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二十
ルナティック 前編「委員会、どうしますぅ?」
「人に聞く前に、自分はどうするか言えよ」
河村杏樹と沢登はカウンターで、相も変らずテンポの良い会話をしている。お客の数はまばらで、片付け物もない。
冷蔵庫からコーヒーミルクを取り出してカウンターに並べながら、理音は杏樹に尋ねた。
「杏樹ちゃんは、部活が忙しいから委員会は無理じゃない?」
「そーおなんですよ。しかもうちは今度、顧問の安藤先生の提案で、つぶれた新聞部の活動も引き継ごうってことになって、学校のHPと壁新聞を作ることになったんです。だからたぶん、無理ですねぇ」
「新聞部と机上旅行部って、活動がダブってる部分があったからな。ちょうどいいんじゃねぇの。うちって人数が少ない分、委員会活動って、よその学校より厳しいんだよな」
「となると、沢登くんも、委員会活動はしないんだ?」
「まあなー。でも高木が、一緒に文化祭実行委員会にならないかって言っててさ。どうしようかなーって」
このところのはるかの活動は、太陽のコロナのように活発である。
沢登とクラスが離れてしまったことで、かえって吹っ切れたのかもしれない。理音にあてこすりや嫌味を言うことは、ぱたりとなくなった。
そこに向けていたエネルギーを、すべて前向きの力に働かせているようだ。
「いいんじゃない。生徒は部活以外にも、学校行事に参加したほうがいいって先生たちも言ってたし、きっと楽しいよ」
「おう、それなら、おまえも文化祭実行委員会、どうよ?」
とんでもございません、と理音は思った。
はるかから理音には、その話は来ていない。
ということは、はるかは二人で沢登と委員会活動をしたい、ということなのだ。
そのあたりの無言の意思表示が、理音は理解できるようになっていた。
「理音先輩は、テニス部辞めたんで、なんでもできますよねぇ。いっそ生徒会に立候補ってどうですかぁ? ほら、例の校則の件で生徒会がなんにもしないって、みんなに叩かれている生徒会を建て直すんですよ。カッコイー」
「でも生徒会指導ってヒロリンでしょ? 担任もヒロリン、生徒会もヒロリン。だいたい、そのまえに立候補して受かるかどうか」
「大丈夫ですよぉ。わたしが応援演説しますし、マックで超カッコイー応援ポスター作ります。きっと一等当選ですよぉ。河村参謀と呼んでください」
「すげぇな、おまえ、マッキントッシュ使えるのか」
「普通科の漫画部の子に教えてもらったんですぅ」
「一等当選っていうのは無理じゃない? 噂だと、A組の宮町さんが会長に立候補する、って話だし」
「いーえ、それはナイです」
と、杏樹はきっぱり否定した。
「宮町先輩は、独自に校則を考える会というのを立ち上げるそうです。体制に取り込まれた生徒会には、興味がナイ、というお話です」
「体制って、あいつ、いつの時代の学生だよ。でもわかるな、それ。宮町ってさ、なんにも手垢のついてない真っ白いところで、自分が仕切って作り上げるって情況を整えないと、行動しないタイプだよな」
理音は最近、沢登の人物評をかなり信頼している。
その隣では、杏樹が沈み込んだ顔をしている。
「だけどそうなると、貴海先生、カワイソですよね? 自分のクラスの生徒と対決しなきゃいけなくなるんですよ。あー、あたしも部活がなければ、先生のお手伝いするのになぁ」
「貴海がそんなことでクヨクヨする男かよ。だいたい、おまえこの間は貴海は好きだけど、自分の考えはちがうって、はっきり言ってたじゃないか」
「でもやっぱりどっちを取るかって言われたら、貴海先生なんですよねぇ。なんか最近の、あのアンニュイな雰囲気に白衣ってのが超ツボで、もーどうしようって感じ」
「おまえがどうしようだろう。アンニュイっていうより、ありゃ寝不足だろ。あいつ最近、千葉の繁華街とかで、うろうろしてるらしいじゃん」
「ちがいますぅ。生活指導ですぅ」
と杏樹が、ふぐのように頬を膨らませるのを、沢登は顔真似をして応えた。
「実益もかねた、生活指導だろ。絶対あれは遊んでるって」
理音は手にしていたトレイで、ばいん、と沢登の頭を叩いた。
「沢登くん、お客さん来たから静かに」
「すんません、準チーフ」
