B.B.の世界

十三

グッバイ・マイ・ラブ・アンド・フォーエバー? 其の四
寝不足である。バイトは午後からのシフトだったので、理音は昼ごろまでベットでぐずぐずし、昼を過ぎてから、アルバイトに出掛けた。
携帯を確認すると、はるかからのメールが入っていた。
 『昨日はごめんね。酔っていたこともあるけど、すっごく困らせちゃったと思います。電話しようかと思ったけど、うまく言えないと思ったので、メールにしました。でも最後に言ったことは本当だよ。友達やめないでね。 はるか』
 理音はすぐに返信メールを送ることができなかった。
はるかがあやまる筋合いはどこにもないのだ。それを伝えたかったのだが、うまく言葉に表すことができない。
ふたたび、もやもやとした思いが、黒い入道雲のように胸にたちこめる。苦しくて、イライラする。学長室の廊下にかかげてある、雲を吐く龍の錦絵のように、胸のなかにあるものすべて一気に吐き出してすっきりしたい。なにもかも0から始めてもいい……と、ここまで考えて、理音はかつてバイパス店の店長が失踪したことを思い出した。
こんなふうにして、人は消えることを選択肢に組み入れていくのだろう。いかん、やっぱりおかしくなっている。
 
寝不足と精神ダメージが強かったためか、その日の理音はまったく冴えなかった。担当したレジのおつりが精算したら800円も合わなかった。
トレーを引っ繰り返してクリームがべとべとについたお皿を床にぶちまけた。入ってきたお客に「ありがとうございました」と声をかけて笑われた。
なにかするたびに、はるかの言葉が注射針のようにちくりと胸を刺す。
忘れようと焦ると失敗する。そうして失敗するとまたはるかの言葉を思い出す。麗華の言葉もそれに被さる。
最悪のコンディションである。

 ぼろぼろのまま理音は仕事を切り上げた。
こういう日はろくなことがない。3時間のみのシフトでさいわいであった。はるかへのメールの返事をどうしようかと考えながら更衣室で着替えていると、やはり同様に麗華が着替えている。大胆に制服の上着部分だけファスナーをおろした状態で、携帯電話に出ている。
子供っぽい水玉プリントのブラジャーだ。猫のせいかあちこちダニに刺された痕がある。
背の割に胸がないんだなあと思いながら、理音は麗華の会話を聞くとはなしに聞いた。どうも険悪のようである。
 「うるっさいな。いいじゃん、こっちの勝手でしょ? そういうの超ヤダ。なんでそういうことばっかいうわけ?」
 喧嘩するのも仲のいい証拠だかとかいうけれど……と考えて、理音ははじめて、自分が麗華に嫉妬をしていることに気づいた。
麗華そのものというより、青春まっさかりといった麗華の夏の過ごし方をうらやましく思っている。自分がもっていないものをもっている麗華がうらやましい? そんなことを本当に考えている? 
 
……どうやらそうらしい。

 「ほんとうにうざいなー、男ってすぐそういうふうに言ってさ。あたしそういうのイヤだって最初に言ったじゃん。だからミッタンと付き合ってたのに……それじゃあ、そんなにしたけりゃ、すぐにHしてくれる女を捜せば!」
 相当に話は込み入っているらしい。生臭い……と理音は、お風呂が壊れた夜に、極楽通りの入り口で出くわした貴海と増峰のことを思い出した。
貴海はなにもなかったと言っていたが、本当にそうだろうか。もしかしたら、言葉以上に二人の仲は進んでいるのかもしれない。あのガードレール下の喧嘩は、その一環かもしれない。
 理音は、すべての気持ちを吐き出すように、大きくため息をついた。なくなってしまえ、全部。
 
