丞相の御者

その一

緞帳を閉めたままの、しずかな舞台。
この、成都に住み着いてから、いったいどれだけの年月が経ったのだろう。
指折りかぞえてみると、なんと、すでに五年を越えようとしている。
ほう、と驚きの声を洩らした費禕に、御者がふりかえった。
 「いかがなされましたか、旦那さま」
うん、と、まだ、おのれの折った指を、信じられないというふうに見下ろしながら、費褘はいった。
 「ことしで、わたしがこの国に住み着いてから、もう五年にもなるのだ」
こんどは、御者が大仰におどろいてみせた。
 「ええ、左様でしたか?」
 「うん?」
 「いいえ、なんだか、旦那さまというお人は、ずうっとむかしから、この蜀にいらしたと、あたしは感じていたんですがね」
 「そうか?」
 「へい。言葉もすっかりなじまれて、蜀生まれの人間と変わりませんしね。きっと旦那さまは、この土地の水に合ってらっしゃるのでしょう」
と、年若い、気のいい御者はひとなつこく笑った。
この御者は、陳鮮といい、成都で生まれ育った、生粋の成都っ子である。年は費褘と変わらない。
奴婢の子で、劉備が益州にはいったとき、主人の家が政変にまきこまれ、一族皆殺しの憂き目にあった。命からがら逃げ延びて、行き倒れ寸前になっていたのを、費褘が見つけてかくまってやった。
ほどなく、回復した陳鮮は、ろくな給金は払えないから、とことわる費褘の家に、食べることができればそれでいいからと、そのままいついてしまった。
陳鮮の得意なのは、人相見で、曰く、費褘は、
「旦那さまは地味にしてらっしゃるが、どこか気品がおありになる。線の細いのにたがわず、気骨のあるのがにじみでてらっしゃるのでしょう。いまはさほどじゃないが、まあ、この鮮の言葉を信じて、待ってらっしゃい。きっと旦那さまは国を支える大人物になられるでしょう」
陳鮮が言うには、尚書令の法正は「陰険な小心もの」、おなじく李厳は「見かけ倒しのお調子者」、劉巴は「驕慢で偏屈な儒者」と、なかなか手厳しい。
下層のものから見た人物批評は、世間の見方とすこしちがっていて、費褘はおもしろがってそれを聞いていた。自分のことは、陳鮮はやたらとほめちぎるので、聞き流していたが。
ふと、車輪が、がたり、と大きくかしいだ。陳鮮がおしゃべりに夢中で、よそ見をしていたので、石に乗り上げてしまったのだ。
馬が驚いてあばれたので、いったん止めねばならなくなった。陳鮮はぶつぶつ馬に文句をいいながら、降りて、車輪の具合をしらべた。
 「こりゃあ、いけねぇや」
 「なんとかしてくれんかね」
と、費褘は、身を乗り出して、いった。
「葬儀に遅れるようなことがあったら、たいへんだからね」
 「へい、わかっております。だけど、旦那さま、これじゃあ走っているうちに、車輪が抜けちまいますぜ」
 「許靖どののお屋敷まで、もてばよいのだ。頼むよ」
陳鮮は、まあ、あたしがスズメみたいにぴぃちくぱあちくと喋っていたのがいけない、仕方ありません、やってみましょう、といいながら、再び御台に座った。
右後方から、不安な音が、ぎしぎしと聞こえてくる。
陳鮮というのは、気のよい男であるが、そそっかしいところがある。
喪服に身をつつんだ、この好奇心あふれる少年の面影を残した若き官僚は、両の車輪がはずれてもかまわぬから、せめて許靖の屋敷までもってくれ、と祈った。
今日は、許靖の息子の葬儀なのだ。とくに面識のある人物ではなかったが、職務の関係上、どうしても出席せねばならない。
 「しかし、なんですな、旦那さま」
馬をそろり、そろりと走らせながら、陳鮮はいう。
「この馬車をこわしたら、董和さまに、弁償しなきゃならないのでしょう?」
 そうだ、というと、陳鮮はこころから心配したように、ふりかえって、いった。
