B.B.の世界

神田川のない街で 其の四


「ダメか……わかった、ともかくきみは学校へ帰って、待機していてくれ」
 広川は自分の携帯電話を切ると、自分を注目していたひとびとに、首を振って見せた。
 「完全にパニックになっていて、信号を無視してそのまま突っ切っていっちまったらしい。事故をおこさなきゃいいが……」
 佐藤宅の玄関口では、花瓶で打たれた頭を、養護教員の佐野に手伝ってもらいつつ冷やしている樺原と、
玄関の端っこで、自分と理音のカバンを抱えたまま、ひたすら泣きじゃくるはるかと、
鼻血は止まったものの、まだハンカチが手放せないでいる理音、
そのとなりにきつく顔をしかめ、怒っているような、悔しがっているような顔をしている貴海、
広川学年主任、後退しつつある頭の生え際を掻きながら、「困った」を繰り返す学長、
泣き続けるはるかに、いつになく優しい口調で「しっかりしなさい」と励ます事務員の馬場さん、
それらの様子を醒めた目で見ている浅黒い肌の一年の学年主任・茂手木。
携帯でしきりにあちこちに指示をだしている教頭。

 「警察に、言うべきだろうね、これは」
 と、せわしなく砂利道の上をうろうろしながら、学長が広川に言った。広川は口をヘの字にしている。学長はつづけた。
 「事故が起こってからでは遅い。早いところ、通報したほうがいい。樺原先生のこともあるわけだし、いま横手はなにをするかわからない状態なんだろう? だいたい、病歴があるというわけだし……」
 その言葉に、教頭が携帯を操作しようとする。すかさず貴海が口を開いた。
 「待ってください! 横手自身が危険だとは限りません。警察に通報する前に、我々で横手を捜索するべきではないでしょうか」
 すると、玄関口で頭を冷やしながら、樺原が苦々しく反論した。
 「そんな悠長なことを言ってられるか! これは事件だぞ。うちの義母は実際にさらわれて、しかも横手は無免許運転で町をかっ飛ばしてるんだ! 義母はヘルパーに世話をしてもらわないと、一人じゃほとんどなにもできないんだ。なにがあってもおかしくない! あいつはやっぱり病気が治ってなかったんだ」
学生時代に2年もインドに行ってきた、というのが自慢の樺原は、大きな鼻の穴をさらに膨らませる。
その樺原に対し、感情を抑えて貴海が理路整然と反論する。
 「待ってください。横手を専門医に連れていってくださったのでは? 医者の見立てはどうだったんです? 樺原先生は、再三にわたるこちらの要求にもかかわらず、今日までその報告をしてくださっておりませんが」
 隙のない問いに、樺原は無言のまま、顔をそむけた。その仕草が、物事を雄弁に語っていた。樺原は、横手を病院に連れていっていないのだ。
なんて無責任な、と頭に血がのぼった理音であったが、貴海のほうは冷徹で、そのことを取り上げて横手に有利なように話をすすめていく。
 「樺原先生は、横手の病歴のことはいままでわたしに、いえ、職員会議でもなんの報告もなさらなかった。それは横手が安心だからと思っていたからでは? 横手のことはわたしも注意して見ていました。たしかに妄想癖があるようだが、決して狂暴な性質のものではない。横手が暴力をふるったのは、あくまで田端を助けるためです。それにあなたのお姑さんの状態も、横手の妄想を裏づける結果となってしまった。ちがいますか? お姑さんは心配でしょうが、警察に報せるのはもう少し様子を見てからでもよろしいのではないでしょうか。警察に連絡して表沙汰になることで、横手の将来に影響が出ることが心配です」
 「あんたねぇ、頭のおかしい生徒と、うちの痴呆の無力な老人と、どっちが危険っていったら、うちの義母のほうが身に危険があるじゃないですか」
 「頭のおかしい、とはなんです。ご自分の生徒でしょう!」
 「生徒の将来を心配してたっていうなら、こっちのほうがよっぽど心配してたよ! 職員会議で病歴のことを話したり、病院になんて行ったら、偏見もたれたらかわいそうだと思って、こっちはそのことをずっと隠してたんですよ! 恩を仇で返すとはこのことだろう!」
 「偏見をもたれたらかわいそうだというのは、あなたの独断に過ぎない。だいたい、生活指導担当のわたしにすら、なにも報告がなかったというのはどういうことです! これだけ職員がいるんです。横手のことを注意して見ていることができたかもしれない。それに、咎め立てをうけて当然とはいえ、無抵抗の女生徒に対し、鼻血が出るほど首を締めあげるというのはどういうことなんですか!」
