孤月的陣
第三章 ハナ  花


叔父に連れられて樊城へはじめて足を踏み入れたときは、万事が典礼にのっとった、その清雅な空気に息を呑んだものである。
徐州の、そして黄巾賊によって荒らされた中原の大地の悲惨なありさまが、ここへくるとまるで悪い夢のように思われた。
儒教をこよなく愛し、信奉する男の作り上げた、儒学者の小王国。それが樊城だ。
風は清く、天地はつねに正しくめぐり、清雅な楽の音が絶えず聞こえ、四方の庭には百花繚乱、町人は平和を謳歌する。
旅人はこの地を訪れ、まことの憩いを得たといい、遠方に住まう人は、この地を、憧れをこめて語る。
しかしまさか、この場所が、叔父の命を奪う場所に成り代わろうとは、夢にも思っていなかった。

「いつ来ても、落ち着かぬ場所だな」
と、馬車の中から外をうかがいつつ、趙雲がこぼした。
 樊城はいつでも人で賑わっている。劉表のお膝元であるがゆえに治安もよく、そのため人が多くあつまり、物も集まる。樊城の豊かさは、潤沢な農地と交易によって支えられているのだ。
幌のあいだから見える光景を眺めているだけで、街の豊かさがよくわかる。
けして派手にはしていないが、人々の纏う衣装も、装飾品も、洗練されており、市場にならぶ品々も珍しいものばかりだ。
だが趙雲は、それらを眺めながらも、にこりともしない。
ふつう、よそから樊城にやってきた人間は、樊城の、乱世とは思われぬ豊かさと、徹底して整備されている町並みにおどろき、目を見張るものだが、趙雲は冷め切っていた。
「良い場所だとは思わないのか?」
孔明が尋ねると、趙雲は渋い顔を崩さないまま、首を横に振った。
「見た目は自然の花園なのに、踏み込むと、ところどころに人の気配がする」
 うまいことを言うな、と孔明が誉めても、趙雲はその渋面をくずさない。
そういえば、と孔明はことばをつづける。
 「新野の武将はあまり樊城に足を運ばないようだが、おなじように考えているのが原因なのだろうか」
 「樊城のほうが嫌がっているのだ。樊城の儒子どもは、おれたちのような武辺者は好まぬ。おれたちとて、莫迦にされるとわかっていて、わざわざ現われる理由もない」
 趙雲はめったに人を謗ることばを口にしないので、そこまではっきり言うのなら、これは相当に嫌な記憶でもあるのだろう、と孔明は判断した。
とはいえ、理由をあれこれ尋ねても、気安くぺらぺらと喋るような男ではない。新野において、過去のことを長く語ったのは、あくまで尋問、という形を取ったからだ。
趙雲は樊城が近づくにつれ、趙雲は機嫌がわるくなっている。

そういえば、と孔明は思い出す。
孔明が劉備の軍師となってから、劉備、関羽とともに、樊城を訪れたことがあった。
丁重なもてなしと歓迎を受けたものの、途中で、場は冷めたものとなった。
樊城の人間が、劉備に面と向かって、平気で『居候』呼ばわりしてきたからである。
関羽は顔を火にくべた石炭のようにして怒っていたが、劉備は笑い流しているので、我慢をしているようだった。もしついてきたのが張飛だったら、劉備と劉表は決裂し、戦の最中だったかもしれない。
 樊城は、たしかに清廉たる学士のつどう格調高い城であった。
けれども、その実態は荊州の豪族たちの選民主義に拠ってつくられた聖域であり、部外者や、いわゆる寒門にはつめたかった。
それは誰か特定の人間が、というわけではなく、樊城全体に染み付いている体質のようなものである。
劉備たち同様、孔明もまた、琅邪の名家の出とはいえ、よその土地からやってきた避難民のひとりであったので、その独特の雰囲気にどうしてもなじめず、つねに浮きあがり、荊州の名家の子弟ならば、しなくて済んだであろう苦労を強いられていた。
だから、趙雲や関羽の気持ちはよくわかる。
ただし人間万事塞翁が馬。おかげで、おなじはみ出し者であった徐庶という得がたい友を得ることができたし、やはりおなじく流浪生活をつづけ、天下の安寧をもとめて彷徨う劉備たちに共感をおぼえ、その軍師になったのであるが。
 
「わたしとて、樊城に長居はしたくない。糜子仲どのの不在で、仕事が滞っているからな」
そうして、なにより、樊城は叔父の死んだ場所である。だが、孔明は、それは口に出さなかった。
「さて、われらの為すべきことは、まず、斐仁から『壷中』のことを聞きだし、なぜ劉公子の側近を殺めたかを探らねばならぬ。そして、われらにかかる疑いを晴らすのだ」
 「斐仁はおとなしく喋るだろうか?」
 「奴も何者かに操られているだけの人形だ。それを悟らせることができたら、喋る」
言いつつも、孔明の胸の靄は晴れない。
この自分が、正体のわからぬ何者かの掌で踊らされているというのが気に食わない。
 すべてに共通しているのは『壷中』という言葉。そもそも、これが何を指すのか? それさえ掴めれば、四方にばらばらになっている断片が、きれいにつながるのではないか。
 
糜竺の残した『仇讐は壷中にあり』の意味はなにか。
 糜竺はどこへ行ってしまったのか。
舅の黄承元の手紙にあった『仇讐は壷中にあり。汝の身が、諸葛玄とおなじにならぬことを祈る』の言葉の意味はなにか。
 そして手紙を送りつけてきた意図は?