 「董和さまも、もっといい馬車貸してくださればいいのにねぇ。見てくれはボロでも、もっと丈夫なやつ。こいつは見てくれもボロだけど、車輪やなんかも、そうとう、ガタがきていますぜ。許靖さま、といえば、蜀では知らぬ者のいないほどの名士。名だたるお歴々が、ずらりと揃うなかで、こんなおんぼろで乗りつけたら、笑われちまいます」
 「仕方がないだろう。これしかない、というのを、むりやり、お借りしたのだからな」
と、答えつつ、わたしにもっと甲斐性があれば、とこころのうちで嘆息する。
 もとより、董和が、身分のひくい費褘を甘く見て、けちったのではない。
董和は、劉璋の重臣であった人物で、劉備の入蜀に対し、徹底抗戦を訴えた人物だ。
清流を自認し、軽佻浮薄を嫌うその態度は徹底しており、ともすれば華美になりがちな劉璋時代の成都をきびしく取り締まった。
そのため、豪族たちから疎まれ、左遷されるところであった。ところが、
彼を慕う数千もの民が董和のあとを追おうとしたために、沙汰はとりやめとなった、という、おどろくべき逸話の持ち主である。
人望の高さは群をぬいており、劉備が劉璋のかわりに蜀をおさめるようになってからも、おなじように重臣として、中枢にいる。
ただ、飛ぶ鳥を落とす勢いの法正や李厳らにくらべると、以前のような威光はなくなってしまった。
高齢なのも原因なのかもしれないが、このところ元気がない。
 「やあ、文偉じゃないか。よかった、おまえのところもそんな程度か」
と、こころからの安堵の声をあげて、そろり、そろりと動く費褘の馬車に並んだのは、董和の息子、董允の馬車である。
見れば、ことばどおり、董允の馬車は費褘のものより、すこしだけマシ、という程度の代物であった。
贅沢を徹底的にきらう董和の屋敷には、華美なものはなにひとつない。
これがあの、天下の董和の馬車よ、と胸を張ってみせられたなら、この董允も父親に負けぬ豪の者ということになるのだが、柔和で人当たりのよい、この貴公子然とした青年は、決まりがわるい様子であった。
「ちゃんと真っすぐ前を行くだけマシですぜ、董家の若さま」
と、陳鮮が、からからと笑いながら、不安そうな顔をしている董允をからかう。費褘もつられて笑った。
「陳鮮の言うとおりだ。おまえのほうの馬のほうが、わたしのところより、よほど肥えている。そんな顔をするなよ。ようし、それじゃあ、許靖どのの屋敷についたなら、おまえの馬車の横にわたしの馬車をつけよう」
董允と費褘は兄弟のような付き合いをしていた。荊州からながれてきた費褘にとって、遠慮なく会話のできる、得がたい友である。
父の董和もまた、費褘を息子のように思っており、実子の董允と隔てなく遇した。
費褘は、この董和と年齢を超えてウマが合い、たまに邸宅を訪問する仲であった。
どこかで父の面影を重ねていたのかもしれない。
董和は、柔和で白皙な外見にたがわず、なかなか度胸がよく陽気な性格の費褘を気に入り、なにかにつけ、面倒をみてくれた。
自然と、息子の董允とも仲良くなった、というわけである。
費褘の言葉にも、あまり弾けないでいる董允に、費褘は豪快に笑って言った。
「どうした、もっと胸を張れ。天下に名を轟かせし清流の士・董和の馬車である、と堂々としていればよいのだ。さすればみな、さすがは董和、そしてその息子よと、噂するであろう」
「能天気なヤツだな。許靖どのの屋敷には、成都の名だたる名士が勢ぞろいするのだぞ。それに父上も父上だ。せめて馬だけでもよい馬を貸してくださればよいものを」
「贅沢だぞ、休昭。うちはこの痩せ馬が一頭、いるきりだ。伯父上が、わたしが出かける際にいいことをおっしゃってくださった。たとえ見かけが悪くとも、大義をうちに秘め、堂々としておれば、見かけだおしの輩より、ずっと立派に見える、とな」
「おまえの伯父上も、おまえといい勝負だ。どうしていつもそんなに陽気でいられるのかわからぬ。劉璋の一門と見なされ、栄達の道を半ば閉ざされたおまえは、おれよりもっとつらいだろうに」
