B.B.の世界

十七

パルプンテの鏡 其の参
化学準備室の扉のすりガラスに人影が映っている。
管理棟の4階にはほかに生徒の姿はなく、音楽室からは、ピアノ同好会が演奏するところのベートーベンのピアノソナタ「悲愴」の第二楽章 アダージョ・カンタービレが流れている。
窓には、早々と来月末の文化祭に向けて、演劇部の催物の手書きポスターが貼ってある。
演劇部は化学室の隣の第二視聴覚室を活動拠点にしている。
つい最近まで同好会だったのだが、一学期の終わりに普通科の生徒たちと合同で部にのしあげた。それを実行したのも、たしか二年A組の生徒だった。
なんだかんだとA組の活躍はめざましいものがある。
 
いいなあと理音はうらやましく思った。
B組も居心地はわるくない。しかし「どうせまた面子が変わる」と冷めており、まとまりが浅い気がするのだ。
 
理音はノックして、学年と出席番号、それから名前を名乗ったが、返事はない。扉に手をかけると、開くようだ。
だんまりかな? 
理音はそろそろと扉をあけて、隙間から顔を覗かせるようにして様子をうかがった。
 「先生?」
 見ると、貴海はめずらしく窓際の自分の机ではなく、中央に据え付けられている、水道つきのテーブルの前で折畳み椅子に腰をかけて、頭のうしろで腕を組んで考え事をしているようだ。
机のうえにはちり紙にくるまれた何かがあり、妙に気になる存在感を醸し出していた。
その姿勢のまま、目すら動かさないで貴海は言った。
 「閉めてくれ」
すくなくとも声は怒っていない。
貴海は理音が化学準備室に入ってきてからも、理音のほうを見ないで、どこかあらぬ方向を眺め遣りながら言った。
 「廊下にだれかいたか?」
 「だれもいません。先生、心なしか元気がないようですが」
 理音の言葉に、貴海は苦笑いを浮かべた。
こんなにそばに来ても、やはりなにを考えているかわからずどきどきする。
理音はさらに貴海のそばに行った。
このちり紙の中身のせい? 
理音の視線に気づいたか、ようやく貴海は顔を上げて理音を見上げた。
 「痛むか?」
 「大丈夫です。ちょっと青くなってるけど、あんまり痛みませんので、ハイ」
 
答えつつ、理音は自分を見上げる貴海の顔が、夏休みで袖振町店で見たときと同じやわらかく親密なものだったので、ようやくほっとした。
怒っていないし、嫌われてもいない。

 「先生こそ、大丈夫? さっき危なかったね。でも振り返らないでよく木刀を持っていた子の動きがわかったね」
 「これでも一応、剣道部の元主将だからな。ド素人の動きは気配でわかる。校則の件は、ほかの連中もずいぶん騒いでいたようだな」
 聞こうと思っていたことを、貴海が自分からしゃべってくれた。
理音は身を乗り出した。
 「あれって十年前の校則なんでしょう? どうしてあんなものを持ち出してきたかなあ。時代錯誤もいいところだって、みんな怒ってましたですよ」
 「怒ってた? それから?」
 「ええと、先生のやり方について、批判がちらほらと、ハイ」
 しかし貴海は面白そうに笑った。
 「宮町とか、桜井あたりじゃないか?」

 二人とも、貴海のクラスの二年A組の女史である。
たしかにずばりだったが、理音はこたえをためらった。
すると、ますます貴海は面白そうにして、言った。
 「教えろよ。大丈夫、そいつらをどうかしてやろうなんて、絶対に思わないから」
 理音は素直に、貴海が本当にそう思っているのだと受けとめた。
本人が気にするところの吊り上り気味の鋭い目が、心底、面白そうに笑っているからだ。

