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十五
パルプンテの鏡 其の一その鏡は管理棟の三階にあり、校舎の南東にあるトイレのとなりの、あまりつかわれない階段の壁に、なぜだか一枚だけあった。
サーモンピンクとカスタードクリーム色のツートンカラーの壁に、1メートルはあろう鏡はまったくそぐわず、平行四辺形の存在を沈黙のままに訴えつづけている。
どこかからの寄付だと思われるのだが、寄贈名がどこにも印されていない。
おまけに、専属の掃除当番が振り当てられる習わしがあり、曰くありげである。
夕方になると、ちょうど生物室の扉の摺りガラスから漏れる茜色の陽光が鏡に反射して、そのときばかりは、鏡は魔法の宝石のように、その存在をきらびやかに主張するのであった。
そのいろいろと想像力をかきたてる魅力が、伝説を生み出したにちがいない。
かつてはもっとロマンティックな名前が名前がついていたのだろうが、それはすっかり忘れられ、いまでは『パルプンテの鏡』と呼ばれている。
新興幻想世界の呪文に取って代られるくらいなので、以前の名前は、さほどぴたっとくるネーミングではなかったのだろう。
『パルプンテ』。かの名作ゲーム、ドラゴンクエストに登場する『なにがおこるかわからない』呪文である。クリア近くにならないと習得できない呪文であるゆえに、その印象も強い。
「右手に手のひらの大きさの鏡を持って、心臓に当てて、夕方の4時44分、鏡に向かっておじぎをして、悩み事を打ち明けます。
で、背中を向けて4歩あるいたところで、自分の手に持った鏡でパルプンテの鏡をのぞいてみます。そこになにかうつっていたら、あなたの悩みを1週間だけパルプンテの鏡が解決してくれます」
『まーじっすか』
と理音は思ったものの、盛り上がる周囲の空気に水を差すのもなんなので、クラスメイトたちと一緒に連れ立って、4時44分を狙って鏡の前にやってきた。
みんな一斉に噂をためしてみようというのである。『パルプンテの鏡』といわれるだけあって、悩みの解決方法は、人さまざまであるという。
そのあたり、どうにも解釈できるようにあらかじめ設定されている、不条理系のホラーのずるさに似ている。
「鏡はみんな持った? さあて、それではあと10秒で4時44分……8、7、6、5、4、3、2……はい!」
端から見たらかなり奇怪な光景にちがいない。
二年B組の女子5人が、平行に一列に並んで、神社の社殿にするようにぺこりとお辞儀をすると、悩み事を胸のうちで鏡に語りかけ、それからくるりと振り返って四歩、進む。
ちょうど理音は列の真ん中、鏡の真ん前にいた。
こういった神秘的な話には懐疑的な理音は、あくまでおつきあい程度に行動していたが、それでも鏡という、最初からなにか幻想的な雰囲気を漂わせるツールを真っ正面から見すえると、ふしぎと謙虚になって、悩み事を話す段には、かなり素直に、胸のうちを『パルプンテの鏡』に語りかけていた。
四歩あるいて、胸にぴったりくっつけた手鏡から、『パルプンテの鏡』をのぞいてみる。
茜色の陽光を反射した鏡は、大きな万華鏡のように独自の風貌を見せている。
映っているのは自分たちの背中と、それから……
「下校時間まであと15分だぞ。早く帰る!」
ぎゃあ、とだれかが悲鳴をあげて、横一列になっていた少女たちはばらばらにバラけた。
貴海が皮張りのノートを片手に、きゃあきゃあと騒いでいる少女たちをにらみつけている。
沈黙のうちに、自分の最高機密を鏡に託す、というかなりプライベートを覗かせる儀式を押さえられた形となったため、少女たちの気恥ずかしさからの騒ぎは半端ではない。
きゃあきゃあと甲高い声が廊下に反響する。放送部の下校時間のお知らせとともに、『逝ける王女のためのパヴァーヌ』が流れてきた。
「燃えるゴミの日のカラスか! ほら、ぎゃあぎゃあ言ってないでさっさと帰る! また見回りにくるからな!」