 「それは……仕方のないことだろう。いきなり自分の家に、生徒が忍び込んでいたんだぞ。アメリカだったら撃ち殺されたって文句も言えない情況だ!」
と、樺原は鼻の穴をますますふくらませて、顔を真っ赤にして、掴みかからんばかりに反論する。
 「それにね、ああいった生徒が、思い詰めて刑事事件を起こした例だってこの学校にある! ほら、あんたのクラスの女生徒だって、交差点で同級生を突き飛ばしたとか、事件を起こしているでしょう!」
 「あれは事故です。それに、中学のときです」
 「ともかく、うちの義母になにかあったら、女房にだって合せる顔がない。なにかあったときには、責任を取ってくれるんでしょうねぇ! ええ?」
 「まあまあ、お二人とも、抑えて、抑えて」
と、努めて平常のままで、たれ目の広川学年主任が割って入った。
 「たしかに樺原先生のお姑さんも心配だが、アタシの経験から言わせてもらうと、警察に通報するまでには、まだ時間がありますよ。ここにいる職員総出で、横手を探したほうが早いです。それから、横手への対処を考えましょう。ね、校長。ほかの先生方も」
 さすが年の功。見事な中庸策である。ほかの教員たちをも巻き込んでしまう政治力。
ただのセクハラ親父と思っていたが、理音はすこし広川を見なおした。
 
「それはどうなんでしょう。みなさん、お忘れじゃないですか、先の盗難事件のとき、横手の下駄箱から、財布が見つかったこと」
 と、割って入ったのは、いままで傍観を決め込んでいた茂手木である。
サロンに通ってわざわざ焼いているという黒い肌に、金髪に近い色に染めた髪をモヒカンにしている。年令不詳で、派手な高級ブランドスーツを着込んでいる。
同じ高級でも地味に決めている貴海とは対照的な教師だ。
目鼻立ちが濃く、感情表現が豊かなことも対照的だ。伊達男で顔立ちも悪くないながら、生徒に人気がないのは、特に男子生徒への贔屓がひどいからで、ひそかにホモだという噂が流れている。
 「あれはなんとなく、うちのOBが全部したことのようになりましたがね、実際のところ、どうだったんでしょう。いま貴海先生は、見ている限りは大丈夫そうだった、とおっしゃいましたが、結局、あのときも貴海先生は横手に対して深く追求することもなくそのままにしておしまいになりましたよねぇ? その程度の観察で、横手が安全だと、判断できるんでしょうか。
だいたい、逆に言えば、貴海先生が観察してから、これもたったの一ヵ月ぽっちですよ。担任でもないわけですし。貴海先生の発言が原因で、警察への通報が遅れて、その間、なにか起こったら、どう責任を取られるおつもりです? ただじゃ済みませんよねぇ?」 
 「例の盗難事件は、犯人がすべて自白して、横手が潔白だと証明されております。だいたい、あの日に横手は犯行時間に授業に出ていたんです。それは会議でもきちんと説明したはずですが?」
 と、貴海。見ている理音のほうが、胃が痛くなってきた。
 「説明はありましたけど、こちらは納得しませんでしたよ。覚えてらっしゃるでしょう? もしかしたら、犯人が盗む前に偶然、横手が盗んでそれを自分の下駄箱に隠した可能性だってあったわけです。もう一度、きっちり調べようとわたしたちが言ったのを、貴海先生が取り止めにしたんじゃありませんか。言うなれば、今回のことだってそのときにきっちり横手を調べていれば、起こらなかったことですよ」
 矛盾している。
横手の中学のときの病歴を知りながら、それをほかの職員には隠していたのは樺原であり、茂手木なのである。
盗難事件の再調査の反論材料としても、そのことを持ち出さなかったのは、本当に思いやりなのだろうか。
 貴海のほうは、茂手木の反論に、少々言葉を失ったようだ。責任感のつよい性格が、裏目に出てしまっている。
茂手木はさらにつっこんでくる。
 「いいですか、横手は過度のストレスが昂じて、非常に精神が不安定な状態にあるんです。正常でない相手に、常識的行動を要求すること自体、すでに異常ですよ。こうしている間にだって、警察にお願いして、探してもらったほうがいいに決まっている。それから、生徒たちにも連絡網を回して、外出を控えるようにしなければ。
