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三十二
自転車と星の王子さま「あ、お待ちしてました。こちらです!」
はきはきとしゃべる、よく通る声だ。どちらかというと低めの声で、落ち着いた印象を与える。
比沙子の田端理音に対する印象は、クマゴローの話によって、だいぶ悪いほうに傾いていた。
昔の少女漫画に登場する、わがままでちょっぴり意地悪なお嬢様、『エースをねらえ!』のお蝶夫人とか、『ガラスの仮面』の姫川亜弓とか…ハイソでゴージャスで高飛車で自信家。
この明るい笑顔は、人から拒絶されたことのない、幸福な星の下に生まれた者のそれだ、と比沙子は胸の痛みとともに思った。
田端理音のように、容姿・頭脳・家柄ともに、すべて揃っているのは珍しいが、ともかく、比沙子は、恵まれた人間の傲慢さ、偏狭さはよく知っている。
彼女たちは自分を拒むもの、自分の理解できないものにひどく敏感で、それを排除するのに、なんのためらいもなく、残酷にやってのけるのだ。
あたしは拒まれ続けてきた。
なんの悩みのなく、認められるのが当たり前になっているあんたたちに、あたしのことが理解できるはずないじゃない。
しかし顔には出さず、比沙子はにっこりと笑みを返した。
「ありがとう。今日こそちゃんと案内してもらうわね」
理音は、昨日の怪我は、軽い捻挫だったので、しばらく大人しくしていれば、すぐに治る、と医者に言われた、と説明した。
理音は比沙子の下敷きになったがために怪我をしたのであるが、比沙子に対する恨みがましい言葉はひとつもない。
この年で、たいした気の使いようである。
それは、評価してもいいと、比沙子は、少女に感心した。敵であることにはまちがいないけれども。
比沙子は、再度IT教室の下見にやってきた。
上司にあたるパソコンインストラクターから、特別進学科のパソコンの状態、それから本当にウィルスは大丈夫なのか、ということを調べて欲しいと頼まれたのだ。
「これ、千住さんのIDカードになります。失くさないように注意してくださいね」
と、理音は『来客用』と書かれたカードを差し出した。
「このカードは、身分証明書にもなりますし、玄関と下駄箱を開けるキーともなるんです。見ててくださいね」
理音は一度玄関の外に出ると、戸口についているキーボックスにIDカードをかざした。
すると、玄関は自動的に開いた。
「下駄箱も同じようになっています。IDカードがあれば、警備員さんにいちいち開けてもらわずに済みますから、便利ですよ」
なんつー、金のかかるシステムだ。
呆れつつ、比沙子はたずねた。
「失くしちゃった場合はどうするの?」
「再発行もできますが、カードを忘れたり、失くしたりした場合は、事務員さんに身分証を提出してもらって、確認作業をするんです。時間がかかるんで、気をつけてください」
「つまり、このカードがなければ、中に入れない、というわけね」
「カードがない方は、警備員か事務員さんが付き添いで中に入るようになります。前はこんなにややこしくなかったんですよ。ちょっと事件があって、それで今月から、こういうシステムに変えたんです」
「学校も大変なのねぇ」
と、これは比沙子の実感である。
この学校を統べる学長候補の貴海の苦労も思ってみる。
家庭を作るとしたら、癒される場所にしよう。
自称『長森チサト』が案内してくれたときは、三階の階段までしか行けなかった。
IT教室は四階にあり、音楽室、音楽準備室、化学準備室、化学室、第二視聴覚室、IT教室、という順に並んでいる。
それにしても閑散としていて、生徒がいない。
これだけ大きな校舎に、生徒が300名ほど、という比率が問題なのか、それともさすが超のつく進学校だけあり、生徒たちは授業が終わると、すぐに帰宅してしまうのか。
「部活動は、昔みたいに活発じゃないのね」
「運動部はそうでもないんですけど、文化部はダメですね」
と、理音は大人のように返してきた。
「一応、存在はしているんだけど、活動の実態がない、というのが現状なんです」
「天文部も閉まっちゃったんでしょ? あたしの頃は、雨咲名望の天文部はいろいろ研究発表なんかで、華々しかったのに」
長森チサト、という花形スターを抱えた、天文部の活躍はめざましかった。
定期的に観望会を開いて、流星群を観察したり、天文写真をコンテストに出して、入賞者を出したり…一方の千住比沙子の県立雨咲高校の天文部は、いつのまにか漫画研究同好会と合流し、放課後にお菓子を持って、ウノをするだけの会になっていた。
いまでも続いているのだろうか?
