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十一
グッバイ・マイ・ラブ・アンド・フォーエバー? 其の弐最初は様子見ということで、店の雰囲気やスタッフの人となりの観察に費やされた。
しかし、小林の評価とは裏腹に、赤城麗華の違和感のある雰囲気はすぐに目に付くようになった。
麗華は真面目にやっているようではあるが、一番のベテランというわりには、ほかのスタッフに比べ、手際がよくない。
上背があり、それを気にしているのか、猫背が目立つ。そのため、あまり表情のない顔を、いっそう冴えないものにしてしまっていた。
かといって欝屈としているわけではなく、スタッフ同士では普通に明るく振る舞っている。そのギャップがはげしい。
「お店にいるときも、それくらい大きな声を出せばいいのに」
と、理音が言うと、それまで、はしゃぎすぎなくらいにバイト仲間とはしゃいでいた麗華は、ぴたりと口を閉ざして、無愛想に低い声で答える。
「恥ずかしいし」
なにおう、と理音は思ったが、あまり従業員同士で波風を立ててもいけない。理音はなるべく自分から積極的に、ほかのアルバイトの少女たちに声をかけ、仲良くしようと努力した。
しかし麗華だけはいつまでも、電報のような返事しか返してくれない。
ぎこちない空気が生まれてしまい、店の雰囲気はよいものではない。
しかもしばらく見ているうち、麗華は、仕事時間中に中座することが多いのに気づいた。手際もわるく、さぼりがちな麗華を、しかし小林は叱ることもなく、むしろ庇ってやるのだ。
あるとき、トイレのために店の奥に行くと、更衣室から煙草のけむりが流れてくる。
店内は、スタッフルームもすべて禁煙という規則である。
制服に、煙草のけむりがついたらいけないからだ。
だれだろう、と理音が覗くと、明かりのついていないうすぐらい更衣室のすみっこで、麗華が空缶を灰皿代わりにして煙草を吸っていた。
理音は裏切られた気がして、不意打ちをかけるように、更衣室の明かりをつけた。
「赤城さん、禁煙だよ!」
理音は煙草を吸う人間のマナーの悪さを、働きながらつねづね感じていたので、こうしてあからさまに図々しいところを見せられると、腹がたってしようがない。煙草を吸う人間は、「どうしても我慢できなくて」などと言って開き直るが、煙草を吸わない人間にとっては、流れるけむりや、その独特のニコチンの匂いは「どうしても我慢できない」ものなのだ。
麗華は気まずそうに、立ち上がると煙草を消した。
マニアが通いつめるほどに人気のあるウェイトレスの制服であるが、女の子にしては背の高い麗華が着ると、その幼さがまさる顔立ちと似合わぬ金髪とあいまって、あまり似合っていなかった。さあて、どうしたもんか。理音の経営者としての素質の見せ所、である。
「だめじゃない、規則はきちんと守ってくれなきゃ。どうして煙草を吸っちゃいけないか、わかっているでしょう?」
麗華は、憮然として腕を組み、そっぽを向いた。しかし、その横顔にはいつもの強気はない。
「それに、まだ休憩時間じゃないよね? いまはお客さんが少ない時間だけど、だからって、こんなところにいちゃダメだよ。やる仕事はいっぱいあるんだから」
「でも」
と、ぼそりと麗華がようやく口を開いた。
「どうせ、暇じゃん」
「言われたことだけが仕事じゃないよ? 自分で仕事は作るものなの」
「店長たちだって、禁煙じゃないし、いいかなって」
と、麗華は理音と目を合わさずに言った。
いくら会長の一人娘で、将来の後継者である、と社内的に決まっていても、やはり本来は一号店にいるべき「よそもの」の理音が、直接店長にあれこれ言い過ぎると、かえって現場の反発を招く。
