5555HITキリ番小説
媚
後編
その後、屋敷に『内々の話』というので、張皇后の母の夏侯夫人が、息子たちを伴ってやってきた。
近くを寄ったので、ということであったが、あきらかに、噂の真偽をたしかめることと、もしもこのまま噂が止まないようであるならば、責任をとってわたしに官を辞せよと、暗に示唆するためのものであった。
実に不快な会見であった。
娘の身を心配する母親として考えるならば、思いきった行動も、大目にみることができよう。
だが、夏侯夫人の主眼は、張皇后の地位の維持のみのように見えた。
先帝の義弟であった男の妻であり、今上帝の妻の母たる自分に、動かせないものはないと思っているような、傲慢な態度が、ひどくわたしの気に障った。
以前に何度か会ったことがあるが、これほど自分の血統を誇り、居丈高に命令をするような女性ではなかった。
権威がここまで人を醜く変えてしまったのか。
と同時に、張一族がこれほどに増長し始めているのか、ということに、恐ろしささえおぼえた。
皇后が、あれほど思い悩んでいたのに、じつの母親ではなく、わたしのところにやってきたのも、実は深い事情があってのことだったのではないか。
わたしは偉度に、張一族の内情を調査させるとともに、宮中の出来事を、費文偉にくわしく報告するように命令した。
しかし返事を寄越したのは董休昭で、費文偉はこのところ体調を崩して、自邸に引きこもりがちであるという。
見舞いに行ったものの、起き上がれぬほどだということで、文偉にも、わたしは門前払いを受ける形となった。
※
噂はなかなか鎮まらなかった。
対策として、噂をもみ消すための噂を、わざと広めさせたのであるが、効果はない。
むしろ、わたしに敵対する勢力が、噂に乗じて、さらなる汚らわしい噂を流し始めているようである。
目に見えて、人々のわたしに対する態度は、よそよそしくなり、わたしは、自分が誰より潔白である、ということを知っているにもかかわらず、悩みが深くなり、なかなか眠りにつくことができなくなった。
それというのも、奇妙な夢を見るようになったからである。
恐ろしい夢で、口にするのも憚れる類いのものだ。
白帝城で、先帝が病に伏せっておられる。駆けつけたわたしに、先帝はすまぬと謝罪されるのであるが、夢のわたしはそれを許さず、先帝を激しくなじる。
そこから先は、思い出したくもない。
ともかく、目が覚めるたびに気落ちする夢を、何度も何度も繰り返し見るのだ。
まるで、皇后の夢がこちらに移ってきたようではないか。
わたしは書簡をしたためると、趙子龍に、すまぬが、獣の皮をもう一枚所望すると伝えた。
返事はおそろしく早く、皇后に贈ったのとおなじ神獣の皮とともに、実に彼らしい、長い長い手紙をつけてよこした。
わたしは白と黒の獣の毛のなめらかさを楽しみつつ、新野で出会って以降、寸分も変わらぬ彼の心遣いに感謝した。
※
子龍の手紙を読んでいるうちに、わたしは眠っていたようである。
ふと目を覚まし、そういえば、いま、夢を見なかったな、とぼんやり考えた。
目が覚めたのは、またも雫の音が高く聞こえてきたからである。
腐った屋根は、雨が小降りのうちに、補修をさせていたのだが、またどこかが漏っているのか。ぴたん、ぴたんと甲高く響く音が耳障りでならない。
そうして、それにあわせるように蟇蛙の声が聞こえてくる。
寝返りを打とうとして、異変に気づいた。
枕辺に…この場合、獣の頭部のすぐそばに、誰かが立っている。足しか見えない。
女物の華奢な沓。薄布。泥によごれた領巾が見える。
刺客か?
とっさに侍剣に手を伸ばそうとするが、異様な生臭い感触をおぼえて、手をひっこめた。
見ると、獣の皮の周囲をぐるりと取り囲むようにして、無数の蟇蛙が部屋にいた。
わたしは、だれかを呼ぶべく起き上がったが、枕辺に立っていた女が、不意に身をかがめ、わたしの肩を強くおさえた。
そうして、立ったままの姿勢の女が、ぐっとわたしに顔を近づけてきた。
一瞬のことであった。女の顔は見えなかった。
※
ふたたび目を覚ますと、朝になっていた。
雨は降り続けていたが、糸雨で、鳥もこの気象に慣れてしまったのか、数羽の雀が、雨にもかかわらず、屋根に止まっているのが見えた。
わたしは獣の皮から起き上がり、手にしていたまま眠っていた、子龍からの手紙を巻きもどすべく、手を伸ばした。
いつもぴかぴかに磨き抜かれた床が、今朝は妙に汚れている。
なんだろうとじっと見て、枕辺に、くっきりと、泥だらけの小さな足跡があるのを見つけた。
全身が粟肌立った。
わたしは起き上がり、着物をはだけると、鏡に自分の肩を映した。
くっきりと、女に掴まれた指の痕が、そこに残っていた。
あの女は、何者なのだ? なぜわたしのところにやってきた?
