頑固者の賦
『まったく、頑固者奴が……!』
蜀の丞相・諸葛孔明は、腹のうちで舌を打った。
趙雲・子龍はたったいま、帰ったばかりだ。
魏へ攻め込むために、おおむね十分な将兵も、兵糧もそろえた。
それを今日、発表したのだが、ひとり、不平を鳴らす者がいた。
それが趙雲である。
かれは丞相府にやってくると、いまにも噛み付きそうな剣幕で、なにゆえ今回の戦には、自分の名前が抜けているのか、と訴える。
年寄扱いをされたのだと思ったのだろう。かれはすでに六十近くになっていた。
ふと、すでに亡き黄忠のことを思い出す。
似たようなことがあった。そう、あれは、曹操と漢中で対峙したときのことだ。
黄忠は、いまの趙雲よりもずっと歳を食っていた。
孔明は、黄忠と、同じく老将・厳顔にコンビを組ませ、魏の張郤に当たらせた。
年寄と年寄のコンビだ。
これは戦で、奇をてらった出し物ではない。たしかに敵は油断するかも知れぬ。
だが、実際に戦闘が始まったときに、老いぼれコンビでなにができるというのか・・・せいぜい腰の骨を折るだけであろう。
こんな冷淡なささやきが、ほかの武将のあいだで為されていた。
そのとき趙雲も、先主・劉備に、老人では無理だと諌めた。
だが、おおかたの予想に反し、孔明の思惑と、周囲の同情まじりの揶揄に奮起した、誇り高き老人コンビの獅子奮迅のはたらきにより、戦は大勝を得たのだ。
『いま、かれは、己れがかつての黄忠とおなじ見方をされていると、気が付いているのだろうか?』
それは、はなはだ怪しい。歳を取ると、人間いやでも頭が堅くなる。まわりのことが見えにくくなってくる。
『気だけは若いな。』
しみじみと思い返しつつ、孔明は席を立った。
すでに日が暮れかけている。西の空に、黄金色の太陽がいっぱいに地平線に埋まっていく。
趙雲は、口数の少ない男だった。
それがどうだろう。今日に限っては、いつもの数十倍もしゃべりまくり、しまいには刀を抜く真似事をして、自害をほのめかす始末。
なんとかなだめて、一旦は引き下がってもらうことにしたが、問題はこれからだ。
すでに、この頃の蜀は斜陽である。
人材不足の上に、怠け者の君主。仕事は山と積まれ、しかも二つの強国・・・魏と呉が隙をうかがっている。
ふたつの脅威をはねのけ、国を統べねばならぬ孔明の負担は、筆舌に絶する。
後ろ盾として、気心のしれたベテランが健在なのは心づよい。
特に趙雲は、孔明が劉備に仕えてからずっと傍にいる武将だ。
丞相と呼ばれるようになって久しい孔明に、直言を吐ける人間は、ごくわずかだ。
さらに私利私欲なしに言葉をあたえてくれる人間といえば、趙雲以外にはもうだれもいない、と言っても過言ではない。
君主の劉禅は、孔明をほんとうの父のように慕ってはいるものの、気が弱く、どこか顔色をうかがっているところがある。
『かれをつまらぬ戦で殺してしまいたくはない。』
孔明は、この戦で、三国のこう着状態に、けりを付ける覚悟でいた。
『関羽、張飛なきあとのわが国の軍の、心の支えともいうべき人物。もしも、かれに万が一のことがあれば、戦はそれだけで失敗ぞ。勝っても、負けても、士気は落ちるに違いない。いかな英雄であろうと、簡単に一矢で死ぬ場合もあるのだ。うまく説得をしなければ。』
あれこれ考えているうちに、自分も歳を取ったのではないかと不安になる。
どうも、うまいように言葉が見つからないのだ。
いつもならば…いや、いつもか?
孔明は馬車に乗り換えた。手綱は自分で引く。
『いままで自分は歳をとらぬ気でいたが、本当にそうであろうか? これほどまでに子龍の説得に悩むのは、かれが頑固になったのではなく、己れが歳を取ったからではないのだろうか……?』
夕暮の道を、馬車は行く。ゆっくり揺られながら、孔明は考え続けた。
静かである。柏の木が風にゆれた。もうそろそろ、風が冷たくなる時刻だ。
『歳をとる、とは悲しいことよの。』
孔明は、しみじみ思った。いつかは気付くだろう、感傷であった。いつのまにか黒髪に混じっていた白髪を発見したときのような、虚しさである。
弐
『言わぬことではないではないか!』
軍令のしらせを受け、孔明は無言で白羽扇の柄を、机にぶつけた。鋭い音が、耳をつんざく。
趙雲が調子に乗りすぎ、敵に包囲されたというのだ。
かれは冷静沈着な武将で通っていたが、弱点がある。
我を忘れると、敵陣の奥深く、それこそ糸の切れた凧のように、どこへでも突き進んでしまうのだ。
自分に自信があるのはよいことだが、過ぎると失敗する例である。
出陣の前に、孔明に老人扱いされたことがよほど気に障っていたのか、敵将・韓徳とその四人の息子を撫で斬りにしてしまうや、たちまち調子に乗ってしまい、相手方の誘いにはまり、包囲されてしまったという。
『たわけ者!このようなところで死ぬつもりか、御辺は!』
孔明は、ただちに張苟と関興に、趙雲救出の命を下した。
この戦に趙雲を加えるにあたり、孔明は二つの条件をかれに出していた。
ひとつ、軍師・ケ芝と行動をともにする。
ひとつ、かならず生きてかえる。
趙雲はそれを承知した。だからこそ、孔明も趙雲の随行を許したのだった。
趙雲の気持ちがわからぬわけでもない。趙雲以外の五虎将軍はすべて鬼籍に入ってしまっている。
関羽は孫権に討ち取られ、張飛は部下に寝首を取られ、黄忠はまことあっぱれな戦のあと戦場で息絶え、馬超は病気のため夭折した。
武将たるもの、いちばん死にたいと思う場所はどこであろうか?