そのあたり、幼少の頃から父親と母親の働く姿を見てきた理音であるから心得ていたので、小林店長の煙草の件については本部から言ってもらおうと思った。
十七才にして味わう中間管理職の悲哀。
「ねえ、たしかにぼんやり仕事をする方法もあるけど、それじゃおもしろくないと思わない? 働きがいっていうのかなあ? そういうの、知りたいと思わないの?」
「疲れるの、やだし……」
じゃあ、なんで働いてるの、という言葉を理音は辛うじて飲み込んだ。
麗華が自分に厳しく当たることで、店に不協和音が流れている。
そして自分は、そのことで麗華を、やはりおもしろく思っていない。その感情を出してはいけない。
私情を挟んじゃいけないんだ。めちゃくちゃ疲れるけど、それが正しい。ぐっと押さえて。がんばれ。
「それじゃあ、わたしと一緒にお仕事しようよ」
「……」
麗華は黙ってしまったが、理音はかまわず店に戻ると、ノルマの半分も売れていないダークチェリーパイをトレーに乗せて、副店長と準チーフに手伝ってもらい、店の奥から折り畳み敷きの机と、販売促進ディスプレイ用の光沢のあるポリエステルの布、それから去年のお祭りに使用したビーチパラソルを引っ張り出してきた。
小林店長が理音の行動に驚いて、厨房からやってきた。
小林店長はフロアにいるよりも、厨房で、仲間とおしゃべりしているほうが多い管理職である。
「なにを始めるの?」
理音はポリエステルの布をテーブルに掛け、その上にダークチェリーパイと、プレゼント用のキャラクターグッズを見栄えよく並べた。
そして色紙に、手書きでポップを作り、よく見える位置に貼りつけた。
「お客さんがこないなら、こちらから呼べばいいじゃないですか」
と、理音はテーブルを敷地ぎりぎりの、駅前広場に面したところに持ってきて、バスを待つ人々、バスを乗り降りする人々、駅を利用する人々、お客待ちのタクシー運転手に向けて、大きな声で叫んだ。
「いらっしゃいませー、『ワルツ・オブ・ウィーン』の夏限定のデザート『ダークチェリーパイセット』です。コーヒーとパイの詰め合せでたったの500円。どうぞご利用ください!」
プライドがどうとか言うのは、通帳に、独立できるだけの資金を貯めてから言え、といったのは、理音を育てた祖父であった。
理音は亡き祖父の言葉を炎天下、熱く思い出していた。
祖父もこうして珈琲の卸売りから、一代にして全国チェーンの企業に自分の会社を広げたのだ。同じ血縁の自分に、その真似ができないはずがない。
広場の人間が、なにごとかとこちらを見ているが、恥ずかしさも5分もすれば消えてなくなる。
「ほら、赤城さんも一緒にやって」
と、理音は入り口の影で様子を見ている麗華に言った。しかし、麗華はにらむようにして目を細めると、
「日に焼けるの、やだ」
と言い捨てて店内に入ってしまった。
ほかのアルバイトも、麗華に倣うようにして、どんどん店のなかに戻ってしまう。結局、残ったのは理音と小林店長だけで、その小林も、ほとんどお義理で小さく理音のあとにつづいて、
「いらしゃいませ、どうぞー」
と言うだけであった。
負けず嫌いの理音は、孤立無援になればなるほど、燃えるタイプであった。
かつて小学校のときにクラス中から無視をされたときも、結局、みんなの前では泣かないで通した。
あれだけつらかったことを、乗り越えられたのだ。
仕事で、しかもよその企業なら当たり前にやっていることを、乗り越えられないはずがない。
理音の気迫が勝ったのか、それとも見た者に同情させるなにかがそこにあったのか、ダークチェリーパイはお客待ちのタクシー運転手を皮切りに、通りすがりの営業マンや散歩中のお年寄りに売れはじめ、いつもより早い時間にノルマを達成した。
しかしどうしても主婦は足を止めてくれない。
こうなったら意地でも主婦に売ろう!
