B.B.の世界

三十一

自転車と星の王子さま 
私立雨咲名望学院普通科の、IT室のパソコンが、全部ウィルスに汚染されていることが発覚した。

 『高齢者向けパソコン教室は、急遽、特別進学科に場所を移して行うことに決定いたしました。事前に下見をしたい、という件でしたが、ご存知のとおり、特別進学科に外部の方が入る場合は、かならず内部の人間の付き添いが必要という規則になっております。
つきましては本日の15時、特別進学科校舎の職員玄関におこしください。当日は、特別進学科二年B組の風紀生活委員の生徒が、あなたをご案内さしあげる予定です』
 
「なんだ、彼じゃないのか」
と、そのメールをチェックしたとき、千住比沙子は残念に思った。
 千住比沙子は、今年で25歳になる、パソコンインストラクターの卵である。
中肉中背で、スタイルはあまりよくないが、表情豊かな大きな目が特徴の、愛らしい顔立ちをした女性だった。
よく有名アイドルに似ていると言われるのが自慢だ。
 
このたび、国のIT普及事業にともなって、高齢者向けパソコン教室が雨咲市でもおこなわれることになり、場所に私立雨咲名望学院が選ばれた。
 私立雨咲名望学院というのは、県下でも有名な名門マンモス校で、幼稚園からのエスカレーター式になっている。
特に有名なのが、特別進学科と呼ばれる学科で、進学率99%という、県下随一の実績を誇っている。
ただし、複雑なシステムも有名で、生徒たちは、成績順にクラスが振り分けられており、中間・期末を終えた学期ごとに、成績順にクラス替えがおこなわれる。
そのために退学率・留年率も高い。
 
特別進学科は雨咲名望学院の目玉でもあるから、生徒もたいそう大切にされている。
全校で300名ほどしかいない生徒のために、4階建てのいちばん新しい校舎が用意されている。
冷暖房完備、セキュリティも万全、という一流企業並みの豪華さだ。
維持費が高いので、自然と上流家庭の子弟が多くなる。
金持ちで、なおかつエリート、という鼻持ちならないガキ…いや、お子様たちがつどう場所でもあるのだ。
 
それにしても、だれがばら撒いたんだか知らないが、普通科のパソコンのウィルス万歳、である。
おかげで無理だと思っていた、特別進学科の中に入ることが出来る。それはつまり、あの彼と、接触する機会が増えるということだ。
やはりこれは運命?

 千住比沙子は素直である。
感情の起伏がはげしく、舞い上がりやすいので、時折、周囲を唖然とさせる行動を取る。
たいがいの行動の動機は、比沙子には、確固たる根拠があるのだが、周囲からすれば、「そんな理由で?」と首をかしげるようなことだ。
現在も、とある行動が原因で、両親と絶縁状態中である。
しかし親が何だと言うのだ。

比沙子は、目のまえに赤い絨毯が敷かれたまぼろしを見る。
この道は彼へとつづく。
でもってさらに伸びに伸びて、この絨毯は玉姫殿(比沙子は結婚式場は浜野の玉姫殿、とかたくなに決めていた)のウェディングロードにたどり着いているにちがいない。
指に輝くダイヤモンドは千年の輝き。
よっし、燃えてきた!

 私立雨咲名望学院は、雨咲城址に建てられた。
小高い丘の、町を一望できる天守閣跡地に建っている。
うす曇りのために、丘から富士山は見えなかったが、町を望むと、遠くは東京湾をはさんで、川崎市のビル群まではっきり見えた。
こんないい景色を毎日、あのお城のような白い、ぴかぴかの校舎の中でながめている彼は、まさに『王子さま』と呼ぶにふさわしい。

いまでもまぶたを閉じると、夕焼けをバックに、盗まれた自転車を取りかえしてくれた、彼の勇姿が思い浮かぶ。
涼やかで凛々しい顔立ち、すらりと高い背、落ち着いた物腰、淀みのないしゃべり方。
比沙子の熱心なリクエストに答えて、神様が創ってくれた、としか思えない少年だった。
あれから7年。
いまは立派な青年教師となっていることだろう。