あなたはまだ教師になられて二年も満たないからご存じないでしょうが、樺原先生のおっしゃったとおり、生徒が刑事事件を起こす可能性というのは、他校だけの話じゃありませんよ。あなたのせいで、取り返しのつかないことになったら、どうするんですか。今度のことだって、きちんと責任を取っていただかねば。ね、学長!」
 
さっきから影の薄い学長は、困ったように貴海と茂手木と樺原の顔を見回している。丸顔に眼鏡で温和そうだが、学長というよりは、銀行の役員、といったふうだ。
ほんとど生徒と接する機会もなく、式典のときにほかの教師と一緒に演壇にいる姿を見上げるだけの存在だ。
学長は額にじっとり浮かんだ汗を拭きつつ、言った。
 「たしかに茂手木くんの言うことも一理あるが、しかしどうなのかね、学校としては。そもそも、そんな病歴のある生徒を入学させたこと自体、どうかと思うんだが」
 「病歴があったからといって、差別して門戸を閉ざすというのはどうでしょうか」
 言い争いで自身もヒートアップしているのか、意外にも貴海が素早くそれに反論した。
いや、してしまった、といったふうである。
職員の面々が空気が凍りついた。
反論された学長は、あからさまに顔をしかめて、貴海をにらみつけた。
 「でも現実にこういったことが起きてしまっているじゃないか! それともなにかね、きみはやっぱり一人で責任を取れる自信があるのかね。学校の名誉の問題だぞ」
 「やはり、警察に連絡したほうがいいのではないでしょうか」
と、おそるおそる、というふうに、樺原の手当てをしていた養護教員の佐野が口をだした。
 「なるべく表沙汰にならないようにお願いして……何事も起こらなければ、それがいちばんなわけですし。あの、雨咲警察なら、わたくしも知り合いがございますので、お力になれると思います」
 その発言から、一気に場の空気は警察に通報する方向に動きだした。
教頭が携帯電話を持ち上げたのを、貴海がそれを奪って、切った。
その思いがけない行動に、広川はじめ全員が驚いて貴海を見た。
 「どのようなコネがあれ、警察に通報するということは、外部に事情が漏れる、ということです。学校の名誉より、いま問題にすべきことは横手の将来のことでしょう! わたしは横手を信じます。いまなすべきは、われわれ総出で、横手を探すことです!」
 「若造が、生意気言うんじゃない!」
 今度は学長をも巻き込んで、大騒ぎである。
すでに論点は大幅にずれて、言った、言わない、生意気だ、そうじゃないといった押問答に突入してしまった。
 「きみのお父さんもお祖父さんもよく知ってるが、こんなふうに目上の者に対して、生意気な口をきくということは一切、なかった! この学校の教師であるということは、まず学校全体の名誉を守る教師である、ということだ。たった一人の生徒のために、騒ぎを起こすわけにはいかん! きみ一人の責任で済む問題じゃないんだぞ」
 「なんだってそんなに、横手という生徒を庇う必要があるんだね。それともきみは、自分の責任を誤魔化すために、警察を呼ぶのをためらってるんじゃないのか?」
 「若くて経験が浅い、ということを考慮しても、これは実際に問題が起こってしまっているわけだし……責任の取り方をいま考えてもらってもいいかもしれんな」
 学長をはじめ、教頭やほかの教員たちの声に、しかし貴海はひるむことなく、きっぱりと言ってのけた。
 「それなら、それで構いません。わたしもこの学院のOBでありましたが、このように、一人の生徒を学校の名誉などという空疎なもののために犠牲にするというのが学院の実態なのであれば、それを恥じることでしょう。そして教師であるということも、同じように自分の誇りにかけて、許せるものではない、ということになります」
 案の定、その言葉はますます火に油を注ぎ、学長たちは、腹をくくったのか、涼しい顔をしている貴海に対して、非難轟々である。
なにやっとんじゃ、このオトナたちは! 理音は大きく息を吸い込むと、とっておきの甲高い声で、叫んだ。
 「ひどいっ! 貴海先生をいじめないでっ!」
とたん、その場の全員の目が理音に向いた。
いままで、自分たちの議論に夢中で、理音の存在をすっかり忘れていたのだ。
理音は得意のぶりっ子ポーズで、大人なんてっ、という表情で目をうるうると潤ませた。
