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二十
パルプンテの鏡 其の六電話が鳴っている。
理音は、はっとして起き上がった。
いつのまにか眠っていたらしい。階段の下にねずみがいたような。
しかし闇の中には、ねずみどころか蚊の一匹もいない。
理音は、鳴り続ける携帯を手に取った。
いままでまったく通話不能だったのに、急にどうして?
「もしもし?」
『田端! このバカ、どこにいる!』
すさまじい剣幕である。あまりの勢いに、声が割れて聞こえるほどだ。
思わず理音は耳を離した。
なんだか妙になつかしい、貴海の声である。
「先生!」
『先生、じゃない! 午後の授業をまるまるさぼった挙げ句に、いまもって帰宅していないと、広川先生とご両親、それから高木と沢登から連絡があった。どこでなにをしてるんだ、おまえは!』
「横手くんは、もう帰った?」
「あたりまえだろう。もう20時になるんだぞ。どうした、どこにいるんだ』
最後の問い掛けは、理音が寒さのあまりに声ががたがた震えていたからである。起きたばかりは、ぼおっとしていたのでわからなかったが、コンクリートの小屋は夜になり、本格的に冷えていた。息を吐くと、まだ9月というのに息が白い。理音は自分の居場所を報せると、横手が家に帰っているかどうかも確かめてほしいと伝えた。
しばらくして、小屋の扉の外がはげしくがたつき、やがてノブが回った。
助かった。
薄手の中間服でぶるぶる震える理音は、ともかくほっとした。
雨はいつのまにか止んでいて、外の空気と一緒に、湿った土の香りが流れてきた。
「先生!」
理音は腰を浮かせて、そこに浮かび上がるシルエットを心待ちにした。
しかし、扉を開いて懐中電灯片手に現われたのは、ちんちくりんで、なで肩、蟹股の、毎度お馴染みの姿であった。
先生は先生でも、理音の担任の広川である。
「災難だったなあ。どっか痛いとことかねぇか。大丈夫か」
ちょっぴりがっかりしつつ、理音は大丈夫ですと返した。
外は蒸し暑いくらいの気温で、理音は外に出るなり、大きくくしゃみをした。
闇というよりも群青色の空には、ちらちらと星が瞬いている。
ほっとしたのも束の間、プールのある外庭では、別の騒ぎが起こっていた。
教員たちが、とある一本のポプラに向かって、わあわあ騒いでいるのだ。
その中には貴海もいて、しきりにポプラに話し掛けている。
近付いてよく見れば、ポプラの天辺に、かまきりのたまごのようなシルエットを浮かばせて、横手がしがみついているのだった。
貴海は理音の姿を見ると、確認するようにこくりと頷いた。
「おい、ユキ、横手のヤツ、なんだってこんな真似したか、言ったか」
貴海を学生時代から知っており、なおかつ貴海の父の部下でもあった広川学年主任は、貴海を唯一名前で呼ぶ。
貴海も広川には、慇懃無礼な態度を収めるのだ。
「どうやら妄想がひどくなってしまっているようです。われわれもブラック・サトーの仲間だと言って怯えてしまっています」
「ゴロー! ゴロー!」
と、見慣れぬ、仕立てのよさそうなチャコールグレーのスーツの、小柄な中年男性が、ポプラの木の下で叫んでいる。
なで肩で小柄だが、そのくっきりした目鼻立ちは、横手そっくりであった。横手の父親らしい。
横手は父親の声をまるで無視して、ときおり不安げに枝をゆらりゆらりと揺さぶりながら、叫びかえしている。
「あっちへいけ、ブラック・サトーども! おれは騙されねぇぞ!」
「お父さんはお父さんだよ!」
「ウソつけ! みんなブラック・サトーに汚染されてるんだ!」
そのうち夜闇を切るようにして、カンカンと明るい鐘の音を鳴らしながら、赤い自動車の群れがやってきた。
消防車である。