混乱するわたしの前に、ふと、読みかけであった子龍の手紙が目に飛び込んできた。
その一節に、こんなくだりがあった。
『古来、悪夢は『媚』なる巫女が祟りをなして運んでくるものと申す。これを破るには悪夢をはこぶ『媚蟲』を殺し、巫女を殺すがよろしかろう』
つづけて、『俗信であるが』と結んであったが、わたしには、まさにこれではなかろうかと思った。
噂が流される直前に見た、井戸の縁で土を掘る女。
あれが『媚女』たる巫女なのか。
証拠となるものはおのれの夢ばかり、という状況であったが、なぜかわたしには確信があった。
理性や常識の後ろのほうから、これでまちがいないと、たしかな声を伝えてくるものがある。
『媚女』は『媚蟲』を使役し、呪術を完成させる。
打ち破るには、呪いをかけた媚女を殺すか、あるいは、蟲を始末するしかない。
あの井戸はどこの井戸なのだ?
媚女は、蟲を井戸の縁に埋めて、呪いをかけたにちがいないのだ。
井戸を探し当て、蟲を掘り返し、始末する。
※
井戸の所在をたしかめるべく、わたしは胡偉度を呼びつけたが、意外なことに、偉度までも伏せっているという。
屋敷に行くと、おどろいたことに、費文偉が先に見舞いに来ていた。
「健勝そうでなによりだな」
厭味でそういったわけではないが、文偉はすっかり畏まってしまった。
「丞相、先日はせっかく足をお運びいただきましたのに、追い払うような真似をして申し訳ございませぬ」
わたしは文偉が、陰湿な真似や意地悪はできない青年だと、よく知っていたので、なにか事情があったのだろうと思い、気にしていないと告げたが、文偉の顔色は冴えない。
「無礼を承知で申し上げます。丞相、いますぐこの屋敷からご出立くだされ」
文偉の意図がつかめず、わたしが首をかしげると、不意に、ぴたん、と大きな雫の落ちる音がした。
その音に、文偉は、ぶるりと身を震わせた。しかし、それはわたしも同じであった。
いつしか雨足がふたたび激しくなり、胡家の屋敷をつよく打ちはじめた。
表から、蟇蛙の大合唱が聞こえてくる。
わたしが思わず、ゆうべ、女に掴まれた肩をさすっていると、おかしなことに、文偉もまた、自分の肩を同じようにさすっているのだった。
目が合い、図々しいほどに屈託のない文偉が、めずらしく動揺し、蒼ざめた顔をして言う。
「まさか丞相、すでに丞相も?」
「すでに?」
鸚鵡返しにしたわたしであるが、そのとき、自分の背後に、なにか異様なものの気配を感じた。
一斉に粟肌がたち、どっとあふれるように脂汗が流れてくる。
いけない。振り返ってはいけない。
「文偉」
「丞相」
わたしたちはほぼ同時に互いの名を呼んだ。
「振り返ってはならぬ。このまま屋敷を出るぞ」
「わかり申した。しかし、偉度を残しておくわけにはまいりませぬ。丞相、この夢は移るのです」
「われらはいま目覚めておる。夢ではないぞ」
文偉ははげしくかぶりを振った。
「移るのです。最初は陛下、つづいてわたくし、そうして丞相。丞相は、わたくしをお見舞いされたときに移ったのでは?」
「最初が陛下だと?」
どういうことだと、尋ねている暇はなかった。
わたしたちは、けっして振り返らないようにすると、隣室で伏せっている偉度を担ぎ出し、そのまま表へ飛び出した。
玄関には、成都中の蟇蛙が集まったのではないか、というくらいに、大勢の蟇蛙が、わたしたちを待ち受けていた。
しかし構わず、わたしたちはぬかるみの上を駆けた。
馬車を使おうとしたが、雨があまりに激しく、地面がぬかるんで車輪が取られてしまい、動かなかったので、徒歩で逃げた。
雨は、まるでわたしたちを逃がすまいとしているように、はげしく全身を打った。
雨がこれほどに痛いものだということを、初めて知った。
※
偉度をかかえたまま、わたしたちは丞相府へ飛び込んだ。
互いの屋敷は危険に感じられたからだ。
背中に感じたあの異様な気配は、おそらく『媚女』の呪いそのものが、形になったものではないだろうか。
びしょぬれになって、息を切らして飛び込んできたわれわれを、他の文官たちは不思議そうに見ている。とくに、宮中に勤める費文偉が、ここにいることが、奇態に映るようであった。
それはともかく、わたしは執務室に二人をつれていき、そこで更衣させた。
人に聞かれて、またつまらぬ噂になっても困るので、隣の小部屋に二人を通す。
そうして、わたしは違和感に気づいた。
そもそものきっかけは、張皇后がここへ、お忍びでやってきたことである。
文偉は、陛下から自分に移った悪夢が、わたしや偉度に移ったというが、悪夢に怯えていたのは張皇后もおなじ。
だが、張皇后は神獣の皮のおかげで悪夢から解放された。
わたしは、皇后になんと言っただろうか。
呪いをかけるのなら、諸葛亮にかけろと言いなさいと、そう教えなかったか?
