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十四
グッバイ・マイ・ラブ・アンド・フォーエバー? 其の五大人たちは一先ず、袖振町店に集合した。
とるものもとりあえず、といったふうに、広川学年主任と、エプロンをかけたままの増峰、いつになく緊張した面持ちの小林店長、わけがわからない理音と、おそらく、もっとわけのわからないだろう貴海。
「シフトが上がったのが18時。でも更衣室を出たのはわたしのほうが早かったです。駐車場で赤城さんを待っていた、ミッタンとかいう男と会いましたが、これはちょっといろいろありまして貴海先生が追っ払いました。
そのあと、赤城さんがこちらに来たんですけれど、貴海先生を見るなり逃げ出してしまって……」
「信号を渡って駅側の歩道を走っていきました。雨咲町方面へ行ったようです」
と、引き継いだのは貴海である。
貴海はようやく思い出したのだ。
かつて教師になったばかりの頃、以前の担任であった広川に、今度は教える側として母校に戻ってくるとあいさつをしたおり、赤城麗華と顔を合せたことを。
一方で理音は、麗華の恐いもの知らずの態度やはしゃぎように比べて、仕事の拙さ、段取りの悪さ、業務日報が、ひらがなだらけだったことを思いだして合点した。
小学生であれば、そのギャップの激しさは理解できる。
出来上がっていない幼い顔立ち、体格は立派だが、どこか危うげな雰囲気。むしろ、小学生であれだけの仕事をこなしていたのだから、相当なものである。
それに、小学生から見れば高校二年生はババアかも……
「すまん、田端。まさか千恵のヤツ、こんな大胆なことをしてるとは思わなかった。迷惑をかけることになる。本当にすまん!」
と、広川は青ざめた顔をして理音に頭を下げた。理音はあわてて言う。
「先生、それはちゃんと履歴書を確認しないで採用したこちらが悪いんです。学生の場合、履歴書と学生証を確認して、学校からアルバイト許可書をもらうように規則がありましたね。小林店長は、確認したんですか?」
小林は気まずそうにうつむいた。
「いやあ、あの、まさか小学生とは思わなかったし、主婦パートが一斉に辞めてしまって超人手不足だったので、ちゃんと確認しないまま採用してしまって」
まずい。かなりまずい。本部の佐々常務に連絡しなければ。いや、まずはそれよりも。
「ともかく、手分けをして千恵ちゃんをさがしましょ。あの子、なんだかんだ言って、19時過ぎに帰ってくるなんてこと、一度もなかったんだから。さっきだって話をして、今日は夕飯が好物だからってすごく喜んでたのよ。ようやく一緒にご飯を食べてくれるようになったのに…」
と、これは増峰である。
白いブラウスにタイトスカート、地味なサンダルにエプロン。
こうして広川と並んでいると、年の離れた夫婦である……いや、二人は同じところから電話をしてきて、同じ車でやってきた。
でもって、増峰は、到着して以来、貴海の姿を認めるや、気まずそうに顔をそむけて、目を合せようとしない。
これって??