 「先生のクラスの女の子と、あと沢登くんとか、陸上部の男子かな。ほかはなんだかばらばらで、批判というより、ムカつくとか、そんなふうでした」
 「そうか。我がクラスと、田島先生のところは優秀だな。おまえはどう思う?」
 「どうって……質問の意味がわかりかねますです。校則のことについてですか。それとも、先生のやり方についてですか」
 「両方」
 「先生が、なにを考えているか、わかりません」
 「おれは、綱紀のゆるんでいる学校を、厳しく締め付けたいと思っているんだよ」
 「の、割りには、生徒会がまったく発言しないのにがっかりしたり、宮町さんの発言を喜んだり、矛盾しているみたいなんですけど」
 理音が言うと、貴海は今度は声をあげて笑いだした。
 「面白いなあ、おまえは。おれがなにを考えてるのかわかるのか?」
 「さっきまでわからなかったけど、いまわかりました。先生は、わざとメチャクチャな校則を突き付けて、生徒たちが自分たちで行動できるように、発破をかけたんでしょう?」
 肉を切らせて骨を断つ。
そんな言葉が理音を過る。
大胆な発想だ。実行するところがまたすごい。
しかし貴海はそれには答えず、まだ笑いながら、面白そうに理音を見た。
 「おれがそんなに優しい人間に見えるか?」
 まよう間もなく、理音はうなずいてみせた。
それがあまりに素直であったため、貴海はいくらかたじろいだようだった。
そしてわざわざ反感をあおるような、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、言った。
 「おれは生徒からは、冷淡で厳しくて容赦がなくて、親しみの持てない嫌なヤツと言われ、教員からは、やり方が性急で独断的で、なにかと総理事長に身内のことを晒す、異端児だと反発を買っている。それでも優しいって?」
 なにをいまさら、と思いつつ、理音は、さらにうなずいてみせた。
 「人の意見なんてどうだっていいよ。わたしはわたしの見たものを信じるもん」
 「おまえの知らないところもいっぱいあるさ。それに、おまえの言う優しい人間って、どんなんだ? 
言っておくが、袖振町店でナンパ男からおまえを助けたのは、偶然そこに居合わせたからだし、そもそもそこへ行ったのも仕事だったからだ。おまえの相談に乗ったのも教師の仕事を反射的にこなしただけだし、広川先生の娘さんを捜したのも、単に教員同士の付き合いのためだ。
オルゴールだって、本当は妹にあげるつもりだったんだ。ちょっとした行き違いで 渡せなかったのを、もったいないから、おまえにやったんだ。ほかのだれに渡しても良かったんだが、おまえを選んだのは、学院に最高額の寄付をしている、田端家の一人娘を手懐けるためだよ」
 
反社会的な小説に衝撃を受けて、そのまま斜に構えてみせている、小生意気な男の子を前にしたように、理音は堂々と胸を張って切り返した。

 「ウソばっかり。キキカイカイ、自分のこと大嘘つきなんて言ってたけど、嘘が下手だな。顔に『これはウソです』って書いてあるぞ」
 貴海は奇妙な顔をして、思わず手で自分の顔をさすっている。ハイ、暴露。
 「ひっかかってやんの。貴海くん、胸のうちを正直に吐き出したまえ。正直に」
 貴海は、ほうづきのように顔を赤くして言った。
 「イヤなヤツだなおまえ。自分の言葉をまんま返されるのってすごく気恥ずかしいものなんだぞ。ともかく、おれは優しくなんかないんだ」
 仕方のない大人だなあ。
 「はいはい、先生は、冷酷無比な教師です。不良品は腐ったみかんと一緒。ほかに移るといけないから、腐ったみかんは捨てることが肝心なんですよねぇ」
 と、理音はいささか調子はずれに、中島みゆきの『世情』のサビの部分を歌ってみせた。
受験シーズンに、くどいほど再放送される金八先生の、第二シーズンの山場で流れる歌だ。
 「わざわざ強烈な比喩を持ち出すことないだろ。わかったよ、正直に言う。田端、おまえもう、おれに近付くな」
 「はい?」
 「もっと早くに言うべきだった。これはおれも悪い。きみが妹と同じ年なのでつい気を許してしまった。ともかく、このままだと良くない」
 「良くないって、もしかして、噂になっているとか?」
 「そうじゃない。そういうことが問題じゃないんだ。どうも教員の一部は、おれがおまえと高木、それから横手の三人について、特別な配慮を父兄から頼まれているのではと、穿った見方をしている者もいる」
 
理音の父は田端珈琲チェーングループの会長で、横手は某大手電話会社の総務部長で将来の代表取締役候補、はるかの父は高級官僚で、早々と天下りをして、地方銀行の監査役になっている。
 