その姿を見た横手の父は、さっと青ざめて貴海に食い付いた。
「あんなもん呼んだら、吾郎のことが表沙汰になってしまうだろう!」
しかし貴海は、冷たく横手の父をにらみつけた。
「もうかれこれ一時間はあそこにいるんです。水泳部で鍛えた横手だから保っているようなものなんですよ。あなたは、ご自分の息子さんが心配ではないのですか」
横手の父は、しかし、などともごもご言っている。
消防車がやってくると、貴海はてきぱきと動いて消防車を誘導した。
梯子車でもって、横手を助けだそうというのだ。
ポプラの木の下では、横手の現担任の清川さなえ、元担任の樺原、一年の学年主任の茂手木、学長、生活指導の貴海、理音の担任の広川、養護の佐野が心配そうに様子を見ている。
雨咲のレスキュー隊は、横手救出作戦を手際よく実行し、針のようなポプラの、その不安定な幹にしがみついて離れない横手を移そうとする。
しかし横手は叫ぶのだ。
「いやだあ! 地上に戻ったらおれもブラック・サトーになる! おれもブラック・サトーになっちゃうんだ!」
「横手くん!」
涙を流しながら、柳の若葉のようにたおやかな清川は、横手に語りかけた。
「先生は、先生なのよ。ブラック・サトーなんかじゃないの。どうして信じてくれないの!」
理音はとうとうたまりかねて叫んだ。
「横手くん! 横手くんは騙されているんだよ!」
教員と消防士はぎょっとして理音を見た。
理音が、さらに横手の妄想を肯定するものかと思ったのである。
理音は、扉の隙間から受け取った手紙を掲げて、さらに続けた。
「この手紙を見なよ! おかしいと思わないの? もしここにいる全員がブラック・サトーなら、こんな回りくどいことしないで、さっさとあなたをやっつけてるよ! それにわざわざ消防車まで呼んで、あなたを助けようとしない! 現実を見て! あなたを傷つけようとしている人間が、本当にここまでするかどうか考えて! あなたを騙すために、ひどいウソを吹き込んだ人間がいるの。それがだれなのか見極めるんだよ!」
「じゃあ、おれに無言電話をかけてきたり、手紙を送り付けるのもそいつなんですか! ブラック・サトーじゃないんですか!」
無言電話とは、初めて聞く話である。
息子の様子を見守りながら、横手の父が言った。
「新学期に入ってから、うちに頻繁に、無言電話がかかってくるようになったんだ。吾郎はそれですっかり怯えてしまって」
「横手、これこそがブラック・サトーの手なのだ!」
貴海のよく響く声が、一同を仰天させた。
止めようとする清川に対し、手振りで抑えるように言うと、貴海はつづけた。
「ブラック・サトーは、目障りなおまえを始末するために、味方のフリをしておまえに近付き、真の味方から、おまえを引き離す作戦に出たのだ! 田端の言うとおり、おまえは騙されている! われわれが味方だ。わかったのなら降りてこい!」
「そうよ、横手くん! あたしたちは、あなたの味方よ。降りてきて! 病気とも、ゆっくり向き合えばいいわ。先生も頑張るから!」
と、これは清川である。
貴海の声も横手に揺さぶりをかけたが、清川の声が決定的であったようだ。
どうやら横手は涙を流しているらしく、片手で涙を拭こうとし、バランスを崩した。
悲鳴の挙がる中、すかさずレスキュー隊員が横手を確保した。
一同はほっと安堵した。
確保された横手を見て、いままで沈黙して、なりゆきを見ていた茂手木が、意地悪く貴海に言った。
「ずいぶん言い切ったようだが、横手を納得させるだけの理由があるんだろうね? 降りてきました、でもやっぱり嘘でした、じゃ、横手はまた同じことを繰り返すだろうよ」
証拠なら、と理音はく、しゃくしゃになったA4の脅迫状を見せた。しかし茂手木は苦笑いをしてそれを一蹴する。
