孤月的陣
第三章 ハナ 花
②
いままでであれば、
「いやです」
「そうですか」
で、終わるはずの劉琦と孔明の対話であるが、その日に限っては、孔明はずいぶん苦労しているようであった。
劉琦の腹心たちの声にまざって、たまに、孔明の声が高くなるのが、部屋の外からもわかる。
伊籍と劉琦はがっちり組んで、なんとか孔明から良案を授かりたい様子である。
趙雲は中庭をぐるりと囲む廊下の一角で、孔明が出てくるのを待っていた。
馥郁とした花の香りの耐えない場所である。
庭いっぱいに、カラタチの白い花弁から放たれる香りが充満し、それに競うかのように、百日紅や葵のうす紅色の花弁が咲き乱れている。
そして、虹色の魚の尾びれのように、領巾をなびかせて、鏡面のように掃き清められた廊下をあるく女人たちの優雅なこと。
笑いさざめきとおり行く女たちが、廊下にぽつんと佇む趙雲のほうをちらりと見て、どこか思わせぶりな笑みを向けて、去っていく。
竹簡をかかえて忙しそうにしている文官なども、趙雲と目が合うと、にっこり笑って、会釈をしてくれる。
たしかに、樊城にはじめて訪れた者ならば、このうえなく優雅で清らかで感じのよいこの城の様子に、感激するであろう。
ただし、その者が文官で、それなりに身分があれば、だが。
趙雲が、はじめて劉備の伴として樊城にやってきたときのことである。
そのときは、劉備の主騎としてであったので、当然のことながら、鎖帷子の上より衣を羽織り、片肌を脱ぐ、という勇ましい武官装束であった。
樊城がどれだけ素晴らしい土地であるか…儒学者たちの華胥の国、漢帝国の最後の良心、などと評されているのは、人づてに何度も聞いていたので、それなりに期待してきたのだった。
ところが、樊城の連中と来たら、どいつもこいつも、木で鼻をくくったような態度でもって劉備と趙雲に接した。
とりあえず歓迎の宴などを用意してくれるものの、言葉や態度の端々に、底意地の悪さ、冷たさが見え隠れしており、しかもあきれたことに、当人たちは、劉備や趙雲が、それに気付かないだろう、と思い込んでいるのである。
これで相手が武人であれば、ぽかりと殴って礼儀作法のなんとやらを説明してやるところであるが、相手は文人で、たいがいが豪族出で、仰々しい来歴を持っており、
くわえて、劉備は樊城の主の厚意でもって、居候を決め込んでいる身分なのである。
かれらのさまざまな侮辱にも、劉備がなんの反応も示していない以上、趙雲としても、おとなしくしているほかにない。
そうして華やかな宴のなか、雪つぶてのような嫌味や、あてこすりをぶつけられながら、じっと我慢をしているうちに、話が葬式での礼儀作法の話になった。最近、彼らの仲間内のひとりが亡くなったという。
しかし、彼らが語るのは、故人のよき思い出といった類のものではなく、葬儀での、遺族の態度の云々であった。
泣き方が足りない、顔色が良すぎる、棺に対しての敬意がいまひとつ、等々。
そのなかで、劉備や趙雲が無抵抗であるのに図に乗ったひとりが、傍らで黙っていた趙雲に水を向けた。
「貴殿はどう思われますかな。やはり立派な葬儀は故人にもっとも花を贈るもの。遺族はそのために常日頃から儀礼(ぎらい)に通じていなければなりませぬ。ちょっとしたことで、出自のわるさや、学の足りなさが露呈して、恥をかくことになりましょうからな」
儀礼、とは、儒学の教本のひとつであり、冠婚葬祭のあれこれについて、こまかく記載された決まりごとの教本である。
趙雲は答えた。
「しかし、真の衷心というものは、形ばかりを整えた葬儀の立派さにのみ表れる、というわけではないでしょう。
それがしなどは戦場で多くの死を見、実際に多くの葬儀に立会いましたが、儀礼など知らぬ無学な民たちの、貧しいながらも心づくしの葬儀には、いつも心打たれるものがございます」
すると、相手は呵呵大笑し、なんとも臓腑が一気に冷えるのではないか、というくらいに、意地の悪い笑みを向けてきた。
「そのようなものに感激できるとは、無学というものはありがたいものですな。知らなければ、そもそも恥を知覚する、ということもない。学は身を助く、とも言う。
勉強をなさい、趙将軍。せめて儀礼は暗誦できるくらいでないといけませぬ。無理とは思いますが、暗誦ができるようになったなら、わたくしが聞いてさしあげましょう。まあ、わたくしが墓に入らぬ前にぜひお願いしたいものですが。
墓の前で儀礼を暗誦されても、こちらはすでに物言えぬ身、貴殿のまちがいを指摘することもできなくなってしまいますからな」
それを聞くと、満座の連中は、まったくだ、と同調して、仲間内では気の利いた冗談に分類されるらしい、ながい嫌味によろこんで、大笑いをした。
趙雲は、腹を立てた。
あんまり腹を立てたので…ここで並みの武人ならば、卓を蹴り飛ばして剣を抜き、貴様、そこに直れ、となるのであるが…それでは、と言って、やおら立ち上がると、なにごとか、と怪訝そうにする一同の顔を見回し、