 「これがこの学校の本当の姿なの? ひどい、理音、お父さまに言って、転校手続き取ってもらう!」
 この突然の場違いな闖入者に、全員が唖然とした。
学長は、毒気を抜かれて目をぱちくりさせつつ、この子はだれなんだ、と誰何した。
すると、貴海がやはり冷静な声で答えた。
 「2年B組田端理音。田端珈琲チェーングループ会長の一人娘です」
 どよめきが起こった。
それもそのはず、理音の家は、この学校に巨額の寄付金を入れているのだ。理音はその額を父から聞いたとき、思わず「マジかよ」と突っ込みをいれて、こっぴどく叱られた経験がある。それほどの額だ。
この不況で寄付金が鈍りを見せるなか、田端家からの出資がなくなれば、かなり手痛いはずである。とはいえ、田端家の寄付金の趣旨は理音のためではなく、在校生をはじめOBやOGが多数従業員として在籍していることを考慮してのものだったが。
 理音はもう泣いちゃうから、というふうに嘆きながら、ちらりと貴海を見た。貴海は心なしか愉快そうに口元をほころばせている……ように見えた。
そして、動揺する教員たちに向けて、一枚の紙を掲げた。
それは、横手が下駄箱で受け取った、謎の手紙であった。
 「これは横手が受け取った手紙です。ご覧のとおり、どこかのパソコンから出力されたものでしょう。この手紙が横手を煽らせ、今回のようなことになったのです。これを横手に送り付けた人間は、今回のことは予想していなかったでしょうが……」
 と、ここで貴海は名探偵がそうするように、不敵ににやりと笑ってみせた。
 「この手紙はたいへんな証拠です。わたしは化学教師です。一見、どのパソコンからも出力できそうな文章ですが、インクの成分を分析し、送り主を特定してみせることが可能です。そしてこの送主こそ、横手を再び特異な被害妄想に陥らせた張本人ということです」
 はっ、として動揺する大人たちを尻目に、貴海はくるりと背を向けた。
 「先生、どこへ行くの?」
 「横手を捜しに行く」

理音はぶりっ子をやめて、すぐに貴海に適応した。
貴海の車の助手席に乗り込み、呆気にとられる教員たちを残して、銀のプジョーは発進した。
 「でもどこへ探しにいくの? 相手は車だし、だいぶ時間も経っちゃってるから、遠くに行ったかもしれないよ?」
 「横手は、おまえに『ブラック・サトーを倒しに行く』と言ったんだな?」
理音はこくりと首肯いた。貴海は慣れたふうに狭い道をスピードをあげて走っていく。
 「行き先の見当はつく。川だ」
川。
そう聞いて、理音は横手を育てたという祖母が、やはり樺原の義母と同じように痴呆で、川の事故で亡くなった、という話を思い出した。
最悪の結末が頭をよぎる。
運転席の貴海を見ると、やはりこちらも平静ではない。
きつく顔をしかめたまま、乱暴にハンドルを切っていく。
 「横手を信じるしかないな」
と、苦しそうに貴海は言った。理音もそれに頷くしかない。と、がくりと車が急停車し、目の前に自転車を引いた主婦の姿があった。
狭い道ゆえにスピードを出すと、脇道からの侵入者を避けきれない。軽自動車がやっとすれ違える程度の道、ふるい城下町の名残の道である。
地元の貴海もさすがに息を吐いた。
 「だめだ。おれもだいぶ煽られているようだな。田端、なにか話をしてくれ。気がまぎれる」
 「気が散って、横手くんを見付けられないなんてことに……」
 「大丈夫だ、おれが見ている」
 とはいえ、あまりに場違いな間抜けな話はできない。
理音は、ずっと手に持ってくしゃくしゃにしていたハンカチに目を落とした。
 「もうだめだね、このハンカチ」
 「そんなもの、また買えばいい」
 赤信号につかまった。
と、同時に貴海は上着を脱ぐと、理音に差し出した。
 「暑いかもしれないが、それで前を隠せよ」
横手にばかり気をとられていたが、制服もスカートも垂らした血がつき、それが黒ずみ斑点になっていた。木登りをしたときの汚れもついている。
貴海の上着をかぶりながら、理音はしょげてつぶやいた。
 「ごめんなさい、先生、いろいろ……」
青になった。
貴海はしかめた顔をわずかに柔らかくして言った。
 「過ぎたことを言っても仕方ない。それに状況が状況だからな。もしおれがその場に居合わせたところで、同じようなことにしかならなかったかもしれない」
 なぐさめてくれている、のかな?