「そんなもの、前も出てきたが、いまもって脅迫状の送り主はわかっていないじゃないか。今回だって同じことだ。どこでもある紙に、特徴のない書体。仮に、横手の妄想を煽るために、何者かがこんなものを送り付けたとして、その動機は? あれだけ弱っている人間を、さらにいじめて楽しむ人間の動機は、なんなんだ?」
と、言いつつ、茂手木は、レスキュー隊員のお手並みを感心して見上げている樺原に目線を送った。
それと気付いた樺原は、あわてて弁解する。
「冗談じゃない! おれじゃない。誓っていい。本当だ! おれはそこまで陰湿じゃないぞ!」
「ま、おれは少なくともその脅迫状だって、どこからか送られてきたというのも、怪しいと思っているよ」
「どういうことです」
と貴海が言うと、茂手木は気障に肩をすくめてみせた。
「自作自演じゃないのかと言ってるのさ。無言電話だって、案外、自分の携帯から、自宅の電話に掛けていたのかもしれない。被害者を演じて注目を集める。たまにそういうタイプの精神病質者がいるそうじゃないか。
横手の場合、育ての祖母は事故で亡くなり、両親は離婚、東北から関東に越してきて、慣れない住環境に加え、父親は仕事でほとんど家にいない。淋しさあまってのことかもしれない」
「そうじゃないと思います。動機はブラック・サトー。ブラック・サトーは本当にいるんです」
理音の言葉に、貴海と茂手木は驚いたようだ。
理音がパニックを起こしていると思ったのか、眉をしかめる貴海に、理音は言った。
「ブラック・サトーというのは、横手くんの妄想を知り、それを利用してさらに混乱させ、事件を起こさせようとした人物のことです。それは横手くんが事件を起こすと得をする人間です。動機は」
と、理音はぽかんとしている横手の父を指した。
「おじさんの会社の派閥争い。おじさんは次の株主総会で代表取締役になることが内定している。それを阻止するために、息子の横手くんに事件を起こさせようとしたんです。お父さんがリストラ組になって、横手くんのお父さんに恨みを持っている公藤さんを利用して、です」
「公藤くんの娘さんが、相談相手になってくれてると吾郎は言っていた。しかし待ちなさい、公藤くんは希望退職という形で辞めるんだよ。本人からも辞表が提出されている。公藤くんは、自分の辞める憂さ晴らしに、吾郎を利用したというのかね」
横手の父に、理音は首を振った。
「おそらく公藤さんは、その感情を利用されているだけなんです。公藤さんのお父さんも、そのことを知らないのではないでしょうか。ブラック・サトーはあなたが失脚することで、確実に得をする人間です。
あなたの対抗派閥に属しており、この学校に縁故のいる人間が黒幕。そしてその人物は連絡役を通じて、公藤さんを利用し、横手くんを追い込んだ」
しかし横手の父親は、心当たりがありすぎるらしく、ずばりだれだと指名できないでいる。
理音は徐々に地上におりてくる横手に叫んだ。
「横手くん、無言電話は、いつも何時ごろかかってきていたの?」
「夕方から夜ッス。おれが帰宅してすぐに、かかってきたこともあります」
「お父さん、横手くんがいないときに、かかってきたことはありますか?」
「言われてみると、一度もないな」
「保健室授業を受けており、送迎は車だった横手くんの行動をきちんと把握していた人物が、ブラック・サトーです」
横手の行動を把握していたのは、担任の清川と養護の佐野、それから生活指導の貴海である。
一気に人数が絞られて、互いに互いの顔を見合わせている。
「たしか、うちの会社の経営企画部に、貴海という姓の課長がいたはずだが」
と、唐突に横手の父が口を開いた。
「珍しい姓なので覚えていたんだ。経営企画部の部長は、わたしの対抗派閥に属している」
「たしかにうちの遠縁があなたの会社におりますが、しかしわたしではありません」
