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前編
柏の木立の街道にて、馬車を駆っていると、ふと、御者が、頬に手を当て、それから空を見あげ、眉をしかめた。
「また、雨のようでございます」
わたしは幌から顔をだし、厚い雲に覆われた成都の空を見あげた。
成都は晴れ間のすくない土地だが、たしかに最近は、雨が多すぎる。
同乗していた蒋琬は、顔をしかめて言った。
「これでは、作物の出来高に、影響が出てしまいますな。農民どもの陳情も、このところ増えております」
人前では官服を窮屈そうに着ている蒋琬は、馬車の中、ということで、気を楽にしているのか、胡坐をかいて、襟元をわずかにはだけさせ、冠を傍らにおき、頭を掻きながら言う。
これはなにも痒いからではなく、人と話すときに緊張するので、自然と手が髪をいじるのだ。
一方の手は、見慣れぬ奇妙な金色の首飾りを、しきりにもてあそんでいる。
「それはなんだね」
わたしが尋ねると、蒋琬は、自分がずっと、それに触れていたことに気づいたらしく、答えた。
「金烏でございますよ。太陽を呼ぶ、まじないでございます」
「純金ではないか。高かっただろうな」
蒋琬は、実によくできた男であるが、唯一の欠点は、あきれるほどに迷信深い、ということだ。
わたしの呆れ顔に、蒋琬は肩をすくめる。
「趙直が作ってくれた物なのです。丞相もお気に召したのなら、おひとつ用意させましょう」
「気遣いはありがたいが、不要ぞ。太陽を呼ぶという巫女や、仙人と名乗る連中が、祠に詣でる者たちを脅して、高額の奉納金をせしめている、との陳情が、このところ続いているのを、知っているだろう」
「偽者もおりますが、趙直は、色も売るエセ巫女とは手合いが違います。丞相ほどのお方が、趙直の実力をお認めにならぬとは、残念ですな」
わたしなどは徐州の生まれで、黄巾の乱の惨禍を耳にしたり、黄巾賊の残党たちがほうぼうの村々を襲った痕を目の当たりにしているので、人外の神秘は信じているが、その神秘を盾に、人を不安がらせたり、思うままに操ったりする類いの人間には、まず不信を感じてしまう。
蒋琬は荊州の出自なので、そのあたり、感じるところがちがうのだろう。
蒋琬は、しばらく自分の首飾りのちいさな金烏を見つめていたが、何を思ったか、不意に、それをはずすと、わたしに差し出した。
「お持ちください」
「そなたものであろう」
「趙直は、金烏は太陽の化身。太陽は世を照らす光。もっていれば、きっと良いことが起きる、と申しました。丞相、どうぞお持ちください。きっと御身にお役に立ちましょう」
わたしは身につける気はなかったので、手を伸ばさないでいると、蒋琬は、不意に身を起こして、わたしの手を掴み、じっ、と澄明な黒い双眸で、わたしを見据える。
そして、真剣そのものの表情で、言った。
「この蒋琬、嘘はつきませぬ」
ほんとうにこの男は、若い頃の徐庶によく似ている。
言葉の足りない不器用な誠実さ。
そんなこと考えているうちに、いつのまにか、わたしの掌には、金鎖についた金烏が乗っていた。
蒋琬が真心から勧めてくるのはわかっていたので、それ以上断ることをせず、わたしはそれを大事に懐に入れた。
蒋琬の禄は、こんなに、いかにも高価なものを手に入れられるほど、高くない。しばらく持っていて、折を見て、返してやればよいだろう。
「ところで陳情の件でございますが、
「地元の者に案内させ、荊州の人間を派遣させるか」
「手配いたしますが、そうなると、また益州の人間が、荊州贔屓だと騒ぎますな」
「結果を出せねば、益州も荊州も関係ない。益州の者は、迷信に振り回される者が多すぎる。それより急げ。本降りになりそうだ」
御者に言うと、わたしたちは丞相府へと戻っていった。
丞相府に戻ると、門の内側から、蟇蛙の声が聞こえてきた。
このところの長雨で、蛙の繁殖の勢いが止まらないのだ。
井戸のまわりに、蟇蛙が大量発生していると、下女が教えてくれた。