「たしかにそれがしは無学な武骨者でございますゆえ、ご一同にわが記憶に誤りがないかどうかご確認ねがいたい」
それから『儀礼(ぎらい)』の士葬礼編を一言一句、完璧に暗誦してみせた。
すると場は一気にしん、となり、喧嘩を売ってきた男は目を伏せ、宴が終わるまで、趙雲と目を合わせなかった。
その場にいた文官たちは、趙雲が常山真定の名家の出である、ということはぼんやり知覚していたのだが、劉備(のような居候『ごとき』)に仕える程度の人間であるから、書物には触れたこともないだろう、辛うじて読めるのは敵方の旗印だけにちがいない、とタカをくくっていたのだ。
どっこい、趙雲は並みの豪族の子弟よりも、よっぽどきびしく教育されたので、暗誦くらいは朝飯前なのであった。
趙雲は、とてもよい気分であった。
もちろん、顔には出さなかったけれども。
鼻持ちならない儒子の高慢ちきな鼻柱を、そちらが得意であるはずの儒学でもってぺちゃんこにしてやれたのである。
ところが、新野へ帰る道中で、劉備にこってり絞られた。
「おまえの頭のいいのは、おれはよーく知っている。だが、あれは不味い。おまえのよいところは頭のよいところだが、わるいところは頭がよいのが災いして、相手を徹底的にやり込めてしまうところだ。
ああいう喧嘩をするときはな、相手にちょっとでも逃げ道を作ってやるのが、ほんとうに賢いやり方、ってもんだ。ぐうの音も言わさずにこてんぱんにやっつけてしまったはいいが、あの男は、これでおまえをけして許さないだろう。
おまえがやったのは、敵を増やしたことと、自分が狭量だっていうのをあそこにいた人間に喧伝したことだけだ」
てっきり、よくやった、胸がすいた、と誉めてもらえるかと思っていただけに、趙雲はがっかりした。
もちろん、劉備の言葉は正しいし、親身なものであるから、叱られたこと事態は不快ではない。
それもこれも、樊城の人間がいけすかない連中ばかり、というのが問題なのだ。
以来、趙雲は樊城が大嫌いになった。
もしこんなことにならねば、趙雲は、嫌な思い出のある樊城に、みずから進んで足を踏み入れることはなかっただろう。
劉琦と伊籍は孔明にまかせ、いますぐにでも斐仁のつながれている牢屋に飛んでゆき、どういうことなのかと、問いただしたい。
時間がたつにつれ、焦れてきた。
気を落ち着かせるために、軽く息を整える。
問題なのは、斐仁がしでかしたことにより、孔明と自分にお家騒動の絡んだ疑惑が向けられていることだけではない。
樊城を中心に、得体の知れぬ『壷中』という組織が暗躍している。そいつらの狙いがなんであるのかはわからない。
いま、自分たちは罠にかけられた獣と一緒なのだ。
焦ってもがけば、もがくほどに逃れられなくなる。
「暇そうですね」
と、趙雲の心を見透かしたような言葉が、背後からかけられた。
振り向くと、花安英であった。劉琦の学友のひとりで、画才の持ち主という美貌の少年である。
花安英は、まだ完全に育ちきっていないしなやかな身体を、優雅な足取りで運んで、趙雲のところにまでやってきた。
香り袋でも携帯しているのか、花安英が近づくと、なんともいえない甘い香りが鼻腔をくすぐった。
小柄で華奢な体つきをしており、冠がちょうど趙雲の鼻のあたりにある。見下ろすと、その目を縁どる長く濃い睫毛の下の、黒目がちの瞳と目が合った。
この睫毛、楊枝が何本乗るだろう、などと色気のないことを考えていると、花安英は、にっこりと笑った。
おのれの笑顔の威力を十分に自覚している、慣れた笑い方である。
「なにか用か」
趙雲が問うと、花安英は、その素っ気ない反応に、かえってうろたえたようであった。
そうして、趙雲は気付いた。
なんだか、妙に近くに来ていないか。
「とりたてて用ということもありませんが、暇なら、すこしお話しませんか。わたしも退屈していたので」
樊城の人間の基準での、気の利いた会話なんぞしたくない。
それに孔明を守らねばならない。気が散る。
趙雲は早々にこの少年を追っ払うことにした。
「暇に見えるかも知れぬが、忙しい。放っておいてくれ」
だが、花安英はころころと鈴が鳴るような声で笑い、孔明と劉琦たちがいまも喧々諤々としている部屋のほうを見て言った。
「劉予州の軍師を待っているのでしょう? あのひとには、何度か会ったことがありますよ。なんだかお高い感じの人ですよね。
ああいう人が、新野でどれだけやっていけるのかと、みんなで話をしていたんですよ。でも、こうやって、あの頭の固いじいさんたちを向こうにまわして、嵐みたいに引っ掻き回しているのを見るのは愉快ですけれどね。
それにしても現金なものですよね、そうは思いませんか?」
「なにがだ?」
「だって、みんな、いままでさんざん、あのひとのことを琅邪のよそ者だと言ってのけ者にしたり、馬鹿にしたりしてきたのに、ここへ来て急に掌を返したように、策に縋ろうって考えているんですよ。おかしいでしょう?
