![]()
二十七
みずうみ?貴海は天羽を保健室まで追い掛けた。なぜ、という問いに、天羽は答えなかった。
「あなたは、わたしの家とどういうつながりがあるのですか? わたしは何も知らない。あなたとつながりがあるのは父ですか?」
父の泥沼の不倫のことが、自分の女性観をかなり歪めていることに、貴海は気づいている。
父はだらしのないタイプの女を引き付けるところがあり、天羽霧子もその一人かもしれないと思ったのだ。
父は見た目は洒脱で都会的だが、気が弱く、まわりの言いなりになるタイプである。不倫相手と別れられず、妻とも別れられない状態を何年も続けたのは、その性格ゆえであった。
そして、相手に要求されると、過剰なまでにそれに応えようとする、わるい癖もあった。
天羽が父のあたらしい愛人かもしれない。
しかし天羽は、そんな貴海の胸の内を見破ったかのように言った。
「あんなお年寄り、どうだっていいわよ。わたしはこれを、直接ご本人からあずかったのよ。遺言代わりにしてね。そんなに血相を変えているところを見ると、あなたのみずうみから、なにか聞いたのかしら?」
「みずうみ? 田端理音のことですか」
「計算がお上手だなと関心してしまうわ。あの子、田端珈琲チェーンの会長の一人娘なんですって? あれだけなついていると、いろいろ便利なんでしょうね」
貴海は天羽を睨めつけた。
しかし天羽は平然としている。相手は相当、場数を踏んでいる。
経験から計算して演出されているふてぶてしさだなと、貴海は観察した。
天羽は指先でくるくると、見事にカールした髪を遊ばせている。
「生徒たちから聞いたけど、あなただいぶおもてになるようね。でも敵も多いそうじゃない? 総理事長の後ろ盾を持っていて、しかも将来の学長候補ともなれば、嫉妬なんかもすごいんでしょうね。
だからあの子に頼っている。打算的な人。利用されていると知ったら、あの子、どう思うかしら」
「もしかして、川端康成のみずうみを暗示しているのですか? 果てしなくくだらない憶測だ。田端理音は生徒の一人だ。いくらかほかの生徒より気にかけている程度に過ぎない。
下手な憶測だけで、意味もなく彼女を不安がらせるのはやめてくれないか。わたしはいま、あなたに関わっている場合じゃないんだ」
「問題を増やしてくれるなとでもいいたいの? あたしがみずうみって言ったのは、川端康成の小説を指しているだけじゃないわ。あきれた人ね。すっかり忘れているんだから。
これだけは教えてあげる。あたしはあなたに復讐しにきたのよ。そのためだったら、手段は選ばない。もし巻き込みたくないと思うなら、あの子をどこか遠くにやるのね」
「復讐? なんのために? わたしはあなたを知らなかった」
「あたしは知ってたわ。一度だって忘れたことがない。
いい? あたしを止めたい思うなら、思い出すのね。20年前よ。みずうみよ」
貴海は天羽の言う『みずうみ』に、はげしく刺激された。
理音から話を聞いたときに、なにかひっかかったのは、『みずうみ』と、それにまつわるイメージであった。
『みずうみ』は、理音が唄っていた、夏の原風景としてイメージされるのではなく、なにかもっと、まがまがしいものを喚起してくる。
途端、ひどい吐き気に襲われて、貴海はトイレで吐いた。
赤ん坊の泣き声が、再び耳朶を震わせた。
思い出せという天羽の言葉もよくわからなかったが、もっとわからないのは、自分が『みずうみ』という言葉にひっかかりを感じる、ということだった。
20年前。みずうみ。
貴海は熱が上がってきたのを感じた。
めまいもひどいし、吐き気も止まらない。
授業に臨んだものの、そのうち立っているのがやっとになってきた。
聞こえる赤ん坊の声が、より一層大きくなった。
どころか、夢で見た大人たちの、ぼそぼそと語り合う不明瞭な話し声さえ、はっきりと再現されてきたのである。
貴海は授業を自習にして、教室を出た。
再び吐いているところへ、隣のクラスで授業をしていた広川が、様子を見にやってきた。
そしてその顔色が尋常でないのを見て、貴海に早退を勧めた。
ただの風邪とは思えなかった。
貴海は、以前に横手を連れていった精神科に足を運んだ。