「あの階段が、観測所につづく階段ですよ。いまは閉鎖されているんですけど」
理音が教えてくれたその階段は、プラネタリウムにつづくもののようであるが、ほとんど人の出入りがないことを、壁や階段のすべてが物語っているように思えた。
気のせいか、そこだけ空気が暗く見える。
「授業でも使わないんだ?」
「うちの先生、移動教室あんまり好きじゃないんです」
銀河の浪漫も何もないな、と比沙子は思った。
理音は、IT教室の入り口の取っ手に手をかけた。
中から話し声がする。複数の少女たちが、噂話に花を咲かせているようだ。
どうやら、掃除のあと、井戸端会議に花を咲かせっぱなしになっているらしい。
あ、だれかいるみたい、と独り言をつぶやきながら、あけようとする理音であったが、ふと、その手がびくりと止まった。
「田端のヤツ、最近、大人しいと思わない?」
「思うー。いい傾向だよ。あのぶりっ子、やっと自分の馬鹿さ加減を自覚したんじゃない?
知ってる? 茂手木先生にすっごい逆らって、それでテニス部追い出されたんだってさ。それなのに、絶対に学校を変える、とかわけのわかんない捨て台詞を吐いて、辞めたらしいよ」
「なにそれ。やっぱ理解できないなー。でもさ、テニス部辞めたら、一人でぼーっとしてるの、多くない?」
「あいつ、もともと友達いないじゃん。高木さんくらい?」
「高木さん、心が広いからねー。あたしだったら耐えらんない。自分が一番可愛くて人気者だって思ってるでしょ。こいつ、絶対にわかってるよ、って時にボケるしさ、すっごく白々しいんだよねー。
ぎゃあぎゃあ騒ぐくせに、肝心なところでは自分の意見とかちゃんと言わないし、それが可愛い、ってのと勘違いしてるタイプ? ちょっとちがうんじゃない? って、絶対ツッコミ入れたくなる」
「わかるー。だから友達いないんだよねー。何を考えてるかわかんないもん。嫌いな子、多いよー。だれか、本人に言ってやればいいのにねー」
理音は、笑顔のまま凍りついて、そのまま比沙子のほうを向くと、律儀にきちんとお辞儀をして、廊下を走り去っていった。
残された比沙子は複雑な気分だった。
走り去った理音は、泣いていたのではないだろうか?
足は大丈夫なのだろうか。
追いかけたほうがいいのだろうか?
でも掛ける言葉が比沙子にはない。
かといって、白々しくIT教室の扉をあける気にもなれなかった。
いま教室のなかで毒を吐いている少女たちの、なんと醜いことだろう。
本人に、ちゃんと面と向かって言う勇気もないくせに…いや、比沙子の心を重たくしているのは、それだけではない。
怪我した足にもかかわらず、走って逃げ出した理音の心痛を思いやるよりも、教室の中にいる少女たちに、共感を覚えている自分がいるのを見つけたからだ。
比沙子は大きくため息をついた。
以前は、自分の踏み出した一歩は革命なのだと信じていた。
確かに変わったこともある。
だが、根本的なところはなにも変わっていないのではないか?
高校生のときのまま。
颯爽と自転車で走り抜けていく、長森チサトに憧れつつ嫉妬していたときと?