「そうか? あまり辛いと思ったことはないな。それに人間万事塞翁が馬というではないか。董和どのがおっしゃるには、劉備さまのもっとも信任厚い軍師将軍諸葛孔明さまは、偏見にとらわれぬ、たいへん公正なお方とか。わたしも董和どののように謹直にはげめば、いつか目がでるかもしれぬ」
「そうでさ、うちの旦那さまは、いつか位人心を極めるお方。ちいさなことでくよくよしていたら、ちっとも前に進めませんよ」
と、陳鮮が、費褘の言葉を後押しする。そうして二人して葬式に向かう道中だというのに、楽しそうに笑いあうのを、董允は憂鬱なため息をついて、あきれて見ていた。
董和は、かつては荊州人士であり、費褘をそだてた伯父と面識があった。
費褘は、もともと蜀の人間ではない。
生まれは江夏郡。幼いころ、父母と別れ、伯父に養育された。
この伯父という人は、費褘をわが子のように、それは可愛がって育てた。
甥のなかに眠る才能が、並ではないことを早くにみとめ、学問を身につけさせるために、戦乱で荒廃している華北や荊州を避け、益州へやってきた。
太守の劉璋と姻戚でもあったので、伯父は、この地であれば安穏と、甥は出世ができるであろうと思ったのであった。
費褘が、この不安定な情勢のなか、学問に励み、いつかは育ての親である伯父や、後見人である董和に恩返しをするのだと、夢を描いていたとき、事件がおこった。
 蜀の太守劉璋が、荊州から攻めてきた劉備軍に、あっさり降伏してしまったのである。
雪崩こむように押し寄せてきた劉備軍に、官庫は荒らされ、成都や、付近の農民は、戦々兢兢と、これからどうなるのか、身をすくめてようすをうかがっていた。
だが、劉備はうわさどおり、民に篤いおとこであった。
いったん奪われた益州の土地は、すみやかにもとの所有者に返されたのだ。
それだけではなく百万の曹操軍を、風を呼んで撃退した、という神がかり的なうわさをもつ軍師、諸葛孔明が指揮して作成した蜀科のおかげで、いままで、役人や太守の横暴に泣き寝入りしていた民が、その卑屈な生活から、解放されることとなったのである。
 あっという間に人々は、劉璋を忘れ、劉備に馴染んだ。
だが、費褘の生活は、逆に苦しいものとなった。
費褘は、かつての太守の姻戚である。
劉璋に恨みを抱いていた法正ら、新勢力ににらまれ、董允がさきほど言ったとおり、栄達の道が半ば閉ざされてしまったのだ。
董和だけはかわらず、費褘の才能を愛し、庇護をつづけてくれているが、その董和も、法正らとはあまりうまくいっていない。
とくに費褘をきらい、その出世を妨げているのは、ほかならぬ太守の法正である。
法正はひどく執念深い男で、己を用いなかった劉璋と入魂であった者に睨みをきかせ、ささいな罪でも追求し、つぎつぎと処刑をしているという。
劉備の入蜀の最大の功労者として、いまもっとも権勢をきわめている法正にたいし、だれも止めるものがいないのだ。
なにより費褘にとって痛いのは、劉璋の姻戚、という事実であった。
法正の攻撃の矛先が、いつどのような形で、向けられるかわからない。
伯父はなにも言わないが、これからのことを考えて、蜀を出ることすら考えているのはまちがいがないようであった。
だが費褘は、不思議な魅力をもつこの土地にだれより、惹かれていた。
太陽もろくにささぬ、曇天のつづく空、頑固だが純朴で生真面目な気質のひとびと、天然の要害にまもられた、神秘の伝説ののこる土地。
費褘は、この地で妻をめとり、この地に骨をうずめる覚悟を決めていた。
董允のようなよい友や、師とも仰げる人物董和にも会えたし、忠実な御者にも恵まれた。
馬車も満足に用意できない生活だが、荊州で、戦火におびえて暮らしていたころにくらべれば、夢のようである。
 がたごと、と、不安な軋みをひびかせながら、陳鮮の安全運転で、許靖のやしきに近づいた。