理音は憮然としたまま、フロアの仕事にかかった。
生徒の間で、このところ貴海を妙な場所で見る、という噂が流れて久しい。
それはライブハウスだったり、警察密着24時!のようなタイトルのつく番組で紹介される、麻薬の密売人がいるような露地だったり、あるいは繁華街だったり、もっと場末の、学生はほとんど出入りできないような所だったり。
渋谷で見た、という証言もあれば、池袋で見た、東京駅でひよこを買っていた、千葉駅でじいっと人の流れを観察していた、海浜幕張のプレナのゲームセンターにいた、千葉そごうの美術館グッズ売場にいた、という証言もある(美術館グッズに関しては、あきらかにプライベートだと推測できる)。
生活指導というには、範囲が広すぎるため、生徒たちはおもしろおかしく話を誇張させているのだが、それを聞いて、理音はすぐに理由がわかった。
貴海は公藤を捜しているのだ。
公藤の行方は、依然としてわからないままだ。もともと友達の少ない少女であったし、活動範囲もきわめて狭かった。
それこそくまなく、しらみつぶしに捜したものの、公藤がどの方向へ行ったのかさえわからない。
放課後は、下校時間まで学校に残って生徒を指導し、それから残務処理をすませて、家出少女が行きそうな場所を探し、帰宅する。
家につくのは午前様だろう。
そして朝は、8時には登校している。プライベートもなにもあったものではない。
理音はその日は終業時間まで働き、駅前の12時まで営業しているライバル店でさらに粘り、雨咲町の終電を待った。
深夜独特のたるんだ空気が漂っていて、理音にはおもしろい。
文庫を読みながら時間をつぶし、ちょうど駅の階段が真っ正面に見えるようになっている店のウィンドから、降りてくる乗客を待った。
くたびれ果てた、といった風情のサラリーマンやOLに混ざって(理音が想像していたような、酔っ払いだらけということはなく、ちょっと遅い時間に帰る、普通の会社員たちばかりである)負けないくらい、くたびれてどんよりしている貴海の姿を見つけた。
「先生!」
理音が声をかけると、貴海は、しばやくぼんやりしていたが、やがて状況がわかったらしく、顔色を変えて階段を降りてきた。
「何時だと思ってる! なにしてるんだ、こんなところで! バイトか?」
「まさかあ。マーケティングを兼ねた待ち合わせです」
「だれと?」
理音は、人差し指で貴海を示した。
「おまえ国語の勉強してないだろ。待ち合わせというのは、予めされた約束に従い、ある場所に集合することだ。これは待ち伏せ」
「あー、なるほど」
「なるほどじゃない! なにやってるんだ、まったくバカタレ。何の用だ?」
「公藤さん見つかった?」
ああ、と貴海は短く言うと、垂れてきた前髪を払い除けながら、答えた。
「手がかりすら掴めない状態だ。警察に知り合いがいるんで、頼んでいるんだが、それらしい少女が補導されたとか、悪い仲間とつるんでいるとかいう話は聞こえてこない。公藤の両親も最近は、山捜しをしたほうがいいんじゃないかと言い始めてるんだ」
「山捜しだなんて、公藤さんがどこかで自殺してるってこと? とてもそうは思えないけどな。だって、彼女って、自分は少しも悪くないのに、世の中が間違っている、って怒っているタイプだもん。あてつけの自殺はあるかもしれないけど、人目につかないところでひっそりと、っていうのはない気がする」
貴海は黙って歩きだした。
理音の家の方角である。
「公藤さん、無事でいるといいね」
「公藤みたいなヤツを見てると、本当にイヤな気分だ。自分のことばかり考えて、自分のことばかり主張して、わずかのわがままさえ通らないだけで機嫌を悪くして、まわりがみんな敵だと思い込む。そうして人を傷つけておいて、結局なにも生み出さないまま自己完結して、どこかへ消えてしまう」
「先生、ずいぶん厳しいみたい」
「イヤなんだよ、いろいろ思い出して」
「そういう人が、身近にいたの?」
しかし貴海は黙って夜道を行く。
雨咲町は城下町として栄えた古い町並みと、区画整理されて整えられた新しい町とがはっきり分かれている町だ。
新しい町は、バイパスによって山を崩して出来上がった、いくつもの新興住宅地とつながっており、バス便も多く、郊外型のチェーン店なども並んでいるが、古い町は、それに押されるようにして、平屋の木造住宅と、それでも人が住み続けているぼろアパート、いつなくなってもおかしくないような、客がいるところを見たことのない商店などが混在している。