 「かばっち、ひどいね。横手君を病院に連れていってなかったなんて。それに、最初にわたしたちが見た女のひとって、ヘルパーさんだったんだ。ヘルパーさんに頼んで、痴呆のお姑さんが動き回らないように、椅子に縛り付けていたなんて」
 「一種の介護ノイローゼかもな。それでもまだ終業時間じゃなかったのに、抜け出して様子を見にいってたんだ。まるで虐待しているのとは訳がちがうよ」
 「でもおかしいね。かばっち、横手くんがお姑さんの家の回りをうろうろしていたこと、いままで気づかなかったのかな?」
 「わからん。まだなにかあるな、いまは探っている時間がない」
 「でも先生、さっきちょっと格好よかったよ」
 理音がそう言うと、貴海は事もなげに肩をすくめてみせた。
 「思ったことを言っただけだ。まったくあの、クソ野郎ども!」
 と、同時に信号が青になり、車は乱暴に発進した。
 「なあ、田端」
 「なんでスか?」
 「おまえ、学校楽しいか?」
 ついこのあいだも家族団欒のときに、娘を心配する父親が口にした言葉だ。理音は当然のごとく即答した。
 「楽しいよ」
 「本当にそうか? おまえ、ときどき冷汗たらしながら無理に笑ってるような顔をしてるぞ」
 なんだってこの教師は観察力がやたらにすぐれているのだろう。
 「連中、学校の名誉とやたらと連呼していたが、特別進学科のOB・OGの就職先、どれだけあるか知っているか?」
 「就職先? うちとか……あ、でも正社員は意外と少ないなあ」
 「そうだ。特別進学科は、進学率は目を見張るほどに高いが、それから先の就職となると、事情ががらりと変わってくる。表向きは公務員がもっとも多く、そのあと一流企業というふうになってはいるが、実際はすぐに辞めてしまって、フリーターになったり、契約社員になったり、あるいはさしたる志もないまま大学に留まる人間のほうが多い。
これは普通科の生徒と比べても異常な数字だ。
問題は、特別進学科のシステムにある。一年を通して、勉強をさせるためだけに生徒の生活の安定を犠牲にしたシステムだ。このシステムについていくためには、クラスメートすらライバルになる。部活に打ち込むこともできない。
それでいて、成績上位の生徒には、奇妙なエリート意識が目立つようになる。一流大学に進学することがいちばんの名誉というふうになっている。しかし人生のゴールはそこじゃない。彼らはおまえがまさに言った『貯金』を貯められないまま、人生のいちばん物事を吸収しやすい時間を無為に過ごしていくんだ。
いまは実力社会だ。肩書きがいかに立派であろうと、実務能力がないものはどんどん淘汰されていく。年齢も学歴も関係ない。契約社員が正社員を追い抜くこともあれば、アルバイトばかりの店が正社員の経営する店の売り上げに勝つ場合もある。
プライドなどという身のないものにしがみついて、一生を卑屈に生きていく。そんな人間を作るために、おれは教師になったんじゃない」
 意外や意外……理音は貴海の本音に触れ、感動するよりむしろおどろいた。
クールで生徒と打ち解けない教師というのが、おおむねの貴海のイメージだったはず。しかし先程の職員同士のやりとりといい、いまの心情を吐露したセリフといい、もしかして熱血教師?