 「先生、もしかして、横手くんのことが、かなり響いてるの? もう学校に来ているから、びっくりしちゃった。こんなに短期間によくなるものなの?」
 「子供の頃、空想と現実がごっちゃになって、不安を感じた経験はありませんか?」
 「は?」
 「横手の父親に言われたんだ。
おれはあのあと、横手を駅前の白槻病院に連れていったんだが、そこの精神科医には、典型的な精神分裂病で、長期の治療が必要だと言われたんだ。できることなら、一年くらい休学させたほうがいいとも言われた。ところがそのあとに横手の父親から連絡があって、別の精神科医に連れていったら、すこし重い鬱病だが、薬物療法をしていれば、二学期には登校できると診断されたというんだ。
たしかに精神病というのは、外科的な病気とちがって、はっきりどこが悪いと素人にはわからない分、専門医の見立てに従うしかない。しかし、これほど極端に診断が分かれるものなんだろうか? 
たしかに横手の様子は、以前よりはるかによくなった。おれは横手の父親に、もう少し様子を見て、留年させることを提案したんだが、すると、『子供の頃、空想と現実がごっちゃになって、不安を感じた経験はありませんか?』と言われたんだ。
息子は体格はいいが、精神的にはまだ幼い。奇妙な妄想も、そういった程度のもので、いまではすっかり現実と空想の区別がついている。寒い土地から温暖な土地に越してきて、精神的に、まいってしまったのも、あるかもしれない。でも欝の薬もよく効いているし、もう学校に通えます、と。
おれがいくら反対したところで、専門医のお墨付きで、父親と本人も学校に行きたいと言う。ぎりぎりの譲歩ということで、D組の清川先生と相談して、保健室授業を受けさせて、様子を見ているんだ」
 
昨日の保健室での横手は、がっしりした体格に似合わず、無邪気なところのある明るい少年であった。
妄想と現実の区別も、きちんとついていたようである。
しかしもう大丈夫だと、素人の第三者も信じられるほど、時間が経っていないのが問題だ。
 
 「先生、とってもイヤな見方をすればですね、横手君のおとうさんは、もしや、世間体というやつを気にしているのではないでしょうか」
 「可能性はある。なにせ次の株主総会で、代表取締役に選ばれるかもしれないという、企業人にしてみれば頂点を極められるか、そうでないかの一番微妙な時期だ。どんな不安要素もなくしてしまいたいに違いない」
 まただ、と理音は思った。
大人の世界が、子供の領分に浸食してくる。
それが完全に分離することはありえないけれど、本来の境界線があいまいになったとき、それは脱皮を終えたばかりの青大将のような不気味なうねりをもって、全体を揺さ振るのだ。
 