「文偉、正直に申せ。陛下は病がちというのでわたしに会おうとなさらぬが、それは悪夢ゆえか?」
「ご明察でございます。じつは陛下は、毎晩おなじ悪夢にうなされておいでです。その内容が、じつに恐ろしいもので、丞相にも相談できぬが、かといって会えば丞相のことだから、すぐに見破ってしまうだろうと言って、怯えておいででした」
「恐ろしいものとは? わたしを殺める夢だったとしても驚かぬが」
文偉は悲しそうに首を振った。
「ご自分が、じつは先帝の御子ではない、と暴かれて、長江に捨てられる夢だそうでございます」
わたしは言葉を失くした。
陛下はまぎれもなく先帝の子だ。
そんな夢を見るのは、荊州三郡時代に、孫夫人に攫われて、江東へ連れて行かれそうになったことが、傷になっているからではないのか。
あの恐怖の航路のあと、陛下を抱きしめるはずの父…先帝は蜀の攻略に向かっており、不在であった。
たまらなく陛下に会いたくなった。
怯えて口も利けなくなっていた子どもに、わたしは励ましの言葉をかけるだけであった。それだけではいけなかったのだ。
「それを知る者はほかにおるか?」
「宦官が何人か。この者たちは信頼できます。あとはわたくしだけでございます。休昭にも教えておりませぬ。ご安心を」
「うむ、今後も口外無用ぞ。しかし悪夢が移るとは。そもそもは、陛下が始まりなのか? それとも皇后なのか?」
わたしがつぶやくと、文偉はなぜか、顔を蒼くしてうつむき、その隣では目覚めた偉度が、文偉にうながすように、目線を送っている。
「二人とも、わたしに隠し事があるようだな」
「文偉、おまえが口にできないというのならば、わたしから言うぞ。それでよいのか」
偉度がきつく言うと、いつになくおどおどとした態度の文偉は、しばし迷ったあと、ぎゅっと目を瞑り、それから不意に、床に身を投げ出すようにして平伏した。
「申し訳ございませぬ、丞相。すべてはわたくしの監督が、行き届かなかったがゆえのこと!」
「何のことだ?」
「これは呪いでございます。巫女の呪いがかかったのです。
実は、丞相が視察で成都を空けておられた月に、宮中に巫女が召されました。雨乞いの舞いがうまいというので、特別に召された巫女だったのです。陛下は巫女を気に入られ、そのままお側に置くと言い出されました」
「そこは、とりたてて騒ぐものではないな。皇后以外にも、陛下のお手つきの女人はいる」
「ですが、陛下は巫女を気に入るあまり、そなたを皇后にしてもよい、とつい口にされてしまったのです。もちろん、戯言であったのでしょう。
ですが、これに黙っていなかったのが張一族でした。わたしは休昭とともに、急用を言いつけられ、宮中から出されてしまったのですが、思うに、これは陛下の命令ではなく、張一族の謀であったのかもしれませぬ。
われらが留守のあいだ、張一族はあろうことか後宮に押し入り、巫女を引きずりだし、皇后の地位を脅かす者へのみせしめ、といって引き回したあとに、生きたまま、宮中の井戸に投げ落としたのです」
「なんという浅慮な! 皇后はこのことをご存知なのか?」
「いいえ、すべては夏侯夫人とほかの一族が、奴(やっこ)どもを使って示し合わせて行ったことで、ご子息がたもご存じないことかと。
騒ぎを聞いて、わたしはすぐさま巫女の投げ捨てられた井戸に潜って、助けようとしましたが、すでに巫女は絶命しておりました」
わたしは眩暈をおぼえ、すぐそばにあった卓に手をつき、身をあずけた。
なにより謀をきらい、謀を司るというだけで、軍師という役職すらきらっていた、張飛の姿を思い出す。
あの男ならば、けっしてそんな残酷な真似はしなかったはずだ。
粗暴であったが、私利私欲のために人を殺めることはなかった。まして相手は、武器をもたぬ巫女なのだ。
こめかみのあたりに鼓動を感じ、指先でそれをなだめた。
「宮中の井戸、か。おそらくそこに、『媚蟲』が仕掛けられているのだろう。それを除けば、呪いは止まる。文偉、巫女の名は覚えているか」