 「糜子仲どのは、おそらく深く事情を知っておられるはずなのだ。しかし新野を出られてからの足取りがまったくつかめない。
人をやって探させているが、どうも追っ手がかかることを想定していたとしか思えないほど、きれいに手掛かりがないのだ」
 「あの方は、万事抜かりなく丁寧に仕事をなさるからな」
 「こんなときまで丁寧にしなくてもよいだろうに」
 ぼやく孔明に、趙雲が尋ねる。
 「貴殿の舅殿のほうはどうだ?」
 「そちらもだ。まったくあの海千山千の老爺ときたら、手紙を送りつけてきたのを最後に、行方をくらませた。曹操の南下を恐れて、どこかへ避難したらしいのだが、どこへ行ったのか皆目わからぬ。糜子仲どのといい、舅といい、崔州平といい、近頃では、失踪するのが名士の流行りなのかもしれないな」
 「仮にも義父だろう」
悪しざまにいうな、と常識人の趙雲はたしなめるが、うんざり、というふうに孔明は反論する。
 「あなたもああいう舅を持てば、わたしのことがもっと理解できるようになるよ」
 「…それはともかく、手がかりがない、というのは厄介だな」
 「ないこともないさ。『壷中』という言葉に共通する人間は、舅、糜子仲、そして斐仁だ。この三者に共通するものは?」
 「劉表か」
 「それともうひとつ。『財産家』だ。舅と糜子仲どのはともかく、斐仁の贅沢な暮らしぶり。これはやはり不自然といわざるを得まい。わたしは楽なほうに流れたい人間だからね、もしひと財産が手に入ったら、どこかに仕官することなぞ考えず、家族と一緒にずっと安楽に暮らすよ」
 「ほう? 聞いた話では、貴殿の着道楽は、叔父君の財産によって支えられている、ということであったが?」
 趙雲の反論に、孔明はすぐさま、きっぱりと答えた。
 「わたしがおのれの本質に反し、軍師なんぞをしているのは、叔父の財産の中に、財貨だけではなく、つねに天地に恥じぬ光輝たれ、という志も含まれていたからだ。継ぐ、とはそういうことではないのかね。それに、わたしが衣服に凝るのを道楽と見ているとしたら、おおきな誤りだぞ。もしわたしが地味な衣裳で満座の前に立ったら、どう思う?」
 「今日は地味だな、と思う」
 「…いま適当に答えただろう。よいか、ここに二つの壷がある。片方が汚い壷、もう片方が高価で綺麗な壷だ。そこからそれぞれおなじ杏の実を取り出すとしよう。どちらが美味そうに見えるかとたずねれば、ほぼすべての人間が、高価な壷から出た杏を指すだろう。人の目はそういうもので、言葉も同じということだ。わかるか?」
 「つまり、その、いつもどこから取り寄せてくるのやら、というくらいに、ほぼ毎日ちがう衣裳は、貴殿の言葉を補強する、重要な武器である、と言いたいわけだな」
 「前半が引っかかるがそういうことだ。それとまだ誤解があるようだが、毎日衣裳をかえるような贅沢はしていない。帯や飾りの玉など、いちばん人目のつくところを変えて、なるべく特徴のありすぎる物は纏わないように慎重にしてだな…」
熱く語りだした孔明を、趙雲がさえぎった。
 「待った。着道楽の薀蓄は落ち着いてからじっくり聞いてやる。それより斐仁だろう」
 「ああ、そうだった…そう、勤めなくても良さそうなくらいに羽振りの良かった斐仁が、なぜ片足の悪い演技までして、あなたに七年も仕えていたか、という謎がある。
働きぶりは悪くなかったのであろう? しかし、出世する意欲もなかった」
 「おれのところの部将は、みんなもともと蓄財に熱心ではないから、あまり気に留めていなかったが…」
趙雲は言葉を切り、一人合点してうなずいた。
「いま思えば、斐仁はとくに目立たぬように振る舞っていたな」
 「新野城の東の蔵の官給品の管理人として、七年。足の悪い演技をしたのはなぜだ?」
 「刺客である己の真の身分を隠すためか?」
 「だれに放たれた、だれに対する刺客だというのだ。
仮に主公を狙っていたものと仮定しよう。
もしあなたが斐仁ならば、城の外にぽつんとある、東の蔵でじっとして、機会をうかがうようなまどろっこしい真似をするか?
もしわたしが主公のお命を狙うのであれば、そうしてあなたを利用しようとするならば、つねにあなたの傍らにあって、機会をうかがう。そう、陳叔至の位置になることを狙うだろうな。
それに斐仁の財産は、まちがいなく『口止め料』だ。
刺客であることを隠して潜伏している、というだけの間者風情に、七年にわたる贅沢を許すまでの巨額な『口止め料』。これもやはり不自然だ。斐仁が刺客である、という仮説は、やはり否定されてしまうのだよ」
「では斐仁は、なんのために新野に留まっていたのだろう?」
「斐仁の役目は刺客ではなく、別にあるとして考えるのだ。足の悪い演技をしていた理由はなにか? 
相手を油断させるためではないとすると?」
「戦場に出ることを免除してもらうためか?」
「そうだ。たとえ戦場に出たとしても、前線に配置されることのないように、片足の悪い演技をしていたのだ。
思うのだがな、もし戦場に出たくないのであれば、最初から文官として新野城に入ればよかったのだ。でも斐仁はそうしなかった。そこにもなにかの理由があると思う。斐仁は命が惜しかったから、片足の悪い演技をしていたのではない。おそらく、何者かの命令により、ちゃんと筋の通った理由があって、そういうふうに振る舞っていたのだ」
「その理由は?」
趙雲の問いに、孔明は軽く息を吐いた。
「そこがわからない。なにせ斐仁に命令を出していた者の正体がわからない。『壷中』と呼ばれる組織であることはまちがいないのだが、その意図を掴むための材料が足らないのだ。
だが、いまの斐仁ならば口を開く。ほかならぬ『壷中』に裏切られ、一族を惨殺された斐仁なら、な」