 「八ツ橋のおばさんというのがいたんだ」
 と、唐突に貴海がどこか遠くを見つつ、言った。
 「八ツ橋って、京都のお菓子?」
 「そう。うちは母親がほとんど寝たきりで、母の親戚がよくうちに来ておれと妹の世話を見てくれたんだが、中にひとり、いつも手土産に八ツ橋を持ってきてくれるおばさんがいたんだ。
いつも深緑色にやっこ凧の絵のついた風呂敷に、八ツ橋を包んでくるんだよ。あるとき、父方の親戚が手土産を持ってきたんだが、それが、おばさんとまったく同じ風呂敷に包まれた、八ツ橋だったんだ。
母方と父方の親戚は、父の愛人問題で仲が悪く、ほとんど冷戦状態だった。
だからおばさんのものを預かって持ってきた、という可能性はほとんどない。いまから考えると、もしかしたらそういうことが、一度だけ起こったのかもしれない。
もう確かめようもないが、おれは子供心に、こう思った。『もしかしたら、うちに出入りしている大人は、みんな同一人物じゃないのか。子供にはわからない巧みな変装をして、うちの様子を確かめているんじゃないのか。だからおれが相手に合せて言っている、嘘やおべっかも、実は大人たちはみんな知っていて、知らない振りをしているだけなんじゃないのか』とな」
 その様子を想像し、理音はぞっとした。
そんな理音を、貴海は苦笑を浮かべて見る。
 「気味が悪いだろう?」
 「でも子供の頃の話でしょう? いつそれが妄想だって気付いたの?」
 「それが、どう思い出してもわからないんだ。かなり長いこと妄想に悩まされていた気がするのに、それがいつ消えてなくなったのかがわからない。
たぶん、ちょっとしたことで、そうじゃないことがわかって、それきり忘れてしまったのかもしれない。そもそも、ある本を読むまで、そういう経験があったことすら、忘れていたんだ」
 「どんな本?」
 貴海ならヘルマン・ヘッセなど、叙情的アウトローの小説を愛読してそうである。
 「ぼのぼの」
 「え? あの漫画の?」
 ぼのぼのは、ラッコの男の子の『ぼのぼの』が主人公のほのぼの漫画である。とある島にお父さんと二人で暮らしている、好奇心いっぱいのラッコで、疑問に思ったことをなんでも周囲に尋ねて回る。
理音はむかしアニメでそれを楽しんでいた。
 「ぼのぼのがある日、自分が知らないところへ出かける父親を見て、実は自分の父親は、なにか得体の知れない生きものが、皮をかぶって父親のフリをしているんじゃないかと想像するんだ。
そしてそれを確かめるために、父親のあとをつける。もちろん、父親はまちがいなく、自分の父親であることがわかるわけだ。
しかしそれを読んで、おれは、自分が似た思いをしたことがあると思い出した。同時に、漫画になるくらいだから、おれの精神がどうとかじゃなくて、子供が想像しやすい空想なんだと安心したんだ。
しかしいま思えば、かなり不気味な空想だ。もし自分が思っていることを大人に話していたとしたら、やはり病院につれていかれて、なにか病名がついていたかもしれないし、そうではないかもしれない。
横手の父親が言っていたように、横手のブラック・サトーの妄想も、その類なんだろうか? おれの妄想がいつか消えたように、横手の妄想もいつのまにか消える類なんだろうか?」
 「どうなんでしょう……」
 冷汗をかいて笑っている、と貴海が理音を評したが、貴海はもっと深刻で、大人の世界に合せようと、神経をすり減らして、愛想笑いを浮かべる子供だったにちがいない。
大人の世界に振り回されて、子供らしい子供でいられないなんて、どれだけつらいことだろう。

 貴海はなにやら遠くを見つめて感慨深げであり、理音はだまってその顔を見ていた。
孤独が深い人だなあと思う。
秘密主義で神経質で完璧主義。おまけに観察力と記憶力もよいから、周りがガラスのように透けて見えるのだろう。
普通の者なら見えない、また見なくていいところまで全部。
優秀ということも両刃の剣なのだ。
そういうことが理解されずに悩んだり、苛立って傲慢になったり、そしてふと冷静になって自己嫌悪に陥ったりする。
その繰り返しをずっとしてきているのだろう。
生徒にも職員にも打ち解けないでいるのは、これ以上わずらわしい問題を抱えたくないからなのかもしれない。
 
理音は、貴海のとなりに腰掛けながら、考え込む貴海の横顔をじっと見つめる。貴海と理音の身長差は20センチ近くあり、同じ目線になるということはまずない。
こうして同じ位置に顔を並べてみると、相変わらず端正というか、綺麗な顔をしているなあと思う。
ほかに理音が知っている男性……父の祥一郎や沢登、横手や一号店の社員、それから本社の小父さんたち……は、顔立ちがいくらか整っていても、どこかゴツゴツした堅い印象を与える。
貴海の場合はそれがなく、本人が気にしている、釣り上がり気味の目のきつい印象さえなければ、繊細で、どこか危うげな雰囲気を与えるにちがいない。
もし貴海がごっつい体育会系だったとしたら、自分はこうまでなつくことができただろうか。
中性的な部分を貴海に感じるから、安心して付きまとっていられるのかもしれない。
普段は強気だが、こと男女関係においては奥手な理音は、異性と二人きりになるのが恐かった。
しかし、貴海とはまったくへっちゃらで、いまは個室に二人きりなのだが、気兼ねもまったくなく、どころか、家にいるよりくつろいでしまっている。
 