メールの指定どおり、職員玄関におもむくと、『風紀生活委員の生徒』らしき少女が立っていた。
約束の15時よりまだ早いのに、感心したものだ。
少女は、怪訝そうに比沙子を見た。
 『う』
思わず比沙子はうめいた。
心の中だけで。
実際に表情や声に出さなかったのは、分別があるからだ。

少女はひどい傷を顔に負っていた。
事故にでも遭ったのか、鼻の形が大きくゆがんでいるのである。
鼻と口の位置が、右と左に、それぞれずれているために、ピカソの絵の女のように見えた。
しかも目の表情が暗い。
血色のない肌をして、髪もわかめのように、不揃いに垂らしている。
 
比沙子は不愉快に思った。
比沙子は醜いものが嫌いなのだ。
比沙子はきれいなものしか見たくない。
王子さまは、お出迎えの使者に、こんな、ひきがえるのような醜い少女を遣わしたのか? 
 
と、そこまで考えて、比沙子は気を取り直した。
どちらにしろ、少女は王子さまとつながっている。使者にわるい印象を残したら、どんなふうに王子さまに思われるかわかりゃしない。
比沙子はにっこりと、鏡の前で何度も練習した笑顔を少女に向けた。
 「こんにちは。あなたが、風紀生活委員の生徒さん? あたしはパソコンインストラクターの千住比沙子といいます。よろしくね。
ところで、貴海さんはいらっしゃる?」
 少女は、淀んだ生気のない目でじっと比沙子を見たあと、ふるふる、と首を横に振った。
子供じゃあるまいし、口で答えなさいよ、と比沙子は思う。
 「そう、それじゃ、学校の案内は、あなたがやってくれるんでしょう? 名前はなんていうの?」
 しばらく間があり、ようやく少女は答えた。
 「…長森チサト」
 「長森さんか、それじゃあ、早速だけど、IT室に案内してくれる?」

 チサトはこくりと頷いて、比沙子を校内に招きいれた。
さすがセキュリティ万全を謳うだけあり、記帳をし、さらに警備員に持ち物チェックまでされて、ようやく中に入ることができる。
 有名な建築家にデザインさせたという校舎は、学校と言うよりホテルのようであった。
廊下の壁や床の色はパステルカラーのピンクとオレンジを基調にした配色で、壁や階段も生徒が過ごしやすいように、考え抜いてデザインされている。
 『ここで高校生活をしたかったな』
と比沙子は思う。
きれいが大好きな比沙子は、雨咲名望の麓に、こじんまりとある、ぼろくて汚い県立雨咲高校の出身だった。

思わず口に出していた。
 「いいわねぇ、きれいなのは。みにくいと、心が荒むものね」
チサトは黙っている。
あまりきゃぴきゃぴと騒がしいのも苦手だが、だんまりがひどい場合も困りものだ。比沙子は貧乏性なので、沈黙がもったいない、と思う。
 「あたしは雨高だったから、制服は、だっさいセーラー服だったのよね。すごいわよね、この学校は、学科ごとに制服が違うんでしょう? 黒いワンピースにベレー帽の特別進学科の制服って、いかにも可愛いお嬢様ってふうで、憧れたな」
 「こっち。この階段」
 比沙子の言葉には応じず、チサトは上への階段を示した。
 「ねえ、この学校ってH字型になってるじゃない? 職員室のある管理棟って、こっちでいいの?」
 「職員室は二階。IT室は3階だから…」
ほとんど消え入るような、低い声でチサトは言う。
 「貴海さんも、職員室でしょう? すこし、挨拶したいんだけれど」
チャンスは少しでも逃さない。
第一印象を良くして、あとあと楽にしなければ。
だがチサトは、また、首をふるふると横に振った。
 「貴海先生、職員室にいないの」
 「あら、じゃあどこなの?」
 「化学準備室…」
そういえば、あたしの(とうとう所有格がついた)王子さまは化学教師であらせられた。白衣姿も似合いそう。