理音は、買物帰りらしく、こちらをちらちらとうかがっている、自転車に乗った主婦に目をつけた。
補助席に子供を乗せた若い母親だ。
何度かこちらの様子を見ている。迷っているようだ。もう一度目が合ったら、絶対に売ってみせる。
と、主婦がこちらを向いた。そして、ばっちり目が合った。いまだ。
「奥さん、買物あとのデザートにいかがですか! 安くしとくよ!」
しかしこれがいけなかった。
バイトが終わると、理音は、父の祥一郎に雨咲支社の会議室に呼び出された。
最初はノルマを早く達成したので、誉められるのかと甘い期待をしていた理音であったが、祥一郎のしぶい顔に、悪い報せを予感した。
「どうして呼ばれたか、わかるかな?」
祥一郎は、四角い顔に端正な顔をした紳士である。
わずかにたれ目で柔和な雰囲気を持っている。
郷土史の調査をこよなく愛し、みずからも地元の愛好会に参加し、援助をしている。
直感と感性の人であるが、その柔和な思想と忍耐強い性格がさいわいし、いいブレーンにもめぐまれ、むずかしい二代目の事業をうまく繋いで、実業界でも評価が高い。
家ではまったく普通の、ちょっと間抜けなお父さんであるが、事業の話となると、とたんに厳しくなるのであった。
「わかりません」
と、理音が言うと、祥一郎は、軽くため息をついて、理音にソファにかけるよう促した。
どこにでもある皮張りのソファが、バリバリといやな音を立てる。
不吉の予感。
「袖振町店の隣の民家から。クレームが来たんだよ。呼び込みの声が元気なのはいいが、品のないのはいかがなものかと。心当たりはあるかな?」
例の自転車の主婦は、理音の勢いに逆に恐れをなして、そのままそ知らぬ振りして去っていってしまった。
さらにクレーム。最悪である。
「うちの店のコンセプトは、あくまで高級珈琲ショップだよ。そこいらのファストフードの真似をして品格を落としてはいけない。それは同時に店のイメージを貶める行為につながる。一時期売り上げが減少しているからといって、奇策に走ってはいけない、ということだ」
「はい、お父さん」
「社長」
「はい、社長……」
「よろしい。ただし呼び込みそのものが悪いとは思わない。たしかに袖振町店は立地は悪くないが、どうも印象が薄いようだ。目玉商品のPRも兼ねて、屋外で販売を行なうこと自体は実によろしい。しかも率先して行なったことに関してはたいへんよろしい」
「やった!」
祥一郎は、事業に関しては厳しいので、たとえ娘の行動でも、よほどでないかぎり誉めてくれない。
理音が無邪気に喜んでいると、祥一郎はたれ目をすこし釣り上げて言った。
「ただし! 組織の順序というものを間違えてはいけない。あくまで袖振町店の最高責任者は小林くんであって、おまえはわたしの娘であるというだけのただのアルバイトだ。小林くんに相談もなく行動を起こすのはいかがなものか。よく考えなさい」
「ちょっと待って、なんでそこまで知ってるの?」
「知っているんですか?」
「知ってるんですか!」
「理音、店を良くしようという意欲は買う。しかし店は一人だけでは切り盛りできないものだということを忘れてはいけない。おまえの言うことや考えることは正しい。しかし方法がよろしくない。
お父さんも、いまの時代、人の和を重視した経営なんていうのは、所詮、惰性の土壌になるだけだと割り切っている。しかしね、不必要に敵を作って、自分のクビを絞めるのは賢いやり方だろうか。みんなと仲良くなんて、薄っぺらな理想論は言わない。しかし、おまえの年齢なら、そのあたり考えて行動してもいい頃だね」
「でも、どう見たって、小林店長もほかのアルバイトの子も、全然やる気がないのに?それでわたしだけでも頑張ろうとしたのが、いけないことなの?」
「だから、それはとてもいいことだよ。ただね、おまえの正義は人を追い詰める。おまえはおまえの正しいことを、黙って行いなさい。それで人を責めるなら、むしろやらないほうがいい」
「よくわからない」
「わからなければいけないね」
理音と祥一郎は、そのあと、別々に帰宅した。
その夜、理音は食卓で祥一郎と顔を合せたくなかったので、夕食は自分の部屋でカップラーメンを食べてすませた。
一人で食べるカップラーメンは、味気なくまずいものだった。
アルバイトに行きたくないと、理音は初めて思うようになった。
よかれと思って行動してきただけに、それが間違っていると言われた理音は、すっかり意気消沈していた。
そうして初めて、理音は自分がどこかで、袖振町店の従業員たちを、働く意欲のない者たちと見下してきたことに気づいた。
それが無意識のうちに剥き出しになることがあって、みな表では黙っていたが、裏では心よく思っていなかったのだろう。
だれかが人事を統括する佐々常務に店の情況を報告し、それが父の祥一郎に行ったのだ。
いったいだれが?
