B.B.の世界

二十五

みずうみ? 
景色は、新興住宅地を抜け、刈り入れのおわった田圃を抜けて、山道へと入っていく。千葉県は、東京湾に面した海沿いには、ずらりと灰色の工場が並んでおり、それに沿うようにして工業道路が走る。
よそから来た者には寒々しく映る海の風景から、すこし離れると、工業地帯で働く者のための社宅や、東京に遠距離通勤する者に向けた新興住宅地が、山を拓いて点在する。東京湾側から太平洋側に向かえば向かうほど、緑も濃くなり、都会色も静まっていく。
 栗や熊笹が黄色に色づく、くねくねした道添いに、昔ながらの食堂や、雑貨屋がぽつり、ぽつりとある。
理音は、生まれてこの方、ずっと人の作った人の町しか知らないので、たまにコンビニの看板を見付けると、ほっとした。
やがてどんどんくねった、車一台がやっとの狭い道を行くと、閉めきった窓にも、はっきりと、肥やしのニオイが嗅ぎ取れるようになってきた。
 沢登が牛だぜ、と喜んだ。
 天生地区は酪農と畑を兼業している農家が多い地区である。
里山を中心に、3、4軒の農家がぽつり、ぽつりと点在している。ときたま、大砲のような牛の声が聞こえてくる。
 貴海の車が停めてあるところで、天羽の車も停まった。
杏樹たちは、もう地図を見て、コースを決めている。
杏樹は、理音を見ると、興奮して近づいてきた。
 「もう今日は超ラッキーですよっ! 貴海先生に、『さっきの珈琲はおいしかった』って言ってもらったんですぅ! あたし、また絶対に差し入れします」
 理音は苦笑いを浮かべるしかない。
人の挙動に敏感な杏樹には不用意かもしれないが、それでも理音は苦々しい思いをどうすることもできない。
自分の器の小ささを思い知らされて、さらに気分が落ち込む。
 『こういうところが、差なんだろうなあ』
 
天羽は、生徒たちを降ろすと、そのまま自宅のほうへ車で走り去っていった。
運転席から手を振った天羽に、なんとなく手を振り返していると、杏樹がうっとりと言った。
 「ほんっと、どんな動作も絵になる人っているんですねぇ。貴海先生といい、天羽先生といい、美男美女の一族ですよね。なーんで教師なんてやってんだろ」
 「なにそれ。どういうこと?」
 「え。天羽先生が言ってたんですけどぉ、貴海先生のコネで養護の口が見つかったって言ってました。なんか親戚みたいなコト、言ってましたけどぉ」
 初耳だ。最初に天羽のことを聞いたとき、貴海はそんなこと一言だって言ってなかった。
もちろん、貴海に報告の義務なんてものはないわけだが、理音はすこしさびしく思った。
 
やがて、杏樹の班と沢登の班が合流し、里山と畑、それから農場を回るような形で、生徒がコンビを組んでチラシ配りをすることになった。
 きつね色に色づいた熊笹が、斜面いっぱいに生えている道の脇で、熟れた野生の柿の実が落ちて、車に轢かれているのを踏まないように気をつけながら、理音とはるかは歩いていた。
 沢登は、最初は陸上部の男子生徒たちと一緒にいたが、途中から、それに杏樹が加わり、さらにしばらくして、沢登と杏樹が二人になって、なにやら楽しそうに会話を弾ませている。
その後ろで、理音とはるかが、話も弾まず歩いていく。
 「やっぱり、ダメだよね」
と、はるかはぼそりと言った。
てっきり、自己否定が始まるかと思いきや、はるかは理音を見た。
それは、以前のはるかとは、別人のように前向きで、きりっとした眼差しであった。
 「負けてられないよね。理音ちゃん、あたし行ってくるから!」
まるで喧嘩をしに行くようである。
はるかにとっては、それに近い心境なのだろう。
杏樹もはるかも両方好きな理音としては、あまり二人の溝が深まらないうちに、沢登の気持ちが固まることを祈るしかない。
 