ところが、さすがは名士の家での葬式である。
門の前までやってきたはいいが、渋滞していた。見知った顔、いつもはちらりとしか見ることのできない顔が往来している。
 「さすがぁ、許靖さまだ。成都の名士という名士が、集まっているんじゃないですか、この馬車の数!」
 「すこし、遅れてしまったようだね。早めにとめてくれないか」
へい、と返事をして、陳鮮は、よい停車場所はないか、頭をめぐらせる。
が、ない。遠目に、いくぶんかスペースのあるところを見つけた。
どういうわけだか、ほかの車は、遠慮をして、わざわざ込みあったところにとめているのだ。
なぜか、などと考えている余裕はなかった。こうしているあいだにも、費褘らのわきを、見知ったかおが、足早に過ぎていくのである。
 「おい、文偉」
と、費褘の馬車の後ろをついてきていた董允が顔色をうしなった。陳鮮も渋い顔をする。 
「うーん、どうでしょうね、旦那さま」
 空いた場所に移動したものの、陳鮮はそこに落ち着くのを拒んだ。
その声に、顔を出した費褘も、さすがにぎょっとする。
その空きスペース、みながよけるはずである。
馬の風格から、御者の仕立てまで、なにからなにまで立派すぎるほどの馬車が、ででんととめられていたのだ。
 「旦那さま、引き返しましょう、こんなすごい馬車のとなりに、こんなおんぼろとめたら、笑い者になっちまいますよ」
 「しかし……」
と、いいかけて、ふと気づく。いつのまにか、葬式にむかう人の目が、さり気なく、費褘のほうに向けられていた。
ぼろ馬車が、この馬車の群のなかでも、もっとも立派な馬車のとなりで右往左往しているのだ。
尾っぽを巻いて逃げ出すさまを見てやろうという腹らしい。
 「文偉、わたしはあちらの端へ停めるよ。そのほうが目立たぬし。おまえも一緒に来ないか」
と、董允は、逃げるようにして、ずらりと並んだ馬車の、いちばん端のほうへと移動した。
費褘もそれに倣おうとしたが、ふと、ある人物と目が合った。
 ほかならぬ太守の法正、字孝直である。
かれはキツネにも似た隻眼をさらに細めて、笑みさえ浮かべてないものの、小ばかにしたようにこちらをながめている。
やがて、往生する費褘のそばに寄って来て、冷笑をうかべ、声をかけてきた。
法正は痩せぎすで、顔色のわるい男だ。最近は、さらにその顔色がすぐれない。
だれより立派で派手な錦の着物をまとい、帯には、ため息をつくほど見事な細工の施された、翡翠の飾りを下げている。
「劉璋の姻戚であるそなたが、ずいぶんとみすぼらしいことよ。そのような痩せ馬、ぼろ馬車では半里も行かぬうちに往生するであろう。もしそなたが望むのであれば、わが馬車を貸してやってもよいのだが?」
費褘は短慮な若者ではなかったから、腹からこみあげてきたものをぐっと抑えて、振り返った。
「ありがたきお申し出。なれど、太守さま、この馬車は、董和さまから借り受けた大切なもの。これを打ち捨てて、あなたさまの厚情にすがることなどできませぬ」
法正は、権威をにぎった小心者のたいがいがそうであるように、不遜な態度で、肩を揺らしながら、まわりの者に同意をもとめつつ、言った。
「左様か。荊州の者はこぞって忠義に厚く、うるわしいことだ。しかしその馬車、道理で古くて汚らしいはず。わが君のご厚情でなんとか生きながらえておる、時流の読めぬ老いぼれそのもののようではないか」
さすがの費褘も、これには顔を朱に染めて、怒りに拳を震わせた。
「なんということを! お口が過ぎますぞ!」
「わたしは、老いぼれが誰とは申しておらぬが。まこと、負け犬というのは言の葉ひとつに、いちいちつっかかる、器の小さきことよ。費文偉、そなた、まだ若いというのに、かのお方とともに棺に入る覚悟であるようだな」