クラスメイトたちはろくに返事もせず、興奮して、夕陽を映して川に流れるもみじ葉のように赤くなりながら、中断された儀式について、笑いながら、貴海に追い払われた。
理音はといえば、なつかしさのようなものを感じつつ、クラスメイトたちから遅れて、その場に留まっていた。
二学期が始まってから、学校中がばたばたしていて落ち着かず、理音はまともに貴海と言葉をかわしていなかった。
もともと、担任でもなく教科担当でもない、しかもクラブの顧問というわけでもない教師であるから、接点があるほうが不思議なのだ。
音匣のお礼をきちんと言おう、と思っていた理音であったが、貴海はノートに居残生徒の名前を記入するのに忙しそうだ。
一学期末の試験結果を受けてクラス編成が行なわれたわけだが、当然のことながら委員会に一部変動が発生する。
そのため、学期のはじめは、生徒会をのぞく組織のほとんどは機能しなくなるのだ。
だからこそ、本来なら風紀生活委員会の生徒が行なう仕事を貴海が行なっているのだろう。
学校のシステムの弊害は、こういうところにも発生しているのだ。
理音がめずらしく黙っていい子で待っていると、貴海は顔を上げ、怪訝そうに眉をしかめた。
理音は思わずたじろいだ。
親しさはなく、厳しい、見るものを刺し貫くようなつめたい表情だった。
『機嫌がわるいのかな?』
そう思うものの、どうにも勝手がわるい。
うろたえる理音に、貴海はつづけてつめたい声のまま言った。
「なにをしている。聞こえなかったのか。下校時間10分前。すぐに下校するように」
取りつくしまもない。
貴海は理音が返事をするより先に、さっさと背中を向けて四階に上っていってしまった。
『なにかやったっけ?』
ここで普段の理音ならば、追い掛けていって、自分がなにかしたのかはっきり聞くところであったが、貴海の態度や表情があまりに固かったので、すっかりくじけて、追いかける勇気が出てこなかった。
がっかりして帰りかけたとき、理音ははっきりと声を聞いた。
『ご注文、たしかに承りました』
「は?」
ATMのアナウンスに似た、平板な声だった。
あとになって理音は懸命に考えたのだが、結局、声が男なのか女なのか、若かったか老けていたかさっぱりわからなかった。
振り返るが、当然のことながらそこにはだれもいない。
あるのは『パルプンテの鏡』のみ……
「今度の大会のメンバーは以上」
と、テニス部顧問の茂手木薫の発表が終わったあと、テニス部は戸惑いのざわめきとともに、一斉に理音を見た。
メンバーの中に、『田端理音』の名前がなかったのだ。
雨咲名望学院は、どんな大会でも初戦で敗退していたが、それでも一番、試合らしい試合をできるのは、理音だけだった。
「理音ちゃん、具合でも悪くした?」
と仲間が小声でそっとたずねてきたが、理音は首を振ることしかできない。
自分がメンバーからはずされた理由が思い当らないのだ。
理音の代わりに選ばれたのは、C組の公藤理佐といい、とくに熱心に練習をしていた生徒ではない。
ざわめきがつづくなか、夏休みを終えて、さらに一層、浅黒さを増した茂手木は、高らかに言った。
「今回はメンバーからはずされた生徒もいるが、これは普段の練習態度を見て判断したものだ。大会に出て他校との交流を深めたり、あるいは自分の実力を試したいと思っている者は、この生徒のようにならないよう、注意するように」
今回のメンバーからはずされた生徒というのは、理音しかいない。
茂手木の言葉に、ざわめきはおさまったものの、クラブに重苦しい空気が流れた。
理音は練習態度がきわめてよい生徒であった。
夏休みの練習もかならず顔を出していたし、ミーティングや後片付けもさぼったことがない。
人に弱みを見せることを嫌う理音であったが、その日ばかりはどうしてもにこやかに出来なかった。
練習をはじめるものの、ほかの生徒たちも、理音のことで気がそぞろである。
「理音ちゃんみたいに、ちゃんとやってた子が、態度悪いなんて言われたら、うちら、どうしたらいいんだろうね」
というのがおおむねの意見であった。