「とりあえず、心当たりを手分けをして捜しましょう。あの子の行くところっていったら、ここか、雨咲第二小学校か、中央公園のどれかよ」
あともうひとつ。
さっきの『ミッタン』はどうだろう。一旦は退散したかに見えたが、もしかしたらあのあと、麗華……千恵と合流した可能性もある。
あの男は、千恵が小学生だということは知っているのだろうか。理音はちらりと隣の貴海を見た。
貴海は、ものを考えるときのクセで、指先を唇と顎に乗せている。だいたい同じことを考えているようだ。
あの男は、幕張方面へ行くと言っていた。いや、もっとまずいことがある。千恵とのやりとりでは、男は千恵に関係を迫っていた様子だった。
もし男が千恵の年齢を知らなければ、最悪の事態も……
理音はぞっとして身を震わせた。こうしてはいられない。ともかく千恵を捜さなければ。
「あたしは小学校を回るわ。店長さんはお店の周りをみてくださる? 広川先生は千恵ちゃんが帰ってくるかもしれないから、自宅にいてください。田端さんと貴海くんは中央公園を見てきてもらっていい?」
中央公園は、夜の19時を過ぎると暗がりにカップルが集う場所となり、それを出歯亀が見物しようとあやしげに動き回り、暴走族が集会を開く場所にしたり、ナンパしたい者と、されたい者がうろうろしていたりと、あまり安全な場所ではない。
「幕張のナンパ橋まで行ってみる?」
「さっきかなりつよく殴ったからな。いまごろ腫れ上がっていて、ほかを当たっている可能性はきわめて少ない。もしまだあきらめていないなら、近場でうろうろしているはずだ。とりあえず、中央公園へ行ってみよう」
袖振町店から雨咲中央公園は、旧道を通って車で15分のところにある。
ソラマメのような形をした公園には、バイクや車が公園を囲むようにして止まっており、祭りでもないのに若者で賑わっている。
ほかに娯楽のない雨咲町ならではの夏の風景だ。
ダンスパフォーマンスに興じるものや、電柱にびっしりかきこまれた落書のうえから、さらに落書をする者もいる。
一方で、アイスを食べながら、普通におしゃべりしている者もいる。
「見た顔があるな……」
「先生、いまは生活指導は忘れて、早く千恵ちゃんを捜さないと」
車はゆっくりと、公園をなぞるように一周した。しかしさきほどの千恵の姿は見つからない。
「小学生がこんなところに来るものかな」
「高校生のフリしてバイトまでやっちゃう小学生だよ。お店の掃除からレジの精算までやってた小学生だよ。もうなにをしてても驚かないよ」
貴海はまあな、と気のない返事をした。増峰と広川のことがショックだったのだろうか。
貴海と増峰は、貴海がいったとおりの表面的なものだったことがわかり、理音はいけないと思いつつも、ほっとしていた。
気を使いながらちらちら運転席を見ていると、貴海は顔を動かさずに目だけを理音に向けた。
にらまれているようでびくりとする。
「言うな」
「は?」
「増峰のことだろ?」
「ハイ…」
本来なら、この助手席に座るのは増峰なのである。
やっぱりショックだったのかなあと思っていると、貴海は独り言のように言った。
「あの二人のこと、口外無用だ。守れよ」
「わかってます」
口外したとしても信じてもらえまい。
美女と野獣ならぬ美女と広川学年主任。
年齢差もともかく、身長差もどれだけあるのやら。
しかし貴海の心情もよくわからない。
増峰のことを苦手だと言っておきながら、振られてみると、こうして落ち込んで黙りこくっている。
自分がキキカイカイの立場だったら…怒るよなあ。
「噂になったことがあったんだよ」
「だれが?」
「増峰と、広川先生。もちろんあんまり突拍子がないんで、すぐになくなったんだけど、火のないところに煙はたたない、というが、本当だな。広川先生から増峰を紹介されたときも、なんだか嫌な予感がしたんだ。当たるもんだな」
「いやな予感?」
「どうも当て馬にされたらしいな。まったく、だから増峰は苦手だ」
しかしその口調に苦々しさは感じられない。むしろ友情すら感じさせる。
なんか変なの。
「おまえ、初恋もまだだろ」
いきなりの指摘に、どぎまぎする理音に貴海は言う。
「二股かける女なんて最低だわ、って顔してる」
