孤月的陣
第三章 ハナ 花
④
迂闊であった。
趙雲はちいさく舌打ちすると、すばやく周囲を見回した。
傍らには、さすがに身をこわばらせる花安英、ほこりを被った衝立、蜘蛛の巣の掛かった調度品、壁に生えた木のように佇む燭台。
この燭台を武器代わりに振り回し、突破を、と趙雲は考えたが、衝立の向こうで、蔡瑁が、はやくも体勢をととのえて起き上がるのを見て、あきらめた。
蔡瑁は智将である。行動も慎重で、このような後ろ暗い密会においても、すぐそばに側近を控えさせていた様子だ。
ただならぬ蔡瑁の誰何の声に、数人の足音が近づいてくるのが聞こえた。
捕まるはずはない。
この小魚の骨のような、貧弱な坊主を抱えて蔡瑁主従を突破することになるが、負けることはない。
だが…
そのとき趙雲の脳裏に浮かんだのは、慣れぬ得物をどう使いこなすか、物置小屋を出た後、どこう逃走経路をとるか、といったことではなかった。
突破はできるだろう。戦いになっても、負けることはない。
だが、姿を見られたら、どうなる。
諸葛孔明の主騎たるおのれが、蔡瑁の動きをさぐるべく、密偵のまがいごとをして、それを悟られたら…孔明は、劉琦を押す劉備の軍師となった。
そのために、蔡瑁も蔡夫人も、姪の婿たる孔明を快く思っていない。
さらに、孔明の主騎に、自分たちの最大の秘密を握られたとなれば、死にもの狂いで襲い掛かってくるだろう。
孔明が、この場にいるのであれば、ともに連れて逃げる。
だが、孔明はいま、伊籍らとともに宴席に出ている。
しかも、自分は花安英によって、闇の中、慣れぬ樊城の一室へと導かれた。
首尾よく追っ手をかわしたとして、孔明のいる場所まで、蔡瑁たちより早く孔明のもとにたどり着き、樊城を出ることは可能か。
趙雲はすばやく計算した。
出来ないことではない。
だが、蔡瑁たちが『壷中』だったとしたら、どうだ。
たとえ樊城を突破したとしても、すぐさま追っ手は掛かるだろう。
それすら振り切ったとして、新野に逃げ込めたとする。
蔡瑁たちの秘密をあきらかにすれば、劉備側に大義名分はたつ。
樊城だけではなく、荊州のほかの太守たちの中にも、劉備とよしみの深い人間はいる。
かれらをまとめ、樊城にいる劉琦を救う、という名目で軍を進める。
戦になれば、戦力は樊城のほうが上だが、人心は劉備にある。じっくり攻めれば、劉備が勝つ。
しかし、その内紛を、曹操が見逃すはずがない。
いま戦なんぞをしたら、すなわちそれは滅亡を意味する。
だめだ。それだけは避けなければ。
くそっ。
趙雲は、姿を見られずに、蔡瑁たちを突破することをあきらめ、さらに部屋を見回した。
すると、調度品にまぎれるようにして、板付けにされている窓があることに気付いた。
趙雲は、花安英にたずねた。
「おい、あの窓の外は、どうなっている」
「闇ですよ」
この期に及んで、たいがいふざけるのはよせ、という思いのありったけをこめて、花安英を睨みつけたが、花安英は、冗談を言ったのではないらしい。
怯えた顔をして答える。
「ここは三階です。あの窓から落ちたら、死にますよ」
「窓の下は?」
「さあ、わかりません。この窓の下は、奴婢たちが暮らしている小屋や畑があるはずですが」
よし、とだけ言うと、趙雲は立ち上がった。
その気配に、蔡瑁たちがますます、いきり立つのが、気配でわかった。
「間者か! 出てくるのだ!」
蔡瑁がよく響く野太い声で怒鳴った。
蔡氏のほうは、衣をととのえつつ、怯えた顔をして、蔡瑁の背後にかくれて、なりゆきを見ている。
蔡瑁の警護の者たちが部屋へやってくると、蔡氏は、床に落ちていた薄衣をさっ、とかぶって顔を隠した。
人数が増えたことで、蔡瑁は気を強くしたのか、抜刀した兵卒とともに、衝立のほうににじり寄ってくる。
頃合を見計らい、趙雲は、目の前にある衝立を蹴り飛ばした。
ちいさな悲鳴が上がり、蔡瑁たちが、うろたえたのがわかる。
趙雲は、まっすぐに入り口に向かわず、壁側にすばやく移動すると、壁側に積まれた家具を、片っ端から抱え上げ、手当たり次第に、蔡瑁たちにぶん投げた。
もしかしたら、この中には、高価なものがあるのかもしれない。
派手な音をたてて、家具は蔡瑁たちにぶつかり、あるいは床や壁にぶつかって、倒れていく。
趙雲は、さいごに、壁にたてかけてある、自分の胸元くらいまである、大きな燭台を掴むと、やがて家具が取り払われ、全体が姿をあらわした窓の、板付けになっている部分に、燭台をつきたてた。
ばき、めき、と木の割れる音がする。
幸いにも、打ち付けられた板は古く、さほど頑丈ではないらしい。
何度かおなじことを繰り返し、板がほぼ割れたのを見ると、趙雲は、傍らでうろたえている花安英を引っつかみ、窓に思い切り体当たりをした。
ふわり、と肝を震わせる、不安感と浮遊感が全身をつつむ。
眼下はなにも見えない闇の海である。