一人になった理音は、ほかのどのグループにも合流する気がなく、のんびりと里山の秋を楽しんだ。
こういうとき、友達が少ないとさびしいとか、わざわざいじけるようなことは、なるべく考えないように注意する。
これ以上、落ち込んだら、しばらく立ち直れなくなってしまう。
景気付けに、まわりに人がいないので、『里の秋』や『栗の実』など、昔に習った秋の歌を口ずさんでみる。
だが、ますますさびしくなってしまった。
 ふと、色づいた木々の中で、赤い小さな楕円状の実がついている木を見つけた。
触れてみると、ぷにぷにとやわらかい。
摘み取って口に持っていこうとすると、背後から声をかけられた。
 「それ不味いぞ」
あたりには、もうほかの生徒はいない。
軽トラックがのんびりと二人を追い越していく。
山の草木の黄昏があまりに深いので、空の青さが際立って見えるのも、秋の特徴だろう。
ちょうど逆光の位置にいる理音は、日差しに目を細めながら、いつのまにかそばにきていた貴海を見上げた。
 「グミの実っていうんだ、それ」
 「グミなら、おいしいんじゃないの?」
 貴海は、グミの木のとなりにある、ラズベリーのようなつぶつぶした木の実をいくつか取ると、それを理音に渡し、自分も口に運んだ。
 「こっちのほうが美味い」
 その通りだった。
見た目はラズベリーに似ているが、酸っぱさはなく、ひたすら甘い。
貴海は続けて、熊笹に巻き付いている、鮮やかなオレンジ色のカラス瓜を蔦ごともぎ取って、自分のファイルケースに入れた。
 「どうするの、ソレ」
 「リースの飾りにするんだよ」
貴海が、小物づくりを趣味にしているのは知っていた理音であるが、オルゴールのほかにも、まさかリース作りまで範囲が広かったとは。
脱サラでもして、手作りの小物の店でも開くつもりなのだろうか。
レース編みや刺繍をしてても、驚かないぞと思いつつ、理音は言った。
 「リースなんて、どこに飾るの?」
 「家にだよ。去年に引っ越したばかりで、なんにもないの、知ってるだろ。さすがに飽きてきたから、なにかアクセントを置こうと思って」
 普通の成人男性はアクセントのために、雑貨屋で渋いプレートやポスターなんかを買うわけで、自分でせっせとリースを作ったりはしない。
NHKの、おしゃれ講座のテキストを定期講読していそうだ。
毎度のことながら、意表をつかれるばかりの理音である。
 「それより、生徒は、かならずグループになって行動しろって指示したはずだが、なぜ単独行動をしている」
 理音は杏樹のことを貴海に言いたくなかった。
悪口になってしまうような気がしたのである。
黙った理音を見て、貴海はどう思ったのか、声を低くして言った。 
 「おまえ、もしかしていじめられてるのか?」
 「はい?」
 「多いよな、一人でいるの。おれにいろいろ報告してくれるのはいいんだが、それが原因でいじめられてるとか、そういうことはないのか?」
 「気にしてくれてたんですか」
 「当たり前だろう。どうなんだ」
 「そんなこと、ないですよ。わたしすごく上手くやってますから」
と、照れ隠しに、わざと口を尖らせて理音は返した。
 「ならいいんだが…いや、よくないな。前からずっと思ってたんだが、田端、もうおれに、いろいろ報告しなくていいから」
 「え」
 「普通の学生に戻れ。それがいい」
 「いやです!」
 自分でもびっくりするくらいの速さで、理音は貴海の提案を撥ねていた。
貴海は柳眉をぎゅっと寄せた。
顔立ちが整っているうえに表情に乏しいため、きつい顔をすると、本人が思っている以上の険しさを醸し出す。
ええい、負けるもんかと理音はその顔をまっすぐ見た。
 「先生は自分勝手だと思います! 都合のいいときだけ人を利用して、面倒になりそうだと思った途端に、さようならですか!」
 貴海は愁眉をほどいて、妙なものを見下ろす顔で理音を見た。
 「なんなんだ、これは。別れ話か? 付き合ってもいないのに、順序がおかしいぞ」
 「混ぜっ返さないでください! そりゃ、先生はわたしみたいなヘンテコなのより、杏樹ちゃんみたいに明るい子のほうが、いいでしょうけど」
 「杏樹? 河村杏樹がどうしてそこで登場する?」
 「だいたい、杏樹ちゃんはずるい! 先生にも気に入られてるし、沢登君とも仲良しだし、はるかのことに気づいてるのに、ぜんぜん態度変えないし!」
 