馬車に揺られながら、趙雲はしばらく考え込んだあと、声を落として、言った。
「軍師、斐仁は樊城の『壷中』の仲間を殺してやる、といって劉公子の側近を殺した。単純に考えるならば、この樊城…言い換えれば、劉表が、『壷中』を組織しているという可能性はないのか」
その問いに、孔明は肩をすくめた。
「それは最初にわたしも考えたよ。だが、もしそうだとすると、切り捨てようとしている斐仁を、いまもって丁重に牢屋でもてなしてくれているのはなぜだ」
「そうか…普通ならば、口封じに殺すな」
「そのとおり。まさか土壇場になって、劉表が真の仁君になって命を助けてやったとは思えないからな」
「では曹操か? 空屋敷で娼妓といた斐仁を襲ったのは、やはり曹操の配下である朱季南だった? 斐仁への口止め料が負担になったし、みずから南下するので、もうその存在が必要にならなくなったので、刺客として朱季南を放った、としたらどうだ。『風狗』はでっち上げだとしたら?」
「とするとやはり不自然なのだよ。
娼妓とともに空屋敷に入った斐仁を朱季南が襲う。しかし斐仁はじつは刺客であるし、足も悪くないから、朱季南は斐仁を取り逃がす。朱季南が腹いせに、残された娼妓を惨殺したところへ、あなたがやってきた。朱季南は相手が旧友だと知ると、智恵をめぐらせ、『風狗』の話をつくりあげ、あなたの隙をつき、まんまと逃げおおせる…そこまでは筋が通る。
だが、次にあなたが朱季南を見つけたとき、朱季南は阿片の中毒を起こして前後不覚になっていた。しかも斐仁に殺されそうになっていたというおまけつきだ。いくらなんでもお粗末に過ぎやしないか。
それにね、斐仁はどうやって朱季南の所在を突き止めたのだろう。人買いを探すためにわたしが兵を町中に手配していたあの日、斐仁は風邪といつわって仕事を休んだ。だから城の動きを知らず、単独で朱季南をさがしたはずなのだ。娼妓を買うのに慣れていたとすれば、妓楼についてくわしかったのかもしれないが、それにしても偶然か? ずいぶん手際がよいではないか」
「ちょっと待て…わからなくなってきたのだが、つまり、朱季南の所在を知っている何者かが、斐仁にそれを教えたと、そう言いたいのか?」
「別の第三者がいる。それが朱季南の追っている『風狗』かどうかは不明だがね。
そいつは、斐仁に朱季南の始末をまかせた。つまり、その第三者にとっても曹操の配下である朱季南が邪魔であったのだ。
そして、おなじくらいに斐仁も邪魔だった。さて、ここでまた謎に突き当たって止まってしまうのだが、そいつはおそらく、斐仁が留守のあいだに、その家族を惨殺したのだ。斐仁はそれをおのれの口止めのためだと思い、逆上して、報復のために樊城の『壷中』の人間を殺す」
「なんのために?」
「そこがわからぬ。まとめてみるか。
一、 斐仁は『壷中』に雇われた、『ある目的』のために新野に留まっている男
二、 『壷中』は『ある理由』のために、斐仁の存在が邪魔になった
三、 斐仁に刺客を差し向ける

ここまではよいな? 妥当なところではこう考えられる。
四、 斐仁が娼妓を買って空屋敷に入った隙をついて、刺客…風狗が斐仁を襲う
五、 ここで、風狗を追っていた朱季南が登場したことで番狂わせが起こる。斐仁は、おそらくどちらかの気配によって異変に気付き、逃げ出す
六、 獲物を逃した風狗は、怒りを娼妓に向け、これを惨殺する
七、 朱季南がそれを追うが、逃げられる
八、 そこへ趙子龍の登場。暗闇のなか、朱季南はあなたを風狗とまちがえ、攻撃する。本物はその隙に逃げる
九、 風狗にとっての誤算は、あなたと朱季南が旧知であったことだ。あなたは朱季南を取り逃がす。旧知の人間でなければ、そんなへまはしなかっただろう?
十、 風狗は自分を追う斐仁を始末することを考えた。うまい具合に、斐仁はまだ『壷中』から自分が切り捨てられたことを知らない。襲ったのが風狗とは知らないのだ。風狗はなにくわぬ顔をして斐仁の前にあらわれ、朱季南の所在を教える…朱季南の追跡を逃れてきた風狗ならば、朱季南の潜伏しそうなところもわかっていたのだろう

…と、ここまでは、まず間違いないのではないかな。考えが止まってしまうのはそこから先なのだ。
○ 斐仁の口を封じるためとはいえ、家族まで皆殺しにした理由はなにか
○ そこまで周到に立ち回りながら、斐仁による仲間の暗殺をゆるしたのはなぜか
○ そうして、獄中にある斐仁に対し、『壷中』…風狗はなぜ報復しに来ないのか
朱季南と斐仁をめぐる風狗の対応には、どうも一貫性というものが欠けている。朱季南の登場によって、どうしても方向転換が必要になったということかもしれぬが、どうも解せぬ。意図があるのか、それとも人殺しに抵抗のない狂人の仕業なのか…」

「斐仁の殺めたという、劉公子の側近のほうから、たぐれることはないのか?」
「あるかもしれぬが…」
「なんだ?」
言説明瞭だった孔明が、ここで急にことばをにごらせた。趙雲は怪訝そうに眉をしかめる。
「ここまで長々と説明をしておいて、急に口を閉ざすな。なにかあるのではと、勘繰ってしまうではないか」
やれやれ、と孔明はため息をついた。知り合って間もないころは、ほかの武将とちがって、ずいぶん柔軟なものの考え方のできる男だと思っていたが、その一方で、とんでもなく頑固な面も持っているのに気付いたのは、最近のことだ。
しかも不正や誤謬にきびしい。美点でもあるが、言い換えれば、融通がきかない、ということでもある。
「では話すが…劉公子は内向的なお方で、武術や馬よりも、学問や書画などの芸術を好まれる。身体も弱く、気性も大人しいので、同年輩の友人が、ほかとくらべると少なかった。
そこで、劉州牧はご長男に、二人のご学友をつけた。ふたりのうち、花安英(かあんえい)…これは本名が安英というのであるが、その稀な美貌によって人がそう呼ぶようになった少年だ。非の打ち所のない貴公子で、やはり書画を好み、各地を回っては、風景をしたためて拓本を劉公子に贈っている。
一方の、斐仁が殺めたのが程子聞(ていしぶん)。これは、劉公子より年上の男で、なにかと派手な優男だ。妓女との艶っぽい噂がたえないどころか、男とも噂があった乱倫の士だ」
 「…断袖か」
と、趙雲は孔明の話に眉をしかめた。断袖、とはつまり男色のことである。