どこまでが真の闇で、どこからが地上なのかもわからない。
ただ、思いのほか冷たい風が、闇と共に押し寄せてくるような感覚がある。
ひどく長い時間、空中に留まっているように思えた。
いつの間にか、樊城の城壁の天辺にでもいたのではないか…不安とともにそんな思いが過ったころ、眼下に、藁葺きの屋根が見えた。
趙雲は、飛び込む形でそこに落ちた。
屋根に落ちると、趙雲と花安英の重量に耐えられず、藁葺きの屋根はすぐに落ち窪み、そのまま傾いだ。
とたん、屋根のしたで、まどろんでいた無数の鳥たちが、不気味な鳴き声をあげていっせいに暴れだす。
闇の中、姿のはっきり見えない鳥たち…どうやら家鴨の小屋であったらしい…の羽根に顔を打たれつつ、羽毛と藁の飛び散るなか、趙雲は、立ち止まることなく、駆け出した。
藁葺き屋根が物置部屋の真下であったのは、幸運だった。
落ちた衝撃で足にしびれはあるものの、藁のおかげで、痛みというほどではない。
それまで、趙雲に抱えられるかたちで傍らにいた花安英は、地上につくなり、藁の上に放り投げだされた。
そうして、駆け出した趙雲の背後から、あわてて追いかけてくる。
鳥たちの声に、寝静まっていた奴婢たちが騒ぎ出したのがわかった。
それにしても、どこもかしこも整然として、日常にありふれている醜悪さを、すべて駆逐したような城にあって、趙雲の落ちた庭の有り様は、悲惨であった。
新野にさえ、これほど貧しく、陰鬱な小屋はない。
汚物の臭いが充満している、巨大な豚小屋のような地域であった。
とても人間のあつかいをされている人々の住むところではない。
獣も人も、ここではおなじようにあつかわれているのだ。
真の闇。
そんな言葉が脳裏をかすめた。
どれくらい走ったかわからない。
花の香りを手掛かりにして、趙雲はひたすら駆けた。
うまい具合に、追っ手はかからなかったようだ。
深呼吸すると、あちこちに咲き乱れる花々の、むせかえるような香りが肺を満たす。
花は、肥料がよければよいほど、これほど美しい姿を見せる。
美しくあるために、必要不可欠な肥料そのものは、たいがいが汚物や残飯である。
この世は、美ですら、その出発点は汚濁によって支えられている。
生まれつき無垢で、美しいものなど、存在はしないのだ。
息を整え、ここがどのあたりなのかを、闇に探る。
しかしさっぱりわからない。
「ここは、宴席の広間からすぐそばにあった庭ですよ」
花安英が言う。
趙雲は興味がなさげに振り返った。
「念のため、おまえは自室に戻って、鍵をかけて、今宵はもう部屋を出てはならぬ」
すると、花安英が、髪を乱して、汗を浮かべた、どこか艶っぽい相貌に、険をあらわして言った。
「わたしに命令をするんですか」
「死にたくないだろう」
「わたしは、あなた方を助けるために、蔡一族の秘密を明かした人間ですよ」
「だから何だ。おれはおまえの命の恩人だぞ」
花安英は、闇の中、しばらく沈黙していた。
趙雲としては、花安英はどうでもよい。
ともかく孔明の元へ戻り、ばれてはいないと思うが、孔明が無事であるかを確かめなければならない。
ふと、小さいうめき声が聞こえた。
小僧、どこぞに怪我でもしたのかな、と花安英のほうを見ると、花安英は、肩を震わせて、笑っている。
大笑いしたくなるのを、ぐっとこらえているのであった。
趙雲としては、花安英に、それほど喜ばれるような、面白いことを言った記憶がない。
眉をしかめていると、花安英は、笑いの発作をようやくおさめて、顔をあげた。
「一つお伺いしたいのですが…あの部屋に、わたしを置いてこようとか、一人だけ逃げようとか、そういうことは考えなかったのですか」
「いや」
「なぜです?」
「なぜ、とは面妖な。考えるまでもなく、おまえをあそこに捨て置いたら、まちがいなく斬られていたぞ」
「それだけですか? わたしが蔡瑁に捕まったら、逃げたのがあなただと、すぐに喋ってしまうからではないのですか」
「ああ、そうか。そういう可能性もあったな」
そういって合点をする趙雲であったが、花安英は、しばし沈黙したまま趙雲を見て、それから今度は笑わずに、くるりと背を向ける。
その華奢な背中に、
「言うとおりにしろよ」
と声をかけると、花安英は、無言で振り返ると、さきほどとは、打って変わって、何物をも寄せ付けないような、冷たい顔を見せた。
「わたしは、やっぱりあなたが大嫌いになりました。さようなら。もうこんなふうに、お会いすることはないでしょう」
あまり好いていない相手にでも、やはり嫌い、と面と向かって言われるのは気分のよいものではない。
なんなのだ、と思わずつぶやく趙雲であるが、花安英は、なにもいわず、闇のなか、足下に可憐に咲き乱れる花々を、蹴散らすようにして、去っていった。
※ ※
さわさわと、草原を風が通り過ぎていく。