 「あの、すみません、パソコンのインストラクターの方ですか?」
明るい、はきはきした声がかかって、比沙子は振りかえった。
 見ると、階段のしたに、息を切らせて、赤い頬をした背の高い少女がいた。
あら、可愛い、と比沙子は軽い反発とともに思った。
少女は、たれ目気味だが、聡明そうなきれいな瞳を持っていた。
ミルクのような白い肌に、赤いグミの実のような血色のよい唇を浮かばせている。お人形さんみたいな美少女だ。
 「ごめんなさい、わたし、貴海先生に言われて、校内の案内をまかされた、田端理音といいます。よかった、見つかって」
 「え? あなたが」
あたしを案内してくれる子? と言いかけて、不意に比沙子は背中に衝撃を感じた。あっ、と思う間もなく、ふっと宙に浮かぶ不安な気持ち悪さがつづき、視界が一気に動いた。
ぎゃあ、と声を上げたのか、それともとっさに自分を支えようとした田端理音が、支えきれずに上げた声だったのか。
ともかく、ものすさまじい物音とともに、比沙子は階段から転げ落ちていた。
田端理音を下敷きにして。



 突き飛ばされた、と比沙子は思ったが、確信はない。
自分の背後にいたのは長森チサトだったわけだが、なぜあの子が自分を階段から突き落とそうとするのか?
 「階段から落ちたそうだが?」
 がらりと開いた保健室の扉とともに入ってきた声の主に、比沙子はときめいた。
王子さま、ご登場である。
階段から落ちて、比沙子は弁慶の泣き所に青あざを作ったが、それとて怪我の功名に思えてしまう。
 
比沙子は、この日、はじめて、メール以外のやりとりで、25歳になった王子さまを見ることが出来た。
変わっていなかった。
むしろ大人の渋さや陰りを含んで、昔より、ずっと素敵になっている。
 
王子さまの名前は貴海雪秀という。その名のとおり冬の生まれで1月14日生まれの山羊座のA型。今年で25歳、私立雨咲名望学院特別進学科のOBで、千葉大学に進学。
家族構成は父母妹だが、家庭環境が複雑で、母親を早くに亡くし、父や妹も別宅で生活。現在、母方の叔母の世話を受けながら一人暮らし中。
高校時代には、生徒会の副会長もつとめた。剣道部のエースであり、県大会では準優勝の成績を収めた実力派。
身長186センチ、体重不明、ちょっとつり上がっている、凛々しいお目目が特徴。高貴なお顔立ちから人気高し。
得意なものは、暗記と手工芸、苦手なのは、カラオケと合コン。
気難しいので落とすのは大変。
以上、千住比沙子のデータベースより。

 比沙子と一緒に保健室で手当てを受けていた理音が、あ、先生たち、わざわざ来てくれたんだ、と言った。
そのとおり。比沙子の目には入らなかったが、貴海と一緒に保健室に入ってきた男がいる。
 その男は熊のようだった。もっさりしていた。
蟹股で、素浪人のような髭を生やしていた。
三船敏郎がサラリーマンになって、スケールダウンしたような雰囲気である。
剣道着を着て、片手には竹刀。憮然とした表情。
毛玉が歩いているような印象を、比沙子は受けた。
その毛玉は、じいっと比沙子を怪訝そうに見つめている。
なんなの、なんなのよ。

 比沙子は階段から落ちて、足の裏をすりむき、右足の親指のつめを割ってしまった。
それだけで済んだのは、163センチある田端理音が、咄嗟ながら比沙子を受け止めてくれたからであった。
理音のほうは、軸足をひねっていた。
 「どうも申し訳ありませんでした。大丈夫ですか」
と、王子さま、貴海は言った。
間近で見る王子さまは睫毛が長く、シミもニキビもないきれいな肌をしていた。
品のある顔立ちと、凛々しさの際立つ、つりあがり気味の目、なにも変わっていない。
比沙子はときめいているのを隠しつつ、何度も練習した、とっておきの笑顔で返した。
 「謝ってもらうことなんて、わたしが滑っただけですもの」
 「ちがいます、女の子が、突き飛ばしたんです」
と、これは診察台の上に起き上がって、ひねってないほうの足をぶらぶらさせている田端理音だ。
貴海が、すかさずたしなめた。
 「こら、不用意に膝から上を見せるんじゃない。スカートを規定の位置まで下ろしなさい…よろしい。突き飛ばしたって、だれが、だ」
 「知らない子です。髪が肩から少し出るくらいの長さで、痩せてて小柄な子。顔は逆光で、よくわからなかったんですけど」
 比沙子は、問題を起こしたくなかったので黙っていようかと思っていた。
しかし理音が、比沙子をチサトが突き飛ばすところを見ていた、と言ったので、合わせることにした。
 「長森チサト、と言う子です。ごめんなさい、てっきり彼女が風紀生活委員かと思ったので、付いて行ってしまったんですけれど」
 「長森チサト?」
その名前を聞いて、貴海と黒い毛玉は、渋い顔をして顔を見合わせた。
貴海は保健室のパソコンを開くと、学校のデータベースを呼び出し、比沙子に見せた。
 