まあ、でもいろいろな意味で残酷じゃありませんか。じいさん連中は、やっとあの人のことを認めたのじゃない。彼らはね、この期に及んでもまだ、出身を同じくする豪族仲間を謀殺することにどこかためらいがあるのですよ。
でも、あの人はあくまでよそ者だから、自分立ち寄りはためらいがなく、蔡家を始末できるだろうと期待しているのです。あの人が、みんなに持ち上げられて、そのあたり、勘違いしないといいなあ」
「…それくらい、見破れない男ではない」
「そうかなあ、いままで冷遇されてきた人間は、賞賛に飢えているものじゃないですか。見ものだな、どんな策を授けるつもりかしら」
仲間がひとり、非業の死を遂げたというのに、ずいぶん朗らかなものだな、と趙雲はいぶかしんだ。
それを読んだのか、花安英は自嘲気味に笑う。
「程子聞が暗殺されたっていうのに、よく笑っていられるな、と思っているのでしょう?」
とりあえず礼儀上、そんなことはない、と言おうとした趙雲であるが、花安英は、声をたてて笑うと、口を開きかけた趙雲の唇に指先を軽く置いて、黙っているようにと告げた。
「無理して否定しないでください、虚しくなるし、あなただって、心にもないことを言いたくはないでしょう? いいんですよ。わたしの仕事は、こうして笑顔を振りまいて、いろんな人の慰めとなることなのです」
糜芳が出奔してから、空前絶後の人手不足となっている新野では、考えられない存在である。
新野では、老若男女すべてがなんらかの仕事を割り振られてはたらいている。
仕事をしなくてもよいのは乳飲み子くらいのものだ。
それも樊城の豊かさゆえなのか。
趙雲としては、理解できない感覚ではある。
「つまり暇なのはおまえのほう、というわけか。残念だが、おれは暇つぶしには向いていない。ほかの、慰めてほしそうな奴のところへ行ってくれ」
「そんなの、こっちが退屈してしまいます。めずらしい方とお話したほうが楽しいじゃありませんか。あなたにだって、有益だと思いますよ。
わたしはね、こう見えても、各地を放浪していたので、見聞も広いんです」
「おれも負けず劣らず見聞が広い。間に合っている」
「面白い人だなあ。ねえ、新野ってどんなところです? みんな、あなたみたいに面白い人ばかりなの?」
「見聞が広い、というわりに、近くの新野のことも知らないのか」
「だって、新野って野獣の巣窟って聞きましたけれど。だから怖くって」
あるまじき馴れ馴れしさ、なのであるが、それが鼻につかないあたり、この少年のが、いかに樊城でもてはやされているかがわかる。
相手の呼吸を読むのがたくみなのだ。
年の頃は十五、六だろうか。その美貌を描く輪郭はまだ柔らかく、中性的である。荊州の片田舎にはもったいないほどの、華やかさと愛嬌にめぐまれた少年であった。
それを本人もよくわかっていて、遺憾なく実力を発揮しているものだから、ふつうであれば、男も女も関係なく、花安英の虜になるだろう。
しかし、新野にて、野獣の群をなす一匹である趙雲は、こんな痩せっぽちで口ばっかりの子どもに興味はない。
どうしたらこの少年をへこませて、追い払うことができるだろうかと真剣に考え始めた。
「あの嫌われ者さんは、新野でどんなふうなんです?」
「嫌われ者というのは、うちの軍師のことか?」
「『うちの軍師』か! へぇ、意外とうまくやっているのですね。白状すると、わたし、あの人のこと、大嫌いなんです」
にこにこと、花がこぼれるような笑みを浮かべつつ、花安英は毒を吐く。
「軍師はおまえになにかしたのか?」
「べつに。ただ気に食わないってだけ。あの人は、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしているじゃないですか。なんでもこの城で叔父君を刺客に殺された、という話ですけれど、こんな世の中ですから、そういう思い出は誰にだってあるのじゃないですか?
あの辛気臭い顔を見ていると、自分ばっかりが不幸を一身に背負い込んでいるように見えて腹が立つんです。もっとひどい目に遭ってきた人間だっていますよ。それこそ、星の数ほどね」
言いつつ、花安英は距離を詰めてきた、と思ったら、ぴたりと趙雲の腕に身を寄せてきた。
儒教において、男女の交歓についての規則はきびしい。しかし、人間は赤ん坊の頃から、なにかしら人のぬくもりというものを求めるものであり、中には、特に人肌を求める傾向がつよい者もいる。
そういった者が、この慣習だ、典礼だ、作法だとがんじがらめになっている社会で、どうその欲求を解決させるか、というと、うるわしい友情という名目でもって、同性にやたらとひっつくのである。
例を挙げるとしたら、某ヒゲの三人組である。
二人が仲がよいと、残された一人は仲間外れにされたと拗ね、そこで今度は拗ねたほうと仲良くすると、あぶれることになったもう一人が、そいつばかり贔屓にすると怒る。
年がら年中そんなことをくりかえしているのを見ると、絆の強さは美しい、という感想を通り抜けて、もう勝手にやっていてくれといったふうだ。
ともかく、花安英は、どうやらそういった類の人間らしい。
だが花安英にとっては残念なことに、趙雲自身は、それとは真逆の性質であった。
似たもの同士が寄り集まって、親しくしている孔明も陳到も、さばさばした付き合い方を好むから、こんなふうに異様に距離を詰められると居心地がわるくなる。
そわそわしはじめた趙雲をどう受け取ったか、花安英は、艶めいた笑みを浮かべると、趙雲の腕に自分の腕をからめてきた。
趙雲は思った。
俺は柱か。