鏡面のように澄んだ青空に、すこし強い風が絶え間なく駆けていく。
まるで姿のない軍勢が、地平の彼方へと急いでいるようである。
同時に孔明の纏う衣もなびいて、風の形を示していた。
「心地よいな」
すがすがしい空気を味わって、孔明が言うと、傍らの徐庶が、いつものように静かな口調で、そうだな、と同調した。
この兄弟子は、たいがいのことでは、孔明と意見を戦わせたことがない。
「旅にでたいな」
と、草原に座る徐庶の傍らで、草を褥に寝そべっている崔州平が言った。
この言葉にも、徐庶はおだやかに、そうだな、と答える。
孔明、徐庶、崔州平の三人のうち、まとめ役は、いつも徐庶である。
あまり手入れのされていない、無精ひげのぽつぽつと見える顎をさすりながら、徐庶は、風が一気になだれ込むようしてそこにある、地平線のほうを見遣ったまま、言った。
「孔明、おまえはどこに行きたい?」
「どこでもいいよ。徐兄の行くところなら、ついていくよ」
そうか、と短く言って、徐庶は草原に立つ孔明を向いた。
孔明は、それに無言のまま、微笑を返す。
「そうそう、このあいだ、面白い話を仕入れたのだ」
ぽん、と手を打ち、崔州平が起き上がった。
草の上で胡坐をかき、徐庶と、孔明を交互に見る。
「塾の連中が噂をしていたのだが、ここから南へむかったところに、ふしぎな村があるらしい」
「へぇ?」
気のない相槌をうつ孔明に、崔州平が不服そうにつづける。
「そいつは南の親戚の家に行くとちゅうで、ひどい霧に襲われて、道をうしなってしまったそうだ。歩きまわっているうちに、とある村にたどり着いた。これ幸いと道を聞こうとしたのだが、なんとも愛想のない連中ばかりで、声をかけても挨拶どころか、目も合わさずに行ってしまう。
そいつも意地になって、村の中に入りこんで、目につく人間すべてに片っ端から声をかけた。すると、だんだん奇妙なことに気付いた」
「どんな?」
「年寄りがいないのだ。それに家屋もみな新しいものばかりで、裕福な村なのか、村人の纏うものも、山中だというのに白衣(当時、貧しい庶民は、色のついた布を買うことができず、染物のされていない、もっとも安価な布でつくった着物を纏っていた)の者もいない。
さらに村人の、度を越したよそよそしさ。だんだんそいつは恐ろしくなってきた。そこで村を出ようとしたところ、ようやく年のいった男に声をかけられた」
「出てきた男だけが老人だったと?」
「そうらしい。老人はそいつに言った。『どこからどうやってこの村に来たのか』と。霧のせいで道迷ったと説明し、そいつは自分の名前と出自を名乗った。すると、老人は、とたんに難しい顔になって、こう言った。
『麓まで案内して差し上げよう。しかし、こう約束していただきたい。案内人が、よし、というまで、けして振り返ってはなりませぬ。道を覚えようとしてもいけない。もしこのことを守れない、というのであれば、命の保障はいたしかねる』と。
そいつはすっかり恐ろしくなったし、老人が冗談でそんなことを言っているとは思えず、とにかくわかった、というしかなかった。
老人は、言葉どおり、そいつに案内人をつけてやり、言いつけどおり、一目散に前だけをみて霧を進んだ。もっとも、老人の言いつけに逆らおうとしても、ついてきた案内人というのが、一人ではなく複数の、それも身体つきのよい男たちであったから、すこしでもそんな素振りを見せたら、するどく叱られてしまい、それどころじゃなかったそうだがね…まあ、なんとか麓についたときには霧は晴れつつあったが、案内人たちも、いつの間にかどこかへ消えていた。
そいつは家に帰ったあと、地図をひろげて村の所在をたしかめたのだが、どうしてもわからなかった。
そこで、ふたたび村をさがして、近辺を聞きまわったのだが、結局、村を見つけることはできなかった」
「で?」
孔明がうながすと、崔州平は口を尖らせるようにして言った。
「それで終いだ」
「なんだ、つまらぬ。尻切れトンボな話だな」
「お子様だな、おまえは。なぜ村が見つからないのか、なぜ老人がいないのか、なぜ村を隠そうとしているのか、わけがわからぬから気味が悪い。この話はそこを恐ろしがる話だ」
「その、地図にない村を見つけた『そいつ』とやらは、誰のことだ?」
徐庶がたずねると、崔州平は答えた。
「龐統さ。龐士元」
なあんだ、という言葉が、孔明と徐庶の両方の口から、ほぼ同時に出た。
「ホラだろ」
「さすがは龐統。じつに人の気を引く見事な作り話だ。しかも聞き手に余韻を残すこの高度な構成は、瞠目に値するだろう」
「そういう分析をして感心する話ではないのだがな」
親友ふたりの、思った反応が引き出せなかったので、崔州平は不服そうである。そのふくれ面がおもしろくて、孔明は声をたてて笑った。
「亮、叔父上が呼んでおられるぞ」
不意に徐庶にそういわれて、孔明は徐庶が顎で示すほうを見た。