そういうのって、なんだか…と、理音は唐突に気づいた。
杏樹の周りに対する態度は、以前の自分にそっくりだ。
自分がよく思われれば、他人はどうでもいいと思っていた傲慢な頃の自分に。
しかし杏樹の明るさは、理音のような『嘘』ではない。
そこが理音の嫉妬心を刺激している。
泣きたくなってきた。

 「おれは確かに河村が嫌いじゃないが、特別に気に入っている、ってほどでもないぞ」
 「杏樹ちゃんは先生が大好きなんですよ?」
 涙が出るのを抑えるために、理音はわざと乱暴に言った。
 「河村が好きなのは、自分で作ったおれのイメージだろ?」
 理音は驚いて貴海を見た。
 「先生、冷たいよ、それ」
 「事実だろ。好いてくれるのは有難いが、あまりうれしくないな」
 「の、割にはうまくお付き合いなさってるようですこと」
 「おまえこそ、混ぜっ返すな」
 
しばらく、二人は、本来のチラシ配りをすっかり忘れて、黙って歩いていた。
アスファルトの上に伸びる影が長い。
ほぼ同じ位置に並んで歩いているので、隣の貴海の影も長く映っている。
やっぱり背が高いなと思いながら、理音は、このまま黙っているのが気詰まりになってきた。
理音は沈思熟考の少女であるが、陰湿な少女ではない。
貴海の神経質な性格からすれば、理音のことが気に食わなければ、そのまま黙って行ってしまうはずだった。
しかし自分の早さに歩調を合わせて、隣にいる。
 理音は話題を探したが、うまく場を和ませるようなものを見つけることができなかった。
そうして黙ったまま歩いていると、 途中、道が二股に別れていて、どちらも道路の舗装が途切れていた。
片方は雑木林に入っており、もう片方はゆるやかな坂道の上に、青いトタンの小屋が見える。
理音が坂道のほうを行こうとすると、貴海が呼び止めた。
 「そっちはもう何年も前に家が絶えて、それきりだれも住んでない。進んでも、廃屋があるだけだ。道も先が沼になっていて、行き止まりになってる」
 「そうなの? さすが詳しいね」
 「なんだって?」
 「天羽先生が、このあたりに貴海って家があるけど、親戚じゃないかって言ってたよ」
と、自分で言いつつ、理音は矛盾に気づいた。
貴海と天羽が親戚なら、地元の天羽が、同じ土地に住む貴海の家が、自分の親戚筋かどうか、わからないはずがない。
新興住宅地のど真ん中ならあり得るが、ここは古くからの農村である。

 「先生と、天羽先生は親戚じゃないの?」
 貴海はしかめた顔を、さらにしかめた。
 「だれがそんなことを言ったんだ? 天羽はうちの親戚じゃない。たしかにこの土地に祖父の家があったよ。でもそれも代替りして、ほとんど付き合いのない家になってる」
 貴海は、なにか思いついたことがあったらしく、考え込むときの癖で指先を口に当てて、眉をしかめた。
 「天羽、か。なんかひっかかるな。なにか思い出しそうなんだが」
 「天羽先生って、不思議なことを言う人だね。さっきも、わたしのことを『みずうみ』ね、なんて言うんだよ」
 「みずうみ?」
 「亀山ダムの人工湖のこと? それとも大貫妙子の『みずうみ』のことかな?」
貴海が答えず、そのまま考える人のように固まってしまったので、手持ち無沙汰な理音は、NHKのみんなのうたで流れていた、グリークの曲に大貫妙子が歌詞をつけた『みずうみ』を口ずさんでいた。