精神科医は貴海の話を聞いたあと、こういったものは一度の診察ではずばりどうとは言いにくいものだから、また幻聴がひどくなったら来るように、と言った。
そして精神安定剤を処方してくれた。
しかしそれを飲んだところで、症状がよくなることはないと貴海は予想した。
貴海は精神科医に、天羽のことは話さなかったのだ。
頭が靄がかかったようになっている。
それなのに天羽の言葉や赤ん坊の泣き声などの幻聴は、不気味なくらいに鮮明だ。吐き気が止まらず、頭痛がひどい。
夜になると、いくらか症状がおさまって、食欲が出てきた。
つくる気がしなかったのでコンビニの弁当ですませて、ようやく、天羽の持ってきた祖父の日記に手をつけた。
それを読み、貴海は20年前、自分が5つだったときのことをだんだんと思い出した。
貴海の両親の不仲が始まったのは、貴海が4つのときだった。
もうすでに父には愛人がいて、本妻と愛人の家を、どっちつかずの状態で行き来していた。
よく覚えていないのだが、両親によりを戻させるために、母方の叔母が二人きりの情況を作ろうとしたのだ。
貴海は叔母の家に最初預けられたが、どういう事情からか、次に、父方の祖父の家に預けられた。
日記にも、そのときの細かい情況は記述されていない。
ただ、子供をあずかる、とだけあった。
すでに祖母は他界しており、一人暮らしをしていた祖父であったが、教育者であったというわりに、子供の面倒を見るのは苦手であった。
ひたすら、言われたことしかできない要領の悪い子供のように、祖父は最低限のことしかしなかった。
しようともしなかったのが、日記でわかる。
食事を与え、寝かせるだけの世話だ。
物足りない反面、貴海は、おかげでのびのびと遊ぶことができた。
祖父の家は天生にあった。
貴海家は雨咲で学閥を形成していたが、当主である父がそんな有様だったので、主導権は母方の伯父が握っていた。
この伯父は、現在の美冬の養父である。
伯父は貴海を不憫に思い、自分の手元に引き取ろうとした。
しかし貴海はこれを拒否し、祖父の家に居続けた。
そうしないと、もう自分が母親の元に帰れないと、幼心にわかっていたのかもしれない。
すでにこの時から、母方の親戚と父方の親戚の反目は、はじまっていたのだ。
祖父の日記は、淡々と『子供の世話』の記録をつづる。
だが、様子が変わってくるのが10月7日の記載である。
『子供が母親のところに帰れるのかと聞く。まだ無理だと諭す。
だれにそんなことを聞いたのかと問う。なぜだか怯えて答えず。
理世子(伯父の妻)が見兼ねてその夜は家に連れて帰った。
さっそく、浜島に連絡し、子供の話を伝えると、顔色をなくして、「気をつける」と言う。
子供は発熱し、秀晃(伯父)の家にて過ごす。
天狗出没。
夕刻過ぎ、雨咲警察署の署員が我が家を訪れ、天羽家の男児が行方不明になったが見ていないかと言う。
知らないと答えると、そのあとに消防団がやってきて、捜索の手伝いを頼まれた。
風呂に入る途中だったので、あわてて着替えて外に出る。
消防団のほか、村の人間総出であたりを探したが、男児の姿は見つからない。
そのうち、だれかが『また神隠しではないか』と言い出した。
すると、警察の人間が、このところ雨咲町近辺で、学童未満の男児を狙った猥褻事件が何件か発生しており、もしかしたらそれかもしれぬ、と言う。
どちらにしろ隠されたことには間違いない。
捜索をはじめて2時間くらいして、沼の畔で男児を見つけた。ほっとする。
しかし相当にむごい扱いを受けたらしく、着衣等なにも身につけておらず、意識不明の重体。
ともかく命は無事でなにより、とみな言うが、だれもあまり安堵をしておらぬ様子。犯人はどこへ』
『10月9日
子供を寝かせたあと、学長の訪問を受ける。突然だったのでおどろいていると、学長は、例の男児が『天狗について思い出したことがある』と言っていると告げる。
学長につづけて浜島がやってきて、『まちがいないようだが、どうすればよいか』と相談しにやってきた。
雪平(貴海の父)のことがあるため、これ以上の騒ぎはならぬ、と答える。
学長が 『雪平にも報せるべきか』と言うので、『あれは口がゆるいから』と断る。
しばらくして天生の青年団の団長が加わった。
『あの家は昔から天狗憑きなので、世人はそれで納得するのではないか』と言う。