「わざとらしいなぁ。やめてよね」
鋭い声に振り返ると、電話を終えた麗華が着替えの続きをしながら理音をにらんでいる。おつかれ気味であった理音は、いつものように肩に力を入れることなく、ぼんやりと答えた。
 「ため息のこと? べつにあなたに対してしたんじゃないよ。こっちのこと。気にさわったらごめんね」
 理音があまりに素直に応じたので、麗華は気勢を削がれたようであった。
 「勘ちがいなら、いいや、こっちこそごめん」
あら、あやまることができるんじゃない、と理音は意外に思った。
麗華は照れ臭そうに顔をそむけて着替えをつづけている。理音はなにか話をしたかったが、いい話題が見つからなかった。そうしてなんとなくぐずぐずしていると、再び麗華の携帯が鳴った。その着信メロディは『グッバイ・マイラブ』である。
最近の流行なのだろうか。だれかがカバーでもしたのかな?
 「ったく、しつこいなぁ。夜? いらない……う、うーん。どうしよう……え、そうかなあ」
 先程の険のある調子とは打って変わって、言葉遣いは荒いものの、どこか和らかく甘えた様子である。女の子ってわからない。じぶんも女の子だけど。
 電話に出ている麗華の様子があまりに打ち解けて楽しそうだったので、理音は先に更衣室を出て、店を上がった。
麗華は、芯からイヤな子ではない。いろいろ誤解があるのだ。九月にはまた一号店に戻らなければならないが、それまでに誤解のひとつでも解くことができるだろうか。