画面には、学校紹介のHPが出ていた。
天文部の紹介、となっていて、望遠鏡の隣に、髪の長い、目鼻立ちの整った清楚な雰囲気のきれいな少女がにっこり笑っている写真がある。
キャプションには、『「星を眺めるのが好きで天文部に入部しました」と、語る長森チサトさん』とあった。
 
比沙子は不思議な印象を受けた。
ここで、彼女に出会うとは。
長森チサト。
名前も初めて知った。
でもその存在はよく覚えている。

望遠鏡を片手に、自転車で颯爽と通り過ぎていくのを、県立雨咲高校の男子生徒たちは、あこがれの眼差しでながめていた。
それを見て、比沙子は、自分は一生、異性に熱っぽく語られることなど、ないのだろうと思って悲しくなったものだ。
どうして、自分は、彼女のように、きれいに生まれなかったのか。

 「ちがいます。この人じゃありません。だってこの人、もう高校生じゃありませんよね? たしか、わたしたちと同じ学年だったと思うんですけれど」
 「よくご存知ですね」
 と、貴海は関心がないふうに、単調に答えた。
王子さまはクールなので、噂の類などに関心はないのだろう。
代わりに毛玉が言う。
 「当時のミス雨咲名望だからな。近隣じゃ有名だった」
 「わたしの会った子は、ちょっと特徴のある顔立ちの子でした。鼻と口の位置がずれていたんです。事故にでもあったのかな、と思ったんですが」
 「天文部なんて、うちにあるんですか?」
と、理音が貴海にたずねた。
貴海はパソコンから目を離さずに答える。
 「2年前に廃部になった。この学校紹介は更新されて、いまは使われていない」 
 「じゃあ、千住さんを突き飛ばしたのは、だれなの?」
理音の言葉に、だれも答えられずに、沈黙が流れた。




 茜空にうっすらと雲が溶け込んでいる。どんどん濃くなる影を照らしながら、帰宅する職員の車のライトが通り過ぎていった。
生徒たちの元気のいい声が、徐々に校舎から遠ざかっていく。
 
比沙子は単純である。
階段から突き飛ばされたことは気持ちが悪かったが、おかげで、貴海に車で、自宅に送ってもらえることになったのだ。
怪我の功名だ。
王子さまは銀のプジョーを、白馬代わりに乗り回していた。似合いすぎる。

 「すみません、わざわざ送ってくださるなんて」
 「いいえ、うちの生徒のしたことですので」
比沙子のはしゃぎっぷりとは対照的に、貴海の淡々としすぎているところが気にかかるところであるが、それは道中の会話でいくらでも穴埋めが利く。
エリートの貴海のために、比沙子は『アナウンサーが教える話し方教室』にまで通っていた。
 喜んでいると、車を回そうとしている貴海の前方に、二人乗りの自転車が、ぴゅんと通り過ぎていった。
車のキーを回しかけていた貴海は、それを見つけると、ゆるゆると移動していく自転車を追いかけ、怒鳴った。
 「こら、田端、高木! 自転車の二人乗りは、校則違反だぞ!」
ちぇー、見つかった、と声がして、先ほど一緒に階段を落ちた田端理音が、しぶしぶ、というふうに自転車の二台から降りた。
丸顔に、さらに丸い鼻をした、スカートをかなり短く改造した運転手の生徒が、気まずそうに、自転車を戻す。
 「お父さんが迎えに来る、って話じゃなかったのか?」
 「会合があるから、ダメだって言うんです」
悪びれず理音は答えた。今日日の女子高生は大胆不敵である。
 「じゃあ、タクシーで帰りなさい」
 「高いもん、ねーえ?」
理音は、自転車の運転手に同意を求めた。
運転手の少女は、気まずそうに笑うだけだ。