古い町のほうは道も狭く、薄暗いために、夜道は往来も少ない。
黒いアスファルトに長い影を並べながら、理音は貴海を追い掛ける。
最近理音は、表情に出ている以外の、貴海の感情の読み方がわかってきた。
貴海は、言葉も目付きも表情もきついが、意外と本音は柔軟で正反対だったりする。
そして自分のことや、身内に関しては毒舌きわまりないが、それ以外の人間にたいして、悪し様に言うことは滅多にない。
もしそういったことがあるとすれば、それは人に託した自分への警句だったりするのだ。
きわめて複雑なキキカイカイ。
付き合うのには、脳味噌をすべて活用させないといけない。
貴海は途中で、ちょっとこっちへ、と行って、平屋の、赤い屋根に白い壁の古い家に入っていった。
表札にはにじんだ字で『貴海』とある。
玄関先で理音は待たされた。
家にはだれもいないらしく、明かりはついていない。
露地に面した小さな庭は、きちんと手入れされていて、桔梗が紫色の、見るものの衿を正させるような、きりりとした花を咲かせていた。
窓に面した古い木枠の出窓には、分厚い本や、テーブルランプが見える。
先生の部屋かなと思ってみていると、しばらくして貴海が戻ってきた。
もしかしたらもう寝てしまった家人に、生徒を送っていくと伝言していたのかもしれない。
「ええと、すみません、ご家族の人にも謝っておいてください」
理音が言うと、貴海は答えた。
「言ったところで通じやしないさ。金魚だから」
「金魚?」
「従弟が夏祭りに買ったのを、おれの家に置いてったんだ。いつもは伯母が、うちの掃除なんかと一緒に面倒を見ててくれるんだが、ちょうど家族旅行に行っててな」
本当にすべてが意表をつくなあ。
「じゃあ、先生は一人暮らしなわけですね」
「下宿にいるようなもんだけどな。なんだ、泊まっていくか」
うん、って言ったら困るくせに、と思いながら理音は答えた。
「先生、セクハラです。ヒロリンみたいな親父ギャグはやめてください」
「毎日繁華街で酔っ払いの中にいると、自然と親父ギャグのバリエーションが増えてくるんだ。
冗談はともかく、不況とはいえ、金が集まるところには集まるように出来てるんだな。卒業生やOBのツテで、未成年を働かせているという噂のバーや風俗店なんかも覗いて見たんだが、熱気というかなんというか、ともかくぞっとしたね」
「先生、覗いて見たんですか」
「個室の中は見てない。裏口から客待ちの従業員の顔を見せてもらったり、話を聞いたりしただけだ。言っておくけど一人じゃなくて、警察関係者と一緒だったんだからな。おまえは絶対に真似するなよ。中には、ほとんど人身売買のような形で、店に出ている女の子だっているんだからな」
「恐いですね」
「本当に恐がってないだろ。だいたい、この深夜に、おれと歩いていて恐くないのか?」
「先生は送り狼になる予定なんですか?」
「遠足の予定を聞くみたいに聞くな」
「先生は、わたしがどういう人間か知ってるから、襲ったりできないでしょ? わたしは、絶対に泣き寝入りなんてしないタイプだもの。
女を襲う人って、女の人格がまるで見えてない人じゃない? もしちゃんと人格が見えていれば、どうなるか想像力が働いて、なにもできなくなると思うの」
「ご高説はごもっとも。だけどな、そう理論づくでいかない部分ってのもあるわけだ。ふとした拍子に、理性が打っ飛ぶことだってあり得る」
「先生はわたしのこと、女だって意識してないでしょ?」
「どうして言い切るんだよ」
「もし女だって意識しているなら、駅で会った時点で、タクシーを捕まえて、わたしのことを家に送り返してる」
「あー、そうすりゃ良かったかな」
海から渡る風がびゅんと吹いて、ふるい電灯のライトをぐらぐらと揺らした。
天気予報によれば、何度目かの台風が近付いているらしい。
藤壷のように狭い土地に、びっしりと立ち並んでいる、といった風情の木造の家並みには、ぽつぽつと明かりがともり、たまに人影がシルエットを浮かばせる。
それを見て、理音は言った。
「明かりに人影が映っているのを見ると、なんだか安心しない? 夜でだれもみんな寝静まっているわけだけど、まだ人がいるんだ、自分だけ起きてるんじゃないんだって思って」