 六時を回っていたが、まだ日は落ち切らず、空は薄青色の闇が背後に星をひかえて広がっており、街灯がぽつぽつと点りはじめていた。
八月も終わりに近付くと、夕方には冷たい風も吹くようになる。どこからか、終わりゆく夏に追われるようにして、打ち上げ花火の音が聞こえてきた。
アルバイト一辺倒の夏だった。それなりに充実していたような気はするが、問題は山積みにされるばかりで、ひとつも解決していない。
現実では夏休みの読書感想文が手ぐすね引いて待っている。小学校の時に読んだ『そんごくう』を今度は『西遊記』と名前を変えて適当に提出するのはどうだ? それならばゲームの攻略本をもとに『三国志』の感想文を書くのも利口なやり方かもしれない。『くたばれ上司!』や『社長になる人のための経理』などはみんながびっくりするので却下。
 今日の理音はストラップ紐の肌の露出の多い花柄のワンピース。胸元とストラップ部分のレースが特徴だ。それにピンクサファイアのペンダントと籐のかわいらしいハンドバック。
しかしこれだけ可愛くきめても、誉めてくれる人間は親くらいのものだ。
 「ねえねえ、カノジョ、ちょっと聞きたいんだけど」
駐車場を横切ろうとしていたとき、例のスポーツタイプのワゴンの運転席から、軟派なアロハシャツに金のタックのついたチョーカーという格好の、浅黒いにやけた男が声をかけてきた。麗華の彼氏である。理音は足を止めた。
 「麗華、まだ中にいるの?」
 大学生くらいだろうか。オイルを塗っているせいか、浅黒い肌と真っ黒な髪が逢魔が刻でもてかてかしているのがわかる。こういう人のどこがいいんだろう。いやいや、人は見てくれで判断してはならない。
 「まだ着替えてると思いますよ」
 「それじゃあさ、ちょっと聞きたいんだ。こっから海に行きたいんだけど、いい道知らない?」
 「海? どこの?」
しかし麗華は電話で会うことを渋っていなかったか? 怪訝そうな理音にかまわず、男は運転席に座ったまま、地図を広げてみせた。
 「やっぱこの時間で海っつったら幕張方面じゃない? 夜景がばっちりでさ。だけどオレ、地元じゃないからここから高速に乗る道がわかんないんだよね。教えてくれないかなあ?」
 仕方ない。理音は運転席に寄ると、覗き込むような形で地図を探った。運転はしたことがないが、祥一郎のドライブのお供をしてナビゲーターはお手のものだ。現在地を捜していると、不意に、男が理音の手首をぐっと握った。
 「あの?」
 「きみ色白いよねぇ。それに最初から思ってたんだけど、超カワイくない?」
 「カワイくないです」
手を引っ込めようとするが、男は離そうとしない。
理音はおもいきり、至近距離の男をにらみつけた。どんぐり眼のデカ鼻、たらこ唇。ぜんぜんタイプではないうえ、こんな舐めた真似をするのが許せない。
 「離して! 人を呼ぶよ!」
 「いいじゃん。麗華のやつさあ、ぜんぜんつれなくってさ、こっちのフトコロを絞るだけ絞ってさっさといなくなるってタイプの女なんだよね。もう疲れちゃってさ。ちょっと付き合ってくれるだけでいいんだ。これから海行こうよ。ね? なんにもしないから」
 最後の言葉に信憑性がまったくないことは、いまの行為で証明済みである。
 「なんであんたなんかと海にいかなきゃいけないの?」
 「じゃあ、山でもいいよ。マザー牧場」
 「もう閉まってるし、だいたい夜中に牛や羊を見てなにが楽しいのっ?」
 「じゃあやっぱり海じゃん。ね、決まり。ほら、乗りなよ!」
 男はどうやら理音の意志はまったくどうでもいいようである。力付くででれば、なんとかなると思っていること自体が胸がむかつく。
ようし。理音は大きく行きを吸った。
 「絶対に、海なんて行かないっ!」
気合い一徹。理音は叫ぶと同時に、頭を引いて、おもいきり男の額に自分の額をぶつけた。石頭は伊達ではない。ごちん、と鈍い音がして、男がおもわず手の力を抜いたところで理音はさっと身を引いた。
 「女を舐めるんじゃないよ、バカっ!」
自分の額も相当痛かったが、相手もかなり痛いようだ。理音の可憐な容姿から、こんな反撃を受けるとは思っていなかったにちがいない。その油断が、余計に額の痛みを増しているようだ。
逃げようとした理音だが、男は額を押さえながら、どんぐり眼をぎょろぎょろさせて、運転席から飛び出してきた。
 「てめぇ!」
 まずい。
理音は駆け出したが、男のほうが動きが早く、タックルするようにして、理音を背後からがっしり捕まえた。
 「ちょっとやめろって! 離せばか!」
理音は背後に向けて腕をぶんぶん振り回し、バックを武器に攻撃をするが、あまり効き目はないようだ。
裏口から麗華が、さもなくばだれかきてくれないだろうか。駐車場にお客が入ってくるだけでもちがう。しかしこういうときに限ってだれも現われない。いまは稼ぎ時なのに。これだから袖振町店は!
 男は、はあはあ息をしながら、理音を車に引きずっていこうとする。理音は懸命に抵抗するが、男はびくともしない。肌の密着した部分が気持ち悪い。さきほどの痛烈な一撃を浴びせた分、仕返しは、とんでもないことになる。想像することもできない。
ぞっとしてますます理音は抵抗する。そうだ、携帯電話!
 理音はカバンから携帯電話を取り出して、そのアンテナ部分を先端にして、男の鼻めがけておもいきりぶつけた。
ふがっ、と情けない声がして、男はふたたび理音を解放した。
明日にでも機種変更しよう、と思いつつ、理音は逃げる。しかし男は鼻を押さえながらもあきらめようとしない。
 早くお店に駆け込んで、助けを呼ぼう。しかしそう思えば思うほど、焦りゆえか理音の足はからまったように動かなくなってしまう。
麗華はなんだってこんなバカと付き合ってたんだ?
 男が追いすがってくる。もうダメ、と思ったその瞬間、男はどかっ、という激しい音とともに、後方に吹き飛ばされていた。
 夏の幻かそれとも逢魔が刻のいたずらか。ともかく理音と男の間に、貴海雪秀が立っていた。
 
救世主! 