本格的に降りだした雨を歓迎するように、蟇蛙の合唱がひびく。
「あまり増えるようならば、駆除せねばなるまい」
「昨日も、蛙どもが廊下に入り込みまして、女たちが、気味が悪いので通れないと、騒いだばかりでございます」
「蟇蛙というのは、不気味な姿をしているからな」
執務室に戻ろうとすると、主簿(秘書)の胡偉度が小走りにやってきた。
「丞相、さきほどからお待ちの方が」
「誰だね」
偉度は、すばやく周囲を見回し、それから声を落として言った。
「ここでは、名を告げられぬお方でございます」
そう言って、この気の利く主簿〈秘書)は、わたしに目配せをしてくる。
蒋琬は、偉度の様子に察したのか、それでは、といって自分の部署へ辞去した。
表には、だれの馬車も止まっていなかったはずだが、と思いつつ、わたしは、偉度がみなの前で名前を言うことができない来訪者について、想像していた。
偉度は緊張した面持ちで、執務室の隣にある、ちいさな私室を示した。
そこは、わたしが小休止するために使っている部屋で、客人を通していいような、小奇麗な部屋ではない。小窓がひとつあるきりの、扉を閉めてしまえば、完全な密室になってしまうような部屋だ。
わたしが扉の前に立つと、偉度は、わたくしは表で待機しております、といって大仰に去っていった。
偉度はおそらく、執務室の前の廊下に陣取って、だれも入らないように、見張るつもりなのだろう。
このように、姿を隠さねばならぬ者とは、何者なのか。
訝しみつつ扉をくぐると、上等な脂粉のかおりが鼻腔をくすぐる。
目の前の者をみてようやく、滅多なことでは動じない偉度が、あわてた理由を知った。
さらり、と絹の音がして、その方は、顔を隠していた薄手の被り物を取り払うと、わたしに駆け寄ってきた。
「相父、どうぞお助けくださいませ!」
わたしの顔を見るなり、少女時代からそうであったように、其の方は、わたしに縋りつくようにして、声をたてて泣いた。
わたしはうろたえたが、なんとか気を落ち着かせ、泣きじゃくる小さな肩に、触れるか、触れないか、という程度に、手をそっと置いた。
「落ち着かれなさいませ。皇后様ともあろうお方が、なにをそのように取り乱しておられるのです」
陛下より二つか三つ年上の、年若い皇后は、子供が甘えるような顔をして、わたしの顔を見上げる。
大きな瞳に太い凛々しい眉をした皇后の面差しは、年を経るにつれ、意外に父親の張飛に似てきているようだ。
「恐ろしい夢を」
「夢?」
恐ろしい夢をみた程度で、後宮からこっそりと足を運ぶなど、考えられない話である。
わたしが戸惑ったのを見てか、張皇后は、必死に涙を抑えつつ、言った。
「一度ではないのです。二度も三度も、恐ろしい夢を見るのです。わたくしは、狂ってしまったのかもしれませぬ。宮中のだれにも相談することができず、思い余ってこちらに参上いたしました。亡き先帝は、本当に困ったときには、相父を頼れ、と仰いましたので」
泣いているときよりも、涙をこらえて震える声で訴える姿のほうが、荊州の三郡をおさめていたときに、よく遊んでやった幼い少女の姿を彷彿とさせる。
わたしも引き込まれるようにして、すっかり昔に戻っていた。
「落ち着きなさい。さあ、そちらにお掛けなさい。なにか飲み物でも用意させましょう」
「ありがとう、飲み物は結構です。相父、いきなりなので驚かれているでしょうね?」
張皇后は、わたしがいつも寝床にしている台の上に座り、しゃくりあげながらも、冷静さを取り戻して、わずかに微笑んだ。
「親族には相談できないの。わたくし、とても恐ろしくて。正直に答えて下さらない? いまのわたくしは、狂っているように見えて?」
「狂っているなど、とんでもない。だれか、そのように悪口(あっこう)をたたくものがいるのですか」
処罰せねばならぬ、とわたしは思った。
わたしに実子はない。
わたしにとっての子とは、先帝の残された遺児たちのことだ。
陛下も皇后も、赤ん坊のころからよく知っている。やんちゃな盛りのときには、遊んでやったこともある。