「おもしろいな、おまえはそう思うわけか。おれは逆だな。不安になる。そこに人がいるのがはっきりわかるわけだが、影だけ、というのが象徴しているように、そこの光景と自分は、まるで接触することがない。孤立したばらばらの世界が確実に存在しているわけだ。だからむしろおれは怖いね」
「どうして?」
「人間てのは、とことん孤独な生きものなんだよ。強いてそこに近づこうという意志と努力を持たないかぎり、どこの世界ともつながれないもんなんだ」
「だから怖いの?」
「そうだよ」
貴海に送ってもらったあと、理音は貴海の言ったことについて考えてみた。
明かりを落とした部屋の窓から、雑木林ごしに見える新興住宅地の明かりを眺めている。
あそこには、まだ起きている人がいて、そこにはそれぞれの生活がある。
当たり前のことだが、そんなことが不思議に思われる。
間違いなくそこには知らない世界が存在している。
それなのに、それがまったく自分と関係ないというのは。
「怖い、じゃなくて悲しい、かな」
と理音はつぶやいた。キキカイカイの孤独は想像以上に深いのだ。
次の日、また理音は深夜までバイトを行い、それから駅前のカフェに移動して、終電を待った。
カフェには、なぜなのか、コーヒー一杯で気怠そうにしながら、いつまでも粘っている客や、黙然と読書に励む女性、理音と同様に、だれかを待っている客などさまざまである。
そのどれもが、それぞれの世界を構築しているにもかかわらず、そのどれとも自分は関係がない。
してみれば、逆にいまつながりのある世界というのは、とても貴重なものだということだ。
やっぱり友達は大切に。うん。
納得したところで、8つ年上の友達が終電から降りてきた。
理音は会計をすませると、貴海のところへ行った。
貴海は昨日と同様に、バカタレ、なにをしていると繰り返したが、しかし一方で、戸惑いと喜びが半ばしているのが見て取れて楽しい。
理音は、満面の笑みを浮かべて、貴海を迎えた。
「お疲れさま。今日はどうだった?」
「収穫ゼロ。でもなんでだ?」
「なにが?」
「なんだって、おれを待ってるんだ?」
「話をしたいからだよ。だって先生、わたしは先生の担当じゃないし、化学準備室にもあんまり遊びに行っちゃだめだっていうじゃない。だったら学校の外で会うしかないけど、先生はずっと仕事中でしょ? だったらこの時間しかないってことじゃない」
「なんでおれと話をしたいんだよ」
「楽しいから」
「いっそ化学の講義でもするか? 正直に言えば、こうやって懐いてくれるのも嬉しいんだがな、時間が時間だし、まずいだろう。嫁入り前の娘に妙な噂がたったら、ご両親だって嘆くぞ」
「わたしだって、ほとんど一人暮らしみたいなものだよ。親も、出張だ、会議だで、ほとんどあの家にはいないの。だから噂が立っても平気だよ」
「なお一層問題だ。いいか、もうこんな時間におれを待ってるんじゃない。明日も来ていたら、おまえが女だろうと、ぶん殴ってタクシーで家に送り返すからな」
しかし理音はまったく懲りなかった。
近づいてきた台風は、大きくそれて太平洋側に行ってしまったものの、それでも風がつよく、電信柱の捨て看板などが、ガクガクと激しく揺れている。
貴海を待つためのカフェは、いつもは自動扉にしているのだが、今日ばかりは風でセンサーが反応し、そのたびに風が店内に入ってきてしまうため、『手動です』という、チラシの裏に書いた紙を貼って、扉を閉じっぱなしにしている。
そのせいか、店の音が、今日はいつもより鮮明に聞こえてくる。
理音の『ワルツ・オブ・ウィーン』のアールヌーヴォーを意識した内装とは対照的に、駅前のカフェはモダンで、ミロの抽象画の版画などがかけてある。
赤基調の調度に、蓮の花を引っ繰り返したようなライトがぶら下っている。
価格はぐっと安く、ケーキセットを頼んでも500円にいかない。
理音は、ここのアメリカンとチーズケーキのセットが気に入って、毎日そればかり頼んでいた。
ほかの客も静かで、なかには眠ってしまっている者もいる。
通って三日目になるが、理音はだんだん常連客を覚えてきた。