ここで普通のものならば、いまをときめく太守の法正に対し、不遜な口を利くような真似はしなかっただろう。
ちょっとした愚痴が、どのような形で上奏されるかわからぬ世の中である。
しかし、そんなことを怖じるような費褘ではなかった。まっすぐ法正の眼を見返すと、断固とした口調で言い返した。
「人間万事塞翁が馬でございますれば。あなたさまのように、転機はだれにでもかならず訪れるもの。わたくしも、あなたさまの所業を参考にせねば、と思っておりまする」
すると、それまで嘲笑を浮かべていた法正の顔が、さっと変化した。みるみる青くなり、怒りのためか、震えてさえいるようである。
「田舎者風情がなんということを…! もはや、この国でのそなたの栄達はないぞ。おぼえているがよい!」
法正は、捨て台詞をはくと、費褘を残して、傲然と去っていった。
『どうしたというのだろう。たしかにわたしも若輩の身をわすれて口が過ぎたが…しかし、あのように取り乱されるとは?』
法正は味方には厚く、敵には容赦のない男だ。あそこまで言い切ったのであるから、あとでなにかしらの沙汰があるだろう。
しかし恩人を口汚く言われたのだから、こちらに非はない、と思う。
だが、それを口実に、董和の立場がわるくなってしまったら、という懸念もある。
 法正と董和は、対照的な運命をたどっていた。
董和とて、おろかではないから、劉璋の人物の甘さにはやくにきづいていた。
しかし、君主は君主である。忠義をまっとうしようとして、最後まで抗戦を訴えつづけた。
一方の法正は、その慧眼で、劉璋を見限り、国を劉備に売った人物だ。
しかし法正は、苛烈な性格をしており、ひとたび権勢をにぎるや、かつて自分を冷遇した人物を襲撃し、九族みなごろしをはかった。
費褘は、さわぎを聞いて、死体の放置された広場にかけつけたことがある。
それは無残きわまるながめで、法正の中に巣食っていた恨みの念を、まざまざと見せつけられた思いがしたものだ。
 『仕方ない。そのときはそのときだ。ただ、董和さまや休昭に累が及ばぬように、だれより堂々と振る舞ってやろうではないか。世に耳のないものばかりではないだろう』
 「やれやれ、とんだ邪魔が入ってしまった。そろそろ行かぬと」
と、費褘が声をかけると、いつもは陽気な陳鮮が、法正の出現で、費褘よりもっと青ざめて、なにやら沈思しているようである。
気をつかわせてしまったな、と費褘はすまなく思いながら、やさしく言った。
「陳鮮、とめてくれ」
 「ええ、でも……」
陳鮮はすっかり怖気づいている。
費褘は、やわらかい風貌に似あわぬほど、固い意志を秘めた真剣な顔で、いった。
 「わたしは、なにか、間違ったことをしているかね? 人を悼む心というものは、馬車の立派さでくらべられるものなのか? この馬車のどこがいかんのだ。たしかにボロである。だがそれは、董和さまがこの馬車がここまで傷むほどに、君主への忠義をあかすためにはたらいた証ではないか。この馬車をわらう者は、忠節というものの真の意味をしらぬ愚か者なのだ」
 「左様でございますが…」
 「そうだ、なにも問題ない」
と、費褘は、自分に言い聞かせるようにくりかえすと、陳鮮に、馬車を停めさせた。
そわそわと、気の毒なほど落ち着かぬ陳鮮に、費褘は、まわりに聞こえぬよう、そっと耳打ちした。
「義理の出席なのだ、すぐにもどる。もどってきたら、さっ、と帰るのだ。そそうのないように。いいかね、わたしのいないあいだ、おまえもどっしりかまえるのだよ。このご立派なかたがたより、もっと立派な態度をとろうじゃないか。おまえも、国いちばんの……そうだな、丞相に仕えていると思っていなさい」
 それを聞くと、陳鮮は、にいっと、太陽のようにあかるく笑った。
「これまた驚きだ。丞相さまときなすったね。ようし、あたしも旦那さまに劣らぬ度胸とやらをみせてさしあげましょう」
 「ありがとう。待っていておくれ」