 理音はなにもかも忘れて貴海の背中に後光を見た。
思いもかけない第三者の攻撃に、男は相当うろたえたようだ。女の理音の二撃ではあきらめず、男の貴海の一撃でへこたれる、というのはどうにも納得がいかないが、男はほうほうの態で逃げていく。
 貴海は振り返ると、するどく理音に尋ねた。
 「無事か?」
 「はい、あの、ありがとうございました」
 貴海は真っ白いTシャツに綿のシャツを羽織ったあっさりした格好である。ちょっと見ると夏休み中のサラリーマンふうだが、相変わらずの厳しい顔はやっぱり貴海である。
 「でも先生、なんでここにいるんですか?」
 「なんでじゃない、生活指導だ。まったく、バイト先が変更になったのならすぐに訂正申請を提出すること! ぎりぎりペナルティ圏外だ。反省するように!」
 「すみません。でも、ちょうどよかったです。本当に危なかった……助かりました」
 「まったくだ。そんな肌の露出の激しい服を着てるからああいう男に付け込まれるんだ。服を直してこれを着とけ!」
 気が付くと、両肩のストラップがずれて、胸元のブラジャーがわずかに見えていた。あわてて理音はそれを直すと、貴海が脱いだシャツを受け取って素直にいうことをきいた。
どうも貴海には変なところばかり見られている気がする。でもって上着を借りてばかりいる気がする。
ちらりと見ると、貴海は紳士ぶりを発揮して、あらぬ方向を見て理音の身繕いを待っている。世の中いろんな男がいるもんだ。
 「先生、だるまさんが転んだ、です」
 「よろしい。ほかの女子生徒にも言っていることだが、おまえたちはファッション性ばかり重視して人からの視線というものを意識しなさ過ぎだ。田端、車の窓からかがんだとき、おまえの胸元がちょうどあいつの目の前にあったのに気づいていたか」
 「う…しりませんでした」
 「ああいうバカな男は物事をすべて都合よく判断処理するものだ。もちろんそんなつもりはないんだろうが、男を喜ばすため、男を誘うためのような、隙だらけの格好は、それなりの覚悟をして着るんだ」
 「覚悟?」
 「そうだ。いつもの倍は男の視線や自分の仕草に注意する。そしてこんな暗くなってからのひとり歩きなど言語道断だ」
 「つまり、気合を入れて服を着ろ、ということでしょうか」
 「まあ、そうだ。なにかあってからでは遅い。気をつけなさい」
 「はい…」
 「ところでバイトはもう終わりか」
 「はい、今日はもう終わりました。また来ます?」
 貴海はため息をついて理音を見下ろした。薄闇がどんどん濃くなり、表情をわかりにくくさせていく。
 「この調子じゃ来たほうがよさそうだな。しかしなんだってこんな遠くの店に来てるんだ? 一号店はどうした。あそこはたしか、社員の研修センターも兼ねた店だろう。本来なら東京に作るべきところを、きみの将来のために父親が雨咲に作ったっていう噂の店じゃないか」
 「よくご存知で」
 「これでも雨咲の経済界にはくわしい。で、なぜなんだ」
 「いろいろと事情がありまして」
と、理音が説明しようとするのとほぼ同時に、スポーツタイプのワゴンは、二人をあおるようにしてぎりぎりの距離を走行し、ぴたりと止めると、負け犬の遠吠えよろしく、開け放った窓から、
 「バカヤロー」
 と叫んで去っていった。
 「どちらがバカだ。まさにバカの見本だな。事故ってしまうがいい」
 「先生、そんな過激な……」
 しかし貴海は厳しい眼差しをそのまま理音に向けた。
 「バカはおまえも同じだぞ。あのままだれも助けにこなかったら今頃どうなっていたと思う! 敵を甘く見てはいかん。やると決めたら烈迫の気合いで一撃で仕留めることだ。一撃必殺。これに尽きる」
 女の子に言うセリフかなあと思いつつ、理音は素直に答えた。
 「すみません。以後気をつけます……」
 理音がしおらしくしているので、貴海はすこし力を抜いて、言った。
 「このあたりは治安が悪いな。新興住宅地の玄関口で、いろんな人間が出入りしているからかな。この間も小学生が不審人物に車でさらわれそうになったと回覧があった。油断するなよ」
 「小学生ですか……」
 貴海が自分にやたらとかまうのは、好意などではなく、小学生並に手がかかると認識されているからではなかろうか、と理音が考えていると、甲高い声がした。
 「ちょっと、何があったのよ!」
 表から、ようやく麗華が理音たちのところへ現われた。すっかり日が落ちて、その表情はわからないが、声の調子からして、だいぶ混乱しているようだ。
 「さっき表でミッタンと会ったんだけど、なんかわけのわかんないこと喚いてて、しかも怪我してるみたいだったし、あんた、なにかやったの? そいつだれ……」
と、麗華は貴海を見て、ちいさく、あ、とつぶやいた。
なんだろう。麗華は理音を見ているようではない。貴海のほう? しかし貴海はきょとんとしている。
電灯におぼろに浮かぶ麗華は、後退りしながらその場を離れ、さよならも言わずにきびすを返すと一気に走りだした。