 途中まで唄っていた理音であるが、いつしか貴海が考え込むのをやめて、じっと理音を見つめているのに気づいた。
それは、熱心に辞書をめくって、なにかを捜しているような眼差しである。
 「なんだ、その唄は?」
 「大貫妙子の『みずうみ』。知らなかった?」
 「メロディは知ってるが」
 「大丈夫、先生? なんだか顔色が悪いみたい」
 「田端、天羽先生は、ほかになにか言ってなかったか?」
 「べつに。自分のことだけだよ。天羽っていう家は、天狗がご先祖にいる、天狗憑きの家なんだとか」
 「天狗憑き?」
 最初は薄曇りの天気のためと思っていたのだが、だんだんと貴海の顔色は悪くなっていった。ほとんど蒼白である。
理音は貴海に車に戻って休むよう勧めた。
そしてチラシを投げるようにして割り当ての地域に配ってくると、貴海の車に戻ってくると、貴海はじっと恐い顔をして考え事をつづけていた。



校内では必要最低限は交流を持たない、と決めたわけであるが、理音は貴海の様子が気になって仕方がない。
翌日、理音は人目を気にしつつ化学準備室へ向かったが、中は無人であった。
職員室も覗いてみたが、姿は見えない。
どこかの教室に移動しているのだろうかと廊下を歩いていると、めずらしくはるかと沢登が二人きりなのに出くわした。
しかしあまり話は弾んでいなかったようで、二人は理音を見ると、あきらかにほっとした。
話題提供者の登場、というわけだ。
思わず理音は、
 「今日は杏樹ちゃんは?」
と、口にしていた。
自分の馬鹿正直さを呪う。
はるかがう、つむいてしまったのが目に入る。
理音も、貴海のことで杏樹を気にしていたために、ついつい口にしてしまったのだが、はるかにそれがわかるはずがない。
 「あいつ風邪ひいたんだとよ。今日は休んでるぜ。早々とインフルエンザでも流行ってンのかね。おまえは元気そうだな」
 「おかげさまでね。はやってるって、ほかにも風邪引いてる子がいるの?」
 「貴海先生が早退したの、理音ちゃん知らないの?」
とは、はるかである。理音はびっくりして尋ねた。
 「いつ?」
 「鬼の撹乱ってヤツだよな。一時間目の途中でさ、授業中に急に具合が悪くなって、教室を出ていっちまってさ。どうしたのかなと思ってたら、ヒロリンが来て、キキカイカイが具合が悪くなったから、自習だーっていうじゃん?」
 「朝から具合が悪かったみたいだよ。天羽先生と、なんか口論してたのを見た人がいるって。そういえば、昨日も帰りぎわ、なんだか青い顔をしていたよね」
 