すると、草原のなかにいつの間にか叔父がいた。
大きな切り株を盤の代わりにして、背もたれのない椅子に腰掛け、なにやら腕を組んで考え込んでいる。
ああ、そうか。これは夢なのだな。
徐庶が叔父上を知っているはずがないし、ましてわたしを『亮』などと呼ぶはずがないのだから。
孔明は、草原をかきわけるようにして進んだ。
さわさわと風が草原を駆ける音が心地よい。後れ毛が顔にかかるのを避けながら、孔明は叔父に近づいた。
切り株は、巨大な象棋盤であった。叔父は、相手のない象棋盤の前で、気むずかしい顔をしている。
孔明は、象棋が得意だ。
碁よりも好きなほどである。
考え込む叔父の傍らで、同じように盤を覗き込む。
すると、並べられた駒のひとつひとつが、なにかを喋っていることに気がついた。
「まとまらぬ」
と、玄は言った。
孔明が傍らにいることも気付いていない、真剣な顔をしていた。
「まとまるはずがない」
玄が気にしている駒は、『馬』であった。
一緒になって覗き込む孔明に、玄は象棋を覗き込んだまま、無造作に『馬』を取り出すと、孔明に渡した。
『馬』はふるふると震えて、耳を寄せると、辛うじて聞こえるような声で、こんなことを言っていた。
「帥を取れ、将を守るのだ…でも本当はそんなことをしたくない…裏切り者…将を取れ、帥を取れ」
「これでは『馬』になりませぬ」
「むかしは実によい『馬』であった。だが、それも将が健在であれば、の話だ。将の目が届かなくなり、『馬』はおのれで行動するようになった。
当初は忠義の心ゆえであっただろう。だが、将にとっては不幸なことに、『馬』は聡明でありすぎた。気付いてしまったのだよ、おのれがもはや、将の力を借りなくても、独自に道を拓けるということに。
そもそも、将はまちがえていた。『馬』なぞ必要なかったのだ」
「しかし叔父上、『馬』は駒のなかでも、もっとも機動力を誇ります。馬がなければ勝負に負けてしまうでしょう」
「すべてのものには裏と表がある。よくごらん」
と、玄が言うままに、孔明がじっとおのれの掌を見つめていると、ぶるぶると駒が震えだし、やがて、蝉が空を破るように、まったくおなじ形の駒が、元の駒からあらわれた。
「それは『馬』であるが、もはや昔の『馬』ではない」
「では、何者になったのでありましょう?」
「亮」
「はい」
玄ははじめて、孔明のほうを向いた。
懐かしさはなかった。
それは、日々、欠かすことなく思い出していた男の顔そのものであったから。
「糜竺も黄家も、お前に伝える言葉をまちがえている。仇讐は壷中にあるわけではない」
「では、いずれに?」
「この世のありとあらゆるところに。光と呼ばれる物のなかにも、それはある。戦えるか」
「戦う?」
「剣を手に、敵をなぎ倒すばかりが戦ではない。おまえの戦いは困難なものとなるだろう。
だが、おまえには戦えるだけの力がある。そうなるように育てた」
気付くと、盤の上の駒は、玄の目の前にある『帥』ひとつとなり、その反対側の、だれもいない側には、将のほかに、士・象・車・卒・砲のすべてが、そればかりか、味方であるはずの兵や、相までもが敵方に回っている。
さすがにこれでは勝ちようがない。
「おまえの相手とは、こういう者だ。勝ち目はない。それでもあえて儂は言う。戦え」
「ですが…」
「怖じるな。おまえの字に『孔明』を選んだのは伊達ではない。ときには過剰なまでに光り輝き、闇を駆逐するように…その思いで、兄上と儂とで名づけた字だ。
おまえはきっと、その通りの男になる。すでに戦の火蓋は切って落とされておる。戦って、きっと勝て。すべての絶望を断ち切るのだ」
風に乗るようにして、崔州平と徐庶の会話が聞こえてきた。
「どうして信じないのかわからぬな。おれはお前の親友ではなかったか。その村の名前だけはわかっているのだ。探してみるといい」
崔州平は、与太話を、おもしろおかしく広めて楽しむような趣味を持つ男ではない。
普段は大人しく、おだやかで、徐庶や孔明をだまって見守っているようなところがある。
それが、この話に関しては、ヤケに熱心ではないか。
「おまえを疑うわけではないが、出来すぎた話だと思ったのでな。では教えてくれ」
「ようし、それでは教えてやろう。けっして忘れるなよ。村の名は」
「壷中という」
※ ※
糸がぷつりと切れるように、夢は途切れて、孔明は寝台のうえで、現実に目が覚めた。
見慣れぬ天井が目の前にある。
村の名は、壷中。
龐統が、霧の中、迷い込んだという村の名前。
その話自体は夢ではない。
五年ほど前に、実際にこんな会話をしたのを記憶している。
まだ徐庶が劉備の軍師になる前の話だ。
忘れていたのは、崔州平や徐庶とつらい別れをしたばかりで、楽しい思い出でも、無意識に思い出すことを避けていたからだ。
地図にない村。老人のいない村…すなわち?