 「知ってる人?」
と、貴海と理音はほぼ同時にお互いに尋ねていた。
 「おれは知らない。うちの生徒じゃないな」
 「うちで働いているアルバイトの子で、赤城麗華っていうの。名前も知らない?」
 「赤城……? いや、わからないな。もしかして普通科の生徒じゃないか?」
 「普通科って特別進学科より校則がきびしいんでしょ? いくら夏休みでも、あんな金髪にはできないよ。先生を見てずいぶん驚いてたみたいだけど」
 「それはおまえ……おれの目付きが悪いからじゃないのか?」
 「は?」
 冗談か、と思いきや、電灯に浮かぶ貴海の横顔は真剣そのものである。
 「昔から、目が釣り上がっててお稲荷さんみたいだと子供によく泣かれたんだ。生徒たちがおれを嫌うのも目付きが悪いのに一因がある」
 「お稲荷さん?」
 「雨咲天神神社のお稲荷さんだ」
笑っちゃいけない、笑っちゃいけない……キキカイカイ、真剣に悩んでいるのだ。パンダのようなたれ目のキキカイカイなんて、それはもはやキキカイカイではない。
女生徒が憧れているのも、貴海の切れ上がった目が、知的で落ち着いて見えるからだ。それすら勘違いして、目付きが悪いから嫌がられていると思っている。まるっきり逆だ。
 懸命に笑いをこらえる理音の横で、貴海はしょんぼりしてため息なんぞついている。ダメだ。おもしろすぎる。
 突然、けたたましく笑いだした理音に、貴海は仰天し、次に怒りで顔を赤くした。
 「笑うな! 人が悩んでいる横でそんなに楽しそうにすることないだろ!」
 「だあって、先生、悩むことないのに。なんで悩んでるのー」
 「わけがわからん。こら、笑うのやめてきちんと説明しろ」
しかし理音は笑いを止めることができず、貴海の肩をぱんぱん叩きつつ、言った。
 「強く生きたまえ、キキカイカイ君。きみの未来はきわめて明るい!」
 「なんだそれは」
 「前にも言ったでしょ。先生は人気があるんだよ。その目のお陰でね! 女の子たちがなんて言ってるか教えてあげようか。目が凛々しくてステキー、とか、知的な眼差しが大人の雰囲気ー、とかってきゃあきゃあ言ってるんだよ。嫌ってるんじゃないの。逆! 去年だってバレンタインデーにたくさんチョコレート貰ったでしょ? それが証拠。田端理音はウソつかない。信じなさい。ほーら、二学期が待遠しくなってきた」
 貴海は照れるどころか今度は青ざめている。信号のように忙しいヤツ。
 「おまえ、さっきのことでパニック起こしてるんじゃないのか」
 「ひどい、先生、生徒の言うこと信じてくれないのっ」
と、笑いを隠しつつ、理音は学校でのぶりっ子仮面をかぶった。
 「だからそれ止めろって。いいよ、わかったよ。わかったことにしよう。おれの目が怖くないと仮定して、それじゃあ、なんでさっきの子は逃げ出したりしたんだ?」
 「んー、なんでざんしょ」
 たしかになぜなのかわからない。だれかと勘違いしたとしか思えない不自然な態度だ。
ちょうど「誰そ彼」の物も人も光も影もおぼろな時間である。貴海はどうにも思い当らないのが歯痒いらしく前髪を手でかきまぜた。
 「赤城麗華って言ったな? この店のウェイトレスってほかは?」
 「ごめんなさい、わからない」
 「新入りなのか?」

そうじゃなくて、と、理音は麗華との出会いから、店での出来事をこまごまと話して聞かせた。
話をはじめると止まらなくなり、麗華のこと以外でも、店の売り上げが伸び悩んでいること、従業員の態度、理音の孤軍奮闘、そしてクレームがあったことなどなど、ほとんどすべてを話した。
貴海は、じつに忍耐強く、ときおり相づちを打ちながら、熱心に耳を傾ける。
話が終わるころにはすっかり陽は落ちて、まぶしいくらいに白く輝く街灯の背後に、ちらちらと星がまたたくのが見えた。
なまぬるい空気を薙ぎ払うように、駅前広場を車の走る音が流れていく。
それに乗って、表で理音のあとを引き継いで、店頭販売をしているアルバイトの声が聞こえてきた。