「普通、そう思うでしょう?」
「増峰だって、好きでこんなことしたんじゃないんだよ。ある程度経験があれば、増峰が本気でおれと付き合ってるかどうか、見ただけでもすぐわかったろうさ。増峰は、おれとどこか出かける約束を、必ず広川先生を通してつけていたんだ」
「なんでまた」
と言いつつ、そういえば、横手を交えた水族館デートの約束を取り付けたのは、広川学年主任だったことに思い当たった。
「そうして、広川先生を切りきり舞にさせようとしたんだろうさ。作戦は大当たり。おれは見事に高校時代の仇を取られたわけだ」
「なんかやったんですか?」
「告白されたのを無視した。呼び出されて告白されたんだが、すぐに断った。なんて言ったかよく覚えてないんだが、かなりきつい言い方をしたんだろうな。増峰が泣き出したんだが、ほっぽって先に帰ってきた記憶がある…今度はこの男、サイテーって顔になってるぞ」
「ちがいます。そんなことするから倍返しされるんだ、って顔です」
貴海は、つんとあごをそらせた理音の返事に笑った。
「そうだな。おまえの言うとおりだ。悪いことはできないな」
「それじゃあ、償いのためにも、赤城さんを探さなきゃいけませんよね?」
「そのとおりだ。ん、あの車、さっきのヤツじゃないのか?」
見ると、たしかにミッタンのものと、同型のスポーツタイプのバンが停まっていた。
運転席にはだれもいない。
窓を開けてあたりを見回すと、どこからか水のざぶざぶといった音が聞こえる。そちらを見ると、ずばり、ミッタンが、水道の蛇口をいっぱいにひねって、タオルを絞っていた。
なにやら哀愁漂う光景である。
「千恵ちゃんはいないみたいだね」
「話を聞いてくる。おまえはここで待ってろ」
貴海は言うと、車から出てミッタンのほうへ近づいた。
貴海が声をかけると、水道で濡らしたタオルを顔にあてたミッタンは、文字通り、飛び上がるほど驚いた。
「ぎゃっ、キツネ目の男!」
「人を犯罪者みたいに言うな。広川千恵はどこだ?」
「だれだよ、それ、知らねぇよ」
「赤城麗華のことだ。一緒じゃないのか」
「レイカぁ? 知らねぇよ。一緒だったらこんなとこいねぇって。だいたいあいつ、19時過ぎると帰っちまうヤツだし」
ミッタンの様子からして、たしかに千恵は一緒ではないようだ。
と、すると?
「彼女が行きそうな場所を知らないか? コンビニとか、あそび仲間とか」
「わかんねぇよ。あいつ、いなくなったの? だったら猫と一緒じゃねぇか。あいつの口癖でさ、家出するときは猫と一緒に行くって」
「猫か。わかった、ありがとう」
「ユーアーウエルカムだ、コンチキショウ。二度と現われんなよ、キツネ目!」
貴海は一度は踵を返したものの、ぴたりと脚を止めると振り返った。
「ところで今後一切、彼女には近付くな。もちろん、近付いてもかまわないが、不埒な行動をすればおまえの一生は終わる。名前と年齢、住所はすべて新聞に公表され、世間に後ろ指を指され、罰金を取られるわ、友達はいなくなるわ、町には住めなくなるわで、人生どん底になるだろう」
「な、なんだよそれ、もしかしてあいつ、ヤバイ奴らとつながってんのか?」
「そうじゃない。彼女は小学生だ」
ミッタンが弾けたマメのようにパニックを起こしてぎゃあぎゃあ騒いでいるのをあとに、二人は中央公園を離れた。
理音は増峰と連絡を取ったが、状況は芳しくない。
「まだヒロリンの家にも帰ってないし、小学校にもいなかったって。猫と一緒にどこかに行ったっていっても、どこにいったんだろう。すくなくとも電車じゃないよね」
「だけど妙だな。広川先生は動物アレルギーで有名なんだ。犬や猫の毛に反応して、くしゃみと鼻水が止まらなくなるんだよ。
むかし同じクラスに猫を何匹も飼っている生徒がいて、そいつがたくさん毛を制服につけてくるもんだから、教室に入る前にかならずエチケットブラシをかけさせていたくらいだ」
「でも猫を抱いてたよ。エリカって名前の可愛くない猫。あれ、ペットじゃなかったのかな」
猫。
猫? なんか引っかかる。
同じように、猫がどうとか言っていた人がいなかったか。
クレーム。猫。猫の毛。
そして、動物の毛をつけた人間がほかに……
偶然か?
