵卒は使うもの、という意識がつよい。
しかし、最下層から伸し上がってきた楊柏からすれば、兵卒は、同胞であった。
同胞を、天下の情勢に照らし合わせても、勝ち目のない戦に送り出すわけには行かない。
だからこそ衝突したし、敬愛する張魯が、馬超と縁続きになり、曹操ににらまれ、処刑された二百名とおなじ運命をたどらせるわけにはいかない、と思ったのである。
張魯は、楊柏の心をよく知っていたので、娘の婚儀をとりやめた。
そして一層、楊柏を重用するようになっており、徐々に馬超への感心は薄れつつあった。
このあたりから、張魯と馬超のあいだに、馬超と韓遂のときと同様の、不協和音がながれはじめるのである。
やがて馬超は、たびかさなる動議の場において、つねに孤立するようになっていった。
張魯に不平不満を訴えるが、聞き入れられるところは少ない。
しかも、張魯というのは、面倒くさがりというわけではなかったが、やはり苦労知らずで育っているがゆえに、人の和を乱しすぎる人間が苦手で、理解できないのであった。
馬超は、まさに理解できない不穏分子であり、楊柏側の、馬超をなんとかすべしという進言が重なったこともあり、だんだんと、馬超を曹操へ引き渡すべきではないかという考えが、浮かび上がってきたのである。
とはいえ、馬超もまったくの愚か者ではない。
いや、愚か者であったほうが、どれけかよかっただろう。
馬超は、己を取り巻く環境が、日に日に悪くなっていくことに、敏感に気づいていた。己を締め付ける麻縄が、じょじょにきつくなり、身動き取れなくなっていく感覚である。
もがけばもがくほど、逃げることができない。
これは、自由を愛する馬超にとっては、おそるべき事態であった。
張魯の脳裏に、馬超を曹操へ引き渡す、という考えが浮かぶのと同様に、張魯から逃げて、よそへと出奔すべきではないかという考えが、馬超の脳裏にも浮かび始めていた。
馬超はひとりでいることが多くなり、馬岱や董氏にも口を利くことがすくなくなった。
もっとも親しいふたりは、隠し事のできない、明朗な性格である馬超のこの変化に、はっきりと、その内面に、はげしい葛藤が渦巻いていることを悟った。
とはいえ、馬岱は、二百名の親族が処刑されたさい、おのれも父母や兄弟をすべて亡くしており、もはやそのときから、自分の家族は馬超に捧げたのだというくらいに、自分の一切を馬超に捧げていたから、その挙搓、行動に、口を出すことはなかった。
もはや、馬超が決めたことに、ひたすら従うしかない。
一方の董氏はといえば、これは、一族は、馬氏ではない、というので難を逃れていた。
故郷へ帰れば、ちゃんと老父母も健在で、姉を心配した弟が、たびたび馬超のもとへ出向いてきたり、あるいはほかの兄弟たちが手紙をよこしたりしてくれる。
馬岱も、暗に董氏に、帰郷すべきであるとほのめかしたが、故郷の集落より、ほとんど攫われるようにして連れ去られ、馬超の妻となってから、董氏は、おのれのいる場所は、馬超のそば以外にほかにない、と決めていた。
もちろん、息子の秋のこともあったが、それ以上に、夫を見捨てて、子供のため、己の命のために、このもっとも苦しい時期に姿を消してしまうことを、彼女は、彼女の誇りにかけて、その判断を拒んだのである。
馬超は、息子と遊ぶこともなくなり、馬超の仮の宿りに、だれかが訪れることもなくなった。
あきらかに、馬超は完全な孤立をはじめていた。
張魯の側近たちとの親交が途絶えがちになるにつれ、馬超の周囲にあらわれたのは、ほかならぬ、五斗米道の信者たちであった。
馬超は、外界で起こっていることのすべてを知りたがり、曹操のことも含め、その背後にいる公孫氏の動向、はるか南方にいる孫氏のこと、荊州を足がかりに、一気に勢力を伸ばし、地盤を固めつつある劉備のこと、巴蜀に籠もる劉璋のこと、そしてもっとはるか西域にひろがるさまざまな民族のこと、すべてに耳をかたむけた。
「西域というのは、若い頃、ちょっとした冒険のつもりで行ったことはあるが、あの砂地のさらに果てには、漢にまさるとも劣らぬ大帝国があるそうな。そこまでいければ、きっと楽しかろうな」
などと、言って笑い、それはできぬ相談ではあるが、とさびしそうに付け加えるのであった。
馬超は二百名の命という重石に、足を縛られた、翼のある駿馬であった。
彼らの犠牲を無視して、もはや残された一族だけで、故郷から遠く離れることなどできなかったのである。
そんな馬超の寂しげな言葉を聞き、いっそ忘れてしまえ、どこか遠くへいってしまおうと、何度馬岱は言いたくなったか知れない。
だが、そこは、馬超の胸にある、鳴り止まぬ慟哭を知るだけに、口にすることはできないのであった。
さて、信者たちからさまざまな情報をあつめ、おそらく張魯と肩を並べられるほどに情報通となった馬超が、もっとも気にしたのは、劉備という男の名であった。
劉備というのは、もともと地盤のしっかりあった、公孫氏や、爆発的な勢いで中原を制覇した曹氏、そしてじわじわと地元の豪族たちと婚姻や折衝で結びつき、地盤を作り上げた孫氏とちがって、どこか向こう見ずな、それでいて妙に颯爽としたところのある男であった。
とはいえ、いまは劉璋と連合し、張魯を征伐せんとする『敵』である。その敵将に、馬超はもっとも興味をひかれた。
