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十八
パルプンテの鏡 其の四翌朝、理音は5時に目を覚まし、まだ眠っている両親を起こさないように注意しながら支度をして、6時には家を出た。
赤とんぼがぴゅんと目の前を横切っていく。
登校途中にある田圃の、倒れるほど見事に実った稲穂から、芳しい匂いが立ち上っている。
空は夏よりも深さを増し、そして遠くなった。
日中はまだまだ暑いのだが、朝の空気が、確実に秋に入っていることを教えてくれる。
赤とんぼが、交差点の交通人形の頭にとまってじっとしているのを、理音はカメラに納めた。
そうしていつもよりゆっくりと登校した。
玄関は掃除のおばさんがまだ水洗いをしており、朝の練習にやってきた生徒たちの姿がぽつぽつと見える。
教員用駐車場にも車は少ない。
理音は、貴海の車がまだないことを確認してから靴を履き替え、教員用の下駄箱に行った。
学校の下駄箱は、ほかの学校と同様に、教員用と生徒用に分かれている。
教員用は来賓用玄関から左手の、すこし窪んだスペースにあり、そこに入ってしまうと、事務室から見えなくなる。
すでに登校している事務員の馬場さんの姿を認めつつ、理音は、これならだれでも貴海の下駄箱に、気の毒などぶねずみを入れることができる、と確認した。
理音はこう思ったのだ。
貴海は、全校生徒が帰宅するまで校内に残っていることから、おそらく職員のなかでも帰宅が遅いほうであろう。
陰湿な嫌がらせをする人間が、簡単に容疑がかかる状況で、行動するとは思えない。
しかも校内は夜間も警備員が泊まり込んでおり、玄関口にはセキュリティがかかる。
こっそり夜の学校に忍び込んで、というのもまず無理だ。
となると、下駄箱に物を入れるとしたら、早朝だ。
それを見張ろうというのである。
そして下駄箱に行こうとすると、先にだれかいるのがわかった。
生徒である。
おどろいたことに、公藤理佐であった。
あいかわらず綱のように太いうしろでひとつにまとめた三つ編みで、せっかく整ったきれいな顔立ちをしているのに、いつも世の中を疑っているような、しかめた眉は相変わらずだ。
しかしこのところ、公藤は以前より垢抜けた気がする。
スカートの丈を以前より短くしたり、ルーズソックスに挑戦したりしているからだろうか。
レギュラーに選ばれたということで、彼女なりに弾みがついたのかもしれない。
しかしこんなところでなにをしているのかと様子を伺っていると、公藤は下駄箱のひとつを開き、そこになにか入れた。
そしてあたりを伺いつつ、下駄箱を出ようとする。
そこでちょうど理音と鉢合わせした。
「お、おはよう!」
間抜けだがほかに言葉が見つからない。
しかし、公藤のほうはあきらかに顔を青くして、叫ぶように言った。
「こんなところでなにしてるのよ!」
「そっちこそ、なにをしているの?」
公藤はちらりと下駄箱を見ると、一瞬ためらったのち、完全と理音を見据えた。
「どうだっていいでしょう? なんなのあんた、あたしのこと尾行してたの?」
「はあ?」
理音がぽかんとしていると、公藤は広い額に汗をにじませながらも、居丈高な態度でもって、鼻をうごめかせて、口をゆがめた。
「あたしが、とでもない校則違反でもして、レギュラーから外されるのを待ってるんでしょう?」
「そんなことするわけないじゃん」
世間一般の人の物の考えというものが、船頭さんの操作するところの渡し船によって運ばれるとすると、公藤の場合、それはリニアモーター式の最新ボートにちがいない。
でもってあまりに行きすぎて、港に突っ込んだり、暗礁に衝突して大破したりするのだ。きっとそうだ。
「誤魔化したってダメだからね。あたしをバカにできるのも、いまのうちなんだから。お父さんはリストラされかかっていて、ボーナスはカットされたし、お母さんはパートに出てるし、妹は大学進学しないって言い出したからって、あんたなんかに、バカにされる筋合いないんだからね。ちょっとお嬢様だからってお高くたまっちゃってバカみたい」
なんでそこまで言われなければならないのか。
理音はむっとしつつも、横手のことで、被害妄想を抱く相手の言うことを、まともに聞いてはならないと学習していた。
一息つくと、つとめて冷静に言った。
「わたしはあなたをバカにはしてないよ。たしかにレギュラーをとられたのは悔しいけど、だからって尾行なんてしないし、あなたを引きずりおろそうなんて思ってない」
「うそ! あなたがみんなを裏で操って、あたしに嫌がらせしているの、前から知ってたんだからね!」
「だからしてない、って。信用してくれないかなあ」
傍から見れば、周囲のだれともソツなく付き合っていた理音は、女子テニス部の中心人物に見えたかもしれない。
内心では、いつ自分が演技をしているとばれないか、ひやひやしていたにもかかわらず、だ。
皮肉なもんだなあと思う一方、やはり理音は公藤に対し、どこかシンパシーを感じる。
公藤の、ヒステリックな、悲鳴にも似たいいがかりを周囲に発する姿は、貴海に会わなければ、やがてそうなったかもしれない自分の姿にも思えた。