「何者ぞ!」
部屋の隅にうごめく闇に気付き、孔明は起き上がると、鋭く誰何した。
闇に目が慣れてくると、その輪郭が、見慣れたものであることに気がつく。趙雲であった。
孔明があきれて、
「なにをしている」
と、たずねると、趙雲は立ち上がり、気まずそうに言った。
「道に迷って、おれの部屋がどこだかわからなくなった」
「…隣だ」
孔明がそう言うと、趙雲は顔をしかめた。
この男、たまに間抜けな間違いをするのであるが、それを指摘すると、照れ隠しに、かえって怖い顔をする癖がある。
ふと、趙雲が、おのれの左肘を、庇うようにしているのに気付いた。それどころか、よくよく見ると、衣のあちこちが擦り切れ、泥だらけである。
返り血らしきものがないところを見ると、大立ち回りをした、というわけではなさそうであるが…
「いまどれくらいであろう?」
「さあな。実はさきほど、すこしそこを借りて、転寝をしていた。もう明け方に近いかも知れぬ」
「野戦中でもあるまいに、筋を痛めるぞ。一緒に寝るか?」
「…聞かなかったことにしておく」
孔明は、べつに冗談で言ったわけではない。
趙雲は武将である。武将の身体は、いわば武器と同等である。
武器を傷めては戦にならない。
その考えから出た言葉であった。
賓客用の寝台は、諸葛家の姉弟みんなが寝そべることができるくらい、大きくて立派なものであったし、男同士で同衾するといっても、男と女とはわけが違うのであるから、妙に構える必要もないわけだ。
むかし、なにか嫌なことでもあったのかな、と邪推を浮かべつつ、孔明はとりあえずおのれの言葉をひっこめた。
「肘をどうした」
ああ、と趙雲は言って、自分の左肘を見せた。
無造作にではあるが、応急処置として、肘に布が巻かれている。
そこからは、じわりと血がにじみ出ていた。
「どこかで切ったようだが、たいしたことはない。ここに来るまで気付かなかったほどだからな」
と、そこまで言って、趙雲は恐ろしげな顔をして沈黙する。
孔明がつづきを促すように首をかしげると、趙雲はぼそりと、つぶやくように言った。
「知らぬうちに、そこまで緊張していた、ということなのだ」
「意味がよくわからぬ」
「おれは根っからの武人らしいな。むかしは、ある男にそこを嫌われたので、どこかでそれを恥じていたが、いまはこの性質に感謝している。『壷中』というものが、なんとなく、わかってきたぞ」
「そうか、実は、わたしも思い出したことがある」
そうして孔明は、自分の見た夢を趙雲に話して聞かせた。
※ ※
「あら、目が覚めたのね」
耳慣れない女の声がして、朱季南は目を開いたが、同時に、曙光に目を焼かれ、何度かまばたきをした。
安い白粉のにおいがする。
同時に、複数の、耳にさやかな衣擦れ。
いままで、自分が、闇の中でもがいていた、というほかは、はっきりした記憶を持っていない朱季南は、頭痛に悩まされながらも、なんとか身体を起こそうとした。
すると、さきほどとおなじ女の声が、それを制する。
「まだ休んでいたほうがいいわよ、阿片でしょ、それ」
と、慣れた風に言われ、そのどこか投げやりな口調が、かえって朱季南を落ち着かせた。
「女老師に薬をもらってくるから、それまでおとなしくしていて頂戴」
女が、傍らを去っていったのがわかる。
朱季南は、首を動かして女のほうを見た。
ちょうど、女が部屋を出て行くうしろ姿だけが見えた。
派手なばかりで、安っぽい、朝陽のもとでは、その艶姿がかえって哀れをさそう、妓楼にはありふれた、娼妓のうしろ姿であった。
さほど若くないな、と、意識が明確になるのと同時に、ひどくなっていく頭痛をこらえながら、朱季南は思った。
どこぞの楼閣の一部屋らしい。
朝のさわやかな冷気が、さんさんと日のこぼれる窓から入ってきて、熱を帯びた季南の身体をなぐさめる。
朝陽が昇りきるのと同時に、町の人々が動き出した気配を、空気でつたわるざわめきで感じ取る。
大都市である許都とくらべると、新野のざわめきはささやかだ。
しかし、風狗を探すために、夜になると目覚め、朝になると眠る、といった生活を繰り返してきた朱季南にとっては、朝陽を全身に受けて目が覚める、というのは、ひさしぶりであった。
そうして、おれは、新野にいるのだな、と記憶をよみがえらせる。
なぜ、ここにいるのかは、わからない。
たしか、数日前に風狗と接触して、趙雲と再会し…そこからが怪しい。
かなり阿片を呑んだからだ。
趙雲と再会したあと、朱季南は、どうしてもいたたまれなくなった。