いや、店の人間は、だれも千恵が小学生だということを知らないのだ。
「先生、お店に戻って!」
「どうした。なにか心当たりがあるのか」
「うん。灯台元暗しだよ。彼女、どこにも行ってない」
袖振町店は閉店準備のさなかだった。売れ残ったサンドイッチを、数を数えて台帳に記入し、所定の袋に入れるところを、バイトたちがこっそりよけてちがうビニール袋に入れた。
店内の掃除が始まったが、バイトの一人がこっそり抜け出し、更衣室のほうへ行く。
理音は外からその様子を伺いつつ、動きに合せてお勝手口のほうへ移動した。
しばらくして、お勝手口から、サンドイッチを抱えたバイトがやってきて、辻本宅と店舗のわずかな隙間に、猫の鳴き真似で呼び掛けた。
すると、同じように猫の鳴き真似がそれに応じた。
駐車場からは、その暗がりは完全に死角となっている。
にゃあ、にゃあと掛け合わせをしながら、闇の中からエリカを抱えた千恵が出てきた。
理音は、とりあえずは、ほっとした。
もしかしたら、店長が、自宅に千恵を匿っている可能性もあると思っていたからだ。
千恵は、貴海の姿を見て走り出し、それからまた、店の敷地をぐるりと大回りをして、駐車場とは反対側から、店の裏に隠れたのだ。
猫に餌をやるためである。
「お友達は来てる? これで足りるかな? 田端さんが来てから、あんまり残らなくなって、この子たちかわいそう」
「それに辻本のバアさんが猫避け剤をあっちこっちに撒いちゃってさ、今日はエリカちゃんだけなの。薬なんかに邪魔されるもんでちゅか、ねぇ」
と、エリカにキスをしながら、千恵は言った。
「さっき、店長がレイカのことで、なんか本部と話してたみたい。あんた、なんかやったの? 辻本のバアサンのチクリって雰囲気じゃなかったよ」
千恵は、赤ん坊にミルクをやるように、エリカにサンドイッチを与えた。
エリカがサンドイッチをバラして、まずハムから食い付いている。
それをびっくりするくらい大人びた優しい目をして見ながら、千恵はつぶやいた。
「やっぱりキキカイカイが、オヤジに言っちゃったか……」
「ねえ、あんた、もしかして家出してんじゃない? さっき店長と話をしてたオジサン、お父さんじゃないの? なんか可哀相だったよ。帰ってあげたら?」
しかし千恵は憂いを含んだ顔をして、首を横に振った。
「ダメだよ。オヤジと一緒に、若い女いたでしょ。あの人がいるから、うちに帰りたくない。あの人、オヤジの愛人なんだ」
よく考えてみれば、一週間前は、貴海は妹に会いに北海道にいたのだ。
アリバイは成立する。(アリバイ、というのもヘンだが)。
夕立の中をあわてて逃げ行ったあの男は……キキカイカイじゃなくて、ヒロリンだったのだ。
「あたしのお母さんってさ、あたしが小さい頃に死んじゃったんだけど、その前から、ずっと入院しててね、うちのオヤジって教師やってんだけど、あたしが淋しいからって、教え子がさ、遊んでくれたんだよね。それがあの人。
いまになってさ、実はお父さんと付き合ってるのって言われても、なんかね。もしかしたら、お母さんが生きているときから、ずっとそうだったのかな、って思っちゃって、なんか、お母さんがかわいそうでさ」
「重いね、それは」
「だろ? ね、店長、心配してるみたいだった?」
と、硬かった千恵の表情が、はじめて和らいだ。
その険の取れた顔を見て、理音は意外にも、千恵が店長のことを好きなのだと知った。それはバイト仲間も、同じように思っているようだ。
「やっぱ、変わってるよ、あんた。なんだって店長が好きなの? ぜんぜん、いけてないじゃん」
「でも優しいんだよ。ミッタンは車持ってるだけの友達。エリカの毛がつくからって、ドライブにエリカをつれてくんな、って言うしさ。でも店長は優しいよね。猫のために、残飯とか撒いてくれるんだもん」
「でも潮時って感じしない? 田端さんってあの人、社員に聞いたんだけど、会長の娘なんでしょ? あたし今月一杯で辞めようと思うんだよね」
すると、ふてぶてしいまでに賢しい表情だった千恵が、はじめて幼い少女の顔になった。