貴海がまだぼんやりしているので、理音は、テーブルの上のちり紙に手を伸ばしてみた。
なんだかやわらかい黒いものが入っているようだ。
理音が、ぐるぐるにねじられて閉じていたちり紙を開けて、中をみようとしたとき、ようやく貴海が瞑想から戻ってきて、鋭く言った。
 「バカ、開けるな!」
しかし遅かった。
理音はちり紙のねじりを逆に戻して、中を覗いてみた。
やわらかい黒いもの。ぐんにゃりとした重さを持つもの。赤黒い染みがちり紙の一部に付いている。
黒いものには毛があり、しっぽがあり、口があり、目があり……
それがなんだかわかったとき、理音は全身総毛立ち、悲鳴をあげて飛びのいていた。
 「なにコレ、ねずみ?!」
 「どぶねずみ……だろうな」
貴海は、理音のほどいたちり紙のねじりを、再びもとに戻した。
 「先生の、ペット?」
 貴海はため息をつきつつ、首を横に振り、答えた。
 「今朝、下駄箱に放りこまれてた」
 「どうして? 生徒かな?」
 「さてな。しかし、気の毒に」
 「だれが?」
 「こいつだよ。もうすでに死んでいたのか、殺されたのか……どちらにしろ、普通ならば、どこかの下水道か森のなかで自然に還っていっただろうに、嫌がらせの道具として、おれの下駄箱で屍をさらすなんざ、気の毒としかいいようがないだろう」
 「ああ、そういうこと。うん、そうだね、かわいそうだね。お墓を作ってあげなくちゃいけないね」
 「ねずみはどこが喜ぶかな」
 
キキカイカイはたしか8つ年上のはず。
しかし時折、自分より年下に感じるのはなぜなのだろう。
名も知らぬどぶねずみのために、悲しみに包まれている貴海に、理音は提案をした。

 「学長が栽培してる葉牡丹の花壇の一部を借りたら? あそこなら、あんまりいたずらされそうにないじゃない?」
 「そこがいいかな、やっぱり。なにせどぶねずみだからな。本来ならどぶで一生を終える生きものだろうし、下水に流すことも考えたんだが」
 「そんな、いくら『どぶ』と名前がついてたって、実は明るい世界に憧れていたかもしれないよ。
どんな死に方をしたにしろ、お墓がきれいな葉牡丹のそばだったら、どぶねずみも喜んで成仏できるかもしれないよ」
 「そして夜になると、仲間のねずみたちがマンホールからぞろぞろと現われて、葉牡丹の前に集合して弔いをするんかもな」
「仲間を殺した人間に復讐を誓い、学校に忍び込んで機会をうかがう。翌朝、登校してみると、学校中がハーメルンの町よろしく、ねずみの噛み傷だらけになっているんだよ……」
 「とくに職員室がぼろぼろにな」

そこまで大真面目な顔をして話していた二人であったが、やがて吹き出して、声をたてて笑いだした。
あんまり笑ったので涙が出てきた。
ちり紙にくるまれたどぶねずみが、気を悪くするといけない。
理音が涙を拭いていると、ふと、貴海が笑いを止めて、じっとこちらを見ているのに気づいた。
打って変わって、厳しい顔をしている。
第二体育室で見せた表情である。
自分が睨まれているというより、自分の前に見えない鏡があって、そこに映った自分自身を貴海はにらみつけている、といったふうだ。