浜島は取り乱し、終始、落ち着きなし。
学長が、『あまり知るものが増えると、植草に話が届く可能性があり、あそこは不正を嫌うから、それはまずい』と言う。
『まずいとは何事か。大事な子供の将来のためである』と答えるも、どこかおのれの言葉に偽りがあるのは否めない。
学長、浜島、団長の三人と、天羽とで話をつけることに決まる。
話を終えたあと、隣の部屋にいた子供が起きていたのに驚く。
『いまの話を聞いたか』と問うと、子供はかぶりを振った。
ふたたび子供を寝かせたあと、三人に電話をし、早急にことを進めるよう指示をする』
日記はそこで途切れていた。
貴海はインターネットで、当時の新聞記事を調べ、20年前に、天生地区で男児連続猥褻事件が発生していたことを知った。
そこで、知り合いの警察関係者に連絡を取ると、意外なことがわかった。
最後の事件で、同じ日に、『母親のところに連れていってあげる』と声をかけられたのは、ほかならぬ自分であったのだ。
しかしそこまで文章で証拠を見せられても、貴海はそのときのことをまったく思い出せないのだった。
大人たちがぼそぼそ話し合っていたのを見たのは、夢ではなく、10月9日の夜のことを記憶していたのかもしれない。
天羽霧子は、被害者の姉妹であろうか。
どちらにしろ、復讐というからには、この事件には貴海家が関わっていたのだ。
でなければ、どうして祖父は天羽に、日記帳を遺言代わりに渡したりしただろう。
考えがまったくまとまらなかった。
貴海は何度となく理音に連絡することを考えた。
身辺で、いちばん信用できる人間は理音しかおらず、しかも天羽が、理音をも含めて復讐のターゲットに入っているらしいことも含めて考えれば、黙っているわけにはいかなかった。
おそらく、メールになにもメッセージを残さなくても、メールを寄越した、という事実だけで理音はやってくるだろう。
だが、あまりに自分自身が混乱しすぎている。
記憶が古すぎてなにも思い出せないのに加えて、天羽霧子の狙いが何なのか、さっぱりわからない。
貴海は自分の頭の整理がつくまで、理音に連絡しないことに決めた。
代わりに貴海は、父の雪平を呼んだ。
雪平は、雨咲名望の学長の地位を追われてから、愛人であった女と再婚し、不登校の児童のための、ちいさな塾を開いて生活をしている。
自分の子供たちもろくに育てられなかった男が、他人の子供の世話をしているのは矛盾があるように思えたが、仕事と私生活は違うのか、その塾では面倒見のよい教師として、うまく評判を取っているようだった。
貴海と雪平が向き合うのは、久しぶりのことだった。
貴海は前置きなしに、ざっと事情を説明すると、祖父の日記帳を雪平に見せた。
雪平は最初は『思い出せることはない』と繰り返していたが、貴海の夢の話を聞くと、こう言った。
「おまえは記憶違いをしている。サナさん(母方の叔母)がおまえを親父の家に預けたのは、そのころお母さんは臨月だったからだよ。
おまえの妹は美冬だけじゃない。もう一人いたんだ。
だが、運悪くその子はすぐに死んでしまった。おまえの見た夢は、そのときのことを指しているんだろう。たしかに当時のおまえは、生まれてくる兄弟を心待ちにしていたから、すぐに死んでしまったと聞いて、がっかりしたんだろうね」
淡々と、他人の家の出来事のように言う父の話に、貴海は衝撃を受けた。
赤ん坊の泣き声は、実際に生まれた実の妹の産声が、甦ったものだったのだ。
「待ってください。いままで、叔母さんもあんたも、もう一人の妹のことをどうして教えてくれなかったんです?」
「そのことを言うと、おまえの具合が、かならず悪くなったからだよ。親父の家に預けたことは、たしかに悪かったと思っている。
わたしだって、おまえが変質者に声をかけられたと後で知ったときには、心底ぞっとしたものだ。親父はわたしを信用していなかったから、おまえが天生で事件に巻き込まれたことも、なかなか教えてくれなかった」
父親の言い訳や泣き言に、どれだけ実がないかということは、貴海は十分わかっていた。
いつも青白い顔で、布団に横になっていた母の姿が思い浮かぶ。
母はこれほど情のない男のために、心身を病んで死んだ。
感傷にひたる価値もない。