「ちょっと待ってください!」
妙なことになってきた。理音はあわてて口を挟んだ。
「先生は放課後、風紀生活委員に代わって下校する生徒を監督する仕事があるので、いたずら電話をしているヒマはありません」
「べつにヒマがなくてもできる作業だろう。しゃべらなくてもいいんだからな。送信ボタンを適当に押せばいいだけの話だ。泳いでたって出来ることだ」
と、茂手木が、見も蓋もないフォローを入れる。
みんなが疑いの眼を貴海に向ける。
貴海は平静を装ってはいるものの、だんだん顔が険しくなってきた。
茂手木がすっと手を差出し、言った。
「念のためだ。きみの携帯電話の発信記録を調べさせてくれ」
「お断わりします。プライバシー侵害です」
歯医者に行くのを嫌がっている子供ではないのだ。
プライバシー云々より、いまは容疑を晴らすべきじゃないのか。
理音はじりじりとした気持ちで、そのやりとりを見た。
キキカイカイではない。
キキカイカイであるなら、横手が二学期からもう登校してくることを、反対しなかっただろう。
沈黙する貴海に、養護の佐野が言った。
「発信履歴だけ見せてくださいと、お願いしているんです。それでもダメなんですか? 先生、それは自分が犯人だと言ったようなものですよ?」
まったくだ。
理音は、出来ることなら貴海の携帯電話を無理にでもひっさらって、中身を確認したいところであった。
なんとかしたい。自分にできることは?
「きゃあ! ねずみ!」
清川の悲鳴が緊迫した空気を裂いた。
見ると、どこからともなく現われたねずみが、地面を軽やかに蹴って、一同の輪の中に飛び込んだ。
それは広川と貴海、横手の父の足元を翻弄するように、くるくると回ったあと、
レスキュー隊諸君と、ようやく地上に戻ってきた横手の靴を踏ん付け、
意外にもすぐにショックから立ち直り、果敢に捕まえようとする清川さなえの手をうまく擦り抜け、
逃げ惑う樺原をわざと追い掛けるように走り回ったあと、
同じく逃げる学長をバカにするように、横腹めがけてカンガルー並の跳躍でタックルをして転ばせたあと、
再びジャンプをして、小癪なくらい平静な茂手木の顔すれすれに飛び、
養護の佐野の上着につめをかけた。
佐野はおどろいてねずみを振り払おうと、それこそねずみ花火のようにくるくる動き回った。
その拍子に、ポケットに入っていたメタリックブルーの携帯電話が落ちた。
ねずみはチョコレートバータイプのその携帯の文字盤をうろうろし、リダイヤルボタンに足をかけた。
すると、通話がはじまったらしく、ピポピポというダイヤル音のあと、ほとんど間髪おかず、相手が出た。
『いったい、だれッスか!』
聞きなじみのある声が、ヒステリックに響いた。それは双方向から聞こえてくる。
みなは、通話中を示してきらきらと七色のランプを点滅させる携帯電話と、レスキュー隊員の隣で苛立っている横手を見比べた。
「なんスか、これ! どういうことっスか!」
「あの、これは、手違いです!」
おどおどしながら佐野が周囲に説明する。
ねずみは、みんなにあいさつするかのように前足で立って、鼻をひくひく動かすと、ぴゅんとどこかへ飛んでいってしまった。
「なんの手違いだね、いまのは横手くんじゃないのか?」
学長の声に、佐野は、ずれた眼鏡を直しながら、答えた。
「さっき、横手くんの様子はどうかと思いまして、電話してみましたの。それでたまたまです。ええ、そうですとも」
と、さりげなく携帯電話をしまおうとするのを、理音は飛んでいって横取りした。
おもいきりプライバシーの侵害であるが、いたしかたあるまい。
理音は携帯の発信履歴を調べてみた。見ると、そのほとんどが横手宛である。
ストーカーも真っ青だ。