「なんで? 辞めないでよ! 寂しいじゃん!」
「たしかにバイト同士で仲良しだからいいんだけど、ぬるいよね、ここって。フトコロはプラスになるけど、それだけって感じで。
あたし来年卒業でしょ? 進学はしないつもりだから、いまのうちにパソコンをある程度使わしてもらえるところに行こうかな、って思ってるんだ。ここって幹部クラスしかパソコン触らせてくれないから、ダメなんだよね」
「そんなの、卒業したら覚えればいいじゃん!」
「そうかもしれないけどさ、なんかさ、田端さんが伝票関係をパソコンで処理してたじゃない? あの人とあたし、同じ年なんだよね。なんか差がついてて、悔しいなあとか思っちゃってさ」
それを聞いて、理音は苦労が報われた気がした。
「でも生意気じゃん、あの女」
「まあね」
う。
「麗華、あんたも家に帰ったら?」
「やだよ…あの人をお母さんって呼びたくない」
「呼ばなきゃいいじゃん」
「わかってるけど」
と、麗華こと千恵は口をとがらせた。
「千恵ちゃんはあたしに怒っていたんだね」
理音が携帯で呼び戻した増峰が、隠れていた物陰から、二人のところへ静かに近づいた。
猫のエリカはまだサンドイッチに夢中だ。
その隣で、千恵が気まずそうに立ち上がった。
「傷つけたことは謝る。どうしたら許してくれるかなあ。でもね、これだけは言わせて。あたしは本気であなたのお父さんのことが好き。学生のときからずっと好きだった。社会人になってからも、ほかに素敵な人がいても、結局あきらめられなかったの。
あなたのお父さんは、ほんとうについ最近まで、あなたのお母さんのことを想い続けてた。ようやく少しだけ、あたしを見てくれるようになったの。これからも、あなたのお母さんには勝てると思ってない。でもあたしも、あきらめる気はまったくないの」
千恵は屈んだまま、ぎゅっと唇をかみしめて、現れた増峰を見上げている。
怒りと、悔しさと、悲しみが複雑に混ざった顔をしている。
「いつからいたの」
「さっきからずっと」
一方の増峰は、電灯の下、まっすぐ真摯に千恵の顔を見つめている。
その姿は、いままででいちばん美しく見えた。
「あたしはとっても欲張りでしつこいのよ。あたしはお父さんをあきらめないし、あなたと家族になることもあきらめてない。いますぐというわけにはいかないと思うけど、あたしにチャンスをちょうだい。もしあなたがどうしてもダメだと言うのなら、そのときは、身を引く」
静かなる宣戦布告、だ。増峰の決意は本物なのだ。聞いているほうが圧倒される。
理音は心から増峰を尊敬した。
「あたしのせいで、千夏さんがいなくなっちゃうの? それってあたしのせいにしようとしてない? 狡くない? なんか、そういうのってヤダ。やっぱり、あんたのこと、好きになれない」
しかし増峰は、まっすぐその言葉を受けとめた。
「それでもいい。憎しみでもなんでも、全部あたしにぶつけて。そうしたら考えることができるから。いまはまだわからないけど、きっとなにか見付けられると思うの」
千恵は、顔を赤くしてうつむいたまま黙っている。
怒りか、それとも嬉しいのか。
あるいはどちらとも付かない感情に、どうしたらよいかわからなくなているのか。
増峰は、千恵から顔を話すと、物陰に隠れていた貴海と理音のほうを向いた。
「ごめんね、貴海くん。こういうことになっちゃった」
貴海は、肩をすくめて言った。
「いいよ、わかってた。前から噂があったもんな。学年主任が居酒屋できみを紹介したとき、きみは一瞬だったけど、学年主任を責める目で見た。それでなんとなく見当がついてたんだ」
「あなたって、学生のときから恐いくらいに人の心を見抜くのが上手かったもんね。あの人ね、あたしのことを困って、あなたに押しつけようとしたんじゃないの。
実はね、学生のときは、ずっとあなたが好きだった。覚えてるでしょう? あたしは落ちこぼれで、あなたは生徒会のエリートで、話すチャンスもほとんどなくて、しかも当時、あたしってすごく冴えない女の子だったでしょう? 覚えてる? あたしが告白したときのこと」
「覚えてるよ」