花安英はくすくすと忍び笑いをしつつ、言った。
「へえ、意外に鍛えているんですね。あなた、ほんとうに文官ですか」
ぞくりと、背筋が寒くなった。
趙雲の腕に頬を寄せるようにしてもたれかかり、どこか恍惚とした眼差しをしている花安英を見下ろし、さらに薄気味悪さをおぼえる。
たしかに匂い立つような美貌の少年である。だが、その美しさは、どこかすでに腐り始めた果実のような、甘すぎる芳香を放っている。
「不快だ、離せ」
趙雲が荒っぽくふりほどくと、花安英は、言葉のまま、おとなしく離れた。
「潔癖なんですね」
「そういう問題か? おまえ、本当に男か? 男にしがみついてなにが楽しい」
「いまここで、脱いで証明してみせましょうか」
と、花安英は、笑いながら襟元に手をかけた。やれ、といえば、この少年、やりかねない。
「たわけ。証明なんぞいらぬ。男なら、おれにしがみ付いてないで、馬屋にでも行って、馬の身体を洗ってやれ!」
花安英はぽかんとして、尋ねる。
「馬? なんで馬なんです?」
「馬を洗うのは、なかなかの重労働だからだ。しかし身体を動かすのはよい。妙な考えをめぐらせている暇がなくなるし、きれいになった馬の身体というのは、それは美しいものだ。心がさっぱりと清められる。馬も喜ぶ。馬屋番からも礼を言われる。四方丸くおさまるではないか」
花安英は笑みをひっこめ、あきれたように趙雲を見た。
「あなた、変わっているって言われませんか」
「真理を述べているだけだ」
「面白いなあ。あなたの頭の中がどんなふうなのか、いちど見てみたいです」
花安英はまだなにか言おうと口を動かしたが、そこで、劉琦の部屋の扉が開いた。
趙雲の肩越しに、孔明が出てくるのを認めた花安英は、美麗な顔に渋面を浮かべると、
「嫌な人が出てきた。それじゃあ、さようなら」
と、趙雲に言って、蝶のように軽やかな足取りで去って行った。
孔明は、部屋を出るなり太いため息をついた。
部屋のなかでは、伊籍をはじめとする腹心たちが、まだなにやら孔明に向けてまくしたてていたが、孔明は無情にも扉をぴしゃりと閉めて、それを途中で遮った。
そうして、趙雲のほうを見て、おどろいた顔をしてみせる。
「ああ、びっくりした。慣れないな、その格好。知らない人かと思って、挨拶するところだった」
「…挨拶してもいいぞ」
「待たせて悪かったな。これから斐仁のもとへ行くぞ。そこでどんな話になろうと、かならず劉公子のもとへまた参上する、ということで話はまとめた。
まったく、駆け引きだけは上手な連中だよ。糜子仲どののことも、相談を受けてくれたら話す、の一点張りであるし…」
「そこまで言う奴があるか。必死なのはお互いさまだろう」
「わかっている。ちょっとした愚痴だ」
ふと、視線を感じて、見ると、ぴしゃりと締め切ったはずの扉がわずかに開いて、そこから、心配そうな顔をした、噂の伊籍が、頭だけを少しだけ開いた扉から出して、じっと様子を窺っているのと目が合った。
孔明もそれに気づいているのであるが、無視している。
なんだか気の毒になってきた。
「相談、乗ってやったらどうだ」
「わかっている。だから、言ってやったのだよ。劉公子が御自らわたしと話す、というのであれば、最善の策を授けなくともない。
しかし、いまのように、腹心たちが口々にわあわあ言ってくるのが止まらないようであるなら、この話はなかったことにして、わたしたちは新野に帰る、と。
よろしいですかな、機伯どの」
「もちろん、仰せのままにいたしましょう。そのお言葉、お忘れなきよう、おねがいいたしますぞ!」
扉の隙間から、もぐらみたいに顔だけをだして伊籍が言う。
「斐仁のもとへ参ります。牢屋番にはあらかじめ話をつけてある、というお言葉に相違はございませぬな?」
「ええ、軍師がそちらに向かったら、すぐに引き合わせるように、と。ご案内いたしましょうか?」
人を探そうとする伊籍を、孔明は遮った。
「いえ、結構。所在はわかります。それでは、のちほど」
そう言うと、孔明は慣れたふうに廊下を歩きだした。趙雲は後を追う。
「劉公子とお話をしたのか」
「いいや」
孔明は首を振り、議論の熱を払うためか、白羽扇を忙しく動かせている。
「それにしては、ずいぶん時間が掛かったな」
「劉公子と話しただけであったら、こんなに時間はかからなかっただろう。劉公子はたしかにあの部屋にいた。いたのだが、話をしていない」
「どういうことだ? まさか、無視をした、というのでもあるまい」
「無視などするものか。わたしは話をしようと努力したとも。
しかし、近づこうとするたびに、劉公子の代弁者と自称する腹心どもが近づいてきて、やれ、蔡氏をなんとかしろ、あの一族を黙らせる策を授けてくれ、劉州牧の目を覚まさせる策を授けてくれ、劉公子が跡継ぎに選ばれるように動いてくれと、いろいろ注文をつけてくるのだ。
劉公子に、わたしが、ほんとうに彼らが貴方の代弁者なのですか、と問うと、公子はなにも口を挟まず、なにごとも『そなたたちのよいように』というばかりだ。
しかし恐ろしい話ではないかね。白昼堂々と、大の大人が角を突き合わせて、敵方の勢力の沈黙を得るための策…つまりは首尾よく抹殺するための策を話し合っているのだからね。やれやれ、軍師というものは嫌な商売だな」
と、孔明はおのれをからかうように、皮肉げに笑う。
「答えたのか?」
「いいや。わたしは、劉公子の話ならば聞く。そのほかの連中の話はどうでもよい」
「軍師、おれは派閥だの権勢争いだのには疎いのでよくわからんのだが、劉公子の腹心たちを、どうでもいいと切り捨てて大丈夫なのか?