 「だからこういうのがダメなんだ」
 だからって、こういうふうに睨むことないじゃないか、と思いつつ、理音は憮然とした。
 「あー、わかった。だから先生、放課後、わたしが話しかけようとしたら、無視したんでしょう?」 
 「人がこんなに悩んでるのに、下校時間ぎりぎりまで呑気にパルプンテの鏡なんぞで遊んでいるからだ。
教師といっても人間で、それぞれ個性があってな、思い込みの激しいヤツには、どんなに努力して説明しても、かえって裏になにかあるんではと、思われるのがオチでな。
やっかいなことに、それが大方の意見となりつつある。このままだとおれだけじゃなく、おまえたちまでまずいことになる。わかるな?」
 「わかります……けど、それならこのあいだ、ただ睨むだけじゃなくて、ちゃんと説明してほしかったです」
 なぜつめたくされたかわからず、どれだけ悩んだことか。
 「下校時間が迫っていたし、あとで説明すれば済むことだ」
 「だったら、すぐに携帯電話にでも、連絡してくれればよかったのに」
 「教師が個人的理由で生徒に携帯電話をかけるのか? それだって、本来の分が守られてないってことだぞ。わからないヤツだな」
 「そういうのはわかりません。なんでそう百把ひとからげにするかなあ。大人が自分本位に、欲得で子供をコントロールしようとするのが問題であって、先生は違うでしょう? 
どうしてそう孤高でいようとするのかな。それってどこかで開き直りがあるんじゃない? おれはこういう性格だから、一人になって当然だ。だからいまさら努力する必要はない、とかなんとか」
 貴海はいままでになく顔を深刻にしかめてみせた。
恐くないぞ。渋い顔にはもう慣れた。
 「じゃあ、もっとはっきり言ってやるよ。おまえにおれの周りをうろちょろされると迷惑だ。さらに小生意気な意見でもって、いきなり人をぶちのめすから、本当に迷惑だ。だからもうおれになつくんじゃない。以上」
 「ひとのこと、ねずみみたいに言わないでよ。先生は本当に冷たい! もう帰る! 本物のねずみによろしく!」
 「もう死んでる」
 「さよなら!」
 結局、理音は貴海のノートを返しそびれて、また自分で持って帰ってきてしまった。
いったいなにしにいったのやら。
それにしても社交性がないというか……増峰もそんなことを言ってなかったか? だから短足たれ目の中年ヒロリンに負けるんだ。
 
二択です

 またである。
今度は、まわりで一斉に白色蛍光灯が点灯したような、光の弾け具合である。
ボールで頭を打ったのが、やっぱりいけなかったのかな?
 
二択です
  
A・やっぱり人のものだし、いまからでもノートを渡しに行く
  B・人のものを手にしているのもなんだし、でも顔を合せたくないから、化学準備室の前にこっそり置いておく


 どっちもヤダ。

 『
二択です

 しばらくキキカイカイとは顔を合せたくない。
かといって、それをあてこするみたいに、黙って置いていく、なんてのも好きじゃない。
 
二択です

 だいたいノートを渡したのは向こうじゃないか。
たぶんなんとなく無意識にだろうけど、そんなに必要なものなら向こうから取りにくればいい。
亡くなったどぶねずみの戒名でも考えていればいいんだ。キキカイカイのばか!
 
最後のチャンスです

 やかましい!

 理音はぴたりと立ち止まると、革張りのノートを開いた。
しかし改めて見ると紙の質といい、革の手触りといい、かなりの高級品であることはまちがない。
デパートあたりで購入したのだろうか。
複雑な幼少期を過ごしたということだから、それを取り返すように、文房具に凝ったり、あるいは少年のように想像力が豊かだったりするのかもしれない。
 
理音は、放課後のページを開いた。
つらつらと、下校時間ぎりぎりまで残っていた生徒の名前と学年と組が、几帳面な達筆で記入されている。
そういえば、持っている万年筆もかなり高そうなものだった。
そうして目で追っていくと、管理棟、という項目に行き当たり、そこに二年B組の女子の名前がある。
そして途中、理音の名前が、アンダーラインつきで記入されていた。
 
『田端のばかたれ』

 理音は、すとんと力が抜けるのがわかった。
ほかの生徒たちが普通に名前を記入されているのに対し、理音のみが、そんなふうに書かれていた。
罵りの言葉ではあったが、ふしぎと腹は立たない。
むしろ、屈折した愛情というか、近親者が見せる、気安い苛立ちといったものを感じる。
 『妹と同じ年だって言ってたっけ』
 夏休みに会いにいったのに、顔をみることすらできずに、追い返されたと言っていた。
そんな経験から、余計に妹と自分を重ねているのかもしれない。
だからどこか、期待している部分もあるのだろう。
バイトの申請先がまちがっていたことで、むっとしたのも、下校時間ぎりぎりまで校舎で遊んでいたのを怒ったのも、厳しい教師がお気にいりの生徒に本分を守るよう欲求したものではなく、厳しい兄から妹への、こうあってほしいという願望を篭めた、欲求なのかもしれない。