自分とて、曹操のもとではたらく官吏として、風狗を追っている。
その地位自体は、恥じるものではない。
だが、趙雲の、ほとんど変わらぬ完璧に鍛えこまれた体つきや、その颯爽とした雰囲気にあてられ、季南は、必要以上に、引け目を感じていた。
趙雲とはほぼ同年であるが、季南にくらべて、趙雲は昔のすがたをそのまま留めており、万人に早々とおとずれる、老いの兆しがどこにもなかった。
三十を過ぎたあたりから、季南は、いかに鍛えようと、おのれの身体の変化に気付かざるを得なかったのだが、趙雲は、そんな苦しみから解放されているように見える。
朱季南は、これ以上趙雲のことを、考えまい、として目を閉じた。
そうでなければ、おのれをとことんまで卑しめ、冷めた嘲笑のなかに突き落としてしまいそうであった。
耐えられなくなると、薬がほしくなる。
完璧というものは、理想のように見えるが、実はそうでもなく、ひどく許容範囲のせまいものなのだな、と朱季南は、そんなことも考えた。
「また寝ている」
と、さきほどとは違う女の声がした。
複数の衣擦れの音がする。
部屋に、数人の女が入ってきたようだ。足音の軽さでわかる。
「さっきは起きていたのですけれど」
これは、季南が目を覚ましたときに、かたわらにいた女である。
女の口調に、なつかしい北方の訛りがあることに、季南ははじめて気がついた。
「なにか、言っていなかったか?」
「うなり声しかわかりませんでした」
「寝ずの番になってしまったね、ここは私が引き取ろう」
「いいんですよ、老師、嫌な客のいびきを聞かされるよりはマシでしたから」
女は気だるそうに言って、部屋を出て行ったようだ。
もうすこし、その声(正確には話し方、であったが)を聞いていたい、と思った季南は、女が去ってしまうのを惜しみつつ、寝入ったふりをしながら、心だけで女を送った。
さて、と女老師の声がする。
こちらも、先刻の女同様に、ずいぶん乗り気の無い声である。
薄目を開けると、女のぼんやりした姿が見えた。それほど年ではない。
「ところで、薬の時間なのだがね、狸寝入りはやめて、目を覚ましたらどうだね」
その声に反応するように、起き上がろうとすると、頭を鉄の板でぶん殴られたような、はげしい痛みが起こった。
あまりの衝撃に、ふたたび床に横になる。
「無理をするな。かなり強い薬を使ったから、副作用がきているはずだ」
あまりの頭痛に涙が出てきた。涙でにじんだ目で見ると、女はてきぱきと薬湯を用意している様子である。
いかにも苦そうな、くすりの臭いがしている。
「おれに」
おれになにをする、と言いたかったのであるが、言葉を出すために息を吸っただけで、すぐさまそれが頭の痛みに変わった。
「あまりよい生活をしていないようだが、ある程度は鍛えていたおかげで、阿片が抜けるのが早い。昔の自分に感謝するのだな」
女は恩着せがましく言うでもなし、ただ淡々とことばをつむぐ。
「先に言っておくが、目から入る光でさえ、いまのおまえには痛みなるはずだ。ひと呼吸するのでさえ、苦しいだろう。薬を飲んでも、その症状はしばらく続く。薬に逃げた、いまの自分をたっぷり恨むのだな」
「おまえに、なにがわかる」
掠れた声が、乾いた唇から絞りだされた。
自分の声が、頭蓋骨のなかで反響して、それがまた痛みに変わる。
なんとも厄介であるが、季南は、どうしてもそれだけは言いたかった。
こんな見も知らぬ女に、反省しろ、と言われて素直に頷けるわけがない。
まして、なにも事情を知らないのであるから。
「わたしには、おまえが薬に逃げた、ということしかわからぬ。だから叱った。叱られたくなければ、もう阿片などに手を出すな。
あれは、一時はよい逃げ場所を作ってくれるけれど、いつのまにか、未来につづくすべての道を閉ざしてしまう恐ろしい薬だ。死にたいのならばべつだが」
季南は黙った。
女の言葉がもっともだった、というのもあるが、女の言葉が文字通り耳に痛かった…女の声自体が、耳に入った時点で痛みに変わってしまうからである。
女はそれをどう取ったか、つづけた。
「安心するがいい。わたしはあまり人にあれこれ事情を聞くのが得意ではない。しかし出来るだけの治療はしてやる。ただし、生きる気があるならば、だが」
「ふざけるな、このアマ、だれが、死ぬか」
季南が悪態をついても、女はやはり淡々と答えた。
「それならばよい。わたしを頼みにしている妓女はたくさんいるので、おまえひとりに早々、時間を割いていられないのだ。