「あなた、あたしに『バカには興味がない』って言ったのよ」
「サイッテー」×3。
その声は理音のみならず、千恵とバイト仲間からも同時に発せられた。
エリカがもししゃべれたら、同じことを言ったに違いない。
貴海は気まずそうにまぶたをぴくぴくさせながら、冷たいまなざしを向けた理音の頭をぐりぐりと撫でた。
やめてくれ、髪型がひどいことになる。
復讐の女神・増峰は、つややかににっこり笑った。
「すっごくショックだったのよね。悶々としていたのを、広川先生が相談に乗ってくれたの。それで、あなたがそのとき、お母さんを亡くしたばかりで、あたしがしつこく手紙や電話をしたもんだから、すごく怒ってしまったんだと教えてくれたの。
あたしすごくショックで、それで広川先生をとおして、あなたにあやまったの。あたしが悪いのに、あやまったあたしを、先生は、勇気を出してえらかった、って誉めてくれたの。それから少しずつ、広川先生に気持ちが動いていったのよ。だから、あの人にしてみれば、昔の恋を復活させてやろうって単純に思っただけなの。でももう、あたしの気持ちはだれにも向けられなかったから、頭にきて、ヤケになってあなたと付き合ったのよね」
「おれでなくっても、付き合ってただろうね」
「そうね。あの人以外なら、みんな同じに見えるもの。だれだって一緒。ごめんなさい、利用して」
「こちらこそ謝るよ。おれも同じだ。きみがほかのだれであっても、教員同士の関係を悪くさせないためなら、やっぱり付き合っただろう。広川先生を選んで正解だ」
「おあいこね。ねえ、これからもいいお友達でいてくれる?」
「当然だ」
なんだかさんざん殴りあったあとに、「おまえって強いな」などと言いながら仲直りする男の喧嘩みたいだ。
増峰は満足そうににっこり笑うと、千恵を自分の車に連れて行こうとする。
「きみ、千恵さん」
貴海が千恵を呼び止めた。
千恵は怪訝そうに顔を上げた。
「馬鹿なことをしたね」
は? といぶかしげにする千恵を、貴海が言い出そうとする言葉の内容を察して、増峰が庇うような仕草をした。
「やめてよ、今日はいいじゃない」
「そうはいかない。大切なことだ。千恵さん、きみにとってはここでの仕事はたのしい冒険だったかもしれない。だがここを生活の基盤にしている人間にとっては、きみの冒険はとんでもない命取りだ。
第6章 年少者(最低年齢)第56条 使用者は、児童が満15歳に達した日以後の最初の3月31日が終了するまで、これを使用してはならない。
つまり君は、この店で働くことはできない。労働基準法に触れるからだ。おそらくきみのお父さんは今回のことが表沙汰になることを望まない。しかしきみが小学生だということに気づかず、半年間きみを働かせていた店長は、まちがいなくこのお店から去ることになるだろう。この店も同様だ。そのことがどういうことか、よく考えなさい」
「そんな、だって、芸能人とか。あたしより年下の子とかも働いてるじゃん」
「芸能人は特別なんだよ」
「法律違反って、死刑になるの?」
それを聞いて、理音は、はじめて、ああ、小学生だなと実感した。
「死刑にはならない。でも、なんらかの罰を受けることになろうだろうね」
「あたしのせいなの? だって、猫がいたから、店長さんが、猫に余ったパンとかあげてて、ここなら働けるかもって思って……」
千恵の最後の言葉はどんどん小さくなっていき、しまいには顔を覆って泣きだした。
増峰が、声をたてて泣く千恵の、日に焼けたむき出しの肩をやさしく抱いた。
母子というには無理があるけれど、仲の良い姉妹には見える。
「よく考えなさい」
沈痛、ともいえそうな声で貴海はそれだけ言った。
忙しい夜だった。
見上げると空には、真っ白い半月が浮かんでいた。どこにも草は生えていないのに、どこからか虫の声が聞こえてくる。
「おつかれ」
貴海が言った。
「おつかれさま」
本当に、今夜はひさしぶりにぐっすりと眠れそうである……
貴海の予想どおり、広川は千恵のことを表沙汰にすることを拒んだ。