理音は、二人にあいさつもそこそこに、保健室の天羽のところへ向かった。
途中で次の授業を報せる予鈴が鳴ったが、理音は無視をした。
 「あら、みずうみちゃん、具合でも悪いの? そういうふうには見えないけど」
天羽は、まるで理音がやってくるのを予想していたように、理音を揶揄した。
 「どうしてわたしのこと、みずうみって呼ぶんですか?」
 「川端康成よ、知らないの? まあいいわ。ところでなにかしら。もう次の授業は始まっているはずよね?」
余裕たっぷりに天羽は言う。
気取った仕草できれいな足を組みなおす。
気のせいだろうか。指一本動かすにも、天羽は挑発しているように見える。
 「貴海先生に、なにか言ったんですか」
 「どうしてそんなこと聞くの? お勉強には、なにも関係ないでしょう?」
 「あなた、自分が貴海先生の親戚だって、みんなにウソついてたじゃない。どうして?」
 「それは誤解ね。どこかで情報が間違ったのね。あたしはこう言ったのよ。
『貴海家のコネで雨咲名望の臨時の教職が見つかった』。
貴海家っていったら、彼一人を指すわけじゃないでしょ? なあに、それがどうしたの?」
 「わたしが先生にあなたの話をしたら、具合が悪くなったんです」
 「まあ、いやね。嫌われたもんだわ」
 「誤魔化さないで! 今朝、先生と口論してたんでしょ? いったい、なにを言い争っていたの?」
 「ますますもって変な子ねぇ。どうしてあなたにそんなことを話さなくちゃいけないの? あなた、先生のクラスの子じゃないんでしょ? 不自然だわよ。ねぇ、ひとつ聞かせてくれる? どうしてあの先生が好きなの?」
 「わたしは、先生と恋愛関係というわけじゃないです。どうしてそんなこと聞くんですか」
 「ほかの生徒も、ずいぶんあの先生に熱心みたいだから、不思議だなあって思ってたのよ。彼、かなり自己中心的な人じゃない? しかも世の中の不幸を全部一人でしょってます、って顔をして辛気臭いわよね。どうしてあんなのを好きになれるのかわからないわ」
 「あなたに先生の、なにがわかるって言うんですか!」
 痛烈に批判され、理音は思わず怒鳴っていた。
その名に恥じぬように、ライオンの雄たけびにそっくりの勢いで。
 「わかるわよ。言っとくけどね、みずうみちゃん、あたしはあなたより長生きしているの。だから人を見る目はだいぶあるのよ。警告しておくけど、やめなさい、あんなヤツ。あなた不幸になるわよ」
 「誤解もほどほどにしてください。それに、あなたがどれだけわたしたちのことをわかってる、って言うんですか! 自分のことは自分で決めます!」
 「後悔しないことを祈ってるわ」
 意味ありげに揶揄されて、理音は威嚇するように、しばらく、悠然とこちらを見ている天羽と視線を戦わせていたが、やがて時間のムダだとあきらめて、理音は、軽くため息をつくと保健室を出た。
 
放課後に、理音は携帯電話のメールを確かめてみたが、なにも届いていなかった。
見舞いに行くことも考えたが、貴海の性格からして、あまり喜ばないことは予想できた。
そこで理音は図書室に行くと、川端康成の著書を探した。
すると、ものの5分としないうちに、『みずうみ』と題された小説を見つけた。
さほど長くもなく、流れるような文章であったので、理音は2時間で一気にそれを読み下した。
読みおわったとき、理音はなんともいえない、重苦しい気分になっていた。怒りと戸惑いが半ばしている。
 『ひどい、あの人、わたしたちのことを、この小説になぞらえてたんだ』
主人公の銀平は、教え子の久子と恋愛関係に陥り、そのために教職を失った。
銀平は自分の足にコンプレックスを持つ、不幸な家庭環境に育った青年だ。
そのためかわからないが、美しい若い女を見ると、それを尾行する性癖を持っている。
 『キキカイカイは、こんなこそこそした人間じゃない。それにわたしが深窓の令嬢だから近づいたわけじゃない。この小説に出てくる人間は、どれもわたしたちに似ていない』
と、片っ端から否定してみるものの、赴任してきたばかりの天羽が、なぜ貴海と理音の間になにかあると気づいたのか。
もちろん、邪推されているように、恋愛関係はないわけであるが、うそら寒い思いに代わりはない。
 『先生は、天羽先生のことを聞いてから、具合が悪くなったんだ。なんでだろう? この小説となにか関連があるのかな。言い争っていたっていう原因は? あの先生がちょっと言い争ったくらいで、早退するほど具合が悪くなったなんて、相当だよ。
天羽先生は、キキカイカイに恨みでもあるのかな。まだ知り合ってさほどでない人間を、あんなふうに言うなんて、尋常じゃない』
 たとえ性格的に問題がある人物でも、貴海は理音にとって、初めて本音で接することのできる相手だった。
付き合っていくなかでは、決していいことばかりではなく、不意に相手の傷や醜い部分に触れることもあるわけだが、しかしそれをひっくるめても、理音は貴海をいつでも忘れられない。
 『どうしよう』
理音は図書室を出て、下駄箱で靴を履きかえた。
ふと、下駄箱になにかが入っている。なにかのコピーのようだ。取り出してみると、どこかの肉筆の日記帳のコピーが数枚と、新聞の切り抜きのコピーである。
余白には、
 『みずうみちゃんへ』
とあった。
 新聞の切り抜きは20年前のもので、ベタ記事でこんなふうになっていた。
 