そのとき。
ぞおっと背筋を這い上がるような悪寒が走った。
振り返るとそこに、自称『長森チサト』が立っていた。
「あなた!」
少女は、まったくの無表情で、じいっと比沙子を観察している。
大きく曲がった鼻が痛々しい。
不揃いに頭に張り付いているような黒い髪の毛から、暗い双眸が覗いている。
その目。
あたしは憎まれている。
比沙子は直感的に思った。
繰り返すが、比沙子は単純である。
挑戦されたら、受けずにはいられない。
加えて、自分への憤りが、そのまま、階段から突き落とされた恨みと重なった。
比沙子は少女に向かっていった。
しかし、直前で少女は背中を見せた。
走り出す。
「待ちなさい!」
少女は階段に向かい、降りていく。
比沙子もそれを追いかける。
階段を降りきり、踊り場にあともう一歩、というところで、足首がなにかに引っかかった。
「危ない!」
比沙子は声と同時に、腕をつかまれて後ろにひっぱられた。
しかし、前に倒れようとしていたものが、同じくらい強い力で後ろに引かれたのだからたまらない。
バランスを失い、比沙子は階段の角に、思い切り、尻を打ちつけた。
「だ、大丈夫か!」
見覚えのある剣道着が、後ろでうろたえている。
比沙子は咄嗟にめくれたスカートを直しながら、怒鳴った。
「大丈夫なわけないでしょう! そちらこそ、危ないじゃないですか!」
「す、すまん。しかし…」
うろたえて、口元でごにょごにょというクマゴローに、比沙子はさらに言った。
無様に、転んだところを見られた気恥ずかしさもあった。
「あなたね、女の体ってのは、微妙なんですよ、わかります? 腰を打っちゃったじゃないですか! もし子供を産めない体になったら、どうしてくれるんです!」
「いや、本当に、すまなかった…だが…」
比沙子は、自分でもわからないのだが、クマゴローには、気負うことなく、なんでもいえてしまう。言い過ぎてしまうほどに。
だから、しどろもどろになっているクマゴローに怒鳴った。
「言い訳はしないでください!」
その騒ぎに、どやどやと人が集まってきた。
部活中のジャージ姿の生徒や、手に楽譜を持ったまま飛び出してきた生徒。
その中に、理音と貴海の姿もあった。
理音の目のはしが赤くなっているのを見て、比沙子は、自分が悪口を言ったわけではないのに、罪悪感をおぼえた。
貴海は、生徒たちの間をすり抜けると、相変わらずの無表情のまま、わずかに眉をひそめて、クマゴローと比沙子のあいだも通り過ぎ、比沙子がつまずいたあたりの階段を見た。
その手が、宙で線をなぞるような動きをする。
「ピアノ線が張られている」
「ええ?」
確かに貴海が言ったとおり、階段にはピアノ線が張られていた。両端をフック錠にして、壁に打った画鋲にくくりつける、というだけの仕掛けだが、急いでいるときには気づかずに、つまずいてしまうだろう。
「なんだか、どうしても千住さんを転ばせたいみたい」
と、理音がつぶやいた。
クマゴローの本名は頚木四郎という。
いかつい名前で、クマゴローと大差ないので、比沙子は、つづけてクマゴローと呼ぶことにした。
クマゴローは言った。
「あんたがえらい勢いで階段を駆け下りていくのが見えたもんだから、追いかけたら、ちょうどまん前に、ピアノ線が張ってあるのがわかったんだ。だから咄嗟に腕を掴んでしまったんだが、あんなふうに転ぶとは思わなかった。すまなかった」
「だからなんですか! 危ないことには変わりないでしょ! 言い訳はしないでください。本当にクマゴローなんだから!」
「クマ…?」
「クマゴロー、です。いい名前じゃありません? いま命名させていただきました」
用心棒に出演中の三船敏郎から、ワイルドさを八割引きした雰囲気の頚木四郎、現在の名称はクマゴローは、顔を赤くして、目をぱちくりとさせた。
どうも女性に慣れていないようだ。純朴な性格なのだろう。
あんまり言うと、自分の性格の悪さが強調されるだけで惨めになるので、比沙子はそれ以上はやめることにした。
クマゴローの背後では、理音と貴海が、笑いをこらえるのに苦労している。
クマゴロー、ジャストフィットだったようだ。
「また同じ少女だったのですか?」
貴海は、咳払いひとつして、表情をリセットして、言った。
「ええ。間違いありません」
あの目。
暗くて冷たい目。
ナイフを喉元に突きつけられたような不気味さを覚えた。
憎まれている? なぜ?