劉公子は主公が後見されている方だ。その腹心というならば、やはりそれなりの態度でもって応じなければ、のちのち面倒になるのでは?」
すると孔明は、声をたてて朗らかに笑った。
「武人でそこまで気を回せるのは貴重だな。どうだ、子龍。いっそ主騎をやめて、わたしの主簿にならないか」
「冗談だろう」
「気が向いたらいつでも言ってくれ。それはともかく、腹心たちは無視してかまわぬ。彼らにしたって、みながみな、劉公子のためだけに動いている人間ではない。
蔡家と利害が衝突している人間が、劉公子という旗印を掲げて、自分が一番得をするようにと、自分の意見ばかり唱えているのが、主だった腹心たちの本当のところだ。機伯殿は別だがね…とはいえ、機伯殿も、劉公子の腹心のひとりであって、劉公子その人ではない。
もしほんとうに策を授けて欲しいと劉公子が望まれているのであれば、主公のため、最善の策を授けようと思う。しかし、今のままでは駄目だ。わたしが劉公子を無視したのではなく、劉公子がわたしを無視しているのだ。
そのことに、ご自分の力で気付いてくださればよいのだが」
※ ※
牢というものはどこでもそうであるが、厠とおなじくらいにひどい臭いの耐えない場所である。
孔明は、新野の賞罰に関しても、すべて執り行っていたから、裁きの場で囚人と顔をあわせることはあっても、牢に下りて、直接に言葉をかわしたことはない。
牢に降り立ったとき、吹き上げてきた臭いが襲ってきて、思わず孔明は身体をぐらつかせた。
「大事無いか」
「滑っただけだ」
孔明は、趙雲の顔を見ることが出来なかった。
身体を支えるようにして肩に置かれた手をやんわりと払いのけ、あらためて歩を進める。
そして、おのれを叱る。
これしきで、怯んでいてどうする。
牢屋番が寄ってきたので事情を説明すると、斐仁は、いちばん奥の、特別な房に入れてあります、という。
孔明は、ふと、斐仁がすでに拷問を尽くされており、廃人になっている可能性もあるのでは、と危惧したが、伊籍はそんな卑怯な切り札の出し方はしないようだ。
独房に入ると、首から下を死者のように布でぐるぐる巻きにされ、舌を噛まないように、器具を口に嵌めさせられている、斐仁の姿があった。
孔明がやってきたのを見ると、斐仁の両目は、獣のようにぎらぎらと敵意で輝いた。
正気は失っていない。
そうして、孔明と共に入ってきた官吏ふうの男が、ほかならぬ趙子龍だとわかると、さらに目の輝きは強まった。
「元気そうだな」
と、孔明は皮肉をきかせた。
牢屋番が、口の器具をはずしてやると、芋虫のように身体をのた打ち回らせつつも、斐仁は怒鳴った。
「この…人殺しめ! よくも、よくもおれの前に顔を出せたものだな!」
斐仁はまっすぐ趙雲を睨みつけている。
その眼差しだけで人を殺せそうなほどの勢いだ。
斐仁の顔は痣だらけであったが、人をひとり、殺めておいて、その場で仲間たちに取り押さえられたにしては、痛めつけられ方がずいぶん控えめである。
おそらく、交渉の切り札にするために、伊籍が拷問を軽いものに止めさせたのだ。
孔明は、斐仁の眼差しを敢然と受け止めると、問うた。
「人殺しはそなたのほうであろう」
「俺の問いに答えろ! なぜ俺の家族まで殺したのだ! 俺の家族はなにも知らなかったのに!」
ふむ、と孔明はここで、自分の考えがまず間違いないことを確信した。
斐仁は『壷中』の秘密を守るために大金を得ていた男、ということは確定した。では、『秘密』とはなにか?
どうしたら喋らせることができるだろう。
味方であると訴えるか?
それとも敵であると思わせておくか?
猛禽のような目をした斐仁をしばし観察し、孔明は結論した。
いま、この頭に血が上っているこの男ならば、それに合わせてますます煽ってやればいい。
この地下の饐えた空間の中で、斐仁は孔明たちが到着するまで、ずっと胸の中で呪詛をくりかえしてきたにちがいない。
それをすべて吐き出させてやるのだ。
「おまえが信用できなくなったからだ」
答えると、斐仁はところどころ青黒く変色している顔に、皮肉げな笑みを浮かべた。
「信用だと? 貴様の口からそんな言葉が出るとは、片腹痛いわ。俺も焼きが回ったものだ。まさか、貴様と趙子龍が連中の仲間であったとは…連中とは、いちばん遠いところにいると安心しきっていたのだがな」
「なぜ安心していたのかね」
斐仁は鼻を鳴らした。
「ふん、おのれの胸に手を当てて考えろ。恥知らずめが」
かわされた。
なぜ、自分が『壷中』である可能性からいちばん遠い?
そして、『壷中』であることは恥知らずなのだ?
「斐仁よ、おまえは、なぜおのれの家族が殺されたのか、その理由がわかるか?」
「いまさら、なにを言うか。秘密が漏れるのが恐ろしくなったのであろう…俺はこの七年間、だれにも喋りはしなかった。小細工まで弄して、秘密を保ってきたこの報いが、これだというのなら、あのとき、おまえたちの命令には従わねばよかったのだ」
小細工をして守ってきた『秘密』。
七年間、この男のしてきたことは…?
「俺はいま、曹操がさっさとやってきて、おまえたちをすべてぶっ殺してくれることを祈っているよ。そうすれば、秘密なんてもうなんてことはない。すべてチャラだ。おまえたちはどうせ死んでしまうのだ。
なのに、秘密が漏れることを恐れた…くたばってしまえ、くされ儒子ども…そして犬ども。くそっ、あの阿片中毒の男を助けてやって、曹操に秘密を売っていればよかった」
くされ儒子…つまり、やはり樊城と『壷中』は関わっている。
しかし、だとしたら、なぜこの男は樊城ではなく、新野にいたのだ?
曹操が掴めば、有利になる『秘密』。
曹操が目下のところ狙っているのは荊州。
その侵攻を助けることになる『秘密』?
なんだろう。物資か?