理音の手から携帯を取り戻そうとする佐野をかわしつつ、理音はアドレス帳を見てみた。
そして戸惑っている横手の父に、アドレス帳の画面を突き付けてみせた。
「おじさん、この中に、知っている名前はありませんか!」
「きみ、これは人の携帯だろう?」
「大切なことです。見てください!」
横手の父は面食らいつつも、携帯画面を操作して、アドレス帳に登録されている名前を見た。
そしてしばらくして、眉をひそめた。
「これは、うちの常務の名前と同じだが」
「かけて見てください!」
「やめて!」
と叫んだのは佐野である。
佐野は必死の形相で、横手の父から携帯電話を奪おうとするが、理音はこれをブロックした。
横手の父は、戸惑いながらも、ダイヤルボタンに手をかけた。
すると佐野は、不意に脱力したのか、へたへたとその場に座り込んでしまった。
それを見て、横手の父は指を離した。
「横手くんに無言電話をしろと頼まれたのはわたしです」
と、小さな小さな、蚊の鳴くような声で佐野は言った。
「脅迫状は、わたしが作ったのを、公藤さんに下駄箱に入れてもらいました。そういう指示だったので」
「すると、きみが常務に頼まれてこんなことを?」
しかし、佐野はうなだれたまま、首を横に振る。
「わからないんです」
「わからない、ってきみ」
佐野は茫然とした表情のまま、ぼろぼろと涙を流しはじめた。
なんの特徴も見いだせない仮面が、急に涙を流したのに似ている。
「わたし、ずっと借金があったんです。穴埋めのために、あちこちから借りていたんですけど、だんだんそれがきつくなって、街の金融会社に借りたら、今度は取り立てがひどくなって。なんとかばれないように気をつけてきたんですけど、あるとき、電話がかかってきたんです。『あの人』から」
「あの人?」
「わからないんです。声を変えていて、男か女かも。その人は、わたしの借金のことを学校にばらされたくなかったら言うことを聞け。ただし報酬は払うと言いました。
もちろん、言うことを聞いたら、横手くんの病状が確実に悪化するのはわかっていました。でも、借金の取り立てが日に日にひどくなって、今度は学校に来るとまで言われて、もうどうしようもなくって。でも横手くんのお父さんのことがからんでいるなんて、最初は少しも知りませんでした。
そのうち、あの人から、あなたの会社の常務さんを紹介されて、わたしはただ指示どおり、公藤さんにお願いして、横手くんを脅かしただけなんです」
「それなら、なぜ公藤なんですか?」
貴海が尋ねると、両手に顔を埋めて泣いている佐野は、いやいやをするように顔を横に振った。
「それもわからないんです。彼女のほうから近付いてきて、手伝いをするから、と。わたし、本当にどうしたらいいかわからなくって、従うしかなかった」
「ふざけるな」
強ばった声で、貴海は地面にへたり込んだまま、泣き続ける佐野に言った。
「横手も田端も、発見が早かったから無事だっただけのことだ。これで一晩経っていたら、どうなっていたか、想像力も働かなかったっていうのか。結局は自業自得じゃないか。あんたはそれなのにそこから目を背けて、自分のことを可哀想がっているだけさ」
「雪秀、傷に塩を塗るようなマネするな」
広川が貴海を制したが、貴海はくるりと背を向けると、場を離れて駐車場へ歩きだした。
「貴海先生、どこへ行くんです?」
「公藤の家に行ってきます」
半分だけ振り返った貴海の顔は、冷たく厳しく、温かみのある感情は、なにもないように見えた。
重苦しい空気の中、佐野のすすり泣く声だけが残っていた。
その後、貴海はすぐに公藤宅に赴いたのだが、公藤と会うことはできなかった。
公藤は貴海がやってくる直前に、近所のコンビニに買物に行くと行ったきり、そのまま出ていってしまい、それきり戻ってこなかった。