「わたくしは、役立たずではございますが、記憶だけは誰より自信がございます」
「よろしい。井戸へ参るぞ。協力するな?」
胡偉度と費文偉は、わたしの言葉にうなずき、だれにも見られぬように慎重にしつつ、夜陰にまぎれて宮中へ侵入することとなった。
※
だれよりも内部にくわしい費文偉と、文偉の話を聞き、こころよく協力を申し出てくれた董休昭の手引きにより、わたしたちは容易に、後宮内の井戸に近づくことができた。
人目を気にしつつ、あくまでうわべは常どおりに振る舞いながら、丞相府を出てきたときには、偉度の屋敷から出たときとは打って変わって、小降りであったのが、後宮に入るなり、ふたたび大雨になった。
とおくで雷鳴がひびきわたる。
後宮は、どの扉もぴったりと厚く扉を閉ざしており、そのなかから、漏れ聞こえる女たちの、雷鳴をおそれる声が聞こえてくる。
大男三人で、大荷物を腕にかかえ、さらに背中にも荷物をしょった状態で、大粒の雨に打たれながらの侵入であった。
大粒の雨が全身を打ってくる。傘を被っているものの、ほとんど役に立たず、雨を含んでよけいに体に負担をかけている、という有り様だ。
目指す井戸は、しとどに濡れた庭木に囲まれるようにしてある古いもので、つるべは腐って朽ちかけており、井戸の石組みも苔むしている。
夢で見たとおりの光景だ。
不気味さもあったが、到着するまでの緊張と、荷物の重さがあったので、井戸を見て、わたしたち三人は、だれともなしに、安堵のため息をもらしたほどである。
「文偉、なぜこのような有り様のものを、放置してあるのだ」
「女たちが、これはこれで風情があるから、残して欲しいと」
晴れ間に見れば、さまざまな空想を呼び起こす仕掛けには、もってこいなのかもしれないが、薄暗い雨の合間にみると、まさに井戸のなかから、何者かが這い出してきそうな気配である。
鬼(この場合は死霊であるが)が祟りを為すのは、祟りをされる側の人間に、なんらかの咎があるからである。
関羽が死んだときも、祟りを噂されたが、祟られたほうには、ほとんど同情の声がなかった。
これはなにも関羽のほうが、徳が高く、祟られた側に問題があった、というわけではない。
祟りとは、宿命のようなものであり、宿命を作るのは自分自身の手、祟りは、いわば己の為した行為の結果を受け容れることであり、それを避けることは不可能、という考えが根底にあるからだ。
もちろん、完全に祟りから逃れる術がないわけではない。
鬼の中には、見境なく襲ってくる者もいる。
そういう物を駆逐するための方法もある。
わたしたちは、豪雨に悩まされつつも、井戸の前に、簡易ながら祭壇をつくった。
雷鳴が轟いているのが、かえって助けとなった。
祭壇を組み、灯す明かりが、打ち消されてしまわぬように、傘をつくる。
しかし、雨のためか、それともなんらかの力が作用しているのか、火を灯すことはたいへんな労力を要した。
横死した者は死後、鬼となる。
死に方によって、鬼の呼び方はちがってくる。
わたしは幼少のおり、父や家令たちがやっていた祭祀と、書物でおぼえた知識とを駆使して、急ごしらえながらも、鬼を静めるための祭壇を作った。
卓の上に香燈、供物、聖君の像を飾る。
とたん、全身に冷や水を浴びたような、異様な悪寒に包まれた。
「丞相!」
悲鳴にも似た文偉の声に、周囲を見回すと、わたしたちをぐるりと取り巻くようにして、無数の蝦蟇がずらりと並んでいたのである。
異様であった。
心のない生き物であるはずの彼らが、それこそ鳴き声ひとつたてず、わたしたちを睨むようにしているのである。
それだけではない。説明のしようのない、重苦しい気配をすぐそばに感じる。蝦蟇以外の、異形のものが、すぐそばにいるのだ。
わたしは文偉に怖じないようにと目で諭し、手筈どおり、銅鑼を叩かせた。
ばあん、ばあんと派手な音が、雨の帳に吸い込まれていく。
「我は天地の師であり、悪鬼を駆逐すること、風雨のごとき素早さなり」