たしかにこの男は、七年間にわたり、新野の東の蔵の番人として、官給品の管理をおこなってきた。
だが、曹操からすれば、そんな物資はスズメの涙ほどのものでしかない。
曹操が欲しがるもの。
荊州を揺るがすもの。
それは何だ?
「利巧なやつは、とっとと荊州から離れているぜ。とはいえ、おまえたちは、裏切り者は許さないのであったな…糜家のじいさんはもうくたばったかい?」
孔明は、声をあげないようにするのが精一杯であった。
すばやく、隣にいる趙雲に目を走らせる。
趙雲も同時に孔明を見た。
互いの顔が蒼くなっている。
糜竺が『壷中』の仲間だった。
だが何かしら事件が起こり、裏切り…殺された?
待て。
樊城に『壷中』が存在するのはまちがいない。
もし糜竺が『壷中』を裏切ったのだとすれば、なにものこのこ敵の真っ只中へ、単騎で飛び込む愚行もなかろう。
糜竺の弓馬の腕前は弟の糜芳に劣らない、というのは孔明も知っているが、いかんせん、年を取りすぎている。
斐仁は、『壷中』の全体を把握していないのだ。
糜竺は、なんらかの理由があり、仲間たちと接触するために樊城へやってきた。
殺されるためにではない。
『壷中』という組織は、いったい、なんのための、だれに拠る組織なのか?
この樊城と、徐州の出である『よそもの』の糜芳を結び付けているものは何だ?
なぜ自分が、『壷中』の仲間である可能性がもっとも薄く、『壷中』であるとすれば、、恥知らず、と見なされるのか?
ふと、斐仁の腫れあがった顔に、怪訝そうな表情が浮かぶ。
斐仁を冷静にさせてはいけない。
斐仁は七年間も周囲を欺きとおしてきた男なのだ。
勝負に出てみるか。
「斐仁よ、しかし、くらだぬ真似をしたものだな。復讐するにしても、程子聞なという小物を殺めるとは。その程度では、われらはびくともせぬ」
「程子聞…?」
腫れた瞼の下にある双眸が、ぎらついた光をなくし、どんどん理性的なものに代わっていく。
しまった。
孔明は内心で舌打ちした。
理由ははっきりしないが、勝負に負けたのだけはわかった。
斐仁は、ぐるぐる巻きにされた身体を伸ばすようにして、孔明たちに問いかけてくる。
「莫迦な…死んだのは、程子聞なのか?」
「ふざけるな! おまえが殺したのであろう!」
と、趙雲が決め付ける。
すると、当初はぽかんとしていた斐仁だが、やがてなにかが頭の中で結びついたらしい。徐々に身体を揺らし始め、やがて、それは切れた唇から、哄笑となって上がってきた。
哄笑は、不気味なくらい長くつづいた。
あまりに長かったため、狂ったのでは、と思ったほどだ。
牢屋番が聞きつけて、止めさせようと飛んできたのを、孔明は止めた。
斐仁は、しばらく笑ったあと、咳き込み、それから唸るように言った。
地の底から、這い上がってくるような声であった。
「俺を嵌めたな、諸葛亮」
「なんのことだ」
「貴様たちは『壷中』ではないのだ。『壷中』であれば、俺が誰も殺していないことを知っているはず。
そうだ、俺は七年間、だれも殺してこなかった。皮肉なものだな、それでも人を見る目に誤りがなかったとは…貴様が『壷中』であるはずがないのだ。
『壷中』は貴様を恐れている。もし貴様が『壷中』のことを知ったと向こうが気づいたなら、やつらはきっと貴様を殺しに来るだろう…みんな死ぬのだ」
孔明と趙雲は顔を見合わせた。
斐仁がだれも殺していない、というのであれば、程子聞はだれが殺したのだ?
なぜ、斐仁は捕らえられている?
「斐仁よ、子龍はそなたの家族を殺めてなどいない。この男にそのような非道が出来るわけないことは、七年間、人物を見定めたそなたが一番良く知っていたはず。おまえの家族を殺めたのは『壷中』だ。おまえは利用されたのだよ」
「それはちがう」
「まさか、まだ『壷中』に忠義立てをするつもりか?」
孔明の問いに、斐仁は掠れた笑い声をたてた。
「わかっておらぬ…貴様は、なにもわかっておらぬのだ。だが、これだけはわかっているはずだ。おまえは『壷中』の敵だ。連中もおまえを邪魔者だと思っている。おのれが狙われていることに気付いているのだろう? だからくだらぬ策を用いて、俺の口を割らせようとしたのだ。
そうして、策が破綻したので、今度は下手に出て、俺の味方のフリをする。
無駄だ。おれは貴様のために口を割るつもりはない。拷問にでもなんでもかければよい。そこで死ぬなら…」
いかん、と趙雲が言うのと同時に、斐仁に飛び掛り、馬乗りになると、その口を上下に開かせて、閉じないように押さえつけた。
牢屋番は心得たもので、趙雲の動きにあわせて、舌を噛まないよう、先達ての器具を持ち出して、暴れる斐仁の口に噛ませた。
「斐仁、おまえの身の上には同情する。しかし、おまえがここで死ねば、喜ぶのは『壷中』だぞ」
趙雲の言葉に、斐仁は、意味ありげな笑みを向けた。
ひと段落ついた趙雲は、息を整えつつ、孔明に言う。
「軍師、今日はもう話になるまい。また時間を置いてからにしよう」
趙雲に促されるようにして、孔明は斐仁の独房を後にした。
饐えた臭いのたちこもる牢屋から、地上に出ると、一気に花の香りに包まれた。
あまりの落差に眩暈をおぼえた。
ぐらついた身体を、趙雲が支えようと手を伸ばしてくる。
孔明は、反射的にその手を払いのけていた。
孔明は、人に身体に触れられるのが嫌いだ。
どんなに親しくなったとしても、身体に触れられると身がすくむ…正確にいえば、自分に人間が寄ろうとしてくる、その瞬間がおそろしい。
叔父を殺した男は、まったくふつうに叔父に声をかけてきて、領地をうしなったことのお悔やみを言って、それから、親しそうなそぶりをして、至近距離を詰めて、それからゆっくりと身体を寄せ、刺した。
そのときの光景を、どうしても思い出してしまう。
相手を信頼している気持ちにはまちがいない。しかし、彼らが近づくその瞬間に、孔明は身をすくませ、その手に白刃がないだろうかと素早く探る。
それは叔父が死んでからずっと続けてきたことであり、呼吸をするのとおなじくらいに、身についた習慣になってしまっている。