漢の哀帝が、寵愛する董賢とともに昼寝をしていたが、先に哀帝のほうが目を覚ましてしまった。しかし隣にいる董少年は、哀帝の袖を枕にして、まだ寝入っている。起こすのもかわいそうだというので、哀帝はおのれの衣を切って、董賢を眠ったままにしておいた、という話に拠る。

「なんだ、あまり驚かないのだな」
趙雲の反応に、孔明は拍子抜けした。儒教において、男色に関する戒めは厳しい。それらしい話題を持ち出しただけで、軽蔑されるくらいなのである。孔明のおどろきに、趙雲が冷めた顔を向けて答えた。
「おれとて、この乱世に生を受けた身だ。漢帝国が崩壊したいま、儒教の権威も戒めも、崩壊しきっているではないか。いまさら断袖の噂ごときで、いちいち驚きもせぬわ。
それより軍師、劉公子の周辺について、妙にくわしいな」
 「知り合いだったのだよ。程子聞の場合は、噂などではなく本当だったのだがね。とはいえ、その相手が誰であったかはしらぬ。言いたがらないそぶりであったし、聞いて益になりそうにもなかったからな。
あなたも知っていると思うが、劉州牧は儒教に傾倒しており、各地から儒者をもとめていた。曹操は儒家を嫌っているから、戦乱と迫害をのがれて、多くの儒者があつまった。
当然、そんなお堅い空気でのなかでは、程子聞も浮き上がる。いかがわしい噂の持ち主であるが、ふしぎと人を和ませる魅力のある男であったし、劉公子からも信頼されていたので、指弾されることはなかったようだが、本人は、おのれの立場をよくわかっていてね、いつ命が消えても、おかしくないと笑っていたよ。気の毒に、まさかそれが現実になってしまうとはな」
 「ずいぶん親身だな」
 断袖だったという男と知り合いであった、などと普通は隠そうとするものである。
しかし孔明は、程子聞という男に対し、嫌な印象を持っていない。
おのれの本質を隠さず、正々堂々と振る舞おうとする、どこか道化めいてさえいる生真面目さは、すこし徐庶に似通っていた。

だれよりも誠実であろうとして、だれよりも努力して、どんな蔑みにも屈しなかった。
いまごろ徐庶は、曹操の元でどんな暮らしをしているだろうと孔明は思う。おのれの親の仇の元で働かねばならない苦しみは、想像もつかない…
 
…黙りこんだ孔明の横顔に、視線がちくちくと突き刺さる。
心配しているのか、動揺しているのか。
孔明は、目だけを動かして、じろりと趙雲をにらみつけた。
 「いま、何を考えているかわかったぞ」
 「すまぬ」
思わず謝る趙雲を、孔明は、ふうっ、と大きくため息をついて、真正面から見た。
 「言っておくが、知り合いだったというだけだ。子聞曰く、わたしはその手の男には口説かれない男なのだそうだ。背がありすぎるし、顔が女みたいで綺麗だというだけでは、あまり食指が動かないのだと。むしろ男っぽい男のほうがいいらしい。そうだ、あなたなんかは気に入られたのではないかな」
「やめてくれ、恐ろしい」
顔を蒼くさせて、趙雲はぞくり、と背筋を震わせる。激戦においても眉根ひとつ動かさない、と評されている男を、これほど真っ青にすることに成功したのは、おそらく自分以外におるまい。勝ち誇る気分にはなれなかったけれど。
趙雲は、からかわれたことに気付いているのか、いないのか、ますます渋面をしかめつつも、なおも話題を切り上げず、言葉をつづける。
たいがい、この男も生真面目すぎて、自分が損をする性質だな、と孔明は思った。
「程子聞が壷中の人間だったか、思い当たるフシはないのか」
孔明は首を横に振り、ない、と答えた。そもそも、『壷中』が、いかなる組織なのか、それすらわからないので、判断のしようがないのである。
「そうなると、やはり斐仁…そこへ戻るのだな。やつめ、大人しく牢につながれているだろうか」
「自害をしないように特に注意して牢につないである、と伊籍どのは仰っていた。あの方は、ああ見えてなかなか優秀だ」
ふと、いやなことを思い出し、孔明は、ここでいままでにない大きなため息をつき、気持ちを落ち着かせるために、馬車の外の樊城のにぎわいを見る。
ただのお使いできたのなら、あの市をあとでひやかしてやろうとか、楽しい計画も浮かびそうなものだが、さすがにいまは外を見ていても、うわのそらである。伊籍は先に樊城についているはずなのだが、笑いさざめく人の群の中に、小柄で、歯を見せて、ニカニカと笑う伊籍の顔があるような気がしてならない。
「それに、なかなかの策士だ」
「策士? 貴殿、新野を出立した日から、伊籍の名が出ると浮かぬ顔になるが、やつになにか言われたのか?」
「劉公子の相談役になってほしいと頼まれた」
厄介ごとを抱えているときに、またなんと厄介な、と孔明は苛立つ。
孔明は、劉琦の心の内がさっぱりわからない。
どうして敵方の親族ともいえる自分に、わざわざ頼ってくるのだろう。孔明の妻の黄夫人は、劉琦の腹違いの弟の母の姪。つまり、孔明は、劉琦の側からすれば、敵の女の身内である。
伊籍はもとから劉備に心服しているから、孔明が程子聞を殺害した黒幕では、という噂をまったく信じていないようであったが、樊城の主だった人間はそうではない。
現実として、劉琦の腹心である程子聞を、孔明の主騎である趙雲の部下が殺したのだ。当然、疑惑はさまざまに語られているだろう。
その戸惑いは、趙雲も同じようであった。
「なぜ劉公子は、貴殿を頼りにするのかな」
「劉公子はね、内気すぎて孤独なお方なのだ。たしかに同情はするよ。実父からも見放され、義母とその一族からは命を狙われているのだから。
主公にお仕えすることを決める前、程子聞を通して、相談にのってほしいとたのまれた。
だが断った。劉州牧のお家騒動に巻き込まれたくなかったし、すでに主公がわたしの庵にいらして、わたしも迷っている状態のときであったからね。
しかし、また声をかけてくるとは、どういう了見なのだろう。わたしが劉予州の軍師になったということで、かえって気安くなったのか…」
「こだわるわけではないのだが、劉公子の学友が、断袖であったというのだろう? あまり想像もしたくない話だし、ここだけの話にしてほしいのだが、劉公子が…」
その、と口を濁す趙雲に、孔明はずばり反論した。
「劉公子もその手の趣味をお持ちなのでは、という問いならば、答えは否。わたしは人の機微に敏感なほうでね、もし相手が自分に過剰な感心を寄せていれば、かならず気付く。劉公子はたしかにわたしに感心をお持ちのようだが、その手の類のものではない。あなたは鈍感そうだな」
「おれのことはいい。まったく、日中に堂々とする会話ではないぞ。世の中どうなっているのだ」
「乱世と断袖は関係ないよ。そもそも哀帝だって劉氏だぞ、子龍」
「主公はそのような趣味はお持ちでない」
「わかっているさ。つまり、あまり目くじらを立てるな、と言うのだ。さあて、いよいよ到着したようだぞ。伊籍どのの出迎えだ」
馬車から顔をのぞかせると、伊籍が待ち受けているのが見えた。
  
