B.B.の世界

三十四

自転車と星の王子さま?

 

 高齢者向けパソコン教室は、平日の日中、お年寄りが集まりやすい時間を設けて行われる。昼過ぎの13時から15時までの二時間が比沙子に割り当てられた時間だ。この時間なら、貴海も理音も頚木も、授業中である。あの夜以来、理音からの連絡はなにもない。
 比沙子は逃げ出したい、と思った。雨咲名望にいるだけで辛い。不意にあの角から、知っている人が現れたらどうしよう、と思う。自信がついた、と思っていた。しかし、幻想だったのだ。偽の姿に、偽の自信。なにひとつ、すがれるものはない。
 考えれば考えるほど、暗澹とした気分になってくる。屈託のないお年寄りの反応が、唯一の慰めであった。場を明るくしようと、お年寄りが、
 「こんな美人さんに教えてもらえてラッキーだね」
と言ってくれるのだが、笑うのにも顔がひきつってしまう。

 顔を洗おうと、休憩時間に手洗いに立った。さすがお金持ち学校。トイレもぴかぴかで、便器も全部、最新のウォシュレット付。掃除が楽そうでいいな、とぼんやり思っていると、またぞくりと、悪寒が走った。
 鏡の中の自分の横に、あの少女が立っている。手に持っているのは…
 「動かないで」
少女は、低い、かすれた声で言った。比沙子の背中の、ちょうど心臓の位置にジャックナイフが突き立てられている。
おもちゃや単なる脅しでないことは、少女の発しているすさまじい憎しみの気で感じ取れる。なぜそこまで憎まれなくてはならないのか、比沙子にはわけがわからない。
 「あなた、だれなの」
 「来なさい」
 少女は短いが、凄みのある声で言うと、比沙子を脅しつつ、トイレから廊下に出た。休憩時間なのでお年寄りが廊下に出て、窓からの眺めを楽しんでいるが、比沙子の様子に気づかないでいる。
なんなの、これは。現実なの?
 「階段を、上るのよ」
少女は、薄暗い階段を示した。閉鎖された天文部が使っていた、望遠室につづく階段だ。一段、一段、ゆっくり上る。
だれか気づいてくれないだろうか。しかし、お年寄りたちは窓の外に集中しており、比沙子に注意を払わない。
声を上げてみようか。首をわずかに動かした途端、背中に固い感触があった。
 「あきらめなさい。騒いだら、刺す」
 比沙子はあきらめて、少女の言うがままに、望遠室に入った。

 望遠室は、長いこと閉鎖されていた、ということであるが、小汚く散らかっていた。
どこもかしこもホテルのように清潔な校舎で、はじめて雑然とした部分を見た、と比沙子は思った。真っ暗な室内には、望遠鏡と、机と、古い天文雑誌のバックナンバーがあり、壁には、天文部が隆盛をきわめていたころの、雑誌や新聞などの記事の切抜きが貼ってある。
写真のほとんどが、長森チサトを写したものであった。長森チサトの顔の部分には、だれがしたのか、ボールペンで丸が囲まれていて、花丸がされている。
 そして…
 比沙子はぎょっとした。奥の部分に、天井からロープがぶら下がっており、首をくくれるようになっている。
足元にはちゃんと台座があり、ダンボールを切って作った、ちゃちな十字架まで用意してある。
手作りの小さな祭壇を見たとき、比沙子はこの少女の幼稚な異常性を理解して、さらに震えた。
 「わたしを殺す気なの?」
 「そう」
と、あっさり少女は肯定した。
 「なぜなの? あなた、いったい、だれよ?」
 「長森チサト」
 「嘘おっしゃい。長森チサトは、この壁新聞に載っている子でしょ? わたし、彼女を実際に何度も見てるから知ってるわよ。ぜんぜん似てないじゃない!」
途端、ナイフをかざしていた少女の顔に、激しい炎のような感情が走った。
しまった、と思ったが遅かった。少女はナイフをさっと動かすと、比沙子の頬を切った。
比沙子は悲鳴を上げた。すぐにどくどくと生暖かい鮮血が流れてくる。
 「偽の顔、いらないでしょ」
 「あなた…?」
知ってる? どうして?
 「安心しなさい。一人にはしない。一緒に、死んであげる。あなたが首を吊ったら、あたしはこれで、喉を裂く」
 「嫌よ! どうしてあんたと心中なんか!」
 「一緒に、死ぬのよ」