おまえが薬を飲んだなら、これから堕胎の手伝いだ。今日は三件も頼まれていていそがしい」
女は愚痴るのであるが、その愚痴さえも、単調で、感情らしきものを伺うことができない。
「それといっておくが、ちゃんと回復するまで、武器は預かっておくぞ」
「なんだと」
今度こそ、朱季南は起き上がった。
武器を取られたなど、命を取られたとおなじ位の意味を持つ。
まして武人で、単身、劉備という曹操の敵陣のなかにいる朱季南にとって、武器を取られたことは重い。
そうして、朱季南は、はじめて目の前にいる女をまともに見た。
まずは、ひどく白い肌が目に焼きついた。
白い、というよりは青白い。
男物の衣裳をまとっているのは、女医師という立場上のことなのであろうが、もし声を聞いていなければ、女みたいな男、と勘違いしたかもしれない。
顔立ちはまずくない。いや、美貌と形容してもわるくはない。
だが、問題はその表情のなさであった。
等身大のよくできた陶器の人形が、人の言葉をしゃべっている。
そんな印象がある。
それに加えて、女は、女とは思えないほどに背が高かった。
座っていても、その大柄なのがよくわかる。
「すこし加減がよくなったからといって、暴れられたら迷惑だから、預からせてもらった。おまえがわたしのことを知らぬように、わたしもお前のひととなりがよくわからないのでね」
「おれを知っているのか」
「陳叔至が探している、朱季南というのはおまえのことだろう」
「そんなにおおっぴらに探しているのか」
「いいや。わたしの耳が普通の人間よりも大きくて聞こえがよいだけだ。見た目ほどに莫迦ではないようだからこれも言っておく。
たとえ逃げるためにしても、ここで暴れたらすぐに騒ぎになって、新野中にあふれている兵士たちに追いまわされることになるぞ。だから、おとなしくしているがいい」
「兵士? おれを探しているのか」
「おまえではない。徴兵といつわって、村々から子供たちを攫っていった人買いを探しているのだ。
陣頭指揮を執っているのが張飛将軍だから、下手すると、見つかれば死ぬぞ、曹操の役人」」
それは確実なところだろう。
「おれの名は朱季南だ」
「そうか…ならばわたしも名乗ろう。嫦娥(じょうが)だ」
ずいぶんな名前だな、と朱季南は頭痛もわすれて眉をしかめた。顔の筋肉を動かしたことで、内壁を針でつついたような痛みに襲われ、ふたたび床に倒れるように横になる。
嫦娥…つまりは月の仙女である。たしかに青白いその肌の色合いは、雪原で見あげた月に似ている。
季南が黙ると、女は薬湯を差し出してきた。
臭いを嗅いだだけで、胸が苦みでいっぱいになる。
「呑んでおけ。早く動けるようにな」
意外なことばに、朱季南はたずねた。
「おまえ、なぜ?」
すると女は、やはりまったく表情を動かさずに、当然だ、といわんばかりに言い切った。
「おまえが必要だからだ」
季南はわけがわからなかったが、命を取るつもりならば、こちらの正体を知りながら、助けはしなかっただろう、と判断して、薬湯を飲んだ。
そうして、『女老師』と呼ばれる嫦娥とやらが、なぜ自分を助けようとするのか、なぜ必要なのか、考えたが、痛みが激しくなってきたのもあり、答えを出すことが出来なかった。
※ ※
趙雲がふと目を開くと、机に突っ伏すようにして、眠っている孔明の姿が見えた。
朝陽が完全に顔を出している頃であるのに、消しわすれた蝋燭が、まだ炎を灯していた。
蝋燭を消し、孔明の肩に、上衣を羽織らせる。
ちょうど横顔だけをこちらに見せているのであるが、こんなふうに無防備に眠っている顔を見るのは、初めてであったので、なにやら知らない別の人間の寝顔を見ているような、錯覚をおぼえる。
言葉と表情を取り去った孔明の顔、というのは、見事なまでに作りこまれた、男とも女ともとれない、仮面のようであった。
たしかに男である(咽喉元を見ればわかる)けれど、その描く線はなめらかで、骨っぽさがない。
花安英もたしかにきれいな少年であったが、これほどではなかった。
この世の中に、こんな顔も存在するのかと不思議に思うほど、性の特徴がすくないのである。
うちの主公が山奥から連れてきたこの軍師は、その容姿からして、やはり尋常な人物ではない。
思わず、趙雲は自分の顎をさすってみた。無精ひげがぽつぽつと生えてきている。
顔を洗ったなら、ちゃんと手入れをしなければと、ぼんやり考えていると、孔明がゆっくり起き上がった。
そうして寝ぼけ眼をこすりつつ、むにゃむにゃと、めずらしく明瞭でない口調で言う。