臙脂色の派手な衣裳をまとった伊籍を先頭に、劉琦の腹心たちがずらりと並んでいた。
伊籍はあいかわらず、ニカニカと笑みを崩さずに、ふたりが馬車を降りるのを、いまか、いまかと待ち構えている。
文官、武官、若いものから年寄りまで、顔ぶれはさまざまだ。
死せる者より生ける者がつよい、というのは世の道理であるが、ここでもその理屈は立派にとおっており、劉表の現夫人たる蔡氏の威光ゆえに、居並ぶ腹心の数は、樊城の規模から言えば、ちっぽけ、と表現するのがぴったりだ。
さすがにかれら腹心たちの表情は固い。
 
それはそうだろう、と趙雲は思う。
彼らにしてみれば、孔明は、もしかしたら自分たちの仲間…いろいろ素行に問題があったようだが…を陰湿にも暗殺という手段で訴えて、亡き者にしてしまったかもしれない人間なのだ。
伊籍とて、表面は笑みを崩さないでいるが、それとて、本心かどうか。
 
劉琦の腹心のなかでも、中心的な役割をになっている伊籍という男、なかなか変わった男で、劉表の部下でありながら、劉備の人柄に惚れこんで、なにかと用事をつくっては、新野城にやってきている。
劉備は、というと、伊籍がやってくるたびに喜んで、樊城の、とまではいかないが、心づくしの歓迎の宴をひらいてやる。
するとますます伊籍は感激して、劉備に心をかたむける、といった按配だ。
伊籍がやってくると酒が呑める、というので、劉備の武将たちも、伊籍を歓迎する。その良き循環がはたらいて、伊籍は劉備の配下なのだか、劉表の配下なのだかわからなくなっていた。
とはいえ、伊籍はみんなに文字通り美味しい思いをさせた男というだけではない。
伊籍は、劉備に樊城の情報をもたらした。
劉備が、薊にて旗揚げをしてより、はじめて長く荊州で骨休めをすることができたのは、ひとえに、伊籍がもたらしてくれる情報ゆえであった。
伊籍の情報はいつも正確で無駄がなく、痒いところに手が届くものであった。
だから劉備は、劉表の動きにあわせて、つねに先手を取ることができたし、また、流言蜚語にひっかかることもなく、よい関係をつづけてこられたのである。
もちろん、伊籍もただで情報を与えてくれたわけではない。
その代償、というわけでもないだろうが、劉備が、劉表の長子である劉琦の後見人となったのも、伊籍の力が大きいのである。

伊籍は四十の坂を越える、働き盛りの男である。一方の劉琦は、孔明よりさらに年下の二十を過ぎたばかりの青年だ。
聡明な性質であるが、ウサギの子のようにおとなしく、虚弱なために、幼い頃から、後継とするのに疑問の声があったという。
趙雲は、何度かこの青年と顔をあわせたことがあるのだが、性格は良さそうであったけれど、たしかに噂どおり、風が吹けば飛んでいってしまいそうな貴公子であった。
群臣に命令を下すことができるような力…迫力、気力、あらゆる力が、劉琦からは欠けているように見えた。
しかしこまかい気配りのよく出来る青年で、聡明な性質であると同時に、鋭敏な性質であることも知れた。
だから、自分に器量がないために、樊城の人間が真二つにわかれていがみ合っていることはよくわかっているだろうし、辛いであろうな、と同情もする。
伊籍は、この脆弱であるが心優しい公子に肩入れし、父親のように面倒を見ていた。
実の父親にさえ疎まれている公子のために、劉備という後見人を持ってきたのは、単に自分が劉備に惚れているから、というだけではない。
劉備の性格からすれば、劉琦に何事か起これば、いかなる事情があろうと駆けつけてくれるだろう、という目算があるからなのだ。劉備は、実際にそうするだろう。
持ちつ持たれつの理想的な関係であった。それも、斐仁が程子聞を殺すまでのことであったが。