 『一緒に』
その言葉を聴いた途端、比沙子の記憶がよみがえった。

 揺るぎない決意を固めてきたはずなのに、実際に手術となると、比沙子は動揺した。
麻酔を掛ける直前に、パニックを起こして、手術室を出た。
比沙子の気持ちを鎮めるために、好きな音楽であるTOTOの『アフリカ』を流してもらっていた。そのゆったりしたリズムが、手術室の前で震える比沙子の耳にも届く。
 「どうしたの、手術しないの?」
 声をかけられた。
てっきり、看護婦か、医者だと思っていたが、そうではない。自分と同じ、手術用の服を来た少女だった。まだ高校生か、中学生に見える。
 「あなたも患者なの?」
 「そう。すこし鼻を高くしてもらうの。シリコンを入れるんだって」
 あっさりと嬉しげにいう少女に、比沙子は驚いた。
少女は、どう見てもかわいらしい顔立ちだった。すでに何箇所か手を入れているのだろうか。そんな比沙子の心を察したのか、少女は笑った。
 「あたしって、鼻の形がよければ、もっと可愛くなると思わない? いまのままだと、ぺしゃんこの鼻で、頭が悪いように見えるでしょ? だから、パパやママに、受験や就職の面接のときに、感じを良くしたいから、ってお願いして、整形することにしたの」
 「でもあなた、まだ学生でしょ?」
 「うちって、校則、すごくゆるいんだー。二重にした子もいるけど、何にも言われてないよ。どんなふうに変わるのか、すっごく楽しみ。あたしね、美人の従姉がいて、その子みたいになれ、ってんで、親がその子と同じ名前までアタシにつけちゃって、いっつも比較されるの。しかも顔も似てるとかってさー。これって人権侵害じゃない? あ、ちがうか。
でも、お姉さんも、楽しみじゃない? みんなからびっくりされると、きっと気持ちいいと思うよ。いままで自分を馬鹿にしてたやつらとかさ、どんな顔するかな、とか、そういうこと考えれば? ね、一緒に手術しよう」
 少女は、比沙子がパニックを起こしたのを見ていたのだ。状況が状況だけに、比沙子は追い詰められていた。
少女の言葉は、比沙子を勇気づけた。
特に最後の言葉。
自分を見た目だけで拒み、蔑んできた男たちが、果たしてどんな顔をするだろうか。二度とブスだなんていわせない。そのために、懸命に貯めた資金だった。
 「そうだ、手術が終わったら、どんなふうになったか教えあおうよ。お姉さんの携帯番号とメールアドレス、教えて?」
 無邪気な少女の提案に、比沙子はうなずいた。
 少女の名前は、「片平智里」といった。
 「うちの従姉より、ずっとカッコイイ鼻にしてもらうんだー」
 と智里は笑った。