そう考えるのも嫌なことだったが、考えずにはいられない。
もともと人間関係の輪から外れたポジションにいただけに、こうなると以前のように、積極的に人に話し掛けることがしづらくなってしまった。
理音が始めた屋外販売は、結局売り上げがよいため、そのまま継続されることとなった。
それなら余計なことを言わなければいいのに、と理音は腹立たしく思った。
わたしが始めなければ、現状はなにも変わらなかったのだ……と思うと、やはり以前のような強気が戻ってくるのだが、それが間違っていると指摘された以上、どこか違和感を感じないわけにはいかない。
なにがどういけない、というのだろう。
言葉遣いに注意をしつつ、パラソルの下でダークチェリーパイを売っていると、事務員の馬場さんと同じくらいの年の、個性的な和染めのワンピースに、凝ったフレームの眼鏡をかけた中年女性がやってきた。
育ちはいいが、どこか高慢さを感じさせる表情をしている。
中年女性は、「いらっしゃいませ」と声をかけた理音を、じろりと一瞥した。
「あたらしいバイトさん? それにしては、慣れているみたいだけれど」
「一号店のほうから手伝いに来た者です」
「あらそお。ここ何日か、お外でケーキを売ってるみたいだけど、元気があっていいわね、って言おうとしたのよ。でもどうなの、ここのお店。最近は、あんまりお客が入ってないようだけど」
ライバル店のマーケティング?
客の振りをしてなにも知らなさそうなアルバイトをねらい、店の事情を聞き出すのは常套手段である。
乗ってなるものかと、理音はにっこりと、とっておきの笑顔で答えた。
「いいえ。この新商品の人気で、お陰さまでたいへん潤っております。お客さまもおひとついかがですかぁ?」
予想外のしっかりした返事に、女性はたじろいだようだった。
伊達に幼少から祖父や両親の働く姿を見ていない。
切り返し方、タイミング、表情もすべて計算ずくである。もっとも、こういうところが、可愛くないと自分で思うところなのだが。
「ところで、あなたは社員の方?」
「いいえ、しがないバイトです」
「あらそう? まあでもいいわ。そちら、おひとつ戴こうかしら。ドライアイスはいいわ。すぐ隣だから。それと、あなたお名前は?」
「田端理音と申します。お買い上げありがとうございます。またご贔屓にどうぞ」
元スチュワーデスの母から完璧にしこまれた、作法どおりのうつくしいお辞儀をして、理音は女性を見送った。
さりげなくそのうしろ姿を追っていくと、言葉どおり、すぐ隣の、竹垣の立派なお屋敷に入っていった。
表札には『辻本』とあり、その横には茶道のナントカ流という大仰な看板がかかっていた。
炎天下の呼び込み販売は、一週間もすると駅前広場の風景にとけこんだ。
お昼をパイと珈琲ですませるタクシー運転手や、買物帰りによってくれるお年寄りなど、だんだん顔馴染みのお客もできてきた。
こうなると、最初に躓いた記憶も薄らいで、楽しくなってくる。
お隣の辻本夫人も店内には入らないが、理音のところにやってきて、簡単な世間話をしてくれるようになった。
自分の力で切り拓く、というのはまさにこういうことなのだろう。だから仕事はやめられない。
見たまえ、諸君、と理音はクーラーの利いた店内で相変わらずやる気があるのかないのかわからない従業員たちを振り返る。
しかしドラマでも漫画でもない現実では、そうそう理音を認めてはくれず、店での理音の孤立は変わらなかった。
小林店長は相変わらず、制服に動物の毛をつけていることがたびたびであったし、そのたびに理音が注意するので、だんだん口数が少なくなってきた。
もともと闖入者あつかいであった理音だが、いまは厄介者扱いである。
さすがに仕事の面での嫌がらせはなかったが、理音の要望や意見はまるで無視され続けていた。