 それに、貴海が自分の言葉を、ちゃんと覚えてくれていたのがうれしい。
 「それ、みんなに伝わるといいね」
 貴海は肩の力を抜きつつ、ため息をついた。
 「さてな。生徒のほうはまだ望みがあるとして、大人のほうが問題なんだ」
 
理音は幼い頃から祖父や父のあとについて社内行事に参加していたので、ひとつの組織のなかで繰り広げられる出世争い、派閥争いが、どれだけまわりに影響をあたえるかよくわかっていた。
いかに力ある者にうまくアピールできるか、がすべての基本なのだ。
やっぱり、この人は出世なんてまるで望んでないんだ、と理音は思った。
さっきのことで、貴海が職員室で孤立する、などということがないといいが。
 「先生って、強いんだね」
 貴海はハンドルを握ったまま、苦笑した。
 「そうじゃない。さっきはおれも過剰に感情的になってしまったんだ。言い争いは、いかに相手をやっつけるかが主題になっちゃいけない。相手をとことん納得させなければダメなんだ。さっきのはただの喧嘩だよ」
 「そう? たしかに言い争いはしたけれど、結果的にいまこうして横手くんを捜しているんだもん。あんなとこでうざくざやってるより、よっぽど建設的だと思うけど? なんていうか、見ていて恐かった。ほかの先生たちって、世間体とか、名誉とか、責任がどうとか、そういうことばっかり言って、横手くんのことは二の次なんだもん」
 「大人の世界が、子供の世界に侵食しているんだ」
 「どういうこと?」
 「さっきの就職率のことも含めて、この学校に言えること。だれかがやらなきゃいけないことなんだ」
 「なにが?」
しかし貴海は口をつぐみ、もうなにも言わなかった。


 河岸公園には、テスト明けのせいか、学生も多く、子供や若い母親の姿も見える。散歩と中で木陰で休憩する犬の姿もある。一見して、夏の穏やかな午後の公園、といったふうだ。
川は陽光を受けて乱反射してかがやき、どくとくの湿り気のある空気が河岸のコンクリートで固めた部分から吹き上がる。
部活帰りで自転車を柵に止めたまま、スポーツドリンク片手に時間をつぶしている男子生徒たち、昼寝をするタクシー運転手、どこかの土木作業員。
そして……
 「先生、あそこにいた!」
 まさにビンゴである。
河岸公園の、まだ未整備の一角のベンチに、横手が一人、座っている。お婆さんはというと、どこかの子供たちと一緒に、かごめかごめをしてあそんでいるのだった。
 理音は力が抜けた。
佐藤宅の前でくりひろげられた、あの論争はなんだったのか。警察なんか呼ばなくてよかった。
となりにいた貴海も同様のようだ。空気の抜けた風船のように、肩から力を抜いて、つぶやいた。
 「なんなんだ……」
 まさに、なんなんだ、である。
あれだけ大騒ぎしたのが馬鹿馬鹿しく思えるほどに、平和で思わずなごんでしまう風景だ。
理音と貴海は顔を見合わせると、横手のほうに近付いていった。
 「横手くん、捜したんだよ!」
 しかし声をかけても、横手はまったく悪怯れるふうもなく、むしろ穏やかににっこり笑って答えた。
 「あ、先輩、おつかれさまッス! あ、鼻血止まったんスね。良かったッス」
 「本当に疲れたよ……ね、みんな横手くんとお婆さんのこと、すごく心配してるよ? 帰ろう?」
 と、理音。
 しかし横手は口元に涅槃の菩薩のような穏やかな笑みを浮かべたまま、ふたたびお婆さんに目を向けつつ、答えた。
 「もう少し。ブラック・サトーを完全にやっつけないといけないッス」
 理音は横手の視線の先、子供たちとあそぶお婆さんを見た。
子供たちの中にブラック・サトー? しかしお遊戯をしている彼らと、横手の言ったやっつける、という乱暴な言葉がまるで重ならない。
理音と貴海は顔を見合わせた。
 「横手、ブラック・サトーはどこにいるんだ?」
と、これは貴海である。その言葉に答えて、横手はあたりまえだ、というふうにすっと指をお婆さんに当てた。
 「あそこっス。でももうほとんど消えかかってます」
 「あのお婆さんが?」
 「ちがいますよ。あのお婆さんに巣食ってるやつのことッス」
 「ブラック・サトーというのは、個人や特定の集団を指す言葉じゃないのか?」
 その言葉に、横手は眉をしかめてみせた。
 「そうじゃないですよ。ブラック・サトーっていうのは形がないから恐いんじゃないですか。でもほら、見てください。どんどん連中、いなくなっています」
 うれしそうに横手は言う。
たしかに、お婆さんは、二階で籐の椅子に縛られて座っていたときより、いまのほうがよほど人間らしい。