趙雲もそれを考えているに違いない。
それを見抜いたからこそ、孔明は、趙雲に生きて帰れと言ったのだ。
『分かってくださらなかったか、それともわたしが分かっていなかったのか・・・』
孔明は、張苟・関興を出陣させたあと、深くため息をついた。
付き合いは長い。
その分だけ、理解していると思っていたのだ。
それはやはり思い込みからきた付け上がりだったのか?
その眉をきゅっと寄せて、孔明はまたため息をついた。
趙雲の無事を知ったのは、それから数刻ののちであった。
参
風の騒ぎ立てるいやな夜だった。
孔明は欄干に立ち、空を眺めた。狼の群れのような黒雲が、月の上を走っていく。
星は輝きをなくし、木々は風の強さに悲鳴を上げている。
北伐は失敗に終わった。
得たもの、といえば、後継者に姜維という魏の降将を手に入れたことぐらいだろうか。
なくしたものは、それの数倍も大きい。
馬謖の失敗でたくさんの人命と、チャンス、そして士気が失われた。
しばらくは国元で、力を貯めなければならぬ。
『胸騒ぎがする。』
孔明は、にぎやかに軍議を繰り広げる配下の将たちを尻目に、なにか苛立ちにも似た感情を持て余していた。
『うむ……?』
孔明は辺りを見回した。だれか、よく聞く声に呼び止められたような気がしたのだ。
だが、まわりにはだれもいない。細作ではない。
そんな者より、ずっと聞き覚えのある声だった。
ふと、突然、東北の方角から強風が起こった。
反射的に目を守る。
風にあおられた砂粒がいくつか顔や手に当たった。
木が傾ぐ音。
風が弱まり、うっすらと目をあけたかれに、松の老木が倒れるさまが映った。
背筋が凍った。
家令が走り飛んできた。
趙雲の息子・趙統と趙広が来たという。
孔明は真っ二つに引き裂かれた老木に目を遣った。
まさか?
……人はいつか死ぬものなのだ。
これまで、だれかが死ぬたびに繰り返していた言葉を再び胸の内で繰り返す。
そういえば、体の調子が思わしくないと、言っていたばかりではないか。
それにしても、急に……
「その死は、安らかであられたのか?」
ひとことも聞かぬ前に、孔明が静かに聞くと、趙統ははっとかおを上げ、それから無念そうにうつむき、涙を押し殺した声で答えた。
「はい、まるで眠りにつくように、安らかに。」
「左様か。」
答えて、孔明は軍議を中止する旨、伝えた。
諸将の呆然とした沈黙のあと、ゆっくりと泣き声が沸き起こっていく。
誰かに問われたような気がしたが、孔明は構わずその場を離れた。
後を、趙雲の息子たちが付いてくる。
趙雲は、まこと眠っているような死に顔をしていた。
その体に近付くと、はっきりと死んでいると分かった。
もうその体のどの部分も、ぴくりともしないのだ。
すでに家族の手によって、死に装束を着せられていた。
愛用していた鎧だ。
いまにも目をひらきそうなその顔は、年月に耐え切ったもののそれではなく、むしろ、はじめて出会ったときの、若かりし勇姿を思い出させた。
思えば、劉備によって引き合わされてから、二十余年。
もっとも胸襟をひらいて語り合うことのできた友であった。
おなじ場所を目指し、おなじ夢を見た。おなじものを守り、ともに駆けた。
もうここに横たわっている人間は、もう戦に出せと駄々をこねることもないし、人に心配させることもない。
『御辺、床で死ねてよかったのか?それとも、望みどおり戦場で果てたほうが幸せだったのか……』
最期に会ったときに、趙雲がこんなことを言った。
『武将として生きてきたが、これほど己れという存在のちっぽけさを痛感した戦はござらん。儂が死んでも、この国は続き、つぎつぎと若いものたちが、儂がやったように戦場で功をたてていくのだと、張苟・関興が救護に来てくれたときに、そして、姜維と槍を交えたときに思ったのでござる。そして、儂が死んでも丞相どのを守るものは、まだまだ居るのだと……ご心配めさるな。遺言などではござらぬよ……』
「……嘘をついたな」
低くつぶやき、かれは薄明りの部屋を去った。
月が、黒雲を払って冴々とした貌をのぞかせた。
風が騒ぐ。
暗闇に、趙統が、かしこまっていた。
「父にお会いくださり、ありがとうございます。」
うむ、と短く答え、孔明はそのまま歩み去った。
『わたしの影は、こんな色をしていたのかな。』
灯火をうけて、地面に長身の影が這っている。
色が薄い。そう思えた。
孔明は乗ってきたときと同様、馬車に乗り込んだ。
従者がこちらを気遣わしげにうかがっている。
それがわずらわしかった。
月明かりで道がよく見える。
孔明は馬のスピードを上げて、走った。
風は、どんどんと頬を突き抜け、過ぎ去っていく。暗闇が、おのれに迫ってくる。やがて、なにも見えなくなり、孔明は馬車を止めた。
従者が、おそるおそる、いかがなさいました、と尋ねてくる。
無言のまま、かれは手綱を従者に渡した。
もう何も見えなかった。暗闇が迫ってくる。
その恐怖を思い知ったとき、ようやく涙があふれてきた。
かれは泣いた。止めようもなく、泣いた。
馬車はゆっくりと月光の当たらぬ場所へ消えていった。