 「やりすぎだな、おまえ」
すべてを聞きおわったあとの貴海の第一声はそれだったが、理音は意味がわからない。
 「シフトがきついって意味? たしかに夏休みの宿題残ってるけど」
 「そうじゃなくて、おまえがこの店に派遣された理由は、『様子を見てきてほしい』てことで、店の改革をしてほしいってことじゃなかったんだろう? 責任感が強いのはいいことだが、過ぎたるは及ばざるが如しで、一人で突出しすぎたんだ」
 「なんにもしなければよかったっていうの?」
 「そうだよ。なにもせず、ただ様子を見ていればよかったんだよ。だけど手と口をだしてしまったんで、現場が混乱して、クレームになったんだ」
 「それじゃあ、まるでわたしが悪いみたいじゃない」
 また不意に涙がこぼれてきた。ぼやけた視界の中心で、気まずそうにする貴海の姿がある。泣くもんか、しっかりしろ田端理音、こんな痴話喧嘩を見られた程度で生徒の前から走って逃げていく男のためなんかに泣くな!
 だが水道管の故障に近く、自分を励ましても、涙のほうは勝手にぽろぽろと涙腺から飛び出してくる。あわてて理音は袖で涙を拭いた……が、しまった、その上着は貴海のシャツであった。貴海があわてているのが気配でわかる。こういうの、前にもあった。
 「山の天気みたいなヤツだな、笑ったかと思えば泣きだして……悪かった、悪かったよ。調子にのっていろいろ言い過ぎた。謝るから」
 今日ははっきりと何を言われているか、聞き取れる。理音はつよく首を横に振った。
 「なにが?」
 「やだ。謝らなくていい」
 「困った子だな。じゃあ、どうすりゃいいんだ」
 たしかにその通りで、話を聞いてもらったうえにアドバイスまで受けておきながら、泣いているのは筋が通らない。
貴海もさぞかし困っていることだろう。しかしどうしても涙は止まらないのだ。冷静にあれこれ考えられる一方で、心のどこかが痺れていて、そこからオイルのように涙がにじんでいるようだ。
 「わかんない。なんにもわかんない」
 そういいながら、しばらく理音は泣きじゃくっていた。子供のように泣いていた。
みじかい期間に、いろいろありすぎた。店のことだけではない。はるかのこともある。
くわえて、貴海がなぜこんなふうに親しげにやさしく振る舞ってくれるのかがわからない。この人は、増峰だけにやさしくしてればいいのだ。
 貴海は沈黙を守っている。
涙がピークのときは、理音は自分の混乱した心と戦っていればよかったが、やがてそれがおさまってくると、今度は貴海になんと言えばいいかわからなくなってしまった。
涙がほとんど出なくなるのを待っていたのか、やがて貴海が静かに口を開いた。
 「冷汗をいっぱいにかきながら、無理して笑っている」
 「なにそれ?」
 「おまえの印象。前に聞かれたとき、ちゃんと答えられなかっただろう。ずっと考えてた。辛いのも苦しいのもわかる。おれも似たようなもんだったからな。いまだってそう変わりはないよ。十代のときより辛さに慣れたってだけ。
だけど、ありのままの自分でいるということは、自分のわがままを通すということで、やはりそれも傲慢なことなんじゃないかと最近思う。誰かを傷つけないといけないにしても、野放図ではいけない。理想なり、意志なりが、そこになければただの傍若無人になってしまう。そのあたり、まぜこぜにしたらだめなんだ。
わがままと、意志を貫くのとは似ているけど違う。わがままは欲望を満たすことで、意志を貫くのは理想を果たすことだ。おまえはどっちだった?」
 店の従業員のやる気のない態度をバカにして、お手本とばかり自分をよく見せようとしていただけなのか、それとも店をもっとよくしようと、純粋に努力していたのか……理音は鼻をすすりながら答えた。
 「お店をもっとよくしようと思った。けど、少しみんなのことバカにしてたと思う」
 「正直でよろしい。それでいいんだよ。そうやって、胸の内を少しずつでいいから解放してやるんだ。でないと、おれみたいな年季の入った大嘘つきになる。
おまえはもう息苦しさに気づけたんだ。自分で言ってたじゃないか。解決方法はわかっているのに、それを実行するのをためらっているからこその悩みなんだって。だからもう泣くな」
 「先生がどうして大嘘つきなの?」
 「おまえの家は家族仲はいいか?」
 唐突になんだろう。ぱちくりとして理音は首肯いた。
 「うちは最悪。知ってるかもしれないが、うちの親父は教員時代からよそに愛人をかこって、子供まで作っていた」
 いいや、知らなかった。理
音はびっくりして鼻をすするのも忘れて、貴海の言葉を聞いていた。
 「おれの母親は体が弱くて、親父はほとんどいないもんだから、家には母の親戚や父の親戚やらが、入れ替り立ち替りで出入りしていた。それを理由にしたくはないが、子供心に、いま目の前にいる大人に嫌われたら、食べていけないと判断したんだな。だれの手もかからない『おりこうな子』を演じることにしたんだ。
八方美人もここに極まれり、といった、まあ、ともかく可愛くないガキだったんだよ。だれのいうこともよく聞いて、必要とあらば、大人びたお世辞もいい、時にはわざとガキっぽくふるまって相手の関心を牽く。そうしてれば、少なくとも暮らしの不安がない。
母は病弱だったので、妹はずっと伯父夫婦に育てられていたんだが、母が死んでいざおれが引き取ろうとすると、こういうおれを嫌って、伯父夫婦は妹をつれて北海道へ移住してしまった。先週、会いにいったけど、見事に追い出されたよ。顔も見れなかった。母の葬式以来、一度も会ってない。
親父は親父でなにを考えているやら、母の一周忌も明けないうちに、愛人と再婚したよ。おかげでおれの居場所はどこにもなくなって、以来十年、完全に一人だ」
 