ぽん、と御者の肩をたたき、費褘は、許靖のやしきへ向かった。
 費褘としてはあたりまえの仕草なのだが、身分のひくい御者に対し、友のような親しさを見せるのも、物見高い連中には気に食わぬことらしい。
屋敷に入るまでは、費褘の耳には「田舎者」「貧乏下端役人」「礼節知らずの身の程知らず」などの罵詈雑言が聞こえてきた。
が、費褘は堂々と胸を張り、すべてを無視して許靖の屋敷の門をくぐった。
  
それから、数刻後……
 いっぺん、開き直ってしまえば、あとは楽であったが、しかし陳鮮はどんな思いで自分を待っているだろうかと思うと、費褘はなかなか落ち着くことができなかった。
陳鮮は、ただの御者ではない。
官位の上がる気配もなく、冷や飯喰いを余儀なくされている費褘にとっては、家族のような存在であった。
「おや?」
しかし、費褘が戻ってみると、そこに陳鮮の姿はない。
ボロ馬車だけがぽつりと残されており、肝心の陳鮮の姿がどこにもないのであった。
どこかへ小用を足しにいったのだろうか。
そう思った費褘であるが、御台のそばの地面に落とされた、ばらばらに千切られた芙蓉の花びらを目にした途端、不吉な予感に貫かれた。
陳鮮というのは、いささかおっちょこちょいの面もあるが、美しいものが好きで、こんなふうに、花を手すさびにいたぶる真似はしない男である。
何事かあり、陳鮮は、この場にいて、心をつよく抑えなくてはならないはめになったのか。
「おやおや、御者が逃げてしまったので往生しているようだな。そのような朽ちかけた馬車なぞ、いかな者であろうと恥ずかしくて引くのにためらうであろう」
「礼儀知らずの木っ端役人は、奴婢にさえそっぽを向かれたらしい」
「いやいや、あの男、大人しそうなのに、なかなか大望をいだいておるようだ。なにせ不遜なことに、あの御者は、この馬車は未来の丞相さまのお乗りになっている馬車だ、などとうそぶいていたそうだからな」
「しかし太守どのに睨まれた以上は、もはやいかな望みも抱いても無駄というものだ」
口がさない人々のささやきが聞こえてくるが、費褘は聞き流した。
『気にするな。いまは、陳鮮だ』
費褘はあたりにいる従者や、帰り支度をしている見知った弔問客に声をかけたが、だれも陳鮮のことを知らなかった。
「申し、そこのお方」
ふと、涼やかな声に振り向くと、となりに停まっていた豪奢な馬車の、従者とおぼしき背の高い男が、気遣わしげに顔をくもらせて、費褘に声をかけてきた。
ひと目で、はっとするほど風雅な雰囲気をまとった男である。
地味な身なりをしているが、清潔で、地味というだけで、質はかなり良さそうな衣裳をまとっている。
お隣は、相当な身分の方らしいな、と思いつつ、費褘はこたえた。
「わたしに、何か御用でしょうか?」
「あちらのご婦人が、あなたになにか用事があるようですよ」
と、男は費褘の肩を叩くと、道の陰のところに、ひっそりと佇む、身なりのよい老婦人を指した。
いずれかの名士の夫人のようである。
しかし伴の者がそばにいる気配もなく、どうしたのだろうと費褘が近づくと、老婦人も気づいたのか、ぺこりと費褘に頭をさげた。
「失礼、わたくしに御用でしょうか?」
費褘が声をかけたものの、老婦人は、目を合わさず、ふたたび頭を下げると、その姿勢のまま、片腕をすっと上げて、彼方のほうを指差した。示された方角には、川原へとつづく道がある。
「あちらが、なにか?」
と、ふたたび老婦人に目を戻したのであるが、すでに目の前にはだれもいなかった。
なにかぞっとするものを費褘は背筋に感じ取ったが、それよりも、無言の指示のほうが気になった。
川原になにがあるというのであろうか。
費褘はとりあえず、婦人の示した方角に足を向けた。
   

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