更衣室に入ると、ちょうど麗華も仕事が上がる時間で、元気いっぱいの声で携帯をかけていた。麗華の携帯には、プリクラのほか、ストラップが東南アジアのお寺の飾りのように、じゃらじゃらとついていて、にぎやかである。
「あとやることもないしぃ。夏休みの宿題? んなもん、適当に答えを写しておけばいいじゃん? 大丈夫だって。ばれたことないしぃ。ねぇ、迎えにきてよ。海いこうよ、海。水着なんてどっかで買えばいいしー、っていうか、買ってくれるでしょ?」
彼氏かぁ、と理音は着替えながら思った。
考えてみれば、こちらは熱心に仕事に、勉強に、部活にと打ち込みながらも私生活はまことに乏しいかぎり。
人間関係におびえ、異性に相手にされないわけではなく、相手にされすぎて、たった一人しかいない友達を失いつつあり、唯一、心を開ける相手が変り者の化学教師で、しかもこちらは彼女持ち。
比べてみたら、いったいどちらがしあわせなのだろう。
着替えが終わって外に出ると、駐車場でいつか見たスポーツタイプのワゴンが停まっていた。
運転席には日に焼けた、なんだかにやけた感じのアロハシャツにの男がいる。
安っぽい雰囲気が理音の好みではない。
それでも一応は頭を下げて、理音は通り過ぎた。
理音の家から袖振町は歩いて帰れる距離にある。
もっとも、雨咲川添いの道を伝って徒歩40分と、ふつうは自転車を利用するところだが、理音は運動のために歩いている。
立ち仕事なので体力を使っているように錯覚しがちだが、意外にカロリーを消費していないものなのだ。
夕暮れの町を、街頭マイクより、『家路』のさびしげなメロディが流れている。
とぼとぼとした足取りにぴったりの曲だ。
音楽に追われるようにして、野球道具を抱えて帰宅する小学生たちとすれちがう。
涼しくなったので犬の散歩をする人、夫婦で散策する人、さまざまだ。
川辺は遊歩道になっていて、上流のほうには、以前、横手が樺原の姑を連れていったあたらしい公園がある。
横手はいまごろ、どうしているかなあ、と理音は考える。貴海の話だと、治療は順調だということであったが……
しばらくいくうち、あれほど明るかった空は黒い雲に覆われ、視界は見通せるのに暗い、という不思議な天気となった。
同時に、どろどろと、お馴染みの腹にこたえる音が天空を駆け抜けた。
理音は傘を持っていなかったことに気づいた。
やがて雷鳴が警告を与えるように二度、三度と鳴り響いたあと、その予告どおり、幾千の水桶を叩きつけたような勢いで、雨が落ちてきた。
理音はあわててガードレール下へ駆け込んだ。
「黙ってやりすごしてたら、どうにかなるとでも思ってるの?」
雷にも負けぬ、女の鋭い声が、ガードレール下に響いた。
ヒステリックではなく、論理的に追い詰めるような、聞く者の襟を正させるような、てきぱきした声である。
「いいかげん、そんな甘い考えは捨てたら? どうにかなるなんて幻想なのよ。またおなじことを繰り返すつもり? そんなの、通じないわよ、女にはね」
カップルの喧嘩、というふうである。
女が優勢だ。
ただらぬ剣幕、ただならぬ迫力、である。
声の主の、踏んできた場数を思わせる。
どんな人だろうとうす暗がりをさぐるろうと理音が目をやろうとしたとき、ドラム缶をいっぺんに踏み潰したような、大きな雷鳴がとどろいた。
さすがの理音もおどろいて、小さな悲鳴をあげた。
とたん、向こうが理音の存在に気づいたようだ。
押さえ気味の男の声と女の声がした。
だれだろう、と理音が見ると、なんと増峰である。
増峰は理音に気づいて、モナリザのような謎めいた微笑を浮かべた。
その笑みの意味がわからず、理音が戸惑っていると、ざぶざぶと遠ざかる足音が聞こえた。
見ると、この激しい雨の中を立ち去る者がいる。