 『わたしはキキカイカイの妹じゃないのに』
 しかし照らし合わせて考えれば、理音のほうも、どこかで貴海に甘えている。理音は一人娘なので、兄弟というものがわからない。
しかし実際に兄弟がいたとしたら、こんなふうに頼れる反面、身内ゆえに厳しく監視されて、きついと感じるのかもしれない。
 理音は教室に戻ると、ノートのいちばん新しいページに、書き込みをした。
曰く、
 「わたしは先生が思っているより頭が悪いので、はっきり口にしてくれないとわからないことがいっぱいあります。だからこんなことは言わなくていいだろうと思うことも、全部説明してください。
だれにも喋ったりしないし、怒ったりするのも控えます。人前で先生に声をかけたりしませんし、化学準備室にももう、ほいほい行きません」
 そしていくらか迷ったあと、こう付け加えた。
 「わたしを信頼してください」

 『
A・やっぱり人のものだし、いまからでもノートを渡しに行く
 
 化学準備室に戻ってノートを返しにいったあなたは、貴海先生に呆れられつつもノートを返します。
貴海先生はあなたにもう一度、どうして近付いてはいけないかを説明し、あなたも納得して、二人は仲直りをしました。
そうしてあなたは貴海先生の言い付けを守り、先生と友好関係を保つことになります。先生は、活発に校則問題や生徒会などに介入し、学校の改革をすすめていきます。
あなたは先生の言い付けを守って付かず離れずのよい距離を保ち、先生のよい生徒として高校生活を終え、あたらしい世界に旅立っていきました。
THE END

 『
B・人のものを手にしているのもなんだし、でも顔を合せたくないから、化学準備室の前にこっそり置いておく
  貴海先生と顔を合せたくないあなたは、ノートをこっそりと化学準備室の前に置きました。先生はあとでそれに気づいてノートを回収しますが、黙って置いていったあなたに対し、いい印象は受けなかったようです。
この小さな一件から、あなたと貴海先生の友好関係は次第に崩れていき、あなたは先生と対立する立場に回るようになります。
あなたは本来のリーダーシップを生かして先生の改革をつぎつぎと阻止し、学院に平和を取り戻しました。
その勇敢な行為を、生徒たちや一部教員は誉め讃えます。その一方で貴海先生は、ひっそりと学院を去っていきました。あなたは生徒たちに見送られながら、華々しく卒業し、あたらしい世界に旅立っていきました。
THE END



 理音は夢を見た。
 管理棟3階の、パルプンテの鏡のある踊り場に立っていた。
パルプンテの鏡はどうやら怒っているようである。
 「あんた困るねえ、勝手なことしてもらっちゃあ。こちとら設置されてン十年。二択っていったら二択。三択っていったら三択。だれだってねぇ、ちゃんと枠の中から、きちんとこたえを選んだもんだよ。
それがなんだい、あんたは。こっちに力添えを頼んでおきながら、無視しちゃってさあ。そういう態度は、どうかと思うんだけどねぇ」
 理音は答えた。
 「だって、どちらも、わたしの考えと合わなかったんだもの。そんなこと言うなら、わたしの気持ちにぴったりくる選択肢を出してよ」
 「わがままだねぇ。現実に、自分が思うような選択を選べるって場面が、どれだけあると思うのさ。みんなそこそこ、これでいいかな、ってとこで妥協するんだよ」
 「でも第三の方法があって、それを実行するプランもきちんと頭の中に組みあがっているのに、選択肢にないからっていって、実行しないのって、どうかと思うの」
 「本当にわがままお嬢ちゃんだねぇ。あんた、これからどうするつもりなのさ。もうこっちは、あんたの悩み事を解決する手立てがないよ。あんたが自分で封じ込めちゃったからね。あとは勝手におやり」
 「なによ、ずいぶん無責任なんだね。さっきの二択のどれを選んでもロクな結果にならないじゃない。わたしが望むものはそんなものじゃない。
いまの時点であなたがそういう未来しか用意できないっていうなら、あなたが用意できるような下地をいまから作ってみせる。見てらっしゃい」
 「あんた、こうやってあたしと話をしているときは、ずいぶん威勢がいいんだねぇ。そもそも、あたしに託した悩みはなんだったか覚えているかい? 
まあいいさ、お手並み拝見といこうじゃないか。それで、あんたが言うように、あんたの望む未来が用意できるようになったら、あたしは一度だけあんたに力を貸すよ」
 「でも待って、わたしはあなたになんて頼んだんだっけ?」
 「17歳にしてもう健忘症かい。まあ、じっくり思い出してごらん」
それきりパルプンテの鏡は沈黙してしまった。