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二十六
みずうみ?翌日、理音は真っ先に職員室に向かった。
貴海の姿はどこにもなかった。
天羽もまだ出勤していないという。
職員室の窓際にある喫煙コーナーでは、もうもうたる白煙の中で、サロンでブロンズ色に焼いた肌を照からせている茂手木と、その取り巻きの三島、樺原などが、ゲタゲタと感に触る笑い声をあげている。
「鬼の霍乱かねぇ。若いのに、意外にヤワいんだな、彼」
どうやら貴海のことを言っているらしい。
「ここんところ、ずいぶん顔色が悪かったしね。案外、生徒のなかで流れてたあの噂、本当じゃないの。風俗にはまって、寝不足になってるってアレ。
一応、授業はちゃんとしていたみたいだけど、ほかじゃあ、なにをやってるか、わかんないからねぇ。まあ、われわれとしちゃ、いまが潰し時かな」
公藤を探して繁華街を行き来していたのが、まだ噂として根強く残っているのだ。あんたなんかより、キキカイカイはよっぽど仕事をしてるよ、と理音は怒りを抱きつつ思った。
しかし貴海から、真っ正面から馬鹿正直に、茂手木にぶつかるような真似はしてはいけない、と釘をさされていたので、なにを聞いても、じっと我慢の子である。
ふと、よい香りが漂ってきて、見ると、いつ出勤してきたのか、天羽が珈琲カップをいくつも載せたトレイを手に、理音の脇を擦り抜けた。
理音が小さく、あっ、と言うと、天羽は謎めいた余裕の微笑を理音に投げた。
理音はぞくりとした。
赴任して一週間にもなっていない天羽が、自分のことをすべて見透かしているような錯覚を覚えたからである。
見ていると、天羽は職員へ一人一人、丁寧に珈琲を配っている。
茂手木や樺原にも、二、三、親しげに世間話をして配っている。
『貴海家のコネでここに来たなら、先生の味方じゃないの?』
と、理音はカバのような鼻を膨らませている樺原と、まんざらでもなさそうな茂手木の、にやけた顔を見つつ思った。
『昨日の朝、先生と天羽先生は、なにを言い争っていたんだろう』
やがて、朝のSHRのを告げる予鈴が鳴った。
まだ職員室に残っていた理音に、天羽は言った。
「教室に戻らなくちゃでしょ、みずうみちゃん。言っておくけれど、あたしを見ていたって、なんにもわかりはしないわよ」
「わたしと先生が銀平と久子みたいになると思ってる? だったらすっごく見当ちがいだからね。わかったら、もう妙なちょっかい出すの、やめてよ。あなただって、臨時の教師に過ぎないんでしょう?」
「田端コーヒーグループの一人娘ともなると、ずいぶん傲慢なもんねぇ。そりゃあ、あたしはたしかに臨時だけど、でもね、この機会を逃したりはしないわよ」
「どういうことなの、それ」
話をしていると、ぱん、と豪快に尻を叩かれた。広川であった。理音は、朝のセクハラ犠牲者第一号、というわけだ。
「おい、早いとこ教室行くぞ!」
そのため、理音は、天羽と離れざる終えなくなった。
休み時間の合間、合間に、保健室へ通うのだが、すでにほかに生徒たちが集まっていて、貴海のことを切り出せない。
焦る理音を見て、ほかの生徒たちに囲まれながら、天羽は悠然と笑ってみせるのだ。その笑みが、理音の焦りをさらに煽る。
『やっぱり、この人はなにか企んでる』
そう思うと理音は、居ても立ってもいられない。
職員室で聞いた、茂手木の『潰し時』という言葉がそれに重なって、余計に焦れてくる。
しかもこんなときに貴海の具合は思わしくなく、学校を休んでいるのだ。
文化祭も残り一週間を切り、超がつく進学校の雨咲名望としてはめずらしく、午後からの授業が一時間減る。
その分、文化祭の準備に当てられるわけだ。
理音の二年B組は喫茶店で、教室の内装を飾るカーテンの製作などが行なわれる。
理音の係はコーヒーの仕入れという、時間も労力もいらないものであった。
会社に頼めば、卸値で珈琲豆や付属品を手に入れることができるからだ。