「気を落とさないでね。大会まで、まだ日にちがあるし、もしかしたら先生も考えをかえるかもしれないから」
とは、はるかの言葉である。
はるかと夜の公園で話して以来、理音はいままで以上に気を遣って、はるかに接していた。
なるべくそばにいるようにし、悩みとも言えない悩みを話して、自分がはるかに心を開こうとしているのだと、懸命にアピールした。
その熱心さは鳥の求愛活動にも似ている。
理音は必死だった。巣食っている、と表現してもいい、胸のうちの違和感、罪悪感を、なんとか克服したかったのだ。
「それにしてもわけわかんないよね。茂手木ってさ、以前はわりと理音ちゃんがお気にいりだったじゃない? 一年のときから大会に出てたのって、理音ちゃんだけなのに」
と仲間のひとりが素振り練習をしながら言うと、ほかの仲間も同調する。
「だよねぇ。いくら初戦敗退高で有名だっつったってさ、一人くらいちゃんとした試合できる人が出ないと、恥ずかしいとか思っちゃう」
「あたしだって、ちゃんと試合ができるわよ!」
不意に、高い声がして、素振りをやめて理音たちを振り返った少女がいる。
理音の代わりに選ばれた、C組の公藤理佐であった。
真っ黒な質のよい髪を三つ編みにして、瓜実顔に眼鏡をかけた、痩せぎすの少女である。
比較的『お洒落』な生徒たちが集まるテニス部のなかでは、地味な存在であったが、いささか被害妄想気味な傾向があった。
彼女のロッカーは更衣室のいちばん端にあり、ぞんざいな掃除しか行なわないテニス部の掃除当番が、たまたま彼女のところだけ、何度か掃除をせずに見過ごしたことがあった。
すると公藤はそれを勘違いし、自分に対する陰険なイジメだとして茂手木に訴えた。
もちろんいじめの事実などない。
結局、公藤の勘違いだということで、周囲がなだめになだめて事は収まったのだが、以来、公藤はほかの生徒たちから浮いた存在として受けとめられるようになり、またそれが原因で、公藤はウツウツと被害妄想を高めているようであった。
理音のとなりで、だれかが「休火山が噴火した」とぼそりとつぶやいた。
「さっきからなんなのよ! はっきり言ったら! あたしが田端さんの代わりにはならないって!」
「いや、そうじゃなくて、公藤さんを悪く言ってるんじゃなくて、茂手木がね」
「同じことじゃない! 先生の決定を悪く言うのにかこつけて、さっきからなんなの? 先生が選んだあたしに不満があるって、どうしてはっきり言わないの!」
公藤はぶるぶる震えて、目には涙を貯めている。
どうやら先程から、ずっと爆発するのを待っていたようであった。
理音は公藤が嫌いではなかった。
おなじ屈折した悩みを持つ者として、公藤の心の動きは手に取るようにわかるからである。
しかし理音も傷ついていたため、フォローを入れる気力がわかない。
黙っていると、ほかの仲間たちが公藤に言った。
「ちょっとさあ、なんか自分のことばっか言わない? だれもあんたのことを悪く言ってないって。信じなよ」
「うそ! いつもあたしを悪く言ってるの、知ってるんだからね! いまさら誤魔化さないでよ。あんたたちと仲良くしないあたしが選ばれたのが、悔しいんでしょ? はっきりそう言ったら?」
公藤の興奮が高まれば高まるほど、周囲はあきれて、どんどん冷静になっていく。
ここで、だれかが公藤に対して「わかるよ」とたった一言、声をかけてやれば、公藤の興奮はおさまり、周囲が見えるようになるのだ。
しかし、だれも公藤の味方はしない。
みな先程から、理音のことにかこつけて、普段から快く思っていない茂手木に対しての不満を洩らしていたわけであり、それに対して見当違いな異義申し立てをした公藤は、あきらかに『場違い』であり『攻撃しても許される相手』なのであった。
「いい加減にしなよ、あんたやっぱりちょっとおかしいって。うちらがいつ、あんたのことを言ったのよ。言ってみ? そうじゃなくってさ、理音ちゃんがどうしてメンバーから外されたのかね、ってことを話してたんじゃない。それがどうしてあんたの悪口につながっていくわけ? 冷静になりなさいよ」