 王子さまは、きっちり教師の仕事をこなしておられるらしい。
ほほえましい光景だ。
生徒にもきっと慕われているんだろうな、と思うと、ますます比沙子は王子さまへの想いを深くした。
優しく、凛々しく、人望もあり、教師と言う聖職についている。
至れり尽くせり。
絶対に落とす!

 「仕方ない…来なさい、送ろう」
なんだって?
 比沙子の失望をよそに、理音は屈託なく、にっこり笑う。
さらに問題なことに、そんなに嬉しいかねぇ、などと言いながら、貴海までもつられて笑っているのであった。
笑っている、といっても、唇の端をわずかに動かしただけであったが、クールで無表情が常の王子さまゆえに、その変化は大きい。
ナニコレ。

 さらに失望が重なった。
さきほどの黒い毛玉がやってきたのだ。
それを見ると、貴海は毛玉に言った。
 「ちょうどよかった、先輩、千住さんを自宅まで送っていただけませんか。田端の家は、千住さんの家と逆方向になりますので」
 否定しろ、黒い毛玉。
パチンコ(やってそうだと比沙子は勝手に判断した)に寄るから、とかなんとか言って。
でなければ、あんたがその子を送りなさい!
 「うん? まあ、構わんが」
 構え!
 それでは、と貴海はさっさと車を回して、理音を回収すると、夕闇の中、銀のプジョーで颯爽と去って行ってしまった。
そのうしろ姿に呆然とする比沙子。
しかし自転車の少女は、手を振りながら、
 「良かったねー」
と叫んでいる。
良かったね? 曲解するならば、理音とか言う、あの背の高い人形のような容姿の少女も、ライバルってこと?

 「気を遣っとるな、貴海は」
と、運転席に乗り込みながら、黒い毛玉はぼそりとつぶやいた。
聞き捨てならない科白である…比沙子は気を取り直し、男をゲットする法則を思い出した。
ターゲットの友達を協力者にしろ! よっしゃ。
 「あのう、気を遣ってる、って、やはりあの子が怪我をしたからですか?」
 「まあ、それもあるが、あの田端理音というのは、田端珈琲チェーングループの会長の一人娘で、現在、田端の父親が、わが校で、もっとも寄付金を贈与している理事のひとりなんだ」
 まー、典型的な少女漫画のライバルだこと。
 「貴海は、将来の学長候補ということで、わずらわしい仕事も引き受けている。そういう関係から、有力者の娘には気を遣うんだろうな」
 なんと涙ぐましい話だろう。
すると貴海は、仕事のため、ひいてはほかの生徒のために、あの少女に特別に気を遣っている、というのか。
最初はどちらかというと好印象を抱いていた田端理音であるが、急に憎たらしく思えてきた。
 
「あんたは、貴海を前から知ってたのか?」
ずいぶん、ぶっきらぼうなしゃべり方である。しかも運転しながら、ちらちらと何度もこちらを見る。
なんだってのよ…と、憮然として、はっ、と比沙子は気づいた。
あまり自分には縁のないシチュエーションだったので、わからなかったが、もしかしてこの人、わたしに気があるの?
 男を落とす法則・別則。
協力者に期待を抱かせないこと(あとでややこしいことになるからね!)。
 「そうなんです。ずっと、憧れていました」
と、いくらか芝居がかった口調で比沙子は答えた。
黒い毛玉は、うむ、と黒飴が喉にひっかかったような声を出した。
 「高校のときから、ずっとです。わたし、高校のときに自転車を失くしたときがあって、とても大切にしていた自転車で、困っていたんです。
ずっと探してたんですけど、見つからなくて、あきらめていたとき、彼がわたしの自転車をどこからか探してきてくれたんです」
 