劉備をめぐる、義兄弟の話は、講談師が語るものがたりのなかでも人気なほどで、最近では、曹操の誘いを高潔に蹴り飛ばし、劉備の元に帰ってきた関羽の話につづけ、七年間もの歳月を耐え忍び、『伏たる龍』なる名を持つ諸葛孔明という、いっぷう変わった名前をもつ軍師を迎えてからの、まるで御伽噺にも似た冒険譚もはやっているらしい。
ふさぎがちで、出かけるにしても、たいがい一人の馬超が、たまに市井へ出かけることがあったが、どこに行くかといえば、講談師のことろであり、余興をもとめる民草にまじって、劉備と義兄弟たちの話に聞き入り、そしてお話が解散になったあとも、講談師のところへ行って、その話はどこまでほんとうなのか、と聞くのである。
そうして馬超は、ほかならぬその劉備が、荊州の豊穣な富を基盤に、『曹賊に狙われている巴蜀を助けるため』、漢中を目指して向かってくる動きがある、ということを知る。
やがて馬岱と董氏は、馬超の口から、『劉備』という男の名を、もっとも聞くようになっていくのであった。
劉備という男ほど、毀誉褒貶の激しい男はない。
ある者はいくじなし、優柔不断だといい、ある者は、冷徹で怜悧、得たいが知れないという。
何度も何度も地盤を失い、裏切られては、だれかに拾われ、それでもまだ立ち上がり、そうしていまの地位を保っている。
講談師の言うとおり、襄陽人士(その代表が孔明であるが)を味方につけることができた、ということも大きいのであろうが、なにより馬超と共通するのは、家族を人質にとられたり、あるときは失うことがありさえしても、負けることなく、決してだれにも真に膝を屈することなく、英雄としての気概を捨てなかったところである。
馬岱などは、関羽の、曹操のあまたの誘いを退けて、堂々と恩をかえして義兄のもとに帰還した、というその話に尊敬と憧れを抱いたし、董氏は、長坂における戦いで、妻子を混乱で見失った際に、その臣下の趙子龍という男が、みごと御子をまもって帰還した、という話をうらやましく聞いた。
いつしか、彼らのなかでは、劉備という人物に対しての、期待めいたものが育ちつつあった。
それは張魯への失望…いや、正確にいえば、張魯を中心とする『宗教団体』との性質の合わなさが明確になるにつれ、大きくなっていった。
五斗米道に救いを求めてやってくる信者や、商人たちから、どうも連合している劉備と劉璋の動きが、おかしいという話が出てくるようになった。
それまで、劉備と劉璋の両方は、おなじ劉氏(元のご先祖が同一かどうかはともかく、生まれ育った家の格式には、格段の差があるのであるが)ということもあり、そして敵がおなじく曹操ということもあり、はためにはうまく行っているように見えた。
しかし、まともな観点からすれば、劉備がたとえ曹操を連合して叩いたとして、そのままおとなしく荊州に帰るとは思えない。劉璋は、すっかり劉備という男を信じきっており、そんなことはない、と断言しているのであるが、劉備の野心が大きいというよりは、劉璋に見切りをつけた、劉璋の家臣たちが、劉備と通じ、巴蜀の主人を交代させようと陰謀している、というのである。
劉備自身は、東呉の動きがあやしく、いまは蜀よりも帰還をえらびたい、と主張しているようであるが、それを引き止めた、劉璋の配下の張松が、じつは劉備に深くつうじており、それが露見して処刑された、という話まで飛び込んできた。
それに乗じ、劉璋は、劉備との一切の交際を絶つようにと、全将兵に通達したのである。
これは、張魯から、その勢力を守ってやったと思っていた劉備には、忘恩甚だしい話であった。
劉備はひどく激怒し、とうとう両勢力は戦闘態勢に入りつつある、という。
おおかたの意見は、劉備不利、ということであった。
なぜかといえば、劉備はその軍師たる、龐統という男を戦乱の最中に亡くしている。
龐統の名は、馬超もよく知っており、曹操が赤壁において孫権と対峙しているときから、なにかとこまめに手紙をよこし、曹操の動きを知らせてくれる男であったからだ。
聞けば、たいそうな権謀術数の持ち主で、世では鳳凰の雛、とまで呼ばれていたそうであるが、志半ばにして、無念の戦死を遂げてしまい、これが劉備には大きな痛手になっている、というのである。しかも、地形からして、蜀は険阻きわまりなく、難攻不落の天然の要塞。
戦下手、と評判のある劉備では、とてもではないが攻めきれまい、というのが大方の意見なのであった。
龐統の戦死をうけ、荊州から援軍がかけつけ、成都包囲のための準備がすすめられつつある、という。それでもなお、天然の要害・巴蜀の攻略は容易ではない。
だが。
この対決により、一時の平和を授かった張魯の周囲では、どちらが勝つか、ということに話題が集中していた。
劉璋が勝ったなら、これは御しやすい。
だが、劉備が万が一、勝ったなら?
劉備と張魯のあいだに接点はなく、むしろ劉備と張魯は、民草の平和をともに願うものでありながら、一方では天に祈り、一方では剣を取った者、根元はおなじ考えであるというのに、そこに至るまでに選ぶ道がまったくちがう男。まさに水と油なのである。
劉備とでは、うまくいかない。
もし、劉備が勝ってしまった場合、張魯にとっても、これは危うい事態となる。
ならば、そうなる前に、劉備の不倶戴天の敵、曹操と結ぶべきではないか。
むろん、馬超は、張魯のこの考えをすばやく察知した。そして、みずからもまた、独自におのれの道を切り拓くべく、うごきはじめた。
※ タイトルの『反典略』の意味は後編であきらかとなります。はさみのとしてはめずらしい、論文? というくらい前編は真面目なお話です。後編さて、馬超の進退は? お楽しみにー