子供たちの輪にまざって、一緒に唄をうたっている。その表情も、こけしのような曖昧な笑みではなく、さまざまに変化している。
 「やっぱり、人間は毎日、お天道さまを拝まなきゃいけないようになってるんスよ。ああやって、お天道さまに当たってれば、ブラック・サトーは出てこれないんです。ほら、お婆さん、楽しそうじゃないですか」
 そのとき、突然に理音は理解した。貴海も同様のようだった。
 「ブラック・サトーというのは、影のようなもの、なのか?」
 「そうッス。ブラック・サトーはいつもはおとなしくしてるんスけど、暗い家の影に隠れてて、お天道さまに遭わない日がつづくと、あらわれるおそろしいヤツなんス。うちのばあちゃんは、アイツに取り憑かれて死んでしまったんス。でもこのお婆ちゃんは大丈夫。いまおれが救ったんスから」
 かごめかごめの唄が途切れた。
『うしろの正面』を見事に当てた子供を、お婆さんが誉めている。
 「坊やはえらい、えらいねぇ」
 横手は得意そうに胸を張った。
 「ようやくブラック・サトーが消えたみたいッス。でも油断は大敵ッスよ。ヤツはまた、いつ出てくるかわからないおそろしいヤツなんス。おれを殺そうとするくらい、狂暴でもあるんスから!」
 あまりに唐突で過激な言葉に、理音も貴海もぎょっとして横手を見た。
 「殺す?」
 「そうッス。ブラック・サトーに支配されると、人間は死にたくなるらしいッス。うちのばあちゃんはブラック・サトーに支配されて、おれを川におびき寄せたッス。それでおれは水に沈められました。
でも不思議なもんです。最初はめちゃくちゃ苦しかったのに、突然、ぱあっと光が差したんですよ。息も苦しくなくなって、逆に気持ち良くなったんス。水の中から、水面の光がゆらゆらと揺れているのを見て、きれいだなあと思っていたら、お天道さまの力ですかね、ばあちゃんはブラック・サトーの支配から逃れて、おれを水から引き上げて、「すまねえ、すまねえ」って何度も謝るんスよ。
おれは謝ることない、きれいなもんを見たから、って教えたんス。するとばあちゃんは、それはおれが赤ん坊のとき、お風呂に入れてもらったときの記憶じゃないかって言ったンスが、おれは絶対に前世の記憶だと思うんス」
 と、興奮気味に、しかし楽しそうに、おそろしく悲しい思い出を、横手は語るのだった。
 
理音はもう言葉が出なかった。
同じようにして立ち尽くす貴海とともに、しばらく横手とお婆さんを眺めていた。
そして日が暮れかけたころ、子供たちが帰ってしまったので、お婆さんは満足して横手のほうにやってきた。そして言った。
 「ありがとう、タケ坊。さあ、もう暗くなるから帰ろうか」
 タケ坊? どうやら、お婆さんは横手をだれかと勘違いしているようだ。
もしかしたら……理音は手紙を落とし続けたお婆さんのことを考えた。
お婆さんはお婆さんで、囚われのお姫さまのような気持ちでいたのかもしれない。そうしていちばん助けに来てほしい相手と、実際に妄想につき動かされて助けにきた横手を重ねたのだ。
 「世界の縮図だな」
とぼそりと貴海がつぶやいた。
理音は、満足そうに手をつないで立ち上がった二人に、車で送っていくからと言う貴海のうしろ姿を見ていた。
名前を呼ばれて自分もあとにつづいたが、まるで現実の世界にいるとは思えなかった。
町のスピーカーが、『家路』の哀しげなメロディを夕焼けの河辺に流す。きらきらと河辺がオレンジ色に輝いて、理音の現実感をますますあやふやにさせた。
 

 結局、理音の『転校するかも』作戦はかなりの効果をおさめ、この件の警察への通報は取り止めとなった。
樺原の怒りは解けず、生徒の冷やかしもなんのその、抗議するかのように頭に包帯を巻いて登校しつづけた。
貴海のほうはといえば、相変わらず生徒たちの前では厳しく冷淡な教師でありつづけている。
横手のことは、噂にもならず、そのまま夏休みがやってきた。
 
そうしてブラック・サトーは消えた。しかしまだまだ油断はできない……


 夏休みの近いある日、理音は貴海に化学準備室に呼び出された。
横手のことであろうとは、すぐに想像がついた。横手はあの日以来、ずっと学校を休んでいる。
 「横手くんの様子は?」
 「問題ない。いまは集団セラピーを受けているが、めざましい回復ぶりだそうだ。期末考査の成績も、精神状態の悪化を示す顕著なものはなにもなかった。D組行きは決定だが、まあちょうどいいだろう。樺原先生とすこし距離を置いたほうが、あいつのためだ」
 理音は意外に思った。いままでの私立雨咲名望学院の方針だと、深刻な問題を起こした生徒は即、放校なのである。それが顔に出たのだろう。貴海は言った。