そのあたり、なにがあったのか理音には詳しくはわからなかったが、娘の担任ということで、会長自らと、広川が話し合い、結局、千恵のことは『なかったこと』となった。
しかし人の口に戸は建てられず、いささか誇張のまざった噂として、小学生がアルバイトをしていたという話は、袖振町をしばらく席捲した。
そして田端珈琲チェーンでは、なぜか人事課長および幹部クラスの給料がのきなみ10%カットされたが、その理由については沈黙のまま、一般社員には知らされることはなかった。
公にするべきだという意見も幹部内ではあったようだが、理音の父は、公にすることで傷つく広川父子のことを最優先に考えて処理したのである。
法律は尊重すべき意見さ、でも、またひとつ十字架を背負ったようだね、と父はあとになって理音に言った。
袖振町店での最終日、理音はダークチェリーパイを1ホール抱えて、辻本宅へあいさつに行った。
辻本夫人はあら、そう、残念ね、とさりげないふうを装っていたが、理音が夏の間はたいへんお騒がせし、ご迷惑をおかけしました、と深々と頭を下げると、はじめて相好を崩して言った。
「本当にねぇ、年を取ると自分もそうだったのに、若い人の拙さばかりが目について、イライラしてしまうものなんですよ。でもたまに、あなたのように真面目なお嬢さんと知合えるとほっとします。またこちらに来ることがあったら、かならず声をかけてちょうだいね」
やった、と理音は胸の内でガッツポーズを組んだ。
だが、まだ勝利は半分である。理音はまっすぐ辻本夫人を見据えて、はっきりと言った。
「ありがとうございます。ついでに、と言ってはなんですが、奥様のほうから、ご近所の主婦の方々に、わたくしどもの店のことをお話していただけませんでしょうか」
「あら、どういうことかしら」
「去年、うちの店に就労していた主婦のパートが一斉に退職しました。申し合わせてのことだと思うのですが、どうしても理由がわかりませんでした。
でもわかったんです。理由は、猫ですね。うちの店長が猫好きが高じて、ついつい余り物のパンを、捨てずに野良猫たちに与えていた。そのためお宅と店の厨房の間の空間が、すっかり猫の集会場になってしまったんです。
怒ったあなたは、町内会長の権威を発揮して、ご近所の方々に、もううちの店でものは買うなとおっしゃった。このあたりは一軒家が多いので、猫の被害に悩まされているお宅も多いのでしょう。
しかも飲食店と野良猫とが並んだイメージは悪い。だから店は、主婦層をつかめず、苦戦しているんです」
「そうかもしれないわね。でも、信頼回復は、お店で努力するべきものじゃないかしら」
「まったくその通りだと思います。ですから、最初に猫たちを集めるきっかけを作った店長は、責任を問われて店長を解任されて、アルバイト見習いからやり直すことに決まりました」
「まあ、あの、ずいぶん厳しい人事ね?」
「ほかにもちょっと事情がありまして……ただ、わたくしどもは店の信頼回復を新店長を中心に行なっていく所存ですので、これからもなにとぞ、ご贔屓に」
「あたらしい店長さんというのは、あなたではないの?」
「いいえ、わたくしはただのアルバイト、ただのメッセンジャーでございます」
理音はにっこり笑って言った。
袖振町店の人事は一新され、アルバイトも大幅に入れ替わった。
そしてぽつぽつとだが、まったくといっていいほどいなかった主婦の客が、少しづつ戻ってくるようになった。
理音は袖振町店から一号店に戻った。
新学期がはじまった。夏休み明けはまだ自由の余韻が残っていて、気温もまだ下がらないことから、けだるい空気が漂う。
生徒の顔もまちまちで、真っ黒に日に焼けたものや、急に大人びた者、いまだ終わっていない宿題に汲々している者など……そして互いに夏休みの経験を自慢しあうのだ。
しかし理音は気が重い。
結局のところ、夏の間はずっとアルバイトに明け暮れていた。
しかも知らなかったとはいえ、ずうっと小学生と張り合って、あれこれ悩んで、泣いたり怒ったり……充実していたのか、それともピエロだったのか。
「田端さん! いま帰り?」