「ほら、やっぱりバカにしてるじゃない! あたしのこと、おかしいって言った!」
処置なし、と仲間の一人がぼやいた。
たしかに公藤は、もうなにも見えていない。
冴えない髪型や、あまり手入れのされていない眉などを除けば、整った顔立ちで、美人と言ってもいいくらいだが、その顔がくしゃくしゃになって、ついには大きく声をたてて、泣きだした。
すると、いつものように男子のコートにいた茂手木が、めずらしく女子のコートにやってきた。
「おい、なにをしてんだよ!」
モヒカン頭の茂手木は、うーうーとサイレンのような声を洩らして涙にくれる公藤と、泣かしてしまったことで、気まずいほかの女子生徒をざっと眺めた。
そして、ぴたりと理音に目を止めると、いきなり怒鳴った。
「田端、いい加減にしろ! やる気がないならクラブをやめちまえ、バカヤロー! いまからグランド50周だ! ほかの者はちゃんと練習を続けるように!」
「は? あの……」
わけがわからず、理音が口を開くと、茂手木は問答無用で仲間たちをかきわけ、ぴたん、と理音の頬を打った。
力を入れたわけでもないらしく、あまり痛くなかったが、それよりいきなり平手打ちをくらった、という衝撃のほうが強い。
「早く行け!」
衝撃に衝撃が重なり、理音は反論する間もなく、ふらふらと茂手木の言うまま、コートを出た。
はるかが理音に付いていこうとしたが、これも茂手木に怒鳴られた。
「高木! おれは田端に言ったんだ。おまえはコートに残れ!」
その声で理音は我に返り、自分の代わりに泣きそうな顔をしているはるかに、手振りで言うことを聞くように諭した。
ほかの仲間たちも、しぶしぶといったふうに練習を再開する。
公藤は茂手木になにか言われ、ぽんと肩を叩かれて、ようやく泣くのを止めて、うれしそうに笑った。
理音のなかにあった公藤への好意は、すっかり消えてなくなった。
茂手木は生徒に人気がない。
依怙贔屓が極端で体罰も平気でふるうからだ。
贔屓にする対象もみな、理事の子弟だったり、あるいは多額の寄付をしている家の子弟だったり、かなりせこい基準で選ばれている。
理音も『多額の寄付金を提供する家の子』なので、傍目にはその対象に映っていたようだ。
理音本人は、テニス部のレギュラーは、実力で取ったものと受けとめていたのだが。
茂手木は、奇妙なバランス感覚の持ち主で、生徒の依怙贔屓が激しいものの、それでも、三十代半ばにしてもう学年主任をしているのは、教師間ではすぐれたリーダーシップを発揮し、濃密な人間関係を築いているからであるらしい。
いちばんの古株で、ベテランの広川学年主任でさえ、茂手木には遠慮がちである。
しかも厳しい教師として、父兄の信頼も厚い。
生徒からしてみれば、親たちは、生徒たちが嫌がる先生は、厳しい先生だと安直に判断しているのではないかと、疑うところである。
そのスタンスと人間性において、貴海とは正反対の教師であり、ずばり言うなら、理音は茂手木が大嫌いである。
ここでグランドを黙って横切って、帰ってしまう手もあったが、挑戦されたら応えずにはいられない理音は、黙然とグランドを走りだした。
9月に入ったとはいえ、まだまだ気温は下がらない。湿度もかなりある。
しかし負けるものかと理音は走った。
茂手木はふたたび男子のコートに入ってしまい、理音を振り返ろうともしない。
「おい、なにがあったんだよ、あれ。おれ茂手木に抗議してやろうか!」
短距離のダッシュを繰り返す練習をしていた沢登が、何度目かのダッシュのついでに、グラウンドを回る理音に合流して言った。
褐色の肌に汗がにじんでおり、太い凛凛しい眉は怒りで上がり、目は仁王のようである。
「女を殴るなんてサイテーだぜ、あのホモ野郎!」
「コラ、和宏! なにやってんだ、戻れ!」
陸上部顧問の田島聖子が、沢登の名前を呼んでいる。
小柄でいつもジャージ姿の短髪の女性だ。