孔明が馬車から降りようとするのを、趙雲は腕を伸ばして、止めた。
孔明が、趙雲のほうを見て、怪訝そうに首をかしげる。
「どうした、何か気になることでも?」
「気をつけろ、馬車から降りたところを狙われるのはよくあることだ。伊籍はともかく、ほかの連中におかしな素振りを感じたら、すぐに俺を呼べ」
すると、孔明は破顔し、言った。
「わかった、言うとおりにしよう。ただし、命が狙われるとしたら、此度に関しては、あなたほうが危ないだろうから、あなたもわたしをすぐ呼ぶように」
孔明の軽口に、そんなことが起こるものか、と切り返せないところが辛いところである。
伊籍のほかに、出迎えとしてずらりと並ぶ腹心たちの顔を眺めると、疑惑と、怒りと、戸惑いが複雑に入り混じっている。とても歓迎している風ではない。
渋い顔をした趙雲に、孔明は、さらに言った。
「気にするな」
「なにがだ」
「おのれの落ち度で、わたしを劉州牧のお家騒動に巻き込んだ、と思っているのだろう」
趙雲が黙っていると、その表情で読み取ったのか、孔明は声をたてて笑った。
「わたしが黄家から妻女をもらったときから、遅かれ早かれ、なんらかの形で、巻き込まれるだろう話であったのだ。あるいていど覚悟はしていたさ。だから気にするな」
そう言って、孔明は親しい友にするように、趙雲の肩を励ますように掴むと、待ち受ける伊籍のほうへと向かった。

七つほど年下のはずなのだが、ときおり、孔明が自分と同じくらいの年で、それこそ公孫瓚の頃から共に行動していたような錯覚をおぼえる。
初対面の頃は、こんな無礼な若者は、天下に二人といないだろう、と腹を立てることが多かったが、いまは慣れてしまったのか、そんなこともすくなくなった。
孔明が新野に迎えられてから三月の年月が流れた。これほど短いあいだに、七年間、ずっと惰眠をむさぼってきた劉備とその配下の目を覚まさせ、見事な人物鑑定眼と采配でもって、おのおのを活かしている手腕は、見事なものである。
適材適所、という言葉は古くからある。あたりまえのようだけれども、それを実行できる人間は多くない。
そうしてもっとえらいと思うのは、周囲を変えるだけではなく、この青年も、めざましい速さで自分自身を成長させていることだ。
張飛や関羽たち歴戦の勇士たちが、孔明に対して不平不満を鳴らしたのは、なにも嫉妬などといった子どもじみた感情だけが原因ではない。
ちゃんと、孔明のほうにも非難されてしかるべきところがあったのである。
高慢ちきで無愛想だとか、端から自分は理解されないものと思い込んで人に相談しないで自分だけでことを治めようとするところとか、売られた喧嘩をいちいち買うとか、武人への嫌悪にも似た侮蔑の態度など…それが、ほんのわずかの時間で、おどろくほどに矯正されていった。
孔明は、おそらく言葉どおり、趙雲がおのれを劉表のお家騒動に巻き込んだことを、ほんとうに気にしていない。
ここ数日、伊籍のことについてぼやくことはあっても、おのれの置かれた立場を嘆くことはなかった。
その対処の仕方は、積み重なった石を、ひとつひとつ淡々と片づけているのに似ている。
 趙雲は、なにがあっても孔明を守らねば、と思った。
劉備のため、ということもある。
しかし、孔明の持つ号の、伏したる竜、というその言葉の意味が、最近わかってきた。
見た目が華麗であるから、そう呼ばれたわけではない。
龍とは巨大な生き物だ。そのうねりは山河をも動かすが、龍の全体を見ることは人間にはなかなかむずかしい。
はじめて孔明と目が合ったとき、恐怖をおぼえたのは、その眼が想像もつかないほどの地平の彼方まで見通していたからであり、とても人の目とは思われなかったからだ。
いまも孔明は、すべてを見通したうえで動いている。そうして、その動きは、天下を揺さぶっていることも事実だ。
目の前のことだけに集中しているように見えて、その実、孔明は曹操への対処も忘れてはいない。
樊城へ出発する日は、ぎりぎりまで書簡に指示を書き付け、自分がいない間に起こりうるほとんどすべての事柄について、対処法を記して、文官たちに渡していた。
非常に細かい指示であるのに、それがまるで詩文を書き付けるように流麗に筆からこぼれるので、文官たちは、あらためてこの方は何者であろうかと恐ろしささえおぼえた、と言っていた。
 みずからを英雄と自称する者は多くいるが、おそらく孔明はその中でも、本物と呼んでいい英雄の一人になるだろう。
いまはまだ、世間を納得させるほどの大きな功績をたてていないけれども、きっとそうなる。
だから、こんなところで、巻き添えをくらわせたあげくに、わけのわからぬ連中に潰させてはならない。
 
 型どおりの挨拶がおわったあと、伊籍は、馬車にもうひとり…つまり趙雲であるが…が乗っているのに目ざとく気付いた。
孔明の身体越しに、ひょいと首を伸ばして、誰何する。
その仕草にあわせるようにして、趙雲が出て行くと、伊籍は眼をまん丸にした。
 「軍師の主簿かと思っておりましたら…なんと、趙…」
子龍、とつづけて言いそうになったのを、孔明がちいさな咳払いで止める。
勘の良い伊籍は、それだけで察したようである。不謹慎なほど朗らかな態度でもって、手を趙雲に伸ばしてきた。
 「見違えましたぞ、お似合いですなあ。貴殿も、わたしたちと同じ格好をなされば、わたくしたちと同じく『まとも』な人間に見えますぞ」
伊籍は嫌味を言っているのではない。伊籍が悪い男だとか、器量がせまい、ということでもない。
樊城の、その城壁の石畳にまで染み付いた、選民意識というものが、ながく城づとめをしていた伊籍の体内にも、どっぷりと染み付いている、というだけの話なのだ。
たまにおちてくる一滴が、長い年月を経てやがて岩を砕くのとおなじで、どんなにもとの性質が立派な人間でも、長いあいだ、悪い空気にさらされていると、徐々にそれに慣らされてしまうのとおなじである。
まだ数日しか経っていないというのに、新野の仲間たちを恋しく思いながら、趙雲は精一杯の愛想笑いを浮かべた…これもまた、孔明の足を引っ張らないよう、目立たないためである。
伊籍がおどろいたのは、目立たないための、趙雲の格好であった。
頭髪をすっぽり覆う黒い頭巾に、裾と袖口を黒く縁どった単衣に裳をはいて、長剣を差したうえに大帯と帯飾りをつけて、黒い沓を履いている。
どこからどう見ても、樊城ほどの大都市にはめずらしくない、その他大勢の官吏のひとりである。
趙雲は、劉備が袁紹のもとに身を寄せているあいだ、それを助けて隠密活動をしていたが、そのときの、群集のなかにおいて身をひそませる方法というものを、間者たちから教わっていた。
それが意外なところで役に立ったのだ。
趙雲は自分が目立つ風貌をしていることをよく自覚していたから、逆に、どうすれば自分が目立たなくなるかも判っていた。
顔を隠し、眼を伏せがちに、背は猫背に、歩き方はあくまでひっそりと小股に。
どこにも、戦場で堂々たる功績を重ねてきた若き将軍の姿はない。