理音は横手のことを思い出した。
あまり追い詰めると、どうなるかわからない危うさを、やはり公藤も持っている。
横手の場合、ブラック・サトーという明確な敵がいて、それと戦うため、そして敵にさらされる弱者を守るため、私利私欲を捨て、活動していた。
だからこそ理音や貴海も心から同情して、守ろうとしたのだ。
しかし公藤の場合はまず 「あたし」である。「あたし」がいて、世界が回っている。その順序が狂うと怒りだす。そんなふうである。
「信用できるわけないでしょ。あんた、まわりから自分がなんて言われてるか知ってるの? 『ぶりっ子で見栄っぱり』とか、『頭が軽いくせして成績だけはいい』とか裏で言われてるんだからね。それなのに、まわりにちやほやされてると思い込んでるなんて、すっごく信じられない」
理音は、鋭い針で心臓を貫かれた思いがした。
『親しみやすい田端理音』を見る者はみな、仮面をかぶっている。
仮面の下の顔は、どんなふうになっているのか、理音はずっとそれを恐れていた。
しかし、集団無視をされていたときより、みんなの表情は耐えられるものだろうと、漠然と思っていたのである。
公藤の言葉を妄想だと一蹴できるほど、理音は自分に自信がない。
自分は『天然ボケのお嬢様』であり、馬鹿なピエロでいいと開き直っていたものの、その覚悟が、ずいぶん浅いものだったと、突き付けられてしまった。
いかん、泣きたくなってきた。
しかし理音は、雄々しくぐっとこらえて、涙ひとつこぼさずに、敢然と公藤を見据えた。
「わたしがそう思われているから、どうだっていうの! 人のことを言う前に、自分がどう思われているか、よっく考えたら! あなた、わたしに嫉妬してるんでしょう!」
公藤はうろたえて、言った。
「なに背負ってんの! あんたなんかに嫉妬するはずないじゃない。あたしは、あんたにバカにしないでって言ってるの! 頭悪いなあ!」
「頭が悪いのはどっちよ! まわりが見えてないのはどっち? なによ、開き直ってがなってるだけじゃない。劣等感のかたまりのくせして、人に八つ当りしちゃって最低!」
小学校でいじめを受けて以来、理音がこれほど感情的に他人にぶつかるのは、貴海以外ははじめてだった。
公藤は理音の言葉に青くなり、次第にぶるぶると震えはじめた。
その震え方が、半端ではない。
理音は自分が言い過ぎたと思ったが、時すでに遅し。
公藤はぼろぼろと大粒の涙をこぼし、派手にうおん、うおんと声を立てて泣きながら駆け去って行った。
「田端さん、さっきのはダメよ」
一連のやりとりを、事務室の掃除をしながら、黙って見ていた馬場さんが、雑巾片手に、受付口から身を乗り出して言った。
今日の馬場さんも眉をしっかり描いて、鮮やかな赤紫の口紅を塗っている。
理音は頭ではわかっているものの、あらためて指摘されると反感が出てくる。
「でも、彼女だって、ひどいじゃないですか」
「たしかにひどかったけど、でも、差し引いて考えてあげなきゃいけないのよ」
「お父さんがリストラされかかっているってお話ですか?」
「東京の一流企業で役員をやってらしたんだけどね、派閥争いに巻き込まれて、リストラ組になっちゃったんですって。
うちの学校の授業料は高いでしょう? だからあの子は、高校に入ってから、奨学金をもらってるのよ。家庭の事情もあるし、成績がどんどん落ちてきているのもあって、すごく悩んでいるのよ。
だからね、必要以上にひがみっぽくなってるの。あなた、それよくわかってるんでしょう? なのに挑発に乗ったらダメ」
「すみません……」
「謝ってらっしゃい」
「ハイ……」
釈然としないものの、馬場さんの言うことはまったく正しい。
しょんぼりしつつ、理音は当初の目的を遂行すべく、下駄箱に行った。
ほかの職員が、そろそろ出勤してくる時間である。
キキカイカイに会いたい、と理音は思った。
夏休みのときのように、いまの出来事を話して、相談に乗ってほしい。
しかし理音は決めたのだ。貴海の『特別な生徒』として目立たないようにしなければならない。
貴海の学校改革の邪魔をしてはいけない。
縁の下の力持ちに徹しよう、と。
決めたばかりで、もうそれからはみ出すわけにはいかない。
胸にアイロンを押しあてたような、じんわりとした痛みをおぼえる。
なんだろう、コレ。そんなに相談に乗ってもらえないのが……悲しい? 淋しい? いったい、なんなんだ? いい気分ではない。
理音は貴海の下駄箱を見つけると、開けてみた。
中に、上履きのほかになにかが入っている。
ねずみだと嫌なので、そろそろと中を覗くと、どうやら今度は生きものではないようだ。
引っ張り出してみると、わら人形である。
心臓のあたりに釘がさしてあり、殴り書きで『シネ!』と赤い文字である。この黒ずみ具合からして、どうやら本物の血である。
理音は、自分の手にしていた、革張りのノートを包んだ紙袋を代わりに下駄箱に入れてから、事務室の馬場さんの目線に気をつけつつ、わら人形を見た。
そして、それと公藤を並べて考えた。
まさか、彼女がこれを?