そろそろ40代に突入しようという年だが、肌や肉体に衰えはなく、鍛えこまれた雰囲気を与える。
「沢登くん、戻ったほうがいいよ」
「一人で走らせられっかよ。付き合ってやる。センセー、おれ長距離練習やります!」
場を和らげようと、強いておどけた態度で言う沢登に感謝しながらも、理音は田島の、しぶい顔を見た。
「ねえ、本当に戻ったほうがいい。っていうか、戻ってほしい。なんだか、まずいみたいだから」
「はあ? マズイ? おまえ公藤のが移ったんじゃ……」
と、沢登は走りながらも、やはり自分の顧問を見た。
そしていつもなら冗談まじりに返ってくる叱責の声がなく、固い渋い顔を見つけてうめいた。
「なんなんだよ、どいつもこいつも」
理音は固い声で言った。
「わたしの巻き添えになって、沢登くんが怒られるのいやだから、戻って」
沢登は、有無を言わせない理音に気圧されるようにして、しぶしぶと陸上部へ戻った。
二学期になってから、どうも周囲の様子がおかしい。
誕生日プレセントまでくれた貴海の冷淡な態度といい、茂手木の急なメンバーはずしといい、それに陸上部顧問の田島聖子やほかの教師のこちらを見る目が固いことといい……心臓が痛くなってきた。自分はなにかしただろうか?
しかし、勉強はいままでにないくらい頑張って、学年で25位。
数学のみに関すれば、学年1位という輝かしい成績で、遅刻・欠席・早退はまったくなく、授業中に遊んで注意されることもない。
掃除当番だってきちんと行なっている。
部活だって同じように真面目に取り組んできたのだ。
あえていえばアルバイト先の申請が、すこし遅れてしまったことだが、貴海が袖振町店に現われたときは、多少は怒っていたものの、冷たくされる原因には当たらない気がする。
わからない。
理音は走りながら背中をじりじりと焼く太陽と、部活の合間に、理音を同情と、野次馬的関心で、ちらちらと見る生徒たちの視線を感じながら走り続けた。
50周のうち、いまはいったい何周目だろう。
だんだんくらくらしてきた。
校庭には、陸上部と、サッカー部と、ゴルフ同好会と野球部がいる。野球部はノックの練習をしているようで、耳に心地よいバットの音が絶え間ない。サッカー部は、ストレッチをしている最中で、ゴルフ同好会は素振りをしている。
汗が額からいく筋も流れてきた。
だんだん脚が重くなり、吐き気もしてくる。
それでも理音は走り続けた。
負けるものか、絶対に負けるものか……
キーン、と高い音がして、野球部の掛け声が聞こえる。
しかしそれが途中から、悲鳴のような声になった。
なんだろう、と熱っぽい頭を上げると、すぐ目の前に宙に浮いた白球があった。ゴトン、と鈍い衝撃とともに、理音の視界は暗転した。
それはグラウンド32周目のことだった。
そよとした風が吹き、頬をなぜた。
理音が最初に目にしたのは、オフホワイトのカーテンが、ゆっくりと風に重く押されるようにして、たわんでいる光景だった。
全身がしびれているようだ。そしてだるい。
『あー、倒れたのか』
と理音は思った。どこからか時季はずれの蝉の声が聞こえてくる。
そういえば、外庭のひまわりはまだ咲いているんだっけ、と理音はおぼろげに思った。
まぶたが重くなって、ふたたびうとうとしたとき、突然、頭の中で、ほうせんかの種のように、なにかが弾けた。
『二択です』
理音はおどろいて目を開いた。
しかし、ベットはぐるりとカーテンに囲まれており、だれかがそこにいる気配はない。
いや、そうではない。カーテンに影が映っている。
養護の佐野先生ではないようだ。
肩幅が広くがっしりしたシルエットだ。
『二択です。
A・もしかしたらお見舞いに来てくれた誰かかも。声をかけてみる。
B・女の子の寝てる傍に立ってるなんてどうかなあ。無視して狸寝入り。』
なんだコレ。
理音は半身を起き上がらせ、周囲を見回した。
そして影を見た。
声は、カーテンの向こうからしたのではない。
頭の中から、自然と沸いて出てきたような感じだ。もしかしてまだ夢を見ている?