それぞれ係が文化祭の支度をしているのを横目に、理音は決心した。
そして、仕入にいってくるから、という口実のもとに、学校を抜け出した。
秋晴れの心地よい一日であった。ぴんと張った青い空を、羽田へ向かう飛行機が横切っていく。
天上の飛行機雲を真似るように、すこし時季はずれな蜻蛉が、ひゅん、と飛び去っていった。
風はほどよく冷たく、落ちる影も短い。
迷路のような露地に連なる民家の紅葉が、紅茶色に色付いている。
銀杏の実が落ちているのを、踏み潰さないように気をつけながら、理音は路地を下った。
建て替えられて、ぴかぴかの家屋と、昭和初期の古いままの木造建築が、無造作に交ざり合っている。
その中に、貴海の家もあった。
貴海の家は、曇った赤い屋根に白い漆喰の壁、ミントグリーンの木枠を持つ窓で構成される平屋である。
窓には、四隅に凝った格子柄の透かしが入っている。
小さな庭には小さなハーブ畑があり、そのとなりで可憐な萩の花が風に揺れている。ペンキを塗り替えたばかりのような濃い焦茶色の縁側のうえに、ほうづきの鉢が置いてある。
居間のほうはシルクスクリーンが下がっており、貴海の部屋にあたる出窓を見ると、レースのカーテン越しに人影が見えた。机に向かっているようだ。
寝てなくていいのかな、と思いながら理音が、自分の腰くらいまでしかない低い門扉に手をかけようとすると、ちょうど玄関から、背の高い、初老の男が出てきた。
肩幅はがっしりしており、白髪で、身形はさほどよくないが、上品で落ち着いている。
その男と目が合ったとき、理音は、あっ、と思った。
男は貴海に非常によく似ていた。貴海があと30年もしたら、こんなふうに老け方をしそうであった。
向こうも理音に気づいた。
釣り上がり気味の目が、じつによく似ている。
しかし年輪を感じさせる目尻のしわが、きつそうな印象をだいぶ和らげていた。
「雨咲名望の生徒さんだね? もう授業は終わったのかな」
貴海は、てきぱきとしゃべる。
貴海の父は淡々と、一言一言ていねいにしゃべる。
理音が首肯くと、そう、と言って、貴海の父は体をずらして理音に道を譲った。
「雪秀のお見舞いに来てくれたのかな。失礼だけど、名前はなんていうの?」
「田端理音といいます」
答えつつ、理音は出窓のレースのカーテンの向こうの人影が、動いたのを見た。
そう、と貴海の父はまた言うと、理音を玄関のほうに通すと、自分は門扉の外へ出た。
「ごきげんよう」
やはり淡々と貴海の父は言って、去っていった。
「まだ授業は終わってない時間だが?」
玄関先に貴海が出ていた。
シャツをざっくり羽織って下はジーンズ、前髪はすべておろしているのでいつもより若く見える。
いつもが老けて見えるんだな、と思いながら理音は答えた。
「文化祭で一時間授業が減ったの」
貴海は玄関先に置いてあるメッキが一部はがれた金(メッキ)の置き時計をちらりと見てから、あきらめたようにため息をついた。
「今回だけだぞ。目立つから入れよ」
貴海は熱でぼんやりしているのか、目もどんよりして生気がない。
理音は応接間に通されたが、まだ貴海の父がいたときのままだった。
湯呑みを片付けるのを手伝いながら、台所に入った理音であるが、いつも世話をしてくれる叔母さんはどうしたのか、ごみ箱の脇にコンビニのビニール袋で包んだ弁当のゴミが置いてある。
ふと、机の上に、無造作に置いてあった処方箋の袋を見て、理音はおどろいた。
いちばん下のところの病院名が『白槻メンタルクリニック』となっていたのである。理音がぴたりと止まってじっとそれを見ていたので、貴海は袋を取り上げると、食器棚の引き出しに入れた。
気に障る高笑いとともに、茂手木の『潰し時』といった言葉が脳裏を過ぎる。
「風邪じゃなかったの?」
貴海は理音の問いにしばらく答えず、険のある表情のまま紅茶を入れた。
「そこの棚に、饅頭があるから」
そんなものを、のんきにぱくぱく食べている場合ではない。