全然知らない話だった。
貴海の父親が雨咲名望の学長だったということだけは知っていた。そういえば、何代か前の学長が、不倫騒動で辞任したことがある、という話をおぼろげに聞いたことがある。貴海の父親の話だったのだ。
 「そうだったんですか。ごめんなさい」
 「謝ることはない。話したかったから話しただけだ」
と、貴海は自分でした話を振り払うように、のびをしながら、完全に闇にかこまれた、駐車場を見回した。
車の影はほとんどなく、厨房のファンの音がにぶく響いている。
 「しかしこの時間でこんなに車がすくないなんて、大丈夫なのか、この店」
 「だからなんとかしようって頑張ったんだよ!」
ちがう涙が出てきそうになって、あわてて理音はごしごしと乱暴に顔をこすった。
それを貴海が妙な顔をしてじっと見ている。
 「なに? なんでじっと見るの? もしかして、ものすごく腫れてひどい顔?」
 「そうじゃなくて……おまえ泣くの下手だな」
 「泣き方にも上手い、下手があるの?」
 「いや、下手でいいんだよ。泣き方が上手いってのは要するに、見られることを意識している、涙を武器にしているってことで、好きじゃないな。昔ちょっとだけ付き合った女が……」
 とそこまで言いかけて、貴海ははっとして口を噤んだ。
 「まただ。危ないところだった」
 「なに? 聞きたい! 昔付き合っていた女の人って、なあに?」
 「はい、いつもの田端が復活したところで本日の課外授業は終わり! 帰るぞ!」
 「ケチ! だれにも言わないから教えて!」
 