少年時代をすごした琅邪で得た知識が、まさかこんなところで役に立つとは、と皮肉に思いつつも、わたしは祭壇に向かい、経を唱え始めた。
鬼を駆逐するための、泰山独特の経である。
子供のころ、その神秘的な文言に惹かれて、道士が口にする言葉を、必死になって暗記したものだ。
「左手に青龍、右手に白虎、胸前に朱雀、背中に玄武、頭上に神仙、足元に玉女、手中に三将軍、十指に司馬があり。姦邪の鬼、妖魅魍魎の類いを捕縛し北斗へ送るものなり」
とたん、沈黙していた蝦蟇たちが、いっせいに抗議をするかのように、不気味なうなり声を一斉に放ってきた。
わたしは構わず、続けた。
「ただ願わくば、太上が天曹に下命し、六甲の将、六丁の神を下せしめ、呪によって野道の気を惨殺し、邪を誅し、偽りを滅せんことを」
天空に稲光が輝いたかと思うと、どん、重い音がして、同時に、庭木のひとつに雷が落ちた。
落雷を受けた木は、真っ二つに裂け、炭のようになった体から、ばちばちと火を灯している。
宮中の衛士たちが駆けつけてくる様子だ。
丞相たるものが、夜陰に乗じて後宮に忍び込んでいた、などということが公になれば、理由はどうあれ、位返上どころではすまないだろう。
急がねばならない。
文偉と偉度は、蝦蟇よりも、衛士たちに見つかることに、うろたえているようだ。
銅鑼が止まりそうになったので、わたしは二人に言った。
「中途半端に終わらせてはならぬ! 文偉、巫女の名を三度唱えるのだ!」
「鬼よ、汝の名は雨花なり!」
一度目は何も起こらなかった。
「汝の名は雨花なり!」
見えざる手に咽喉を圧迫されているような息苦しさがある。額から落ちるのは、雨の雫か、それとも脂汗なのか。
見えない気配に目を凝らしつつ、わたしはかつて先帝にいただいた、七星剣を抜いた。
七星剣は天の気がこめられており、破邪の力があるという。
鬼は三度、その名を呼ばれると、もう祟りができなくなる。
あともう一度。
「汝の名は雨花なり!」
雷鳴がふたたび轟き、同時に、空を切り裂くほどの女の悲鳴が、周囲に響き渡った。
わたしは成功を確信した。
鬼は去ったのだ。
だが、不意に、わたしは目の前に陰ができたのを感じ、目を向けた。
ありえないことに、女が立っていた。
うつむいて、長く豊かな髪を雨にさらし、うらめしそうな気配で立っている。
夢にあらわれた女、『媚』だ。
鬼の姿をこれほどまで明確に見たのは、初めてであった。
わたしは完全に混乱していた。経典どおりに手筈を整えた。もうこの女はわれらに害を及ぼすことはないはずである。
どこかで手順が狂ったというのか。
呪文か、段取りか、祭壇の配置か?
うろたえる自分自身を励ましつつ、わたしは女に言った。
「そなたの恨みは正当なもの。だが恨む相手をまちがえてはならぬ。大人しく功曹(天の使い)とともに北斗へゆくがよい!」
女は沈黙したまま身動きひとつしない。髪に隠れて、顔をみることができない。
いや、もし見えていたなら、わたしは、言葉をかけることができたかどうか、あやしいのであるが。
文偉と偉度は、女の姿におびえつつも、打ち合わせどおりに井戸の周囲を掘り返しはじめた。
女が、道具もなしに、地面を掘り返すことのできる深さは、たかがしれている。
雨で地面がやわらかくなっているのも幸いし、ほどなく、夢で見たとおりに、女が作業をしていたとおぼしき位置より、小さな土壷が出てきた。
土壷には布で覆われており、巫女の札で封印が為されている。
それを開けようとする文偉の手が震えているのは、おそらく雨のためだけではなかろう。
よろしいか、といいながら、目を向けてくる文偉に、わたしは肯いた。
わたしは先帝よりいただいた七星剣を構えて、文偉が封を切るのを待った。
封は、雨に濡れてあっさりと破れ、布を取り払うと、なかから大きな蝦蟇がずるり、と這い出してきた。
その不気味なまでの大きさと醜悪さに、文偉はおもわず壷を地面に投げ捨てる。
それを、沈黙を守っていた女が、拾い上げようとする。
呪文が利かなかったのか?