すたすたと、先に応接間に行ってしまう貴海のあとを追い掛けて、理音は尋ねた。
「先生、もしかして、天羽先生が原因なの? いつから精神科なんて」
「昨日だよ。いい子だから落ち着いて座ってくれないか」
貴海が理音に本当に望んでいるときは、諭すように「いい子だから」という言葉を挟む。
子供扱いが不満な理音であるが、貴海の顔色が更に増して青いので、いい子にすることにした。
「赤ちゃんの泣き声が聞こえるんだ」
「赤子の泣き声?」
「文語で言い換えるなよ、余計に気持ち悪くなるじゃないか。『赤ちゃん』だ」
「赤ちゃん」
こんにちは赤ちゃん……
「天生にチラシを配りに行ってから、耳について離れない。ことあるごとに、はっきり聞こえてくるんだ。気味の悪い夢は見るし、古い日記は渡されるし」
薬の副作用か、あるいは赤子の祟りか、貴海は相当に混乱しているようである。
理音がいろいろ苦労して、頭の中でまとめた貴海の話は、以下のとおりだ。
貴海は天生で理音の話を聞いてから、なにか得体の知れぬ違和感を感じた。
それは嫌悪感といってもいい。
貴海は理音同様に、ときに思考を迷路に導くこともあるするどい分析力と、つよい感受性の持ち主人間であったから、理音の話のなにかが鍵になって、自分のなかに眠っているものが刺激されたらしいと、すぐに結論できた。
しかしどれだけ考えても、貴海は、自分がなにに嫌悪を感じているのかわからなかった。
貴海は血縁同士の醜い争いで有利になるために、自ら進んでふてぶてしさを身につけてきた。
だから滅多に恐れおののく、といったことはなかった。
いつもはなだらかな感情が、今日は小波のように震えている。
学校に帰るとそれはどんどんひどくなり、帰宅するともっとひどくなった。
しかも、はっきりと、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
近所のどこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえるのかとも疑ったが、締め切った室内でも、はっきりとそれは聞こえてくる。
当然のことながら、捜してみても、赤ん坊の気配はないのだった。
タチの悪い風邪だろうと自分にいい聞かせつつ、貴海はその日、すぐ眠りについた。
すると夢を見た。
どこかの農家に、貴海は寝かされている。
障子の隙間から漏れる光がまぶしくて、貴海は目を覚ました。
眠い目をこすりながら障子の隙間から隣をのぞくと、見知らぬ大人たちが、ぼそぼそと真剣になにかを話し合っているのだ。
その目線があまりに低いため、夢の中の貴海は、自分は子供に戻っているのだと、妙に素直に納得した。
と、同時におそろしくなった。子供ということは、非力だということである。
大人がそばにやってきたら、逃げなくてはいけない。
円卓を囲んで話し合いをしている大人たちが、何を言っているかはわからない。
しかしひとつだけ、はっきり『天狗』という言葉だけが強烈に耳に入ってくる。
彼らは天狗について語り合っているのだ。
しばらくして、貴海は大人の中に祖父が入っているのに気がついた。
しかしだからといって安心はできなかった。
貴海は祖父が苦手であった。
祖父も教師だったが、そのわりには、子供の扱いがうまくなかった。
可愛がってもらった記憶がない。
大人たちの中に祖父が加わっているとなると、余計にやっかいである。
激しい言い争いをしているわけではないのに、貴海はその会合に不穏なものを感じ取っていた。
絵本で見た不気味な天狗の絵と、大人たちが口にする『天狗』という言葉が結びついて、気味が悪かった。
しばらく息を殺していると、寝ていた部屋の、反対側の襖が開いた。
叔母であった。
叔母は貴海の寝ていた布団を元気に片付けはじめた。
貴海はおどろいて、それを止めようとした。
布団がなくなってしまうと、自分が寝ていないと大人たちにばれてしまうからだ。
しかし叔母はそんな貴海に頓着せず、むしろ怒って言うのだった。