皇太后のお産みになられた御子とは、あまり縁はないけれども、僭越ながらも、かわいいと思う気持ちにはまちがいない。
陛下よりも、皇后が、わずかに年上である。
それに幼なじみというのもあり、いささか気弱なところのある陛下とは、うまくやっているようであった。
陛下にとって皇后は、姉であり、幼なじみの友であり、妻なのだ。
二人の仲むつまじい様子を見るのは、わたしの楽しみのひとつでもある。
しかし、彼らの仲を裂こうという者は後を絶たない。
陛下は素直で人好きであるが、それがわざわいして、過剰に気前が良すぎる。
相手を喜ばそうとするあまり、いらないものでも、いる、と言ってみたり、いるものでも不用意に手放したりしてしまう。
そんな性質を利用して、豪族たちや士人の野心のある者は、一族の女を宮中に入れようとやっきになる。
黄門侍郎の費文偉と董休昭らに、いらぬ争いを起こさぬように監督をさせているが、それでも年若い夫婦には、つらいことが多いようだ。
気にかかることに、幼い頃は、あれほど溌剌としていた少女が、皇后に迎えられてからは、どうも元気がない。
不意に、皇后が声をたてて笑った。
「相父がそのような顔をされているときは、いつも怖いことを考えてらっしゃるときですわ」
「わたくしは、どのような顔をしておりましたか?」
「眉間に皺をよせて、宙を睨みつけるの。陛下はときどき、相父の真似をなさいますのよ。そっくりですわ」
その顔を思い出したのか、皇后はくすくすと、口元を袖で隠しつつ、声を立てて笑った。
が、不意に顔を曇らせ、一気に老け込んでしまったような、寂しげな顔になる。
「たしかに、わたくしの悪口をたたく者はおります。でも、その者の処罰など考えないでくださいまし。その者の言うことも、一理あるのですから」
「理由をお伺いしましょう。それから思案させていただきます」
言うと、皇后は息を整え、それからまっすぐに私の目を見据えた。
「虫のいい話ですけれど、このことを話しても、わたくしを軽蔑しないでほしいの」
「軽蔑など。天地神明に誓いましょう。けっして、いたしませぬ」
皇后は、それでもしばらく逡巡していたが、やがて、蒼ざめた顔に、本来の勝気な表情を浮かばせ、わたしを覚悟の面差しで見た。
「恐ろしい夢を見るのです。夢のなかで、わたくしが、陛下のお手つきの女人を、つぎつぎと殺めてしまう、というものです」
わたしは皇后の話に、言葉を失った。
陛下は今年で十九になり、皇后をむかえられて三年になる。
陛下は皇后をこよなく愛しておられる。
しかし、皇帝という特殊な立場にいるために、何人かの女人に手をつけていた。
皇帝はおおくの女人を通じて、その高貴なる血を継ぐ子を、出来うる限りつくらねばならない、というわけだ。
「わたくし、嫉妬なんてしたくない。陛下がわたくしに飽きて、ほかの女人のもとへ通われても、それは仕方ないことだと思っておりますわ。わたくしには、いまだに子ができないのですし」
「そのことを悪く言う者がいるのですか。王貴人の姻戚かなにかが?」
皇后はつよく首を振る。
「いいえ、彼女はわたくしに、とても気を使ってくれますわ。わたくしより先に子を産んでしまって申し訳ないと、本当にそう思っているようですの。わたくしだって、彼女の気遣いに感謝しています。
でも、夢の中では、わたくしはみなを殺して回るの。こんな浅ましい醜いことをわたしが望んでいるというの? でなければ、きっとわたくしは狂ってしまったにちがいないわ」
そう言う皇后の大きな瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
こんなふとした表情さえ、父親に似ているのだなと感心しつつ、わたしは言った。
「いっとき、母上のいらっしゃるご実家に帰られては如何か。陛下には、わたくしからも口ぞえをさせていただきますゆえ」
即座に皇后は、声を高くして言った。