『男児への猥褻事件
 10月7日の未明、雨咲署へ男児が行方不明になったと家人より連絡があった。捜索より2時間後、男児は沼の畔で全裸で発見された。男児によると、見知らぬ男が『お母さんのいるところへ行こう。一緒にあそぼう』と声をかけてきて、そのまま沼に連れ込まれ、猥褻行為を受けたらしい。男の足取りは掴めていない。同地区は天狗伝説でも有名で、地元の人間は『天狗の仕業』と口にしている』

 天狗、と聞いて理音は、すぐさま天羽の言葉を思い出していた。
そして、貴海が『天狗憑き』という言葉を聞いてから、顔色を変えたことも。
 日記のコピーには、達筆で読みにくいものの、こうあった。

 『10月7日
 天狗出没。
 夕刻過ぎ、雨咲警察署の署員が我が家を訪れ、天羽家の男児が行方不明になったが、見ていないかと言う。
知らないと答えると、そのあとに消防団がやってきて、捜索の手伝いを頼まれた。
風呂に入る途中だったので、あわてて着替えて外に出る。
 消防団のほか、村の人間総出であたりを探したが、男児の姿は見つからない。
そのうち、だれかが『また神隠しではないか』と言い出した。
すると、警察の人間が、このところ雨咲町近辺で、学童未満の男児を狙った猥褻事件が何件か発生しており、もしかしたらそれかもしれぬ、と言う。
どちらにしろ隠されたことには間違いない。
 捜索をはじめて2時間くらいして、沼の畔で男児を発見。ほっとする。
しかし相当にむごい扱いを受けたらしく、着衣等なにも身につけておらず、意識不明の重体。
ともかく命は無事でなにより、とみな言うが、だれもあまり安堵をしておらぬ様子。犯人はどこへ』
 
『10月9日
 子供を寝かせたあと、学長の訪問を受ける。
突然だったのでおどろいていると、学長は、例の男児が『天狗について思い出したことがある』と言っている、と告げる』
 
 日記のコピーは、そこで途切れていた。
 わけがわからない。
 このコピーを下駄箱に入れたのは、宛名からして天羽だろう。
理音は保健室と職員室を回ったが、天羽はもう帰宅したあとだった。
そこで理音は帰宅すると、すぐさま、父の祥一郎の書斎へと向かった。
 祥一郎の趣味は、雨咲の歴史を研究することである。
『雨咲の歴史を再発見する会』というものも作っており、雨咲の名士を中心に定期的に会合を開いては、明治維新から、昭和の戦後にかけての混乱の時代に散逸した、植草家の古文書などを集めたり、あるいは下級武士であり、文屋番だったご先祖が几帳面につけた日記や、貴海家の民俗学者が記録した土地の説話集などを読んで、過去に起こった事件の裏付けをしたり、仮説を立てたりして楽しんでいる。
祥一郎は、娘がめずらしく自分の書斎で、熱心に『雨咲年鑑』を読んでいるのを見て、言った。
 「こりゃ、明日の朝は赤い雪でも降るんじゃないかね。社会の宿題でも出たのかい?」