 「片平智里…チサト」
高校時代の憧憬と嫉妬の象徴、長森チサトの従妹。
貴海も頚木も、少女を知らない、と言った。OGの従妹というのなら、もし彼女のIDカードが学校に返却されないままであったら、自由に校内に入り込むことも可能だったはず。
 「でもあなた、その鼻、どうして?」
 「転んだの。手術が終わって、すぐに。シリコンが破裂して、鼻が、めちゃくちゃになった」
 その様子を想像し、比沙子はぞっとした。
自分でもたまに見る悪夢であった。転ぶ、あるいはなにかしらの拍子に顔が崩れ、見るも無残な化け物のような顔になってしまう夢。
どうしても、千住さんを転ばせたいと思っているみたい、といった理音の言葉が浮かんだ。自分と同じ目に遭わせようとしていたのだ。
 「でもわからない。なんでそこまでわたしを恨むの?」
 「わからないの?」
智里は、ナイフをかざすと、比沙子に、ロープの前に行くように指示をした。
鮮血がぽたぽたと流れていく。それを止めることも許されず、比沙子は指示に従うしかない。
 「首を、入れなさい」
 「バカ言わないで!」
 「入れなさい!」
少女は、いままでにない剣幕で怒鳴ると、再びナイフを振りかざし、台に上った比沙子の足を切りつけた。
 「痛い!」
 「すぐに、痛みも関係なくなる。死ぬから」
 「どうして!」
 「きれいが一番、なんでしょ? 汚いと、心が荒むんでしょ? だったら、あなたもあたしも、醜いもの。生きていては、いけない」
 「あれは、校舎のことを言ったのよ!」
 「校舎も人も、同じ。醜いものは、生きる価値すら、ないの。ゴキブリも、だからすぐ、殺される」
 「ゴキブリと人間は一緒じゃないわよ!」
 「同じ、よ。ブスは嫌われる。蔑まされて、弾かれる。なんにもしてないのに、馬鹿にされて、笑われる。選択肢にすら入れてもらえない。そういう運命なの。あなた、わかるでしょ?」
 ようやく初めて、比沙子は智里に共感した。
理由のない蔑みから逃れるために、自分自身のコンプレックスから逃げるために、比沙子は変身することを望んだ。
でも結果は、なにも変わらず、みじめなものだった。
 「偽者は偽者。所詮は、同じよ」
 そうかもしれない。この子の言うことはとてもよくわかる。
人間なんて、薄っぺらでおろかだ。すぐに見た目に惑わされる。中身が大切だ、なんてお題目に過ぎない。特に若い男はバカばっかりだ。見た目やノリだけで相手を判断して、本当の人間の価値なんてわかろうともしない。それでいて、さも自分たちに見識があるかのように振る舞い、盛りのついた猫みたいに、きれいな女に群がるのだから、始末に負えない。
 そんな馬鹿な連中に、これ以上、振り回されて生きるのはたくさんだ。
 「首を、入れなさい、全部、リセットするの」
 そうだ、最初からやり直しだ。今度は、長森チサトのように、きれいな子になって生まれてこよう。 

 「リセットした先の保障なんて、何にもないでしょ!」
鋭い声とともに、闇の一部が動いた。
椅子が宙に浮いている、のではなく、真っ黒いワンピースの少女が、闇の中から躍り出て、椅子を振り上げて智里に殴りかかったのだ。田端理音だった。
 不意打ちだったので、智里はうろたえて、椅子を腕で庇った。が、その拍子に体が崩れ、比沙子の足元の台を崩した。
 「あっ」
がくりと体が揺れた。ロープにあごが引っかかる。足元になにもない。崩れた椅子や台をかきわけて、理音が飛んできて、比沙子の足を支えた。
 「千住さん、手は自由でしょ? 何とかロープを外して!」
 言われなくても比沙子は懸命にもがいていた。しかし何しろ足元がおぼつかないので、力が入らない。
そうこうしているうちに、打ち倒された智里が、再びナイフを片手に起き上がった。
理音は動けない。いま手を離したら、確実に比沙子に死がおとずれる。
 この期に及んでも、智里の顔に、熱というものがなかった。
 比沙子は、苦しい息のなか、智里を哀れに思った。
智里は自分の分身だった。同じものにあこがれ、生きながらに死んでいる、可哀想な娘。