読書をする20代後半のOLふうの女、珈琲一杯でいつまでの粘るサラリーマンふうの男、じっと駅の階段を見つめている二十歳そこそこの男の子、モバイルを打ち続ける、毎日傘を携帯している女の子、それからいつも同じジャケットの工場の工員ふうおじさん。携帯電話と漫画雑誌を交互に見ている若い崩れた雰囲気のサラリーマンふう。
さて、彼らからはこちらはどう見えているのだろう。
『終電到着とともに店を飛び出し待ち合わせ(待ち伏せ)している女子高生ふう』だろうか。
モバイルを打つ、雨音にも似たリズミカルな音が、抑え目のジャズのBGMと一緒に店内に流れている。
この人たちはいつ、家に帰るのだろう。疲れているのか、光の強い部分だけが8ミリで撮影された記録映画を見ているように、ぼんやりして見える。
自分でこれなら、繁華街を人探しで歩き回っている貴海は、もっと疲れているだろう。
明日は土曜で、学校は休みである。
怒られてもいいから、明日はゆっくり休んでとだけは、絶対に言おう。
闇の中を走る芋虫のように、まばゆい光を点々とさせて、終電が駅に入ってきた。
理音は会計をすませると、階段のほうを見た。
ぞろぞろと人が降りてくる。
窓際で、理音の隣でじっと駅の階段を見つめている二十歳そこそこの男の子は、それを見て、がっくりしたように、あーあ、とため息をついた。
理音は、いつものように駅の階段の下で待った。
しかし貴海は降りてこなかった。
それから5分待ってみたものの、貴海は現われない。
がっくりしたものの、理音はいまの電車は下りの終電であって、上りの終電は、あと20分後に、またやってくることを思い出した。
繁華街はなにも上り路線にだけあるわけではない。当然ながら。
風が強いので、屋外で待っているのが骨だ。
一度会計をすませてしまったが、ほかにいい避難場所がない。
理音はまたカフェに入っていった。
そしてさきほどまで座っていた席に戻ってくると、隣でため息をついていた男の子が、理音に声をかけてきた。
「いなかったんだ、彼氏」
彼氏じゃないけどね。
「ええ、でもつぎの電車かもしれないんで」
「オレは今日もダメっぽいな。今日こそはと思ったんだけど。台風来てるし」
「台風が来ると、今日こそは、なんですか?」
男の子は、赤い髪をして、緑色のざっくりしたフットボーラーふうの長袖Tシャツに、膝小僧の見えるジーンズという出で立ちである。
頬ににきびのあとが残っているが、それが逆に愛敬になっている。
「雷とか大嫌いな子でさ、OLやってるんだけど、いつも仕事の帰りに終電でオレの所に来て、泊まって行くんだよね。だけど最近、ぱたっと来なくなっちゃってさ。やっぱ、おれが失業したまんまで、次を見つけないでいるのがまずかったのかな。家事とか全部やってくれる、超いい子なんだよ」
それは捨てられるな、と男性経験のない理音でさえ、そう思った。
くたくたに草臥れ果てて、それでも恋人の喜ぶ顔が見たいと終電でやってきたのに、相手のほうはそれに甘えて仕事もしていない。
ふと、理音は自分のことに引き寄せて考えてみた。
バイトで3時間程度働いたのと、一日フルタイムで働いたうえに、自主的な残業をこなしているものとでは、疲労の度合いもぜんぜん違うだろう。
そうやってクタクタに帰ってきたところへ、ぼのぼのじみた好奇心のカタマリが待ち伏せしていて、やたらと質問してきたら、それは怒るかもしれない。
もしかしたら、理音に腹をたてて、違うところから帰ったのではないだろうか。
「終電来たみたいだよ。オレはもう帰るわ。それじゃ、オレがまだあきらめていなかったら、また明日ね」
男の子に促されて、理音は再び店を出た。
男の子は、理音とは別の方向へ、とぼとぼと歩いていく。
その後ろ姿は淋しそうで、さすがに同情する。
「バカタレ」
馴染みの声がして、理音は無駄吠えする犬がそうされるように、ごつりと頭をこづかれた。
九月の半ばでも夜ともなると気温が下がる。日中のままの格好で半袖だけの者もいれば、薄手のジャケットを羽織るもの、スプリングコートの者など、さまざまだ。
貴海は学校と同じスーツ姿であった。理音はほっとした。
そして少しでも、黙って帰ったと想像した自分を恥じた。
貴海はそういう態度はとらない男だ。
「深夜でしかも台風だというのに、なんだって待ってるんだ。おまえはハチ公か!」
「犬は感動されるのに、女の子は小突かれるのは納得いきません」