こうなったのには理由がある。
新野の自室で、遭ったことすべてを語り終えたあと、孔明は、ひとり出て行って、そのあとに伊籍と話をつけ、斐仁と対面する許可をもらって帰ってきた。
ほんとうは、孔明の伴として、陳到が随行するはずであった。
なにより、樊城の人間を刺激してはまずいし、趙雲がやってきたとなれば、劉琦の腹心は、やはり罪を認めたと思うのではないか、という見方もあったからである。
 しかし趙雲は、自らの疑惑を打ち消すためにも、是非に自分が同行したいと、直に劉備に訴えた。
それにくわえて孔明が、罪などそもそも存在しないのであるから、堂々としていればよいし、伊籍がいる限りは、目だって諍いになることはあるまい、と口ぞえしてくれたので、樊城に来ることができたのである。
とはいえ、ほんとうに堂々と乗り込むのは智恵が足りないというもの。
自分たちは、にわか雨のように降りかかった冤罪を晴らすことと、斐仁から、なるべく多くの情報を引き出す、という仕事をしなければならない。ど
ちらも遂行するためには、これ以上の負荷は背負えない。
そう判断して、趙雲は、みずからを隠すことに決めたのだった。
 
伊籍と、作法どおりの挨拶を交わしつつ、趙雲は、ふと視線をかんじた。
歓迎する、というよりも、まるで威圧するかのように居並ぶ腹心たちの、そのなかに、ひときわ目立つ、見目麗しい少年がいる。
これが、孔明が馬車で語った、劉琦の学友のひとり、花安英という少年にちがいない。
たしかに少女とも見まごう線の細さに、牡丹のようなかんばせ。
肌は磨きぬかれた玉のように白くなめらかで、唇の赤さはざくろのようであった。
雅な城には、雅やかな少年がいるものだな、と妙なところで感心しつつ、趙雲が観察していると、花安英のほうもそれに気付いたのか、趙雲のほうを見て、すこしだけ口を動かした。
微笑んだ…ように見えたが。

趙雲が、花安英に気をとられているあいだに、はやくも孔明と伊籍の交渉がはじまっていた。
「さっそくですが斐仁に」
「さっそくですが劉公子に」
そのことばは、孔明と伊籍の口から、ほぼ同時に飛び出た。
孔明のつづき。
 
「会わせていただけるのでしょうな?」

伊籍のつづき。

「ごあいさつをお願い申し上げる」

二人は、しばらく沈黙し、おたがいの次の手を読むように、視線を戦わせていた。
先に口を開いたのは、孔明であった。
 「単刀直入に申し上げる。さきに斐仁、つぎに劉公子です」
 伊籍は、孔明の固い表情とは対照的に、あくまでにこにこと明るい笑みを絶やさず、応じる。
 「この城に貴殿らを招かれたのは劉公子でございますぞ。それなのに、挨拶も後回しにして、先に囚人に会われるというのですか。それは礼に反するというものでしょう」
 「機伯どの、新野でもご説明さしあげましたが、事態は急を要するのです。まず斐仁に会いたい。それからじっくりと、劉公子とお話をさせていただきます」
 すると伊籍は、呵呵大笑して、言った。
 「ごまかしはいけませぬぞ、軍師。あなた様のことです。斐仁から必要な情報を引き出した後は、やはりおなじように、急を要すると言って、さっさと新野に帰ってしまわれるでしょう?
 それはいけません。人の道に劣る行為ですぞ」
 「この孔明、約束は守ります。劉公子から逃げるような不様な真似はいたしませぬ。ですから、先に、斐仁めに会わせていただきたい」
 「それは参りませぬ。この機伯とて、主人たる劉公子より、かならず伏竜先生をお連れせよときつく言いつけられております。ここで約束を守らねば、わたくしの面目も立ちませぬ。
まさか孔明どのともあろうお方が、このわたくしの顔を潰すような真似はいたしますまい?」
 「わたくしをそこまで買っていただいているとは、正直、わたくし自身も驚いております。しかし、新野で貴殿は、たしかに先に斐仁に会わせるとおっしゃった」
「そのことでございますが、新野ではどうも深酒をしすぎまして、わたくしには、その約束をした記憶がトンとないのでございますよ」
「酒飲みが、都合がわるくなると持ち出す常套句ですな」
「いえいえ、わたくしは酒にはつよい男です。それなのに、あなたさまとしたお約束のこととなると、どうもぼんやりとしかおぼえていないのですよ」
「機伯どのは、この孔明の言葉だけでは信用できぬと申されるのか。わたくしに嘘はございませぬ。たしかに貴殿は、さきに斐仁めに引き合わせる、と申されましたぞ」
伊籍は、そうでしたかなあ、としきりに首をかしげている。
すると、孔明は、眦をつよくして、おのれの肩くらいまでしか背丈のない小柄な伊籍を見下ろした。
「約束を守っていただけない、というのであれば、もう結構でございます」
と、孔明は伊籍たちにむかって、くるりと背を向ける。

ぎょっとした伊籍が、ようやく笑顔をひっこめて、あわてて孔明を引きとめようと追いすがった。
しかし孔明は、かまわずすたすたと馬車にむかって歩いていく。
もちろん、これが孔明の交渉術だということは心得ているから、趙雲は孔明にならい、あわてず騒がず、ともに踵をかえす。
そうして馬車へ戻ろうというときに、ふと、孔明が脇を見て、足を止めた。
 