 やはり同じような冬の夕暮れだった。
県立雨咲高校の天文部に所属していた比沙子は、自転車置き場に来て、あれっと思った。
朝、たしかに置いた場所に、自分の自転車がない。
誰かがまちがえて乗っていってしまった、とは考えられない。
しばらく探していて、比沙子は愕然とした。
自分の自転車のチェーンが、だれかに工具で切られて、捨てられているのを見つけたのだ。
比沙子は泣き出して…

 いえ、ちがう。その前から泣いていたんじゃなかったっけ? 
 比沙子は記憶を巻き戻してみた。

 望遠鏡を片手に、自転車で颯爽と通り過ぎていくのを、県立雨咲高校の男子生徒たちは、あこがれの眼差しでながめていた。
それを見て、比沙子は、自分は一生、異性に熱っぽく語られることなど、ないのだろうと思って悲しくなったものだ。
どうして、自分は、彼女のようにきれいに生まれなかったのか。
 「雨咲名望は美人多いよなー」
 「うちなんかさ、同じ天文部でもアレだろ、千住比沙子。なによ、アレ。覆面して登校してほしいって感じだよな」
 げたげたと笑う男子の言葉に、比沙子は激しく傷ついた。
雨咲名望の天文部の美少女をうらやましく思い、自分に失望していたときだけに、その言葉は、比沙子を打ちのめした。
そして自転車乗り場に来てみたら、自分の自転車がない。
高価なものではなかったが、昨年亡くなった祖母が、最後に買ってくれた、大切なものだった。
 どうして自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。
好き好んで「千住比沙子」に生まれたのではない。


 重く悲しい思い出が鮮明によみがえり、比沙子は黙った。
おそらく、長森チサトの写真を見て、記憶が刺激されたのだろう。
思えば、いまの自分があるのも、長森チサトへの憧憬と、嫉妬が、ずっと心のどこかに残っていたからなのかもしれない。
放課後の校舎で、帰宅する彼女をただ窓辺から眺めるしかできなかった男子生徒たちと同じように、比沙子も、一度だってチサトと会話をしたことがなかったのだが。
 
 「長森、か」
と不意にハンドルを握る黒い毛玉がつぶやいた。
心の中を読まれた気がして、比沙子はぎくりとした。
 「お知り合いだったんですか?」
 「生徒会で仕事の引継ぎをしたからな。俺は書記だった」
応援団長のほうが似合ってそう、と思いつつ比沙子はたずねた。
 「あら、そうすると、貴海さんと一緒に生徒会活動をしてらしたんですね」
 「おれのほうが一年上だったがな。あの頃の生徒会は、花形だったからな。いまみたいに、内申書の箔付けのためだけに存在するものじゃなかった」
 「いえ、あの、長森さんが、です」
 「…ああ、彼女は貴海と同じクラスだったな。たしか付き合っていたはずだが」
 「え」
 「美男美女のカップルだったんで、ずいぶん冷やかされてたようだったが」
 「あの、いまは?」
 「よく知らんが、在学中に別れたはずだ」

 長森チサト。
やはり彼女はライバルだった。
宿命めいたものを感じ、比沙子は不思議な高揚感を覚えた。
やはりこの再会も、宿命なのではないか。
もしかしたら数ヵ月後には、二人仲良くドレス選びなんぞしている可能性大。
 「やっぱりお色直しは3回くらいがいいな。出席者の人に挨拶する余裕もできるでしょう?」
 「おれは4回がいいな。きみのきれいなドレス姿は、何度でも見飽きない」
 なーんて。

 「千住さんは、一人暮らしかい?」
トリップしている場合ではなかった。
比沙子はあわてて不純な笑みをひっこめて、答えた。 
 「ええ。いまは親元を離れています」
 「一人暮らしというのはどうなんだろう。おれは男だからわからんが、やはり気楽でいいものなのか?」
 「そうですねぇ、気を使わなくていい、っていうのはありますよ。例えばTVのチャンネルは独り占めできますね。家事なんか適当でも、だれも怒らないし、好きなときにお風呂も入れますしね。
すべてを自分の考えで決められる快感って、やっぱりありますよ。家族と同居したり、あるいは結婚したりすると、どうしても相手の都合優先、っていうふうになっちゃうじゃないですか」
 「なるほどね。楽しそうだな」
と、毛玉ははじめて笑った。
笑うと森のくまさんにそっくりだった。
比沙子は黒い毛玉を、生物に昇格させて、クマゴローと呼ぶことに決めた。
 