信頼しているはずの相手を、その瞬間は心を裏切って、疑っているのを知覚せねばならないのは、苦痛このうえなかった。
しかし趙雲は、振り払う孔明の手をさらに振り払って、ぐらつく身体を、倒れないように支えると、すでに夕闇が迫り、一番星が輝きつつある空の下、行きかう人のめっきり減った廊下の片隅に孔明を座らせると、どこからか水を汲んできてくれた。
水は思いのほか冷たく、やっと生きた心地がした。
ほっと息をつくと、傍らにいて水を飲んでいない趙雲も、ほっとしたようである。
相当に顔色が悪かったらしい。
考えてみれば、劉備より、趙雲を主騎に付けてもらったときは、かえって気を遣って行動力が制限されてしまうと思い、その目を盗むようにして、あちこち出かけていたが、いまはむしろ、その存在が隣にいないと、安心できないくらいになっている。
こうなるとは思っていなかったら、当初はずいぶんひどい態度をとったものだ。
「すまなかったな」
孔明が言うと、趙雲は薄く笑った。
「べつに。たいした手間じゃない」
水のことではないのだが…まあ、いい。
誤解であっても、感謝していることだけ伝われば。
孔明が落ち着いたのをみると、趙雲は、周囲に聞かれないように声を落として言った。
「ここは虎穴どころの騒ぎではないな。この城のどこか…あるいはだれかが『壷中』なのだ」
「まったくそのとおりだ。斐仁の話でわかったことは、
一、やはり斐仁は『壷中』に雇われた人間であった、ということ
一、それは七年前で、ある秘密を守るためであったこと
一、その秘密は、荊州を揺さぶるほどのもので、曹操にとって有利に働く種類のもの
一、糜竺は『壷中』の仲間であること
一、諸葛孔明は『壷中』からもっとも遠い人間であること
一、斐仁は程子聞を殺していないこと
以上の点だな…
しかし、斐仁が程子聞を殺していない、ということは信じてよいものなのだろうか」
「その場で取り押さえられたのだから、誤魔化しようがないのでは? やつが嘘をついているのではないか」
「この期に及んで、嘘をつく理由は? いまさら命が惜しくなったというのであれば、自害をしようとするのも不可解ではないか…
子龍、斐仁の気持ちはもう『壷中』にない。あと一押しで、奴はすべてしゃべる。喋らせるための材料が必要だ。だれが斐仁を取り押さえたのか、調べる必要がありそうだな。」
「ほかの人間が、程子聞を殺し、その罪を斐仁になすりつけた、というのか? しかし、それは斐仁の動きを把握していなければできない芸当だろう」
「その芸当をこなした人間がいるのだ。子龍、そもそも、斐仁はなんのために利用されたのだろう。いま、結果として、わたしたちは樊城にいるわけだが、このことで有利になる人間はだれだ?」
「劉公子か? …いや、まさか。程子聞は、公子の学友だったのだろう?」
「それなのだが、なぜ程子聞だったのだろう。斐仁があなたに向けた最後の言葉…『樊城のおまえの仲間を殺してやる』、に惑わされて、暗殺された程子聞が『壷中』の仲間だとわたしたちは思い込んでいたが、ほんとうにそうだったのかな」
「程子聞が『壷中』の敵であった可能性がある、ということか。
軍師、さっき、花安英と話す機会があったのだが、奴はこう言っていた…劉公子の腹心たちは、蔡家の人間を同じ出身の豪族仲間だと見なしているので、殺すのにためらいがある、と」
「ふむ…なるほど。『壷中』が樊城の人間のみで構成されているのであれば、そうかもしれぬ。だが、斐仁はそうではない、と言っている」
「糜竺か…主公が知ったら、悲しまれるだろうな」
趙雲の言葉に、孔明も落ち込む。
そもそも、糜竺が『壷中』である、という考えすら、斐仁に言われるまでは浮かびもしなかった。
それほどに、孔明は糜竺という温厚な人物を信用していたのだ。
不思議なほど自分に親しくしてくれたのは、隠れ蓑にすぎなかったのか。
あの笑顔の裏側では、殺意がふつふつとたぎっていたというのか。
それでも、わからないことがある。糜竺は、なぜ孔明にその存在を報せるように、『仇讐は壷中にあり』などという言葉を残して消えたのか。
まるで挑発するかのようではないか。
そもそも、なぜ自分が『壷中』に恨まれねばならないのだろうか。
「まだ新野に帰ることはできないな。われらはまだ、『壷中』の掌の中だ。策を練るにしても、情報が足りない。まずは調べねばなるまい。
斐仁を取り押さえた人物を探す
程子聞が『壷中』の仲間であったのかどうかを確かめる
糜竺が樊城で誰と誰に面会したのか確かめる
斐仁が守ってきた『秘密』とは何か、探る
最後については、これは斐仁がずっと新野にいたことを考えると、新野になにかあると思う。
至急、早馬を新野に送ろう。
さて、のこりの三つをどう首尾よく片づけていくか、だな。ここは敵陣の真っ只中だ。われらの行動は逐一、『壷中』に知られていると考えてよいだろう。
われらふたりだけで戦わねばならぬ。心の準備はよいな?」
「当然だ」
と、言って、趙雲は不敵に笑った。
※ ※
鼾が反響している。
この牢屋でできることといえば、おのれの身を嘆くことと、眠ることだけだ。
楽しみなんぞなにもない。
毎日の食事はどうせ腐ったものばかりであるし、不平をいえば、牢屋番に気絶するまでぶちのめされる。
死をじわじわと感じながら、斐仁は闇に落ちた牢屋で、身動き一つせず、目を見開いたまま、考えていた。
七年間。
夢のような年月にも思えたし、まさに夢そのものであったのかもしれない。
夢はうたかたのごとく、たった一日にして弾けて消えた。
牢に囚われた後、伊籍とかいうちょび髯の親父がやってきて、
「この男はほかの囚人とちがう扱いをするように。言うことを利かねば痛めつけてもよいが、拷問にかけることはまかりならぬ」
と言ってきたときに、なにかおかしいと思うべきであったのだ。
それを聞いたとき、俺はおろかにも、『あの男』がおれに温情をかけて、ひそかに逃がしてくれるのでは、などと甘い期待をかけたのだ。
『あの男』の狙いはなんだ?