わたしは、蝦蟇を掴もうとする女の青白い手を、七星剣で斬りつけた。
女は痛みのあまり、うずくまり、獣じみた抗議の声をあげる。
そうして、はじめて、女の、『媚』の白い顔が、長い黒髪のあいだから覗いた。
わたしが、その顔に絶句していると、『媚』は、わたしにめがけて手を伸ばしてきた。
屈んだままの姿勢で、腕ばかりが異常に伸びる。
思わず身を引くと、胸倉だけを掴まれる形となった。
すさまじい力である。
手には七星剣があったが、わたしは、それを振るおうとは、もう思わなかった。
ぐっとつかまれた手を解こうと、さらに後退すると、斬りつけられた傷のせいか、『媚』の手の力が弱まった。
わたしが一気に身を引くと、『媚』の手は、わたしが以前に、蒋琬からもらい、返す機会をうかがって、ずっと懐に入れておいた金烏の首飾りを掴んだ。
それを手にしたとたん、『媚』は耳を劈くような雄叫びをあげて、もだえ苦しみ始めた。
蝦蟇は月の化身、対する太陽の化身は、金の烏。
陰の呪いを説くならば、陽の呪いをぶつけて、中和させてしまえばよい。
『媚』の掌にのめりこむように、金の烏は、太陽のカケラのようにそれ自体が熱を帯び、『媚』の全身をやがて炎に包んだ。
一瞬のことであった。
金色の美しい炎があがったかと思うと、『媚』の体は、まるで氷が解けたようになくなっていた。
※
当初、張皇后はわたしへの謁見をおゆるしにならなかったが、是が非に、と取次ぎの者に食い下がり、ようやくお目通りがかなった。
張皇后は、具合がわるいとのことで、力のない蒼ざめた顔をしていた。
身分云々を越えて、わたしはこの娘に同情する。
父親によく似た、明るい素直な娘。
皇后という位をあたえられるよりも、市井にまじって、ひとびとと衝突しながらも、自分の力で運命を切り拓くことのほうが、この娘には似合っていたのだ。
陛下がお生まれになったときから、先帝と張飛のあいだで、この娘は陛下の妻になる、ということが決まっていた。
張飛の遺族は、張飛の遺志を受けて、皇后を中心とする権力を守るために、そうして、先帝と張飛、関羽のあいだに生まれた絆を守り続けるために、それを阻むものを排除する。
そんな張一族の頂点として矢面に立ち、尊敬と憧れと、身に覚えのない悪意をも、一身に受けなければいけない。
殺伐した世の中で、真綿でくるまれるように大切に育てられた、世間知らずの少女に、その覚悟を求めるのは、酷というものだろう。
そして、皇后を支える陛下もまた、まだまだ幼い。
張皇后は、わたしの訪問を、あきらかに迷惑に思っているようだった。
噂のことが頭にあるのだろう。
「本日はどんな用ですの? 以前のことならば、おかげさまで解決いたしましたわ」
と、言ってから、皇后は、悲しそうに顔をしかめた。
「気を悪くなさらないで、相父。あの汚らわしい噂が流れてから、気が立って仕方がないのです。あれだけよくしていただいたのに。虫の良い話だけれど、薄情だ、などとお思いにならないでね」
「もう市井には、あの噂を口にする者はおりませぬ。もう、お気になさらずともよろしいのですよ。それより、ご母堂様が病に伏されておいでとか、ほかにも張家では最近、あいついで病に倒れるものが多いと聞きまして」
「それはわたくしも心配しておりますわ。流行り病の類いでしょう。長雨のせいではないかと思うのだけれど」
「これから、張家へ見舞いに向かう予定でございます。そのまえに、皇后さまに御挨拶を、と」
「母に会われるの? それは、ただのお見舞い?」
奇妙なことばに、思わず顔を上げる。
そこには、無邪気な娘の顔はどこにもなく、猜疑心と怯えの入り混じった表情を浮かべる、老婆のような皇后の顔があった。
「ただの見舞いでございます」
わたしはそれだけ言うと、皇后の前から辞去した。
去り際、わたしは皇后に尋ねた。
「時に皇后、手に怪我をなされた、とのお噂を耳にいたしましたが、お加減はいかがですか」
「相父には隠し事ができないのね。知らないあいだに、手に、刃物で切られたような奇妙な傷ができていたの。でもあまり痛まないので、安心してくださいな」
「それはようございました」
※
陛下は、それまで多くの宮女や宦官たちに囲まれて、水遊びを楽しんでいた様子である。
わたしの来訪を告げる宦官が耳打ちすると、とたんに神妙な面持ちになり、人払いをした。
追い払われた者たちが、さざめきのような笑い声をたてながら、わたしの横を通り過ぎていく。女たちの白粉の香り、宦官たちの衣服についた香の薫りが、すれちがいざま、鼻腔をくすぐる。
雨は、あの日以来、ぴたりと降らなくなった。
同時に、わたしと皇后をめぐる噂は、すっかり消えてなくなった。水溜りが陽射しによって蒸発するのとおなじ早さで、跡形もなく、消え去っていた。