「犬を襲おうと考えるヤツはめったにいないが、女の子を襲うとする男は山ほどいるからだ。おまえ夜遊び癖がついたんじゃないだろうな」
「あのカフェで、先生をじっと待っているのは、夜遊びでしょうか」
「なんで珈琲屋の娘が、よその珈琲屋にいるんだよ」
「敵情視察を兼ねた待ち伏せです」
「斥候兵みたいなヤツだな。まあいい、帰るぞ。今日はタクシーだ」
と、駅前広場を見回したものの、いつもは列になっているタクシーが、台風の影響ゆえか一台も残っていない。
みんな出払っている。
タイミング悪いなあと貴海はぼやきつつ、しぶしぶといったふうに歩きだした。
あわてて理音はそのあとを追う。
「先生、今日は疲れてるでしょ? だったら途中まででいいです。台風の日にうろうろしている痴漢なんて、いないと思うし」
「その油断が火事の元」
「じゃあ、途中でタクシーを見付けたら、それに乗って帰ります。だから本当に、今日は途中迄でいいです。ね?」
貴海は怪訝そうに振り返った。
「今日はやたらと素直だな。いつもそうだと助かるんだが」
「田端は、いつも素直なよい子です」
「自分に対してだいぶ誤解があるようだ。将来の経営者をめざすなら、客観的視点は必須だぞ」
「じゃあ、先生の知ってる田端理音は、どんな女の子ですか?」
それは、と口を開きかけて、貴海は沈黙した。
そして追い掛けてくる理音を振り返った。
「言わない。また泣かれるから」
「そんなにひどいんだ」
「美辞麗句をつくして誉めあげたって、やっぱり泣くだろう」
なんだかうまく誤魔化されてしまったようだ。
そうして歩いていくと、貴海は古い町並みの、一方通行が複雑に交差している道を抜けていった。
町は静まり返っていて、びゅんびゅんと、風が屋根の上を飛んでいく。
タクシーが通り掛かる気配もない。本当に疲れていて、はやく追い払いたいと思っているなら、大通りを行くはずだ。
それとも単に、騒がしい道が好きじゃないだけだろうか。
聞いてみようかなと思っていると、後ろから、自転車のベルが追い掛けてきた。
道をあけると、駅前のカフェで文庫本を読んでいた女性が、自転車に乗っているのだった。
あの男の子の話もあったので、てっきりあそこにいる客は、みんなだれかを待っているのだとばかり思っていたが、そうではない人もいるわけだ。
女性は、理音と貴海を追い越すと、しばらく行った家の車庫で、自転車を止めた。
ちょうど理音たちが歩いてそこまで行く頃に、女性は家に入っていくところだった。
眩しい黄土色の光が玄関先から漏れている。
ペチュニアの植木鉢が、門扉にぶら下っている、普通の二階屋である。
二階はひっそりとしているが、リビングあたりからは光がある。
玄関の中にいる若い男が、女性に声をかけた。
「おかえり、今日も遅いねぇ。そんなに仕事大変なの?」
「あたらしい部署が変わってから、慣れないことが多いの。いつも終電になっちゃうのよね。ごめんなさい。今日もお義母さん来てたんでしょ?」
「ああ、きみの仕事が大変だって言ったら、そこまでやる必要があるのかってまた言われたよ」
「仕方ないじゃない。中古っていったって、駅から近いからローンだって結構あるのよ。そのこと、ちゃんとあなたから、お義母さんに伝えておいてよ」
きみとお母さんが、直に話し合ってくれるのが一番なんだよ、という男の声が、扉が閉まるのと同時に、最後に聞こえた。
「田端、どうした」
理音はいつの間にか足を止めていたらしい。わざわざ戻ってきた貴海が、怪訝そうにしている。
無駄足を踏ませてしまった詫びに、理音は、男の子のことと、さきほどの女性の話をした。
貴海は草臥れて眠そうであったが、それでもきちんと理音の話を聞いていた。
「自分を捨てた恋人が戻ってくるのを待つ男に、姑と顔を合わせたくなくて時間をつぶす女、か。人生さまざまだな」
「夜って、本当におもしろいよね。なんだか劇場にいるみたい。舞台の上のことは、わたしたちはよく知ってるのに、舞台の上の人たちは、わたしたちのことを、何も知らないんだよ」
「かといって、女子高生がこんな時間まで外をうろうろしていい理由にはならない。いいか、明日はちゃんと家にいるんだぞ」
薮蛇だったか。
「先生こそ、明日はお休みなんだから、ゆっくり休んでくださいね」
「休める気分だったらな」
と貴海は気のない返事をした。