死んだのが程子聞というのは、どういうことだ?
『あの男』が俺を騙しているというのなら…すべてが嘘だというのなら、では、あの屋敷で、娼妓としけこんだときに、俺を襲ってきたのは?
朱季南とかいう禿げは、俺を殺そうとした人間ではないとしたら?
すべてがひっくり返る。
あの軍師が言ったように、おれはただ利用されたのだ。
何のために?
ふと、闇の中に気配をおぼえ、斐仁は顔を起こした。
まさか、『あの男』か?
助けに来たのか、殺しに来たのか。
だが、顔を起こした斐仁の目に映ったのは、『あの男』ではなかった。
孔明でも、趙雲でもない。
まして牢屋番などでもない。
思いもかけない人物であった。
思わず、その人物の名を口にしたが、拘束器具のせいで、うめき声にしかならない。
「久しいな」
と、そいつは言った。
そいつの目は、あきらかに斐仁を哀れみ、そして蔑んでいた。
ほかのだれに蔑まれようと、斐仁は気にしない。
だが、こいつには別だ、と思った。怒りのあまり、芋虫のように身体をうごめかせると、そいつはふたたび言った。
「ここがおまえの末路か。本来ならば、わたしもここにいなければならない身だというのに」
わざわざ感傷的になるために、牢までやってきたわけではあるまい。
だいたい、よくここまで入り込めたものである…口のきけないもどかしさに苛立ちながらも、斐仁は、そいつのことをゆっくり思い出していた。
むかつくほどに潔癖で、頭の回る、いわゆる『立派』な男だった。
だが、同じ穴のムジナ。
罪の重さは、そいつが自ら口にしているとおり、同等である。
「斐仁よ、このまま、道具のように命を落とす気はあるまい?」
抗議の声を斐仁はあげた。
先ほどまで、死は、最後の楽になれる手段であった。
しかし、そいつの顔を見てから、気が変わった。
自由になりたい。
そいつが天下を堂々と歩いていられるのに、俺だけがこうして、死ななくちゃいけないなんて、間違っている。
抗議の声を、是認の声と取ったらしく、そいつは重々しくうなずいた。
「よし、それでは逃がしてやろう。ただし、条件がある。ここを出たなら、おまえはわたしに従い、あの御方をお助けするのだ」
『あの御方』だと?
こいつ、いきなりなにを言い出すのだ。
「そのつもりがない、というのであれば、わたしはおまえを見捨てる。よいな、あの御方のため、おまえは命をささげ、罪を償うのだ」
そんな、どこのどいつかわからない『あの御方』とやらのために、そんな真似ができるか。
斐仁が激しく唸ると、それが伝わったのか、そいつは遺憾そうに眉をしかめた。
「おまえの性根は、そこまで腐り果てたか…すこしでも良心というものが残っていれば、わたしの言う『あの御方』がだれか、すぐにわかるはずだ」
斐仁は、しばらくそいつと視線を戦わせていた。
そいつは、斐仁の人物を見定めるように、じっとその双眸を見据えていた。
そうして、やがて、くるりと背を向けた。
逃げるな!
斐仁は叫んだが、やはり言葉にはならなかった。
背を向けて、やがて闇に溶けていくそいつは、すっかり視界から見えなくなる直前に、たしかにこう言った。
「また来る。じっくり考えろ、おまえの為さねばならぬ償いを…」
※ ※
牢屋番は、『そいつ』が何者か、よく知っていた。
牢屋番が世で見知っているうちで、これほど惚れ込むことの出来る男はない、というほどの人物であったから。
だから、そいつが賄賂として路銀を差し出したとき、牢屋番は頑として受け取らなかった。
夜回りがもうすこしでやってくる、さあ、早く行きなさい。
そう言うと、そいつは寂しそうな笑みを浮かべ、小走りに、夜闇にまぎれて消えた。
やがて、そいつは城から出ると、隠すように止めていた荷車を引いて、今日の宿屋へ向かっていった。
そのときには、もう『そいつ』は、一日中、働きづめで、くたびれ果てた瓜売りの老人に戻っていたけれども。