そんな噂が流れたことすら、みな忘れてしまったのではないか。
陛下は、一人で水辺に座り込み、足元にある石を、つまらなさそうに池に投げ込んでいた。
「陛下」
わたしが声をかけても、陛下は石を投げつづけた。
石が投げ込まれるたびに、青空を映した池のうえに、美しい波紋が生じる。
しかし陛下は、その変化を楽しんでいる、というふうでもない。
「世は、まさにこの水面とおなじなのですよ。陛下がそのつもりでなくても、波紋は広がる」
「相父、皇后のことか」
と、ようやく石を投げるのをやめて、陛下はわたしに顔を向けた。
陛下は、先帝に似ておられない。
ご母堂の甘皇太后(この位は、陛下が帝位につかれた時に贈られたものだ)の血が濃いのだ。柔和な面差しがよく似ている。お優しい、気丈な方であった。
「孔明は、かの件に関しては、反対させていただきまする。皇后は健勝で、まだまだ、ご懐妊がのぞめます。それに、これ以上、お側に置く女人を増やして、皇后を苦しめてはなりませぬ」
「あの娘は、朕が小さいころからよく知っておる。皇后とも仲がよいし、問題ないと思うが」
そういって、虚勢を張っている幼子のように、陛下は上目遣いに、わたしを見た。
胡偉度の調査によって、このところ張一族がぴりぴりしているのは、実は、皇后の妹君、つまりは張飛の二番目の娘を、陛下に差し上げる計画が持ち上がっているからであった。
娘の年は、まだ十三にも満たない。
皇后、そしてその妹で陛下の周囲を固めることで、張一族と皇室との結びつきを絶対的なものにしたいのであろう。
皇后がもっとも気にしていたのは、そのことであり、だから、わたしが夏侯夫人に会いにいく、と聞いて、もしや、妹の話を具体的に進めるつもりではないのか、と身構えたのだ。
わたしなどから見れば、まだ幼いとさえいえる娘なのに、子を為さぬ女として、一族から冷遇されているなど、哀れすぎる。
張一族への牽制のためではない。皇后のために、わたしは張一族の、あらたな縁談の話を潰す方向に動いていた。
「いかに仲のよい姉妹とはいえ、ひとりの男性を中心に張り合う仲になれば、ちがってまいります。陛下がもし、弟君とひとりの女性を張り合って、争わなくてはならなくなったら、どう思われますか?」
「うむ、つらいの。朕は、争いは好まぬ。相父に決めてもらうか、あるいは弟に譲るかもしれぬ」
「人は、一生に一度は、この人だけは、他の誰にも譲りたくない、というほどに強く惹かれる人と出会います。もし、そのような人であった場合、それでも弟君に譲られますか?」
陛下はしばらく、じっと膝をかかえていたが、やがて、こくりと肯いた。
「相父の言いたいことは、わかった。朕は浅慮であった。皇后への配慮が足りなかったようじゃ。朕は、張家の申し出を断ることにする」
「それがよろしいかと」
わたしが笑みを浮かべて肯くと、ようやくこの少年帝は、顔をほころばせた。
「よかった。相父が朕に会いにくるときは、いつも緊張してしまう。でも不思議なものだな、相父がしばらく顔を見せぬと、朕をきらってしまったのではないかと、不安になるのだよ」
「戯言を申されますな。孔明が陛下を嫌うなど、ありえませぬ」
そういえば、呪いのごたごたつづきで、しばらく公務以外では顔を出していなかったな、と思いつつ、わたしは池のほとりの砂利道を進んだ。
陛下は、公的な場以外で、わたしが拝跪することをきらった。
落ち着かないから、というのが理由らしい。
膝を抱えている少年帝の横に、同じく座ると、華奢な姿が、一層小さくみえた。
わたしが親しげに振る舞うと、陛下はよろこばれる。このときもそうであった。
「子龍から、見たことのない白と黒の獣の皮が届いた。あれの上に眠ると悪夢を見ないで済むらしいな。相父も持っているのか」
「はい」
「相父も悪夢を見たのか。どんな夢だ。朕の夢を相父は知っているのに、朕は相父の夢を知らぬ。不公平だ」
「聞いたら、がっかりなさいますよ」
「朕を除いて帝位に就く夢か?」
わたしは声をたてて笑った。
「それは考えたこともなかったので、悪夢にすらなりませんでしたな。
わたくしの見た夢は、先帝と白帝城にて言い争いをすることです。なぜ呉へ出兵をされたのか、と。言葉を重ねれば重ねるほど、意味も無く憎悪ばかりが膨れ上がって、止まらなくなる、おそろしい夢でありました」
陛下はしばらく、じっと黙って、水面を見つめていたが、やがて言った。
「相父は、本当に父上が好きだったのだな」
「孔明は早くに父を亡くしましたので、不遜ながら、この方が本当の父であったらと、何度も思いました。陛下が羨ましい。本当のお子なのですから」
「たしか、朕が生まれた年に、相父は父上に仕えたのだったな。