苦々しく思いながらも、貴海は先をつづけた。
「この日記にある、10月9日の記載をどう思いますか? 学長というのは、だれのことなんです? 浜島というのは?」
「浜島というのは、たしか当時の中等部の体育教師だ。親父と懇意にしていて、よく運動部のフィールドワークの際に、天生にまで足を伸ばしていたんだよ。
そうだ、そうだった。陸上部の顧問で、調子のいい、いい加減な男だった。
学長というのは中等部のほうの学長だよ。村越、とかいう名前じゃなかったかな。当時でかなり高齢だったから、もう他界しているんじゃないか。うん、そうだ。
この日記で行くと、男児連続猥褻事件に関して、親父が被害者に口止め料を払ったようなニュアンスだね」
「もしかして、お祖父さんは、犯人を知っていたのでは?」
「まさか。孫も被害に遭いかけて、その犯人を庇う真似をなんでするかね。おまえは、親父が好きでなかったようだが、親父はそこまで冷たい人間じゃないよ」
父親の、この理由のない人好きに、貴海は反発せずにいられない。
この無頓着さが原因で、どれだけ自分や母親、そして美冬が傷ついてきただろう。
「学校を変えると、息巻いているようじゃないか」
と、唐突に雪平が切り出した。
「息巻いている、とはずいぶん小馬鹿にした表現ですね。学生時代におれは、あんたのやり方にことごとく反抗して、校則からなにから、すべて自分たちで作り上げた。
しかし今度は教師になった途端、逆のことをしようとしている。それが面白くないんでしょう?」
「そうじゃないよ。この町は狭い。いくら植草さんの後ろ盾があるからって、敵は多く作らないほうがいい。これはわたしの経験からの言葉なんだがね」
感傷から逃れるために、わざと突き放した物言いをしている、というのならまだ救いがあるだろう。
救われないのは、母が死んだこの家で、母によく似ていると言われる長男を前にしても、すこしも動揺を見せないことだった。
母は、生まれるはずだった妹の死を、どのような気持ちで受け止めたのか。
この男は、母の側にすらいなかった。
貴海はだんだん怒りに捉われてきた。
昔から、父親の、いつも自分が被害者だという点から発展する考えが、大嫌いだった。
息子の行動が飛び火して、自分たちの食い扶持が危うくなったら困ると、なぜ正直に言わないのか。
悪者になりたくないエゴの持ち主。それが我慢できない。
「敵を作ることをおそれて行動はできません。貴海の家は、代々植草家に仕えるはずが、戦後になって、戦犯となった先々代の植草家当主のとばっちりを食うことを恐れて、植草家を見捨てた。
祖父もあんたも、植草家とは対立する立場に身を置いた。おれは別に、ご先祖の言い付けを守ろうとか、そんな古ぼけたことを思っているんじゃない。あんたたちがことごとく自分のエゴで歪めたものを、元の位置に戻したいと思っているだけなんだ。それが気に食わないというのも、随分な話だと思いますがね」
「おまえは昔から、わたしの話を聞かない」
と、雪平はぽつりと言った。
「あんたが自分の泣き言しか言わないからだ。本音を絶対に言わないからだ。自分が間違いを犯すと、それをすべてまわりの情況や環境のせいにして、絶対に責任を取ろうとしないからだ。
あんたはおれの話を聞かないというが、あんたこそ、おれや母さんや美冬の話をまともに聞いたことがあったのか?」
「具合が悪いんだろう。もう帰るよ」
相手が怒りだすと、さっさと逃げ出すのもまったく変わっていなかった。
学生時代は、美冬のために自分の感情を押さえて、そんな父を見てみぬフリをするだけだった。
美冬が伯父夫婦とともに北海道に去ってしまってから、制約の外れた貴海は、ことあるごとに父親に怒りをぶつける。
しかし、父は、どこか心がザルのようになっていて、どんな鋭い言葉を投げても、なにひとつ引っかかった素振りをみせない。
この虚しさゆえに、母は体と心を病んで死んだ。
父親を見送る気にはなれなかった。
こんな父親にも、帰る場所というのが存在し、そこではあきれるほど寛容な彼の妻と、子供たちがいるのだ。
そこでは貴海や美冬の上に落とされた影は、微塵もない。
明るい普通の家庭だというのだから救われない。
そこへ理音がやってきた、というわけであった。