でもなぜ、彼女が貴海に対して、嫌がらせをしなければならないのだろう。
理音は、ともかくリカちゃん人形サイズのわら人形を、ほかの生徒の目に触れないように気をつけてカバンに入れると、テニス部のコートへ向かった。
テニス部は、レギュラーに選ばれた生徒が練習を行なっている。
その中に、はるかの姿もあった。
茂手木は相変わらず男子コートにいりびたっている。
はるかはすぐに理音に気付いた。
「おはよう、理音ちゃん。昨日、ちゃんと病院に行った?」
貴海と言い争ったことが心にのしかかり、それどころではなかった。
理音はコートをざっと見回した。
練習に出ているのは、レギュラーに選ばれた生徒ばかりだが、そこに公藤の姿はない。
「公藤さんはまだ来てない?」
はるかは、理音の代わりに自分が選ばれたような、罪悪感をおぼえているらしい。気まずそうに答えた。
「うん。なんだか、あたし場違いみたいで、困っちゃう」
「ねえ、もし公藤さんが来たら、わたしに携帯で教えてくれる?」
「いいけど。なにかあったの?」
「うん、ちょっとね。ところではるか、公藤さんて、キキカイカイについてなにか言ってたことあったっけ?」
テニス部女子の中にも、キキカイカイ・フリークのグループが存在し、まるで芸能人の話をするかのように、細かいネタや情報を交換していた。
理音は好奇心から、たまに彼女らのグループに混ざっていたが、公藤がそこに入っていたことは一度もない。
公藤はその思い込みの激しさから、ほかの仲間から敬遠されている少女だ。
貴海に対してどんな感情を抱いていたか、わからない。
もっとも単純に思いつくことといえば、公藤が実は貴海に片思いをしていたが、貴海がそっけないことを逆恨みした、あるいは例によって、貴海の言動が公藤の被害妄想を刺激したか。
それにしても昨日がどぶねずみ、今日はわら人形。
明日はどうなるんだろう。
そうだ、靴のなかに画鋲が入れられてないか、確認するの忘れた。
「公藤さんが、貴海先生のことを話してたのって、聞いたことないなあ。でもなんで?」
理音は、はるかに公藤の行動について話すべきかどうか一瞬、ためらい、やめた。
はるかも神経質で気弱なところがある。
もし公藤が、死んだねずみや、わら人形を、人の下駄箱に入れるような真似をする生徒だと知ったら、テニス部を辞めるとさえ、言いかねない。
「ごめんね、いまは言えないの」
またはるかを怒らせるかな、と思った理音であるが、はるかは意外にあっさりと了解した。
「うん、でもいつか話してね」
理音はそれに答えるべく、にっこりわらって首肯いた。
理音が嘘つき仮面を辞める、と決意してから、はるかとの関係はだいぶ改善されてきている。
沢登をめぐる、はるかとのわだかまりが、ドライアイスが溶けるように、どんどんなくなっていくように思える。
これで沢登がはるかの気持ちに気付くなり、なんなりすれば万万歳なのだが。
そうして話をしていると、金網にごしの理音に向けて、ボールが飛んできた。
何度もそうボールをくらったらたまらない。
思わず身を引くと、ラケット片手に、こちらを睨んでいる茂手木の姿があった。まるで仇討ちにきた侍のようである。
犬のように追い払われるのもなんなので、理音はその場に留まった。
しばらく無言の睨み合いがあった。
茂手木がなぜ、理音を目の敵のようにするのか、貴海の話を聞いたあとでは理解できた。
茂手木の世界に、もともとあった所属物が、突然変異を起こして、ウィルスとなってしまった。
ならばいまのうちに排除してしまおう、と、そんな発想にちがいない。
変わるものを受け入れられないもの。違うものを認められないもの。
平和と協調をお題目に、相手に犠牲を強いて自分の世界を守ろうとする、いやらしい大人の代表が、茂手木であった。
貴海の職員室での立場がまずくなっている、というのは、茂手木のこのあからさまな態度でよくわかる。