「人の寝顔を観察するのが趣味なのか」
「起きていたのか」
「頭は起きていたが、身体がついてこなかった。朝は苦手だ」
「起きています、くらい言ってくれ。起きていると知っていれば、じろじろ見たりしなかった」
「起きています。おはよう、子龍。ちゃんと寝たのか」
「…おはよう。すこしは眠れた」
「それはよかった、わたしは首が痛い」
変な姿勢で居眠りをしていたので、それが首にきた様子である。
孔明は、まだぼんやりした顔をして、首と肩をまわしている。
しかし、ちょっとした油断で、ふたたび机に突っ伏してしまいそうだ。
孔明は、あまり身体が丈夫ではない。
趙雲は、戦場暮らしが長かったため、短いあいだに、どんな姿勢でも、十分な休息を得られるように身体ができているし、そのコツも知っている。しかし、孔明は、つい最近まで、太陽とともに眠り、太陽と共に起きる、といった健康的な生活をしてきた人間である。新野城に入ってからの不規則な生活は、身体のあちこちに影響を及ぼしているようであった。
「軍師、おはようございます、起きてらっしゃいますか」
てっきり、孔明の部屋に最初にやってくるのは、樊城の下女あたりであろうと思っていた趙雲であるが、意外にも、一番乗りは伊籍であった。
その声に、孔明は完全に目を覚ましたようである。
「着替えてない」
と、いいざま、蜜蜂なみの速さでもって顔を洗い、衝立の向こうでてきぱきと衣を替えて、髪をきれいにととのえる。
その、けして不様な格好を人様には見せまい、という意地からくる、手際のよさと素早さは、傍から見ている趙雲には、見世物よりもおもしろかった。
そうして、伊籍を迎えるために、部屋の扉を開けるころには、いつもの、身奇麗で華やかな軍師の姿がそこにあった。
「おや、趙将軍までこちらにいらしたのですか」
と、孔明の部屋を訪れた伊籍は、趙雲の姿を見て言った。
「じつによい朝でございますな。おふたりとも、若いだけあって今日も颯爽としてらっしゃる」
伊籍は上手を言うと、かかか、と笑うのであるが、対する伊籍は、ほとんど寝ていないのであろう。
目の下にはクマ。充血した目、ところどころ藁のようにほつれた髪、よれた衣、そこはかとなく、汗臭さがただよう風体…と、樊城の人間らしからぬ姿である。
「如何なされましたか」
そのだらしの無い風体に、おどろいて孔明が声をかけると、伊籍は、にっこりと太陽のごとく明るい笑みを見せた。
「今日の伊籍は、一味ちがいますぞ」
「はあ」
「軍師、わたくしは一晩中、考えました。なぜに、あなたさまが劉公子のお力になってくださらないのか、と。
そうして、わかったのでございます。協力っぷりが足りない、ということに」
「協力…ぷり?」
伊籍は、やつれた顔に、妙にぎらぎら輝いた笑顔で言う。
「左様。将を射んとすれば、まず馬を射よ! つまりですな、斐仁のことについて、軍師にご協力をさせていただき、軍師にも、劉公子へお力添えをしていただこう、と」
はあ、と孔明は生返事しつつ、困ったような顔をする。
「しかし、それは劉公子のご意向ではないのでしょう?」
「劉公子の考えは伊籍の考え、伊籍の考えは劉公子の考えでございます」
「ならば、なぜ劉公子はみずから口を開かれませぬ」
「すでにわたくしが口を開いておりますので、もう付け加えることはない、と思っていらっしゃるのです。
奥ゆかしいお方ですので、代わりにわたくしがしゃべっております」
「ですが、わたしは、劉公子が自ら考え、発せられるお言葉を聞きたいのです」
「もちろんですとも。そこで、劉公子に軍師のお言葉を伝えましたところ、それはいかんとおっしゃいまして、今朝は軍師を待って書庫にいらっしゃいます」
「書庫? なにゆえ、書庫に?」
「斐仁を最初に捕らえたときに、とった調書を軍師にお見せしたく、劉公子、御自らが待っておいでなのです」
孔明は、趙雲のほうに顔を向けた。
無言のまま、その顔は、どう思うか? とたずねている。
趙雲は深く肯いた。
罠とは思えない。
伊籍になにか思惑があるにしろ、こちらは、いまは受身に回っている一方なのだ。
罠だとしても、それに乗って現状を打開するのも悪くはない。
趙雲は、おのれの目の届くところにいるかぎり、孔明を守りきれる自信があった。
趙雲の肯きに、孔明は軽く肯くと、伊籍に顔を戻した。
「わかり申した。うかがいましょう。ただし、子龍も共に連れてゆくことをお許しください」
「おお、それはありがたい。では、早速参りましょう。劉公子が首を長くして待っておられますぞ」