朕がはっきり思いだせる子供のころの記憶は、船の上で、義母上が朕の手を掴んで、怖い顔をして睨んでいるというものだ。視界がゆれて、気持ちがわるくて、とてもおそろしかった。
とつぜん目の真にあらわれた、名前も思い出せぬ男が、義母上に言うのだ。『それは本当に玄徳の子か、まるで似ていない。ちがうのであれば、このまま河に投げ捨ててしまえ』と」
わたしは深く目をつぶった。
幼い子供に、斬りつけるような言葉を浴びせかけた呉将に、長江の川底をさらって体を引き上げて、それをはるかに上回る言葉をぶつけてやりたい、とさえ思った。
「あとで父上に、朕は本当に父上の子か、と尋ねたら、『あたりまえだろうが、疑うことすら馬鹿野郎だ』と怒鳴られて、平手打ちされた」
「お父上が正しいですな」
「だが相父、ときおり、それが本当だったらどうしよう、と思うのだよ。父上は、朕のために義兄の劉封を処刑し、張一族は、皇后をまもるために、朕が戯言を向けた巫女を殺してしまった。朕のために、たやすく人の命が散っていく。それは朕が、父上の血を引いているからだ。だが、もしそうではなかったら、いままでの犠牲はどうなってしまうのだろう」
少年帝は、思いつめた目を水面に向けた。
その真剣なまなざしは、悲しくなるほどに、思いつめたときの先帝に似ておられた。
「陛下、もし陛下がお許しくださるならば、わたくしも同じく、陛下を平手打ちさせていただきたいのですが」
わたしが言うと、陛下は目をぱちくりさせて、わたしのほうを見た。
わたしは陛下に微笑みかけると、そのまま、両手で、陛下の頬を両脇から挟むようにして、軽く力を加える程度に、ぱん、と叩いた。
ちょうど両手で陛下の顔を挟むような具合になった。
「よくお聞きなさい。陛下はいま、ふたつの不忠を犯された。ひとつは、陛下をお産みになった甘皇太后に対しての不忠。母の貞操を疑うとは、何事でございますか!
もうひとつは、陛下をお守りするために、長阪や、長江で命を落とした兵士たちが、陛下に捧げた忠心に対する不忠でございます!」
額がくっつくほどの距離でわたしが言うと、掴んだ両手の頬から、陛下が動揺しているのが伝わってきた。
「すまぬ、浅はかな言葉であった。二度と申さぬ。許せ」
「まことでございますな?」
「天地神明に誓う。朕は、紛れもなく父上の子じゃ」
「当然でございます」
わたしは軽く息をつくと、陛下の両頬をはさんでいた手をひっこめて、礼をとった。
「不埒な真似をした家臣をどうぞおゆるしくだされ。ただ、陛下には、もっと自信をもっていただきたい。陛下の中には、紛れもなく、高祖から脈々とつながる、尊い血潮が流れております。
もっと堂々となさい。噂になぞ、惑わされてはなりませぬ。どこともしれぬ呉将のことなど、忘れておしまいなさい。その者も、すでに長江のあぶくと消えたことでしょう」
子龍が斬ったのだ。
幼子を投げ落とそうとした愚か者は、自分が投げ落とされて死んだ。
「相父はなんでも知っているのだな」
「陛下に関することならば、なんでも知っております。陛下も、幼少から孔明を知っておいでだ。
孔明は、世間の男より優しくありませぬ。このつめたい孔明が、陛下に忠誠をささげているのは、陛下が仕えるに足るお方であると、信じているからでございます」
「なんだかよくわからぬが、相父は、朕が嫌いではないのだな?」
「そういうことでございます。さあ、風が出てまいりました。そろそろ、皆のところへ戻りましょう」
わたしが促すと、陛下は素直に立ち上がった。
むかし肩車をしてさしあげたこともあった、と懐かしく思いつつも、わたしと陛下は、二つに影をならべて、宮中へと戻っていった。
完
※あとがき※
ご読了ありがとうございました。この作品は5555HITキリリクとして戴いたもので、はさみのの小説のなかでは、めずらしくシリアスなまま終わったものとなりました。しかも当分書かないだろうという丞相の諸葛亮が主人公。
「受難」ということでお題を戴きましたが、少々ずれてしまったかもしれません。ゴメンナサイ。
はさみのの脳内では孔明はいつもワカゾーなのですが、今回の孔明はあくまで「父」なので、脳内キャスティングは一気に渋く中村吉衛門サマでした(鬼平…?)。最初は戸惑いましたが、書き始めたら、とんでもなく楽しかったです。劉禅と孔明の関係も、漠然と思い描いていたのを明確にできました。リクエスト、ほんとうにありがとうございました(^o^)丿
とと、ここでナゾがいまいち消化不良! という方へのおまけページをご用意。皇后への訪問シーンのあと、劉禅を持ってくるか、こちらを付けてラストにするか、ぎりぎりまで悩んだものです。どうぞ下記をクリックくださいませね(^^♪
(C)Hasamino Nakama 2005 09 19