校門でちりりんちりりんというベルの音に振り返ると、そこにはぴかぴかのママチャリにまたがった、増峰がいた。
全身趣味のいいブランドづくめというのは変わらないが、自転車だけが妙に生活感がただよう。
「先生、車はどうしたんですか?」
「売っちゃった。駐車場がないのよ、いまの家。それに車はあの人の一台だけでなんとかなるしね」
と、いうことは……理音は照れつつも、満面の笑みを浮かべている増峰を見た。
「雨咲第二小学校って、給食じゃなくてお弁当なの。朝なんか5時起きよぉ。眠い目をこすりつつ、一生懸命作っても、千恵ちゃんてばあんまり食べてくれないのよ。ウィンナーはタコでないとヤダとか、コロッケが入ってないとご飯が食べれないとか言って」
「甘えてるんじゃないですか。なんだかんだ言って、千恵ちゃんは、先生のことが好なんだと思います。でなければ、嫌いな人の好きな歌を、わざわざ着メロにしたりしませんよね」
「そうかしら、そう思う? あなたって本当にいい子ねぇ。お礼にこれ」
と、増峰はプラダのカバンから小さな小函を取り出した。
受け取ってみると、これが外見に似合わずなかなか重い。
「あの?」
「千恵ちゃんを一緒に捜してくれたお礼……というのはウソ。実は預かり物なの。直接渡せば、って言ったら、このあいだ泣かせた侘びだとかって」
年頃のわりに異性の知り合いに乏しい理音には、こんなことをしてくれる人物にほかに思い当たらない。
「あら、すごい顔。いいわねぇ、可愛いなあ。がんばってね。あなたはあたしより有利よ。だって彼、まだ独身だもの。それと、これはアドバイス。彼、基本はええ格好しいだから、たまに蹴飛ばしてやるといいわよ」
「あの、誤解なさってると思います」
「まあた、また、照れちゃってー。大丈夫。ヒロリンにはあたしから言っておいてあげる。ライバルは多いわよ。がんばって! いまのところ大きくリードしてるんだから、自信持って行きなさい!
それじゃあ、たしかにわたしたからね。これからスーパーのタイムサービスなの。また今度ね!」
と、増峰は元気よく走り去っていった。
さて、残された理音はきれいに包装された箱をじっと見た。
なにもメッセージはない。
鼓動が高まってきた。
周囲には理音を追い越して下校する生徒がいるが、その喧騒も別次元のようにおもえる。
理音はその場で器用に包装紙を剥がし、中の小函を見た。
目も覚めるような青い箱。
化学準備室にあったものと同じだ。
開けてみると、中から楕円のガラスにつつまれて、緻密な仕掛け細工がにぶく光る、小さなオルゴールが出てきた。校門を出ていく生徒たちが、何事かと理音をじろじろ見るが、気にしない。理音はオルゴールを鳴らしてみせた。
『ラーラのテーマ』だ。その楕円のガラスに包まれた金属の目立たないところに、小さな金色のプレートがあった。
1988/8/7と刻まれている。
それを見た途端、理音は走りだして、学校に戻った。
管理棟の外側から4階を見上げると、ちょうど化学準備室のあたりに白い影が映っている。
理音は大きく息を吸い込むと、夏休みの店頭販売で鍛えた喉で、思い切り叫んだ。
「せんせい!」
職員室にいた教師たち(こちらももちろん先生だが)、部活中の教員駐車場でストレッチをする生徒たち、外庭の園芸部員、帰宅中の生徒、そのほかもろもろが、びっくりして理音を振り返る。
理音は気にせず、もう一度声をかけた。
「先生! 貴海先生!」
ようやく、からりと化学準備室の窓が開いた。
何事かと顔だした貴海に、理音はよく見えるように青い箱をかかげて、ぶんぶんと手を振った。
「覚えいてくれてありがとう! 絶対に大切にする! ほんとうにありがとう!」
貴海はうろたえて、なにを言うこともできないでいる。
呆然自失といった態の貴海に満面の笑みで手を振りながら、理音は再び走りだした。
泣いた侘びだっていうけれど、また泣いてるよ。
でもこれは、いい涙だ。とてもいい涙だ。
夏は終わった。
終わりよければすべてよし。うん、いい夏だった。
「すべてよし。すべてよし」
つぶやきながら理音は、家までずっと走り続けた。