何千という雫のカーテンで仕切られているため、はっきりとは見えなかったが、雨を避けようと片手を頭に乗せて、前かがみに走り去っていく男の背中だ。
男が去っていく。そしてここには増峰がいる。
増峰の男は貴海である。
理音はもう一度、豪雨のベールですっかり見えなくなった、男の影を目で追い掛けた。
逃げていくのは貴海である。
さっきまでの野次馬的好奇心は、一気に理音の中から消えた。
なにをこそこそと、と憮然として理音は思った。
貴海と増峰が何度とデートを繰り返している仲だというのは、理音は知っている。
理音は、さきほどの増峰の言葉を思い出していた。
責める内容ではあったが、ごく親しい者に向けられた、遠慮ない言葉に思われる。
貴海は増峰が苦手と言っていた……しかし、わかるもんか。理音は水族館で、それでも親しげに見えた二人の姿を思い浮べた。
ウソツキ・キキカイカイ。
「あらあ、久しぶりね、えーと、田辺理音ちゃん! 元気だった?」
「田端です……」
増峰のタイトスカートからすらりと伸びた脚は、女の目から見てもきれいだと思えるものだった。
今日はシックに、手縫いのカーディガンにブランドTシャツ、トップがピンクのダイヤモンドのペンダントに、スカート、といった出で立ちだ。
ガードレールの上は車道なのだが、まるで電車が走っているかのように、ゴロゴロとすさまじい雷鳴が響いている。増峰のほうから、理音に近付いてきた。
「ああ、そうだった、ごめんごめん、だめねぇ、あたしって教師のくせに、どうも人の名前を覚えるの、苦手なのよ」
と、増峰は屈託なくけたけた笑った。
どうも憎めないひとである。
「どうしたの、お散歩? ひどい降りよねぇ。今年は雨が多くて、冷夏かしらぁ」
「先生は、どうなされたんですか?」
「あたし? あたしは帰る途中。車、ちょっと事故っちゃって、修理にだしてるのよ」
なんでデートってはっきり言わないだろう。
眉間のしわを、ぎゅっとしかめたい衝動を抑え、理音は思った。
そんな単純に誤魔化されるとでも思っているのだろうか。
ずばり聞いてみようか。
しかし、理音は余裕たっぷりの増峰の笑顔とぶつかって、やめた。増峰は笑顔で武装した、肝の太い女丈夫だ。
「おうち、この近くだったんですね」
「まあねぇ。久しぶりに歩いて帰るってのも、ちょっといいかなあって」
言い争いをしてみるのも、ちょっといいかなあって。
意地悪な気持ちになり、理音はそ知らぬふりをして尋ねた。
「あの、増峰先生は、キキカイカイと付き合ってるんでしょ? どこかへ一緒に行ったりしないんですか?」
それを聞いて増峰は吹き出した。
「へぇ、彼、やっぱりキキカイカイって呼ばれてるの。学生のときと一緒ねぇ」
「え、増峰先生も、もしかしてうちのOGだったんですか?」
「あらそうよ。うちの教師の半数以上が卒業生だもの。それにしても懐かしいわねぇ。そうやって呼ぶと、すごく怒るのよ。やっぱりすこし丸くなったんだ。
高校のときは、そりゃあ近づきがたい、頭に超のつく優等生でね。しかも生徒会までやってたのよ。勉強はいつもトップクラス、運動も得意、人望もあつくて、しかも親が同じ学院の学長でしょ? 無敵よねぇ。憧れている子もいっぱいいたけど、みーんな近付けなくて泣いてたわね。
面倒見はいいんだけど、ちょっと四角四面でね、こうあるべき、っていうのが先にきちゃうから、付き合いづらいのよ。うーん、傍から見ると、顔も将来性もばっちりなんだけど、やっぱり観賞用ねぇ、彼は」
といって、増峰はまたけらけら笑った。
初めて明らかになるキキカイカイの過去。
しかもキキカイカイというあだ名が、それほど由緒正しいものだったとは。
増峰と貴海が学生時代に知り合いだったとすると、さきほどの増峰のセリフ「またおなじことの繰り返し」という言葉が説明が付く。
ん? つくか?