理音は年鑑で20年前……だいたい1980年前後の雨咲で起こった事件を片っ端から探していた。
グリコ・森永事件が世間をにぎわしていた頃だ。
年鑑は、全国の事件と地元の事件を対比して記載している。
それを覗き込んで、祥一郎が言った。
 「この前の年に、大韓航空機墜落事件があってねぇ、飛行機に乗ったとき『この飛行機は大丈夫かな』なんて冗談を言っていたら、そのときスチュワーデスをやっていたお母さんに、『そんなに心配なら降りたら』って怒られたんだよ。それが出会いだったなあ」
 祥一郎はどこで買ったのか、派手な色彩の手編みのニットのカーディガンに、衿なしのシャツ、センターラインのなくなったズボンという、だらしのない格好をしている。カーディガンには、漫画ちっくなトナカイが、にっこり笑っている絵がついている。
その能天気な表情を気にしながら、理音は尋ねた。
 「それじゃ、お父さんはその時の地元の事件なんて、覚えてないよね。男の子が天狗にさらわれたって事件なんだけど」
 「おまえ、たった二十年前に天狗だなんて」
 でもね、と理音は新聞記事のコピーを見せた。
祥一郎は怪訝そうに、
 「なんだってこんなイヤな事件のことを調べてるんだか」
と言いながら、書棚から『雨咲のむかしばなし』という子供向けの本と、『雨咲の未解決事件』という同人誌を取り出した。
 
「天生地区っていうのは、昔から天狗伝説が多かったんだよ。昭和のはじめに、貴海さんのところの民俗学者が集めただけでも、5つのバリエーションを持っている。
天狗の正体がなにかは別にして、天生地区は裏街道の真ん中に位置していて、富裕な農家が多かったために、誘拐事件に巻き込まれたり、あるいは旅人が多かったことから、行きずりの人間に、猥褻目的でさらわれたりすることがあったんだろうね。
むかしは人間が失踪すると、『神隠し』といって天狗やキツネのせいにして、家族にあきらめさせる精神的な口実を設けたんだな。
天狗にさらわれた子供が、数日後、森で死体で発見されたとかいう伝説もあるんだが、現代から見れば、犯罪に巻き込まれたんだろうな、と思うよ」
 
理音の読んだ本によれば、天狗というのは、インドが発生の起源とされている。
天狗という字があらわすとおり、昔は『天の狗』、つまり犬の姿をしていた。
古代では流星をあらわす存在だったようだが、時代が下るにつれ、インドの『カルラ天』や山伏などのイメージを合流させ、いまの姿になっていった。
超自然的な力を操り、医術などにも長けている、神にも似たもの、それが天狗である。

 ただ、各地の天狗民話とはちがって、天生の天狗はいささかリアルである。
祥一郎の言うとおり、むかしばなしふうにアレンジされているものの、『雨咲のむかしばなし』に収録されている「天生の天狗のおはなし」は、誘拐事件のルポのような内容だ。曰く、
 「天生の羽振りの良い農家の息子が、寺子屋の帰りにふっつりといなくなった。
村人総出で息子を探すが見つからない。
その夜、両親が物音に目を覚ますと、家の戸口に天狗とおぼしき男が立っていて、おまえの息子は、わたしたちの家でもてなしている、と告げた。
 両親はおそれおののき、家にあった酒や食物を天狗に差し出して、どうぞこれをさしあげますので息子を帰してくださいと懇願した。
数日後、やはり夜に両親は物音で目を覚ました。耳をすますと、たしかに子供の泣き声である。
戸口をあけようとすると、大勢のぶきみな笑い声が聞こえた。
おびえながらも、そろそろと戸口をあけると、そこにいなくなった息子が泣いていた。息子のほかには、だれもいなかった」
 