 「きみの最強の切札にばかり頼っていてもなんなのでね、おれも自分の最強の切札を切ってみたんだ」
 「先生の最強の切札?」
 「総理事長を動かしたんだよ。あの人が諾と言えば、すべてがその方向に動く」
 「総理事長……植草代議士の奥さんのこと? ああ、そういえば、先生のA組に、代議士の息子さんがいるね。それで?」
 「まあ、それもあるが、ほかにもいろいろとあの家にはつながりがあってね。ところで樺原先生のお姑さんのことだが、今回のことで親族会議が開かれて、お姑さんは、長男夫婦が引き取ることになったそうだ。その長男の名前は、佐藤武彦(たけひこ)」
 「あ、タケ坊!」
 「結局のところ、横手はお婆さんのために本物の救い主を連れてきたことになるな。すこしでも痴呆が良くなるといいんだが」
 「とりあえず、横手くんにとってはいい話だよね。でも、あの手紙を下駄箱に入れたのはだれだったの? 盗まれた財布のこともそうだし……」
 「それだ。それだけがわからない」
 「先生、みんなの前で分析できる、って大見得切ってたじゃない……」
 「ばか。あれはあくまで引っ掛けだ。ああいうことで、だれかが動揺しないかと思ったんだが、結果はいまひとつだったようだ」
 理音は驚いた。過剰に感情的になってしまったと本人は言っていたものの、その中でもきちんと冷静にそんな策略までめぐらしていたとは。
 「先生は、教師のなかに横手くんを追い詰めた人がいると思ってたんだ?」
 「思い当ることがあってね」
と、貴海はつづきを言おうとしたが、理音が身を乗り出すと、ぴたりと動きを止めた。
 「危ない。どうしてこう口が動くんだ」
 「え? 教えてくれないの? 横手くんのことで、鼻血は出すわ、首を絞められたときの痕はあざになるわで散々な目にあったわたしなのに、除け者?」
 「子供は子供の世界のことを考えていればよろしい。まったく、夏休みの計画はきちんと建てたただろうな。今回、成績がよかったからといって油断するな」
 と、理音は身を乗り出した。
 「そうだ、先生、A組の子が学校辞めるんだって? ねぇ、そうなるとだれかBから上がるんじゃない?」
 しかし貴海はつれなく答えた。
 「たしかに事実だが、きみではない。きみの場合、数学は学年で一位という輝かしい成績だが、国語がいかん。目上の者に対する敬語がなってないのもその証拠だな。夏休みはたっぷり勉強をしてくるように!」
 見事に薮蛇だったようだ……


 「田端!」
貴海とたのしく(?)おしゃべりしたあとで機嫌のよい理音は、廊下で沢登に呼び止められた。
手にプリントを持っていて、それをぱっと差し出してみせた。
 「みろよ、おれ、今度C組に上がれるんだぜ!」
 「ええっ、すごい!」
たしかにすごいことだった。
沢登はD組でも後のほうの成績で、このままだと落第だと自分でもぼやいていたからである。それが一気にC組へ、つまり30人もの成績を追い抜いて、ということになる。
誇らしげな沢登に対し、理音は素直にベタぼめした。
 「うれしいぜ、やっぱ努力には結果が出るよな」
 「うん。本当にすっごいよ。よかったねぇ。理音、尊敬する」
 「やっぱ、目標があったからだよな。やる気がちがうっていうか」
 「目標をきちんと建てるなんて、えらいねぇ」
 「そりゃあ、やっぱり一度きりしかない学園生活だぜ。充実させたいし」
 「そうだよねぇ」
 「その、お願いがあるんだけどさ」
 「なあにぃ?」
 「あのその、えーと、おれが、B組に行けるまで、おまえもB組にいてくれよな」
 「えっ?」
 「いや、言いたいこと、それだけ。それじゃ!」
 沢登は、蟹のように顔を真っ赤にさせて、短距離選手らしく軽やかに去っていった。
まーだあきらめない沢登の粘り強さもたいしたものだが、その一念で学力をも向上させてしまう前向きな精神もすばらしいものである。
感心している理音だったが、ふと、凶悪な視線を感じた。
イヤな予感がして振り返ると……
 柱の影に、はるかがいた。
理音と目が合うと、剣呑な目で、怨念の篭もった震える声で、言った。
 「理音ちゃん、お願いがあるの」
 「な、なあに?」
 「理音ちゃん、C組に行って」
 「え?」
 「沢登くんがかわいそう! だからC組に行って!」
 それだけ叫ぶようにして言うと、はるかは立ち去っていった。泣いていた、と思う。

人がA組に行きたいと努力しているなか、B組にいてほしいという者もあればC組に行ってほしいという者ある……ああ、神様、キキカイカイを心底、応援します。ですから、この学校のシステム、本当になんとかしてください……