さすがにこれには警察の出番となったが、公藤の行方はいまもって知れていない。
一方で、横手の父は、無事に株主総会で代表取締役に選ばれた。
息子の吾郎の病気のことは、この騒ぎで多少問題になったものの、それより、その弱みにつけこんで、卑劣な罠を張った対抗派閥の悪辣さがおおいに問題となり、経済界の語りぐさになるほど紛糾した株主総会において、対抗派閥の主だった面々は、一斉に閑職へ追いやられた。
この不況のなかでも、きりきりしている世相を横目に、おいしい思いを続けてきた人間が、途端に世間並の扱いを受けたのだからたまらない。
ましてチョモランマよりも高いプライドは、派閥に負けたという事実を一層、堪え難いものにした。
そして3ヵ月も経たないうちに、横手の父の対抗派閥は、会社からいなくなった。
横手のほうは、貴海や清川の説得もあり、一年の休学を受け入れた。山形の親類の家に帰り、治療を受けている。
佐野の言った『あの人』というのは結局、何者なのかわからなかった。
ただし『あの人』というのが、法外な報酬をもらって佐野と公藤を動かしていたこと、そして貴海が到着する前に逃げるよう、公藤に指示をしたという事実だけが残った。
問題は、学長が気をきかせるつもりで、貴海が公藤の家に到着するまえに、職員全員に、事件が収まったと早合点して、連絡網を回してしまったことだった。
『あの人』があの場にいただれかなのか、それともほかの教員なのか、わからなくなってしまったのである。
佐野は懲戒免職となり、行方不明のままの公藤は休学という形になった。
梯子車まで出動したこともあり、学校は、事件を生徒に報せないわけにはいかなかった。
生徒たちの間に激しい動揺が広がったのは、言うまでもない。
理音は『窓ピカエース』をたっぷり吹きかけて、指紋のひとつもついていない、というくらい、パルプンテの鏡を磨き上げた。
放課後の、下校時間ぎりぎりである。
その日もオレンジ色の陽光が、すりガラスを通して、パルプンテの鏡をきらきらと宝石のように輝かせていた。
理音はパルプンテの鏡の真正面に立つと、深々とお辞儀をした。
「助けてくれてありがとうございました」
しかしパルプンテの鏡は沈黙している。
遠くから、にぎやかな生徒たちの声が響いてくる。放送部の流す、下校時間を報せる『逝ける王女のためのパヴァーヌ』の、優雅で物悲しい旋律が流れてきた。
理音が顔をあげようとすると、ちょうどその位置になにかが待ち構えていて、頭とぶつかった。
あんまり痛くない。ノートだ。
「早く帰れといっているのに、どうして言うことが聞けないのかね」
とぶつぶつ言いながら、貴海は革張りのノートを開くと、理音の名前を書き込んだ。
いつの間にそばに来ていたのか、理音はわからなかった。
おそるべし、元剣道部エース。
「先生にもお礼を言いいに行こうと思ってたんだよ。ありがとうございました、電話をかけてくれて」
「どういたしまして」
貴海はむっつりとしている。
しかし以前のように睨んだりしない。
そのすまし顔を見て、理音は意地悪な気持ちになった。
「先生、茂手木に携帯電話を見せてみろって言われたときに、どうして見せられなかったの? 実は、発信履歴に、ずらりと女の子の名前ばっかりあったりして」
理音のチェシャ猫顔に、貴海は眉をしかめると、自分の上着のポケットから、携帯電話を取り出して、無言のまま理音に見せた。
画面を開いても、貴海はなにも言わないので、理音は発信履歴を呼び出してみた。
すると、そこにはずらりと同じ名前が並んでいる。
曰く、
『美冬』
たしかに、ずらりと女の子の名前が並んでいる。
それに混じって、横手に監禁された日には『田端のバカタレ』の名前がいくつも見えた。
『のバカタレ』という名前じゃないのになあ。