つまり学生時代に二人は同じことを繰り返していた??
いやいやしかし!
理音は混乱した。
となると、いま増峰が展開している貴海についての評価はいったいどうなる?
「あの、観賞用って言うことは、結婚前提のお付き合い、というのはありえない、ってことですか?」
「かーんがえられないわね。だって、彼と話がまるで噛み合わないのよ、あたし。結婚したところで、朝食のテーブルにつくたびに、今朝はどんな話題を話そうかなんて、一生懸命考えなきゃいけないのなんて、疲れない? そりゃあ、最初はそういう話で付き合ってみないか、って勧められたし、あたしも来るものは拒まず、ってヒトだから付き合ってはみたんだけどねぇ」
理音はくらくらした。
貴海のほうも、苦手だと言っていた。仮面カップル……この大人たちは、いったいどうなってるんだ? さっきまで会っていた相手を、こんなふうに突放して語れるもの?
しかし増峰というのは、本当にドライである。
たとえ、酔った勢いで極楽通りの中まで二人して入っていたとしても、やはり性格が合わないと判断したなら、なんの未練もなく、まったく同じセリフを言ったに違いない。
「もちろん、彼がおもしろくないってことじゃないのよ。頭のいいヒトだし、話題はいっぱいあるのよ。でも、秘密主義者っていうか、社交性がないっていうか、相手を楽しませるためだけの会話ってのがまるでないわけ。だから間が保たないのよ」
「あの、たぶんそれは、貴海先生が、ひとつのことしか、集中してできないタイプだからだと思うんです。自分は不器用だと、このあいだ言ってました」
なんだって、こんなところでキキカイカイの弁護にまわってるんだ、わたしは?
それになにか、違和感を感じる。違和感というか矛盾だ。ついさきほどまで激しい言い争いをしていた女が、その相手にたいしてこれほど客観的に語れるものだろうか?
「気にしちゃってカワイイわねぇ。いいなあ、あたしもそういう時期があったんだけど」
と、言われて理音はうろたえた。
増峰の、いたずらっぽい笑顔と目が合う。
この女性はすべてお見通しなのだ。理音は、いますぐダッシュで逃げ出したい衝動にかられた。
「気にしてなんかいません! あの、後輩とか、友達が、キキカイカイにすっごく憧れていて、それで、情報あつめです。本当です、ハイ」
どっと汗が吹き出ている。おそらく茹でた蟹のようになっているだろう。
うろたえつづける理音であるが、増峰はそれにはかまわずつづける。
「そお? この間の水族館でも、結局あなたと一緒にいた時間のほうが、長かったんじゃない、彼?
昔っからそうなの。とりあえず、だれにでも合せるんだけど、いざとなると気に入った子に集中する癖。学生のときは同級生の男の子とばかりつるんでたわね。実はあぶない関係なんじゃないか、なんて噂まで流れて」
おいおい……
「ほんと、懐かしいわねぇ。この場所にもいろいろ思い出があるのよ。友達と話が盛り上がって、別れるのが味気なくて、ずうっとおしゃべりしてた場所。待ち合わせしたり、テストの答えあわせしたりした、ね。いまなんか、きれいな公園できちゃって、学生はほとんど、そっちへ行くみたいじゃない?」
増峰は遠い目をして語った。
あらためて理音は、増峰の端正な容姿を見た。すらりと高い背。洗練されたファッション、小顔を引き立てる完璧なメイク。青臭さも田舎くささもどこにもない。加えてこのさばさばした性格。
この人は友達も多い人なんだろうな、と理音は思った。
同時にかなしくなった。
自分とくらべると、がっかりすることばかりなのだ。自分は貴海と8つも年がはなれているので、当然のことながら、語り合える思い出というのがなにひとつない。
貴海が高校生だったころ、理音はまだ小学生の高学年。
『ちょうど、いじめられていたときだな』
それを思い出すと、ますます気持ちが暗くなる。