「先生、警備員室のカメラにそれらしい女の子が映ってたみたいです」
理音の行動も早く、すぐさま警備員室に連絡し、校内のあちこちにある監視カメラの映像を確認させたのだ。
貴海と理音と比沙子とクマゴローは、確認のためその映像を再生してみたが、少女の動きはすばやく、薄暗い画面に、一瞬だけその姿が通り過ぎた程度のもので、個人を特定できるようなものは、なにも映っていなかった。
「これは、監視カメラの位置を知っているな」
苦々しく貴海がいうのを、理音が受けてたずねる。
「ということは、つまり、学校にかなりの頻度で通っているってこと?」
「そうだろう。かなり目立つ容姿だということだから、だれか見ていてもおかしくないのに、だれも見ていないとなると、本人は、慎重に自分から姿を隠しているということだ」
「なんのために?」
理音の問いに、答えられるものはない。
映像を追っていくと、少女は階段を1階まで駆け下りると、そのまま裏口へ行って、外に出て行った。
「あら、外に出る分には、IDカードは必要ないの?」
比沙子がたずねると、理音が答えた。
「中に入るときだけなんです。この子、やっぱり生徒なのかな。そうでなければ、どうやって中に入ってるんだろう」
画像をはっきり見るために、警備員室は暗室のように暗くしてある。
モニターの光だけがついており、青白い理音の姿が、いっそう青白く、よく出来た等身大の人形のように見せていた。
そのとなりで、貴海は言う。
「だれかと一緒に入ってきているのかもしれない。一応、この間の職員会議で見覚えのない女子生徒を見かけたら、注意するようにと連絡したんですが、反響はなにもありません」
「先生、本当にだれも、この子に見覚えないの? うちって人数少ないじゃない? すぐわかりそうなもんだけど」
理音の言葉に、貴海は答えた。
「該当なしだ。一応、さっきの時間に、外に出ていた生徒にも声をかけてみたが、それらしい少女が校門から出て行った気配はない。山のほうに入っていったのかもしれないが、となると、この校舎の周辺の地理にも詳しいということだな」
「いったい、何者なんだろうね。気味が悪い」
「田端、わかってるだろうが、ほかの生徒に言うなよ。おまえらは、すぐ学校に不思議を作りたがるからな」
青白い光が、仮面のように整った貴海の顔に、一層の凄みを作っていた。
そのうしろの、バビロニアの彫像のように佇むクマゴローは、やはりクマゴローである。あまり大差ない。
比沙子が帰宅する段になり、クマゴローは責任を感じているのか、家まで送る、と申し出た。しかし比沙子は突っぱねた。
「結構です! これ以上、怪我が増えたらたまりませんし!」
しょんぼりとするクマゴロー。
良心が痛むが、比沙子の狙いはあくまで王子さまである。
貴海は肩をすくめ、いいでしょう、わたしが送りますよ、と言った。
理音が別れ際、
「なにかあったら連絡しますんで、携帯電話のメールアドレスと番号、教えてもらえませんか」
と申し出てきた。
個人情報を出向先に教えるのは好きではなかったが、理音への罪悪感もあったので、比沙子は情報を交換した。