 「でぇい!」
裂ぱくの気合の声とともに、いままさにナイフを振り上げようとしていた智里の背中に、竹刀が振り下ろされた。
クマゴローだった。
智里はそれでもナイフを離さず、クマゴローに立ち向かう。一度、二度、と刃が振り下ろされるたび、クマゴローはすばやく身をかわす。
そして、智里の隙をついて、ナイフを握る手首めがけてするどい一撃を落とした。智里がナイフを落とした。すばやくクマゴローは智里に当身を喰らわした。
 「凄い、先生、お侍みたい!」
懸命に比沙子を支える理音が言った。
クマゴローはナイフを拾うと、理音と比沙子に、動くな、と指示を出した。
そして、気合一閃、ナイフでロープをぶつりと切り落とした。
 よろめく比沙子の体を、クマゴローが支えた。ようやく開放された理音は、はあ、とため息とともに、その場にへたり込んだ。
 「どうした!」
 遅まきながら、貴海がようやく到着した。見るなり、理音は叫んだ。
 「遅い! いままでなにやってたの?」
 「授業だ! 何事だ?」
 「見てのとおりだよ! 本当に、今回は役立たずだね!」
 「おまえなあ…」
 比沙子は激しく咳き込みながら、二人の会話を聞いていた。クマゴローが背中をさすってくれている。
 「あなたが、無事で嬉しい」
と、クマゴローは、やはり朴訥に言った。
比沙子は、咳き込みながら、笑って見せた。クマゴローも笑った。どこか、安堵しているような笑顔だった。
それは、なんだ、こんな簡単なことだったんじゃないか、と言っていた。
 簡単なことだった。
だれより、醜さに囚われているのは自分だった。醜いものを嫌悪し、認めないことが、実はそれを一番肯定することだったのだ。
生きているなかで、果たして醜い記憶だけがすべてを決定していただろうか。醜いものばかりを追いかけて、美しいものを忘れていたのではないだろうか。
 いま、わたしは智里に殺されたのかもしれない。
 今度は、きっと、美しいものを追いかけて生きよう。本当に美しいものを追いかけて、本物の笑顔で生きるのだ。


頬の傷が癒えたので、比沙子は雨咲名望学院を訪れていた。理音に会うのは3ヶ月ぶりであった。
 「うわあ、お久しぶりです。もう大丈夫なんですか?」
理音は嬉しそうに近づいてきた。
 あらためて比沙子はこの少女をじっくり眺めた。
 たしかにきれいな子である。ただ、その美貌というのは、単に目鼻立ちが整っているというだけではない。この少女の魅力的なところは、その、年相応にみずみずしい、生き生きとした表情にあった。
不意に大人びた顔をするときもあれば、幼い少女のように膨れたり、と思えば年頃の少女らしくはにかんで見せたり。内面の豊かさが、この子の美しさを引き出しているのだ。

 比沙子は頬の手術をした。
比沙子の両親は、比沙子の顔を元に戻すための資金として貯めていたお金を、今回の怪我の治療費に当てることにした。
顔を元に戻すことについては、比沙子の中でまだ結論が出ていない。もったいない、と思うし、なにより、ここであっさり偽の顔を捨ててしまったら、智里の立場がないように思えたのである。
 
この年頃の少女は成長が早い。以前より伸びた髪を、指先でくるくるともてあそびながら、理音は言った。
 「先生に、怒っておきましたから」
 「え? どっちの?」
 「貴海先生のほうです。最低ですよね、あの人」
と突き放すわりには、どこか愛着のようなものが口ぶりにふくまれている。
 「田端さんは、先生の昔の話を知っているの?」
 「知っています。本人からも聞きましたし、ほかにも複数から情報が」
 それでよく、貴海を見放さないものだ、と比沙子は関心した。
落ち着いてから、冷静に考えられるようになったが、やはり貴海のことはプラスには考えられない。
比沙子の顔が曇ったのを見て、理音は言った。
 「あのね、先生のためにちょっとだけフォローを入れさせていただきたいんですが、あの人は、苦行僧みたいな人なんです。周りを収めるためなら、たいがい、忍耐と根性で自分ひとりで我慢しちゃうんです。自分の名誉に関心が薄いんです。わかりにくいですけど、相手を守るために自分を落とすのは、へっちゃらなんです。というか、得意技なんです。今回は空振りだったけど」
 「どういうこと?」
 「長森チサトさんて、みんなが言うほど、美人だったわけじゃないんです。もちろん、見た目はすごく綺麗ですよね。といっても、わたしも写真で見ただけなんですけれど。
でも、彼女、在学中は、いじめの首謀者だったんですよ」
「ええ?」
驚く比沙子に、理音は大きくうなずいた。
「もっといろいろあったみたいなんですけど、先生って、言い訳は好きじゃない、とかいって、ちゃんと当時のことを説明しないから、いまだに誤解している人もいるみたいです。
先生は、長森チサトさんにこう言ったんです。『君のように見かけ倒しの性格ブスとは付き合えない』って。それはそれで、すごい言葉ですけれど」
「いじめをしていたの。そんなふうに見えなかった」
一点の染みもない、純白なハンカチのように清らかな少女。それが比沙子の知っている長森チサトであった。
しかし、遠くから眺めたその姿から想像しただけの、実態とはかけ離れたイメージにすぎず、彼女の身に、本来まとわれていた闇が見えなかったということなのか…。
「そのほかに、たしかに、過去にいろいろあったのは事実ですけど、どうしてそれを、千住さんにわざわざ教えたのか、それを考えてあげてほしいなって思います。黙っていても良かったはずなんです。そういうふうにしか、謝ることができないんです」
 お願いします、といって、理音は例の丁寧なお辞儀を見せて、去っていった。