ちょうど馬車は、樊城の門の前で止まっていたのであるが、ぽつんと、ひとりの老人が、門前の市から、はぐれたように立っていた。
孔明は知り合いだったようである。
おや、といいざま、待って、待って、と母親にすがる子どものようになっている伊籍を無情に無視して、老人のほうへ歩み寄る。
 「このあいだはおいしい瓜をありがとう。ここでお会いできるとは奇遇ですな。まさか、樊城にまで足を伸ばされていたとは」
孔明は、伊籍に向けていたのとは打って変わって、温かい親しげな笑みを老人に向ける。
伊籍は、孔明の背中の衣をがっちり握ったまま、興味深そうに、年老いた行商人風と、孔明のやりとりを聞いている。

老人の風貌は日に苛まれ、風雨に晒されつづけた者のそれであった。
シミの浮き出ている褐色の肌に、顔には年輪のような深い皺がきざまれている。
しかし背筋は曲がっておらず、足腰もしゃんとしている。
風貌も、格好だけからすれば、みずから作った作物を、市場に持ってきて売っている、ごくふつうの農家の老人に見えるのだが、その引き締まった表情は、愚鈍であるが純朴な農夫のそれではなく、叡智を持つ者独特のするどさが感じられる。
孔明が親しげなのに対し、老人の表情は固く、畏まりつつも、言いたいことがある様子で、ちらちらと上目遣いに孔明を見ている。
視線が、背の高い孔明の白い貌にむかうたびに、老人の目ははげしく動揺している。
なにかに迷っているようだ。
孔明は怪訝そうに首をかしげ、老人に尋ねた。
 「如何なされました? なにか、わたくしに言いたいことでも?」
 孔明に問いかけられても、老人は、まだ迷っているようで、口を開かない。
むしろ、言葉を出せない自分自身に、苛立っているようにさえ見える。

 一方の伊籍も、また焦れて、孔明の背中をぐいぐいと引っ張りながら、言った。
 「孔明どの、事態は急を要する、とおっしゃいましたな? でしたら、このような農夫ふぜいを相手になどなさらず、さっ、と劉公子にお会いして、頭脳明晰なところを見せて、ぱぱっ、と問題を解決し、あとでじっくり、斐仁なり、この農夫なりから、話を聞けばよろしいでしょう?」
 「くどいですぞ、機伯どの。わたくしどもが二日もの旅程をかけて樊城へ参じたのは、劉公子の身の上相談に乗るためではありませぬ。斐仁に会って、話を聞くため。その一点のみでございます」
 すると伊籍は死んだ魚のように目をいっぱいに見開いた。
 「なんたる無情なお言葉! その斐仁がほかならぬ、われらの同士を殺めたのでございますぞ。劉公子は、程子聞が死んでから、毎日のようにその死を悼み、泣き暮らしておりまする。これを見舞うのが、人の道ではございませぬか?」
 孔明、趙雲ともに痛いところを突かれた。思わず顔を見合わせる。
が、伊籍は、それだけではまだ足りぬ、と判断したのか、さらに続けた。
 「糜子仲どのがいらっしゃったときは、劉予州の代理として、ちゃんと劉公子にお会いしてくださいましたものを、軍師であるあなた様が、これを無視なさる、というのでは、こちらとしても立場がございませぬ」
 「糜子仲どのが、樊城に? いつの話です?」
それまで余裕綽々で、高慢そのものであった孔明が、顔色をかえて急きこむ様子に、むしろ伊籍はおどろいて、気味悪そうにしながら答えた。
 「それこそ、斐仁が程子聞を殺めた日でございます…そういえば、新野でお会いすることができませんでしたが、糜子仲どのはどちらにいらっしゃったのですか?」
 それは、と孔明は途中まで言って、言葉を途切らせた。
 
それはこちらが知りたいことである。
孔明に、自分がもし戻らねば、『仇讐は壷中にあり』という言葉を思い出せ、と言い残し、以来、なしのつぶての糜芳であるが、新野を出たあと、樊城に来ていた、というのか…いったい何のために?
 「子仲どのは、劉公子に会いにこられたのでしょうか?」
孔明が問うと、ますます伊籍の困惑の色は強まったようだ。眉をしかめつつ、答える。
 「さあて、劉公子だけではなく、ほかにも色んな方にお会いになられたようです。もちろん、主公にもお会いになったようですし」
と、伊籍はここでなにかを思いついたらしく、急に眼を輝かせ、ほんのすこしいじわるく言った。
 「それは、軍師どのが直接、この樊城で皆様方にお尋ねになればよろしいのでは?」

そうきたか、と孔明はちいさくつぶやいて、傍らにいる趙雲に、ささやくように言った。
 「わたしの言ったとおりだろう。この方はなかなかの策士なのだよ。これで先に斐仁に会うのは難しくなったな」
 「糜子仲どのの行方がわかれば、それはそれで拾い物ではないか」
 「思ってもいなかったところから名前が出たな。やれやれ、おかげですっかり主導権はあちらになってしまった…とはいえ、収穫があったわけだから、すこしは喜ぶとしよう。
気を抜くなよ、子龍。われらはもしかしたら、虎の口の中にみずから頭を突っ込んでいるのかもしれぬからな」
 「ここが虎口というのなら、先に牙をぬいてしまえばよい」
豪快だな、と孔明は笑って、それから、置いてきぼりになっていた老人のほうに顔を向けたが、もう、件の老人は、どこかへ行ってしまったあとであった。
孔明は、残念そうな顔をして言う。
 「なんだ、せっかくきちんと礼を言おうと思ったのに。またお会いできると良いが。子龍、もしさきほどのご老体を見かけたなら、わたしに報せてくれないか」
 「かまわぬが、なぜだ?」
 「ちょっとした恩人なのでね。頼んだぞ」
そうして孔明は、軽く息をととのえると、心も整えたようで、伊籍にむかっては、神妙な顔をして…おそらくそれが、樊城における孔明の表情なのだろう…案内されるまま、樊城へと入っていった。

伊籍が孔明との約束をスッカラカンに忘れている理由は番外編『梁父のギンギラギン』にてご説明(?)する予定です
 

花 2へつづく
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