理音が起き上がると、影もゆらめいた。
どうやら声をかけるかどうか、迷っているらしい。
声をかけてみる? 狸寝入り?
だれが表にいるのだろう。
状況からすれば考えられるのは沢登かテニス部顧問の茂手木である。
茂手木だったら狸寝入りを選びたいところであるが、沢登であったらきちんとお礼を言わなければ。
どちらにしろ、黙りを決め込むのも居心地がわるい。
「あの、起きたんですけど」
と、理音は影に声をかけた。
すると影はカーテンごしに椅子に腰掛けていたらしい。
立ち上がり、言った。
「よかった、気分はどうッスか、田端先輩。いま体温計をお持ちします」
理音は驚いて、カーテンをかきわけた。
ゆるい日差しが入ってきて、真っ白い世界から、一気に色のあふれる世界が広がる。
使用されていないベット、人体図と休憩用の長椅子、養護教員用の机と椅子、身長測定器、体重計、そのほかもろもろの、ここにしか置いていない道具の数々。
そしてその中に、横手吾郎がいるのだった。
坊主頭は夏の間に毛が生えて、スポーツ刈りになっていた。
顔つきもずいぶん大人びて、目の輝きもあり、以前のようなどこかぼんやりした雰囲気はなくなっている。
夏の間に、また背が伸びたようだ。
「おどろいた。横手くん、だよね。もう元気になったんだ?」
理音の最後の『?』は、横手に対する『?』ではなく、横手がもう学校に来ている、という状況に対するハテナである。
あの事件より一ヵ月半。
もともと内科とちがって精神科などは、高校生にはあまり縁のないところだから、治療期間の基準がわからないのだが、しかしそんなに早く良くなるものなんだろうか?
「はい、横手です。体温計をどうぞ。養護の佐野先生に、体温計をはかって平熱だったら、帰っていいと伝えてくれと言われました。先生はただいま職員会議に出席中です」
理音はにこやかに体温計を差し出す横手を見た。
理音と再会できて、心からうれしそうである。
子供のように剥き出しの笑顔をする子だなあと理音は思った。
大きな目に高い鼻梁、大きな口と顔のパーツのひとつひとつが大づくりだ。
以前は、妄想に取り憑かれて現実感があやふやだったためか、その雰囲気自体が霞にかかっているような、ぴんとこないものであったが、いまはちがう。
にこにこして、テニスウェアのままの理音の言葉を待っている。
保健室にはほかにだれもいない。
外庭に面した窓はすべて開け放たれていて、クリーム色のカーテンが揺れていた。
「もう学校に来てるんだね。それにずいぶん背が伸びたみたい」
「はい、お陰さまで夏の間は治療に専念できまして、だいぶ落ち着きました。薬の量も、先生がびっくりするくらい短期間で減ったんスよ。副作用でちょっと太ってしまいましたが、運動して取り返します。先輩、本当にご迷惑をおかけしました」
と、横手は立ち上がると、几帳面にお辞儀をしてみせた。
「ううん、わたしなんか、なにもしてないよ」
どちらかというと、横手の妄想を煽っただけなのだ。
しかし横手は大きな目をきらりと光らせて、言った。
「いえ、田端先輩がおれの言うことをまともに聞いてくれたお陰で、おれは自分の考えが妄想なんだってわかったんです。きちんとお礼に伺おうとおもっていたんですが、病院に行ったり、いろいろしていて、遅くなってしまいました。すみません」
理音はとりあえず、ほっとした。
自分の妄想が、妄想だとわかるようになったのなら、これはやはり回復したのかもしれない。
「早くに治って良かったね。もう授業には出てるの?」
「それがまだなんです。おれいまD組なんですけど、担任の先生と貴海先生とで話し合って、しばらく保健室授業を受けて、徐々にD組に慣れたほうがいいって。