教員になってまだ二年そこそこの若造が、学校改革などと大義名分をかかげて、先輩をさしおいてあれこれ行動をしたら、茂手木のようなタイプには、我慢ならないにちがいない。
しかし貴海は雨咲の学閥の一員で、総理事長の後ろ盾もある。
簡単に手を出せない。
そこで外堀から埋めていこう、という、きわめて単純な発想なのだろう。
「全員、集合!」
と、茂手木は気まずそうに、なりゆきを見つめているテニス部員たちに、集合をかけた。
はるかも、理音を気にしつつ、しぶしぶ集合していく。
「一部生徒のあいだで、おれがとある生徒に対し体罰を行なっているという噂が流れている。だれが流したかわからんが、実にくだらない噂だ。きみたちもよく見ていたように、おれはその生徒に指一本触れていない。
これはあきらかに、その生徒が、レギュラーを外されたことや、練習をさぼっていたことを注意されたことに対する、逆恨みだ!」
固有名詞をぼかすところが、姑息で憎たらしい。
「今後、クラブの秩序を乱すような行いをする生徒に対し、おれはもう寛大な態度は取らない。その生徒と、行動をともにする生徒も、同じ態度であると判断する。
とくにここにいるきみたちは、おれに認められてレギュラーとなった。そのことをよく肝に命じてほしい。おれの期待を裏切るな。いいな、高木!」
いきなり名指しされたはるかは、びっくりして、言葉を出すことができないでいる。ほかの生徒たちは、互いにもぞもぞと、居心地が悪そうにしている。
「茂手木!」
バットがボールをたたく音よりも、その声は鋭く高くコートに響いた。
理音は金網を握り締めたまま、敢然と茂手木をにらみつけた。
はげしい怒りが理音をゆさぶっていた。
みな、理音のかつてない剣幕にびっくりしている。
彼らの知っている『田端理音』であれば、ここまでされたら、泣いて去っていただろう。しかし本来の田端理音は、そういう少女ではないのだ。
「あなたがどんな卑怯を使おうと、わたしたちは負けない! わたしたちは変わるの。そして皆も変えていく。 あなたも変わる。絶対に変えてみせる!」
それだけ言うと、理音はコートに背を向けて歩きだした。
その背中に、我に帰った茂手木の、いささか裏返った声が聞こえた。
「ほら、負け犬が逃げていくぞ。秩序を乱す人間は、ああいうふうになるんだ。みんな、笑ってやれ!」
しばらく沈黙があり、それから再び茂手木がヒステリックに怒鳴ると、生徒たちはまばらに、やけになって笑いだした。
なんてみじめなのだろう、と理音は思った。
自分ではない。あのコートに残っている生徒たちだ。
こんなふうな嫌がらせを受けたのは、なにも自分が初めてではない。
ほかにも、茂手木の気に入らない生徒というのはいて、似たようなことをされて去っていった。
しかし以前の理音は、それを見ても、ただの風景のようにしか見ていなかった。
水槽の中でその美しい姿を見せている魚は、自分たちがすべてをコントロールされていると気付かない。
もし彼らが海を知ったなら、彼らはどう思うだろう。
自分たちの境遇に絶望するだろうか。
それとも、危険な海に生まれなくてよかったと、安心するのだろうか。
それから理音は始業時間まで、校舎をくまなく見て回った。
全学年の教室をはじめとして、更衣室、トイレ、特別教室、玄関、職員室まで全部。しかし公藤は見つからない。
途中、管理棟の化学準備室の前を通った。
貴海はもう出勤しているようである。
下駄箱に入れた、あのノートはもう見てくれただろうか。
理音はその扉をノックしようとして、やめた。
泣き言をいって慰めてもらいたいのか、励ましてもらいたいのか。
気は晴れるだろう。
だがそれも一時のもので、同じようなことが起こったとき、またなにも出来ないで、泣き言を言うだけになってしまう。
『足手まといにだけはなりたくない。なるもんか』
理音はきびすを返して、化学準備室から離れていった。