「ユキちゃん、もうちょっとでお兄ちゃんになるんだから、わがまま言っちゃだめ」
そして、叔母は貴海の布団があったところに、新しいきれいな布団を引いた。
だが、布団を上げ下げするたびに、元気のよい掛け声を発するので、傍で見ている貴海は、隣室に聞きとがめられないかと、はらはらする。
布団が引きおわると、叔母は出ていった。
貴海はひとまず安堵したものの、つづいて、障子を見れば、そこに投じている影から、まだ叔母は部屋の外にいるのだとわかった。
そして、叔母は、廊下に立ったまま、どこかにいるだれかに、大声で、用意はできた、と叫んだ。
はっと気づくと、隣室の大人たちが、話し合いを止めている。そして、代わりに、
「なにか聞こえた」
と怪訝そうにしているのがわかった。
貴海はぞくりとして、廊下に飛び出して、叔母の影に隠れようとする。
見つかったらひどい目に合わされると、なぜだか貴海にはわかっている。
頼りになるのは叔母だけなのだが、この叔母がいつになく冷たい。
貴海が割烹着に取りすがろうとすると、これから仕事があるから、おとなしくしていなさい、と振り払われた。
隣室と貴海のいる部屋を隔てる襖が、いまにも開きそうなのが気配でわかる。
貴海は叔母を必死で引き止めようとするが、叔母はさっさと廊下の向こうへ行ってしまった。
廊下の向こうへ逃れようとするも、子供はダメだといわれてつき返された。
ほかに隠れる場所はない。
新しい布団はもう自分のものではなくなっている。
どうしよう、と思っていると、からりと障子が開いた。
と、そこで恐ろしさのあまり目が覚めた。
朝の4時であった。
うなされていたらしい。
リアルな夢の感触がまだ残っていた。
割烹着をつかんだときの感触、振り払われたときの絶望感、障子が開きそうな気配、そういったものを思い出し、貴海はぞっとした。
吐き気がひどく、熱があるようであったが、学校を休むわけにはいかない。
風邪薬を飲んで登校したものの、赤ん坊の泣き声が、再び聞こえてきた。
幻のように遠くから、というのではない。
生徒たちの間から、はっきりと聞こえてくるのである。
貴海はとりあえず、理音にもう一度話を聞こうと思った。
理音の話を聞いてから、幻聴が聞こえてくるようになったのだ。
あの話のどこかに触発されたのは間違いない。
しかし朝から会議が入り、理音と落ち合うことができなかった。
一刻も早く、と思っていると、逆にいまはいちばん避けたかった相手、天羽霧子が珈琲を運んできた。
貴海は初対面から、なぜだか天羽が苦手であった。
たいがいの者に傲然と振る舞い、イニシアチブを握るのが貴海のやり方であったが、天羽には目を合わすことすらできない。
天羽はたしかに美しい女だったが、それがなにか粉飾したような、金の孔雀を前にしたような、落ち着きの無い奇妙な印象を抱いていた。
だから、気を許せない相手の差し出す食物には、決して手をつけない貴海だが、天羽の珈琲を断ることができない。
珈琲を受け取ると、産休を取った桐山の代わりに赴任した城戸が、珈琲が苦手なら、そちらの分もいただきますよ、と言った。
そこで貴海は、城戸が傍にいる場合は、天羽に内緒で自分の珈琲を城戸にやることにした。
何度目かの珈琲を配られたとき、天羽が一冊の古い本を差出した。
変色したベージュの表紙には、金文字で備忘録、とある。
その下の、手書きの文字を見て、貴海はぎょっとした。
祖父の名前があったのである。
「ぜひ」
とだけ天羽は言って、保健室へ行ってしまった。
貴海は本を受け取ると、中身をめくってみた。
間違いない。祖父のものである。20年前の祖父の日記帳だった。
祖父はマメな人間で、ことあるごとに細々と記録を残していた。
しかし、死期が近づくと、それらをすべて火にくべてしまった。
生徒に関しての記録がこと細かに残っており、そのプライバシーを守るためだろうと周囲は思っていた。
だが一冊だけ、なぜか天羽霧子が持っていたのだ。