「しかし一人暮らしともなると、家賃とか大変だろう。町中だと駐車場代も馬鹿にならないんじゃないか?」
 「車は持ってないんです。免許はあるんですけどね。やっぱり、移動の基本は、自転車ですよ。自転車には、思いいれもありますしね」
 

 3日間、比沙子は両親も呆れさせるほどの粘りを見せて、町中をくまなく探し回った。
しかし自転車は見つからなかった。
マメの出来た足を引きずりながら、冬の星座が、空に瞬くのを悲しく見あげたのを覚えている。
 そしてあきらめた四日目の夕方、とぼとぼと徒歩で帰る比沙子の前に、なくなったはずの自転車を引いて、背の高い少年があらわれた。
上品な顔立ちに、やや荒んだ雰囲気がしないでもない、つり上がり気味の目をした少年だった。
雨咲名望学院の特別進学科の制服を着ている。
 「これ、きみのだろ?」
と、少年は、淡々と言った。
比沙子はびっくりしてうなずくだけだ。
すると、少年は比沙子の自転車を前に突き出した。
 「探してたんだろ。返すよ」
 「ありがとう」
 「それじゃあ」
それだけが、少年と比沙子が交わした会話だった。

あとになって比沙子は悔やんだ。
どうしてそのとき、ちゃんと少年にお礼を言い、名前も聞けなかったのか、と。
しかし名前はすぐにわかった。
少年は、たいそうな有名人だったのだ。
 生徒会の副会長で、父親が雨咲名望学院の学長を務めているという、お坊ちゃま。
成績は学年で一、二位を争うほどで、加えて運動神経もよく、所属する剣道部では大将を担っている。
彼に憧れる少女は、山ほどいるらしい。
 多忙な日々を送っている貴海が、自分の大切な自転車を取り返してくれた。
しかも、いままで一度も話したことのない、自分のために。
 この出来事は比沙子のその後を決定づけたのであった。

 自転車ね、とクマゴローはなぜか顔をほころばせてつぶやいた。
クマゴローは初対面にもかかわらず、自分に好意をよせてくれているらしい。
あまりないことだが…と、比沙子は車窓に映る自分の顔を見た。
大きな表情豊かな目、長い睫毛、完璧に整えられた眉、高い鼻梁、色っぽく紅ののった唇。血色の良い頬、シワシミひとつない肌。
われながら、惚れ惚れするきれいな顔である。
いまなら長森にも負けない。



 クマゴローにアパートまで送ってもらったあと、比沙子はすぐに化粧を落とした。そして郵便物を確かめる。
いきつけの美容院から、「その後、いかがですか?」という手書きメッセージつきのダイレクトメールが届いていた。
 「大変結構ですよぉ」
と書面に返事をしつつ、留守番電話のランプが点滅していたので再生してみる。
母親からだった。

 『比沙子ー。あんた連絡もよこさないで、どうしてるの。ちゃんと生きてるんでしょうね。この間のことは、お母さんたちでお金をなんとかするから、考え直しなさい。いいねー? ちゃんと連絡するんだよー』

 親の愛情はよくわかる。
しかし比沙子は、いまのほうが断然に幸せなのだ。
あともどりなど、絶対にしない。
比沙子は次のメッセージを聞いた。

 メッセージは、無言だった。
 いや、そうではない。
ごぽごぽと、水の中に空気が浮かぶ音が聞こえてくる。
それだけではない。なにか、ぼそぼそと人がしゃべっている。
 比沙子は最初から再生し、音量を上げてみた。
 ごぽごぽと、水中で空気が立ち上った音が聞こえる。
それからしばらくして、人の声が…

 『…さない…ゆるさない…ゆるさない…』

ざわっと鳥肌が立ち、反射的に比沙子はメッセージを消去した。
 声の主は、自分を突き飛ばした、自称『長森チサト』のものだった。