過去を引きずったままで、人間が怖くてならず、身動きがとれない自分はいったい、なんなのだろう。いくら苦手だと言っていても、普通なら、こんな見せかけの可愛さと見せかけの人間関係しかない嘘っぱち少女より、増峰のほうが数倍も魅力的だろう。
すこしでも期待めいたものを胸に抱いていた理音は、自分がみじめに思えて仕方なかった。
夕立は、やがてぽつぽつと勢いをなくし、空から黒い雲が引いていった。
雨のあとの、さわやかな空気が河辺を走っていく。
しかし理音はますます気が晴れない。
増峰はなにが楽しいのか、手に持ったハンドバックを子供のように振り回しながら、鼻歌を唄っている。
「この唄、知ってる?」
「グッバイ・マイ・ラブでしたっけ? アン・ルイスの」
「あったりー。理音ちゃん、詳しいわねぇ。もしかして歌の大辞典とか毎週見てる人? 普通科の生徒なんか、マドンナの唄ですか、なんて言うのよ。まったく昭和は遠くなりにけりよねぇ。そのうち昭和生まれって聞いただけで、戦争経験者だと勘違いする子とかも出てくるのよ。いやになっちゃう」
「増峰先生は、ずっと若いって気がします」
「あはは、生徒にもよく言われる。先生って進歩ないなあって」
「そうじゃなくて、心が若いまま年を取れる人だなって思うんです。心が若い人は、老け方も人とちがいますよ?」
身近な例では母の桂香だ。
ここ数週間、家に帰っていない企業戦士だ。
桂香がほぼ変わらぬ容姿を保っているのは、なにも高い美容法に頼っているからというだけではない。心が若いのだ。
増峰も、おなじタイプだと理音は思う。前だけまっすぐ見て、目標にまい進するタイプ。過去にあれこれこだわらない。一定速度の勢いを保てる、得なタイプといえよう。
「うーん、やっぱり特別進学科の生徒はちがうわねぇ。あなたって、見た目はきゃぴきゃぴしたお嬢さんってふうだけど、実はずいぶんしっかりしてるのよね。あたしがあなたくらいの年のときって、年上の人と、そんなふうに落ち着いて喋ることなんて、できなかったわよ?」
「それはたぶん、わたしが小さいころから、大人に囲まれていたからだと思います。遊び相手がおじいさんでしたから」
「あ、知ってる。よく運動部の大会に顔を出して、気に入った選手を焼肉に連れて行ってたおじいさんよね? あたしって手芸部だったから、いいなぁって思ってたのよ。手芸じゃ、大会もなにもないものねぇ」
と、増峰はなにがおもしろいのか、声をたてて笑った。
「貴海先生があなたを気に入った理由、なんとなくわかるわね。同窓生じゃないのに、なんだか懐かしい感じがするのよ。おじいさんの影響かな? 高校時代ってあんまりいい思い出がないんだけど、いま昔のあたしに会えるなら、いまがあるから。心配するなって、思いっきり励ましてあげたいわ」
むかし想いを寄せていた相手と、大人になって再会し、付合うようになったというなら、それはとてもしあわせだろうな、と理音は想像した。
もし自分がおなじ立場になったら、きっと今度こそは、と気合がはいるにちがいない。
「さて、仲直りしてこよっかな、と」
と、増峰が大きな声で宣言した。喧嘩するほど仲がいい、という言葉が理音の胸を矢のようによぎる。そして胸の奥をちくりと刺した。貴海にはもう、この増峰がいるのだ。たとえ理音のことを気に入ったとしても、よもやま話ができる、というだけの相手。卒業したらそれっきり。それ以上でもそれ以下でもない存在なのだ。
「今夜は、好物をつくってあげようかな」
その言葉は、理音の思考を完全に停止させた。
いちばん最初に出会ったのは、極楽通りの入り口であった。
貴海と増峰は、やはりかなりの仲だったのだ。
増峰は結婚は考えていない、というが、ほんとうにそうだろうか。
貴海は増峰が苦手だと言ったが、そうだろうか。
『人のことをうそつきって言って、自分もうそをついていたの?』
それだけは信じたくなかった。
最初に理音が貴海に関心をよせたのは、どこか自分に似ていると思ったからだ。それなのに…
じゃあね、幸運をいのってね、といいながら増峰が行ってしまう姿を、理音は呆然と見送った。