D組のみんなには、おれが病気だっていうことにしてあるんです。たしかにそうなんですけどね、体育の時間に出れないのが、ちょっと、残念です」
「でもいまの調子でいったら、すぐにD組にいけそうだね。清川先生もやさしいし、横手くんにはぴったりじゃない?」
1年D組の担任である清川さなえは、地味だが梅のようにぽっかりと温かい国語教師で、理音は一年生のときに教わっていた。
声を張り上げたり、ヒステリックに生徒を叱ったりしたことは、一度もない。
やさしいお姉さんといった風情の教師であり、横手のような神経過敏な少年にはちょうどいいように思われた。
「はい、清川先生もいろいろおれのことを気にしてくださって、本当にいい先生だと思います、ハイ」
と横手はさらに頭を忙しく掻いて笑った。
「あ、すみません先輩、自分のことばっかり話してしまって。もう大丈夫なんですか? もし具合が悪いようなら、佐野先生が病院につれていくって言ってましたよ」
「うん、大丈夫。ちょっとぼおっとしてるけど、たぶん軽い熱射病だよね。シャワーを浴びたら、すぐ良くなるよ。それに、どこも痛くないしね」
「しかしひどい話ですよねぇ。おれ、ひさびさにムカつきました。薬を飲んでなければ、ダッシュで校庭に行って、茂手木のヤツをボコボコにしてましたよ」
横手の目がギラリと光る。
もともと男らしい精悍な顔立ちだけに、怒りをこめてあたりを睥睨すると、かなり迫力がある。
樺原を花瓶で殴り倒したことを思いだし、あわてて理音は言った。
「どういう話が伝わっているのかな? わたしはグラウンドを走っているときに、野球部のボールにぶつかって倒れたんだよ」
「えっ、そうなんですか? 沢登先輩は、田端先輩が茂手木に体罰を受けて倒れた、って言ってましたよ」
「だいぶ誇張があるなあ。沢登くん、お見舞いにきてくれたんだ」
「そうじゃなくて、先輩をここまで運んだのは、沢登先輩なんです。ずいぶん心配してましたよ」
グラウンドを走らされているときも、一緒に走ろうと言ったり、倒れたときも保健室に運んでくれたり、沢登はなんていいヤツなんだろう、と理音はしみじみ思った。
しかしそれだけしみじみ思っても、好意は愛情に育っていかないのだ。不思議なものである。
理音は体温計を取り出した。平熱である。
「おでこのコブも、おうちでよく冷やしたほうがいいッスよ。おれ、送っていきましょうか? おれ、いま車で送迎してもらってるんス。遠慮しないでください」
「いいよ、大丈夫。気を遣ってくれてありがとう」
言われて理音は、自分の額にガーゼが貼ってあることに初めて気づいた。
触ると熱を帯びていてしびれたように痛い。
まさに泣きっ面にハチ、である。
平手打ちをくらったほうは、やはりあまり力を出していなかったようで、少し赤くなってはいたが、腫れてはいなかった。
理音は、グラウンドで走らされる前のことを思い出していた。
しかしどう考えても、自分がなにかした覚えがない。
「ああ、夏も本当に終わりッスね。ひまわりは咲いてるのに、赤とんぼが飛んでる。山形じゃあ、もうみんな長袖になってるって話です。うち、山の方なんで」
と、保健室の戸締まりをしながら、横手はしみじみと言った。
「山形に帰りたい?」
「いいえ。おれ、はやく雨咲に慣れたいんで、しばらくは帰らないつもりッス。それにはやく教室に行きたいッスね。D組に慣れないといけないんで」
そうか、妄想のおかげで期末の結果がひどかったから、D組落ちしたんだっけ、と理音は思い出していた。
どんな理由であれ、成績の結果が悪ければ、容赦なくクラス落ち。
そうして一から人間関係をやり直さなければならないので、クラス落ちした生徒はなかなか上に戻れない。