「いや! 帰りたくないわ。家に帰れば帰ったで、きっと皆から、まだ懐妊せぬのかと責め立てられる」
張飛がそうであったように、この皇后も、明るい気性を持っているが、素直すぎるがゆえに、ふとした人の言葉に、容易に傷ついてしまうのだ。
こればかりは、わたしも策を練りようがない。
どうしたものかと考えて、ふと、よいことを思いついた。
「皇后、その悪夢は、皇后に嫉妬する者が呪いをかけているのかもしれませぬ」
「呪い?」
皇后は、ぞくりと背筋をふるわせた。
わたしはつとめて自信満々に、笑みをたたえて肯く。
「ご安心なさいませ。亮は、呪いの回避の方法を知っております。夜眠るときに、獣の皮をなめしたものを敷いて眠るのです。古来より、獣の皮は邪な霊を追い払う力を持っていると、言い伝えられております。
さっそく皇后様のために、特別な皮を用意させましょう。それでもまだ夢を見るときは、つよくこう言うのです。『私にはまじないに強い、諸葛亮がついている。私に呪いをかけるのなら、まず、諸葛亮のところへ行くがいい』と」
「でも、それで、本当に相父のところに呪いが行ってしまったら、どうすればよいの」
皇后が芯から心配そうな顔をするので、わたしは思わず、素の笑みをこぼした。
「呪いを払う方法など、亮はいくつも知っております。ご存知でしょう、わたくしは琅邪の出。そういった知識には事欠きませぬ」
実のところ、口ほどでもなかったのだが、皇后を安心させるためならば、わたしはもっと派手な嘘もついただろう。
皇后は、まじないを信じたのか、わたしに悩みを打ち明けたゆえか、晴れやかな顔をして戻って行った。
皇后を宮中に帰すと、わたしは使者を遣わし、鎮東将軍の趙子龍に、至急、めずらしい獣の皮を用意して欲しいと送った。
子龍は蛮族の抑えのために、成都を離れていた。
そのため、成都に入るよりも、かえって交易商人とうまく交渉して、めずらしい獣の皮をすぐに手に入れられるだろうと踏んだのだ。
読みはあたり、子龍はほどなく、成都の山深くにいるという、神獣の皮を贈ってきた。
虎か熊の皮を想像していたのであるが、届いたのは白と黒の模様のある、クマのような奇妙な生き物であった。
さっそくそれを贈ると、皇后はなめした皮をたいそう気に入り、そこに眠るようになって以来、悪夢をみなくなったと、密書で知らせてきた。
わたしは次いで、費文偉と董休昭を呼んで、皇后にあからさまに敵愾心を燃やす女人がいるのであれば、これをすみやかに、宮中から去らせるように、と命じた。
二人は、特に陛下に近しくしているので、女人たちの動向も把握していたからである。
ふたりはわたしの言葉に素直に肯いたが、そのとき、文偉の様子がいつもとちがって、沈みがちであったのを、単に叱られたからだと思い込んだのが、まず誤りであったのかもしれない。
それからほどなくして、わたしは奇妙な夢を見た。
どこかの屋敷の井戸のふちであった。
しとしとと降る雨の中、濡れるのも気にせず、ひとりの女が、こちらに背を向けてうずくまっている。
どこかで、だれかが唄を歌っている。
目の前の女ではない。
雨音を縫うように、ひくい、しわがれた声が、単調になにかを吟じているのだった。
わたしは、頭をめぐらせて、唄の主を探したが、女以外の人間は、だれもいないようであった。
女は、下女などではない。
凝った文様の入った、絹織物を身にまとい、髪型も当世風に結っている。
銀細工が、複雑に編まれた黒髪をかざっている。それが、雨の雫をうけて、輝いていた。
女は、熱心になにやら作業をしている。
後姿しか見えないが、ずいぶん華奢な女だ。
わたしは興味をそそられ、女に近づき、この雨の中、なにをしているのかと覗きこんだ。
どうやら、女は、足元の地面を、懸命に素手で掘っているらしい。
土をかきむしるようにして、掘り返している。動くたびに、ドロが跳ねて、衣裳をよごした。
女の顔は見えない。しかし、うしろからみただけでも、鬼気迫るものを感じ、わたしは、女を呼びとめるべく、その肩に手をかけた。