「もしかして、妹さんの名前?」
だったら、隠すこともないじゃないと理音は思ったが、貴海は言った。
「当然、それはだれだという話になって、あの情況だと、家の事情まで説明しないと、納得してもらなえなかっただろう。ただでさえややこしい話なのに、そこへ、おれのもっとややこしい家庭の事情まで持ち込んでいられるか」
「なるほど。それにしても、ほとんど毎日電話しているようですが、仲がおよろしいんですわね」
「いいや、一度も美冬が出たことがない」
「へ?」
「代わりに伯父か伯母が出てくるんで、北海道はもう寒いとか、畑をキタキツネに荒らされたとか、そういう世間話をして終わりだ。まあ、美冬が出てくれるまで、気長に掛けつづけるさ。それしか手がない」
貴海は、肩をすくめてあまり気にしていないふうを装っているが、どこかやせ我慢をして、そんなことを言っているふうに見える。
「それにしてもなんだって、こんな鏡にお辞儀してるんだ。バイトの挨拶の練習か?」
「こんな鏡じゃないですよ。今回、この鏡は大活躍だったんです」
と、理音は二択の話や、夢で鏡と言い争ったこと、ねずみが教えてくれたことなどを話して聞かせた。
大概のことについては、貴海はよく話を聞いてくれる教師であるが、今回に限っては胡散臭そうな顔をしている。
「夢だ。いまからでも遅くないから、脳神経外科で、CTスキャン撮ってもらえ」
「でも実際に、ねずみのおかげで、佐野先生のことがわかったんだよ。偶然にしては出来すぎているもの。パルプンテの鏡が力を貸してくれたんだよ」
「それなら、おまえの願い事は叶えてもらえたのか?」
それなのだ。
直前までは、「はるかとの関係をなんとかする」という願い事をしようと思っていたのだが、いざパルプンテの鏡の前に立った途端、頭の中が真っ白になってしまった。
しかしパルプンテの鏡はまちがいなく『願いを叶える』と言ったのだから、なにか願掛けをしたのは確かなのだが。
「それが、願い事を忘れてしまって、それが履行されたのかどうか、確認できないんです」
「間抜けな話だな。おれも学生のとき、まわりにつられて、こいつに願掛けをしたことがあるが、特になにが起こるってわけじゃなかったぞ」
不意に、理音は、コンクリートの小屋でねずみの言った言葉を思い出した。
8年前の願いと、理音の願いを結びつける、とかなんとか言ってなかったっけ?
「先生の願い事は?」
「成績がもっと上がりますように、とかいうのだったと思う。忘れた。おれはほかの場所も回るから、もう行くぞ。おまえも早く帰れ。いいな?」
と、立ち去る貴海に、理音は声をかけた。
「先生、手伝おうか?」
貴海は怪訝そうに振り返る。
「わたしね、テニス部やめたの。このままいると、はるかやほかの子たちに迷惑をかけるから。だから放課後はたっぷり時間があるんだよ」
「じゃあ勉強しろ」
「もちろん勉強もします。でもそれだけじゃおもしろくないもん。わたしは教室棟を見てあげる。先生は管理棟を見ればいいよ」
「人の言うことを聞かないヤツだな」
言いつつも、茜色に染まった校舎の中で見るキキカイカイは、心なしかうれしそうに見えた。
『C・二択以外の選択をする
規定外の選択肢のため未来予想は不可能。
ただしこれにより無数の未知の選択が拓けた。
これより先は、依頼者の選択にすべてを任せるしかないだろう。
かつてない事態のため、実行者も予想のつかなかったことに、過去の未処理の依頼が化学反応の如く再現され、奇しくも、同時に現依頼者の願い事も受理され、実行されることとなった。
高校二年生女子による願い事
『自分の未来に貴海雪秀が存在していること』
8年前の高校二年男子による願い事
『だれでもいいから、信頼できる人間にそばにいてほしい』
以上、今回も滞りなく任務終了。』