「あ、そうだ。田端先輩が寝ているとき、貴海先生も保健室に来ましたよ」
思いもかけない名前が、唐突に出てきた。
まったく予想していなかったので、理音は自分の胸が、なぜ急にガラスの欠けらを飲んだみたいになったのか、わからなかった。
「なんで? そんなに大騒ぎになったの?」
「いや、そうじゃなくて、おれの様子を見にきて、たまたま、って感じでした」
ちょっぴりがっかりしつつも、理音は尋ねた。
「なにか言ってた?」
「いえ、なんだかすごく渋い顔をしてました。実を言うと、おれ、あの先生苦手ッス。なんつーか、面倒見はいいけど、実は突き放しているような、つめたい感じがしますよね? それにあの目で黙ってじいっと見られると、なにもかも見抜かれてるような、落ち着かない感じがしませんか?」
「別に、そんな」
わたしはそうされるのが嫌いじゃない、と言い掛けて、理音は自分にぎょっとした。
なにを言おうとしてるんだ、わたしは?
「おれ、本当に良くなったんですよ、田端先輩。本当に良くなったんです」
保健室の扉を閉めて、それぞれの方向に別れるとき、横手はにこやかに言った。
たしかに見た目はだいぶ良くなっているようだ。
子供のように、さようならと大きい声であいさつする横手を見送りつつ、それでも理音は、不安を感ぜずにはいられなかった。
『心配性かなあ』
着替えのためにテニス部の部室に帰ると、はるかをはじめ仲間たちが待っていてくれた。
熱射病で倒れたのか、ボールの打ち所が悪かったのか、あるいはか弱い理音が平手打ちされたショックで倒れたのか、そのあたりがあやふやになっていて、理音は、正確なことの顛末を、説明しなければならなかった。
沢登にも保健室に運んでくれたことの礼を言った。沢登は顔を蟹のように真っ赤にしながら、
「いいって、いいって」
と言う。
本当にいい人だなあと思う。
でもしかし『いい人』止まりなのだ。そのうれしそうな笑顔を見ると、罪悪感をおぼえる。
さすがのはるかも、今日はなにも言わなかった。
その夜、理音は貴海にもらったオルゴールを鳴らしながら眠った。
ロシアを舞台にした映画『ドクトル・ジバゴ』のヒロインのテーマ『ラーラのテーマ』である。
理音はオマー・シャリフ(父の祥一郎に『アラビアのロレンスやヘプバーンのシャレードにも出ていた』と言われたが、やはり理音はわからなかった。)主演の古い大河ドラマを見たことがなかったが、この可憐な旋律はすぐに気に入った。
理音はパルプンテの鏡の前で会った冷たい貴海と、理音の話を聞いて、しぶい顔をしていたという貴海と、横手が言った貴海への評価を考えていた。
面倒見がいいようだけれど、実は突き放している、というのはかなり当たっているのではないだろうか。
優しい面を見せたかと思えば、がっかりするほどつめたい面を見せたり、黙して語らず、といったふうなのに、かなり深いところまで自分のことを話してくれたりする。
なにを考えているのだろう。さっぱりわからない。
『B・女の子の寝てる傍に立ってるなんてどうかなあ。無視して狸寝入り。
カーテンに映っていた影は、やがてあきらめてそばを離れていきました。
あなたはだれもいなくなったのを確認すると、保健室を出て家に帰ります。
次の日、あなたは自分が体罰を受けて倒れたという噂の渦中にいることを知ります。
職員室でも問題になり、茂手木はあなたへの体罰を謝罪し、レギュラー復活が決まりました。
大会に出て、優勝などという華々しさはありませんでしたが、あなたは卒業まで部活を続け、それなりに充実した高校生活を送りました。
THE END』
※いささか紛らわしいですが、つづきます