比沙子は、学生時代に、あれほど憧れていた白亜のお城をあとにしていた。
そこに登れば、シンデレラのように着飾っていけば、夢はすべて叶う…はずであった。
所詮、夢は夢だった、ということか。
比沙子は、道路に転がっていた空き缶を、ミュールでぽかん、と蹴り飛ばした。
さあ、学生時代はもうおしまい。あの門を出たら、ほんとうの自分の卒業式と行こうではないか。帰りに、ちょっと居酒屋にでも寄っていこうかな…
ぽーんと薄闇のなかで孤を描き、空き缶は派手にがらんごろんと音をたてて、アスファルトの上を転がっていった。
そうして転がっていった先に、自転車にまたがった、クマゴローの姿があった。
クマゴローは、比沙子の姿を見ると、自転車のサドルをぐっと握りなおして、言った。
「いま帰りか」
「ええ、そうですけど。その自転車どうされたんですか」
「車検なんだ」
「代車を頼めばよかったのに」
比沙子が言うと、クマゴローは、はじめて、そうか、という顔をしてうろたえた。その慌てぶりがおかしくて、比沙子は思わず笑ってしまう。
すると、クマゴローはほっとしたような顔になった。冷静沈着な王子さまとちがって、クマゴローはとてもわかりやすい。
「その、もし良かったら、後ろに乗らんか。麓のバス停まででもかまわんが」
「二人乗りは校則で禁じられているんでしょう? それに、下手に転んで、顔が潰れてしまったら、どうされるんですか」
ちょっと意地悪な冗談だったかな、と比沙子は思ったが、クマゴローは笑わず、真剣な顔をして、じっと比沙子を見据えた。
「顔が潰れようとなんだろうと、あんたはあんただろう。俺は、高校のとき、花壇の世話を一生懸命している、あんたの笑顔を見るのが好きだった。潰れた顔だろうがなんだろうが、あんたがあんたなら、それでいい」
クマゴローはそこまで言うと、今日は暑い、暑すぎる、と言い出して、襟元をぱたぱたとして風を入れた。
汗臭そうだし、武骨で、ロマンティックじゃぜんぜんないけれど。
「送ってくれる?」
「え? は? いいのか?」
「いいわよ。ただし、行き先はまだ決めてないの。あなたが途中で、面白い話をしてくれたら、行き先をどんどん変えていくっていうのはどう? 最初の目的地は麓のバス停。そこに着くまでに、面白いお話をしてくれたら、次は居酒屋。どう?」
「お、面白い話か!」
「そう」
そうか、と恐らく比沙子の言葉の意味も飲み込めないまま、クマゴローはうなずくと、比沙子を荷台に乗せて、自転車を元気に漕ぎ出した。
面白い話、面白い話、と念仏のようにつぶやくクマゴローの背にもたれつつ、比沙子は、背後にどんどん遠くなる、雨咲名望学院の校舎を、これが最後と思いながら、見つめていた。