そこで、夢は唐突に終わった。
目が覚めたのは、雨音ともちがう、はげしい雫の音の所為であった。
起き上がり、音のするところへ行くと、屋敷の、あまり使っていない部屋が雨漏りをしており、それを受け止める鼎があふれて、ぴたんぴたん、と大きな音を立てていたのである。
それも一つや二つではない。
どうして、こんなことになっているのか。
たしかに、ここ最近の雨の降り方は異常であったけれど、屋敷の補修は、しっかりしていたはずだ。
ふと、気配を感じ、目を遣ると、中庭を挟んで向かいの廊下の奥に、暁にはまだ時間があるというのに、わたしに背を向けるような形で、女がじっとしているのが見えた。
誰か。料理女か。下女か。
しかし見覚えのない背中だ。
「丞相」
声をかけられ、わたしは我に返った。
古くからいる家令は、わたしを「との」と呼ばずに役職で呼ぶ。
たとえどこであれ、わたしは『殿』と呼ばれることを嫌った。
はっきりと、陛下の家臣のひとりである『丞相』だと、世間に刻み付けておきたかったのである。
陛下や皇后がその生活を脅かされているように、わたしもまた、不遜な野心をもつ連中から常に狙われている身なのだ。用心はするに越したことはない。
「申し訳ありませぬ。宿直の者に、時間が経ったら、水を捨てるようにと言い含めておりましたが」
「屋根の補修は、しっかりしてあったはずだぞ」
「それが、ここしばらくの長雨のゆえか、屋根が腐ってしまったようでして」
そんなことがあるものか。いくら雨がつづいているとはいえ、屋根がそんなにあっさり腐るはずがない。
この屋敷に入るに当たり、わたしは家人に、すべての部屋の屋根の補修を命じていた。
雨漏りをし、それを鼎が受け止めている、この部屋だけ、作業を取りこぼしていたのではないか。
不興が顔に出たのだろう。家令は畏まってしまい、わたしのほうも、すっかり目が覚めてしまった。
庭からは蟇蛙の声がひっきりなしに聞こえて耳を乱す。
もう眠ることはかなわぬだろうと嘆息しつつ、わたしは自室へ戻った。
「このままでは冷害が懸念されます。それに加えて、南蛮の動きも怪しい様子」
「備蓄米の貯蔵量はどれくらいになる。それと、飢饉になりそうな土地を挙げておいてくれ」
わたしが言うと、蒋琬は、それが、と顔をしかめてみせる。
「長雨が続いているのは、成都だけなのでございます。周辺の土地は例年通りで問題ないと」
「莫迦な。成都だけが、このように、雨に悩まされているというのか」
「世間では、この天変地異は、天の怒りを示すものではないかと」
「天の怒りとは、なにを怒っているというのだ」
いつも、あきれるほどに動じることのない蒋琬が、そのときばかりは口ごもり、わたしから目を逸らす。
これは、おそらく、わたしがらみの噂が流れているにちがいない。
詰問すると、ほどなく蒋琬は白状した。
「じつは、丞相が皇后陛下と通じているのでは、という噂が流れております」
「なにを言うか!」
思わず声が尖った。
蒋琬はびっくりし、ほかの部屋の文官たちも、わたしの声におどろいて、様子をさぐりに部屋を覗きにくるほどである。
わたしは目で彼らを去らせると、蒋琬に尋ねた。
「だれがそのような汚らわしい噂を流しておるのだ」
「わかりませぬ。胡偉度が市井を探らせておりますが、そも、どこから、なぜそのような噂が立ったのか、元がさっぱり掴めぬ様子でございます」
「当たりまえだ。事実無根なのだから」
わたしは胡偉度を呼び、報告を聞いたが、蒋琬の言うとおり、噂は魏や呉によって流された形跡もなく、どこからともなく、聞こえてきたものであるらしい。
丞相府に皇后があらわれたことを、だれかに見咎められたのかもしれない。
わたしは宮城におもむき、陛下への謁見をねがったが、陛下は頭痛がするといって、わたしと会おうとしなかった。
しかし費文偉によれば、陛下は、その日すこぶる元気であったという。
かつてない、重苦しい空気に取り囲まれていることを、わたしは感じずにはいられなかった。