「兄妹喧嘩は、もう終わった?」
 店の駐車場のステンレスの塀と、竹垣の向こうから声がして、見ると隣家の辻本夫人が、器用に鼻から上だけを覗かせてこちらを見ていた。
理音は時計を見た。7時。1時間も駐車場で話し込んでいた計算だ。
 「すみません、辻本さん、もう帰りますから」
となりの貴海も一緒に頭を下げる。
 「いつもお世話になっております。お騒がせして申し訳ありません。すぐ帰ります」
 「そうしていただけると助かるわ。どうもこちらのお店はなんていうのかしら、ご近所への配慮がいまひとつのようね。何度も申し上げますけれど、宅の主人は東京まで通勤しておりましてね、役員待遇とはいえ、朝は早く出なければなりませんの。ですから夜は静かにしていただきませんとねぇ。
まあ、あなたはほかの子よりすこしは考えているようですし、今度は大目に見て差し上げますけれど、ほかのバイトの子にもよおく言っておいてちょうだいな。わたしだってね、好きで本部に苦情を申し上げているんじゃありませんからね。
ああ、猫のことや車の駐車する向きだって、きちんとしてくださらないと困るって、ついでに伝えておいてくださるかしら? 宅の竹垣が煤けてきて困りますのでね」
 「はい、すみません。きっと言います。おやすみなさい」

 辻本夫人が引っ込むと、理音も貴海も、ほっと息を抜いた。
本部へクレームをつけたのは辻本夫人だったのだ。いまの口振りからすれば、理音が袖振町店に来る以前からトラブルが起こっていたようである。
 おかげでキキカイカイの過去を聞きそびれたなあと理音が思っていると、携帯電話がにぎやかに鳴った。
理音はあわてて電話に出た。が、どうも聞き覚えのない声である。
画面で相手を確認するが、はじめてかかってきた電話のようだ。
 『もしもし? 田端さん? あたし。増峰。いまどこ?』
 以前の水族館でのWデートの時、臨時連絡のためにと携帯の番号を交換していたのだった。
しかし、なんだって増峰が? 理音はとなりの貴海をちらりと見た。
まさか探知機かなにかがあって、貴海がここにいることがわかったんじゃないかしらん。
 『袖振町店なの? そう、ちょうどよかった。あのね、実はちょっと問題が起こって……広川先生の娘さんが、まだお家に戻ってこないのよ』
 唐突な話に、理音はなにがなにやらわからなかった。たしかに広川学年主任は理音の担任であるわけだが、クラス委員でもない理音に、しかも増峰から電話がかかってくるのはどういうわけなのか。
ヒロリンの娘はたしか小学生だったよねと思い出しつつ、理音は尋ねた。
 「あの、どんな子なんですか?」
 『あらあ、どんなって……』
 
そのとき、店の裏口がぱっと開いて、鳥の巣のような赤い髪の小林店長が青い携帯電話を片手に顔をだした。
いつも覇気のないぼんやりした顔が、困惑して歪んでいる。
 「よかった、田端さん、まだ帰ってなかった。いま赤城さんのお父さんって人から電話が入ってて、彼女、まだ家に帰ってないようなんだ。一緒に上がったよね、なにか心当たりないかなあ」
 『もしもし、聞こえてる? あのねぇ、ちょっとばかり言いにくいんだけど、千恵ちゃんたぶん、ちがう名前を名乗ってるかもしれないのよねぇ』
 「そっちの電話がおわったら、悪いんだけど、こっちの電話にも出てくれない? なんか変なこと言ってるんだよね。娘の名前がちがうとかなんとか」
 『たぶん赤城って名乗ってると思うの。亡くなったお母さんの旧姓だから』
 「アカギって……赤い城のアカギ、ですか?」
理音は、増峰の電話の応対もしつつ、小林店長の電話も手振りで受け取った。
青い携帯電話から、こちらは学校では毎日聞いている声が流れてきた。
 『もしもし! 聞こえてる? あのねえ、うちの娘がそこで働いてるかもしれないんだよ。わかるかなあ? アカギって名乗ってるかも知れないんだわ。赤い城って書いてアカギ。いつごろ帰ったかわからないかねぇ?』
 『あら? どうして広川先生の声が……ねえ、先生、もしかして田端さんにかけてる……わけないか。あたしが掛けてるんだもんねぇ。あのね、千恵ちゃんは小学生なんだけど身長が170あって、髪の毛を金髪に染めてるの。お化粧している可能性もあるから、もしかしたら小学生に見えないかも』
 理音はめまいを覚えた。目の前がちかちかする。
 赤城麗華が、広川学年主任の娘で、小学生?