つづいて理音は、『雨咲の未解決事件』を手に取った。
 「男児連続暴行事件
 1982年から1983年にかけて、雨咲市街から天生地区にかけて、男児を狙った猥褻事件が発生した。被害者の年令は3才から5才くらいまでで、いずれも学校や幼稚園の帰りに一人でいるところを狙われている。
最初に発生したのは1982年の雨咲駅の公衆トイレで、一人で用を足そうとした男児が、付いてきた男に個室に閉じこめられ、体などをさわられる被害をうけた。
つづいて、雨咲のスーパーの屋上駐車場で、ゲームコーナーで一人で遊んでいた男児が、『お母さんのところにつれていってあげる』と誘われ、服を脱がされ、体をさわられるなどの被害をうけた。
また2ヵ月後、被害者の一人は公園で友達と遊んでいたところ、見知らぬ男に『お母さんのところにつれていってあげる』とさそわれ、近くの人目のつかない廃屋に連れ込まれ、被害を受けた。
男はこの際に、『このことをしゃべったらもう家に帰れなくなる』などと言って男児を脅した。
被害者の連れ去られた公園は、交番の目の前にあった。
事件が発生する前に、猫の惨殺死体が見つかる事件が頻発していた。

そして1983年の秋、天生地区で友達と遊んでいた男児が、やはり 『お母さんのところにつれていってあげる』と声をかけられた。
しかしこの男児は母親がいなかったため、男の言葉に恐くなり、近くの民家に駆け込んで被害をまぬがれた。
同日、天生地区の男児が行方不明になり、捜索したところ、沼のそばで全裸の男児が発見された。
男児は意識不明の重体であり、暴行を受けた痕跡があった。
男児が発見される直前に、男児の家に匿名で、『あなたのお子さんは湖にいる』という電話があった。
そこで捜索したところ、沼(地元の子供たちは湖と呼んでいた)の畔で男児を発見した。
しかしこの事件以降、犯行はぷっつりと途絶え、犯人も不明のまま、現在に至っている。
いずれも被害者が幼く目撃談が要領を得ず、第三者の目撃証言もきわめて少ないことから、犯人に結びつく手がかりは得られていない。

1983年の秋の最後の事件が発生するまで、警察は被害者のプライバシーを考慮して、この男児連続猥褻事件の報道を規制しており、そのために目撃情報が得られなかったという見方もある」
 
これだ、と理音は思った。
この事件を報道したのが、コピーの記事なわけである。
でもわからない。
これが、だから、なんだというのか。
 「あんまり関心しないねぇ、こういうものに興味を持つのは」
と、祥一郎は言った。
 「これはお父さんの感じなんだけれど、物事というのは呼び合う性質があるからね、こんな陰惨な事件に興味を持っていると、向こうから同じたぐいのものが寄ってくるよ。広川先生にこの間、やんわり注意されたよ。おまえが好奇心が強すぎて、危ないことにも首をつっこむのが心配だって」
 「気をつけてるもん。大丈夫」
一人じゃないし、と理音は心のなかで付け加えた。
そしてヒロリンのヤツめ、余計なことを、と思った。
同時に、『みずうみ』のことが思い浮かぶ。貴海と理音の間にはなにもないわけであるが、邪推した人間が、あらぬ噂を立てたとしたら、銀平のように、貴海も教職を追われてしまうのだろうか。
『みずうみ』の書かれた時代から、すでに50年が経過している。
時代は変わった。
そして教師と生徒という以外に、あの小説の中で共通する項目はなにもない。
 
だが理音は、感受性がするどいがために、なにか不吉な警告を受けたような気になっていた。
加えて、この謎めいたコピーである。
そこにある陰惨な事件と、だれのものかわからない日記の断片。
 『やっぱり、天羽先生は、貴海先生によくない感情を持っている』
と、理音は思った。
 『だからわたしを先生から引き離したいんだ。でも、いったいなぜなんだろう?』