B.B.の世界

神田川のない街で

 プールである。とはいえ、ただの水遊びの場になりがちな私立雨咲名望学院特別進学科において、田端理音は見事なフォームでクロールを披露し、クラスでも1、2を争うタイムで50メートルを泳ぎ切った。
 ゴールに辿り着いたとき、クラスメートから称賛の拍手が起こった。
 「すごいねぇ、理音ちゃん。去年まで、泳げなかったのに」
 そう、去年まで泳げないフリをしていた。水辺で足先を濡らしてバタアシをしながら、泳ぎたいとうずうずする気持ちを抑えて、ひたすらほかの泳ぐ気のないクラスメートとおしゃべりをしていたのが去年までの理音。今年はちがう。
 「ありがとう、理音、一生懸命、練習したから」
と、やはりこれは相変わらずのぶりっ子声で言いながら、表情は、はつらつとして、自信満々である。そしてそのまま、水泳キャップを取った。と、ぽんと湿った手で肩をたたく者がいる。いや、遠慮して肩をこついた、というふうだった。濡れて敏感になっている肌の一ヶ所にかたい感触が残る。振り返ると、まわりの友達にひやかされながらも、勇気をだして近づいてきた沢登であった。日焼けした精悍な顔が、一層ひきたっている。
 「なんか調子いいみてぇじゃん、なんつーか、髪切ってから」
 最近、理音は髪を切った。以前のぐるぐるカールのセミロングはもうやめて、顎のラインに合せてばっさりと。もともと大きく広がりやすい髪質なのだが、小さな顔にいつもより心持ち上げたスカートの裾とのバランスがうまくとれて、いままでとちがった活動的な雰囲気がでるようになった。みな、理音の印象が変わってきたのが、髪型のせいだと思っており、評判はあまりよくない。しかし理音は気にしない。嘘つきよりもそのほうが数倍いいからだ。
 「理音ちゃん、その髪のゴム止め、かわいいね」
クラスメイトに誉められて、理音はにっこり笑った。スワロフスキービーズをあしらったガーネット色のゴム止めである。理音の髪の色にぴったり映えて、七月の太陽にきらりと光る。水に下半身を浮かせながら、理音は化学準備室のほうを見上げた。もちろん、授業中なのでそこは無人であるし、いたとしても、こちらを見ている保証はない。しかし理音は心の中で思った。
 『見てよ、キキカイカイ。ちゃんとこれ、つけてるんだからね』
 そう、このゴム止めは、理音が貴海の前で泣いた翌日、『パネルのお礼』という素っ気ないメッセージと共に下駄箱に入っていたものだ。どうやらデートのついでに買ってきたものらしい。そのシチュエーションは気にいらなかったが、どんな顔をしてカノジョに事情を説明しながら買ったものやら。それを考えると、おかしくて、素直にうれしくなった。
 あれ以来、なんとなく気まずいために、理音は貴海と顔を合わせるのを避けている。貴海が教科担当ではないために、気をつければ、何週間も顔を合わせないですむのだ。たまに学年集会や全校集会で見かけるが、なにか理由をつくってでもない限り、言葉を交わすこともない。しかし、かといって貴海の顔を見たくないほど嫌っているというのではなく、屈折した心理で、最近は、ずっとこのゴム止めで髪をまとめているのだった。
 そして、あれ以来、なんとなく下駄箱を開くたびにドキドキする。通販でかわいい消臭グッズを買って、それを下駄箱にいれた。しかし、期待むなしく、下駄箱はなんの便りもよこさない、ただの靴を入れる場所である。
 それにしても……と、理音は思う。
犯人は捕まり、一件落着した盗難事件だが、気になることがまだ残っている。貴海は、盗んだ財布を犯人が
 「ごみ箱に捨てた」
と言ったという。しかしじっさいに財布が見つかったのは、一年C組の横手吾郎の下駄箱なのだった。財布がごみ箱は臭いからと、すこしマシな下駄箱にひとりでに移動するわけはなし、いったい、どういうことなのか。
 横手吾郎の自殺未遂というのも気になっている。学年も違ううえに、教室も離れているので、ちょくちょく様子を見にいくというわけにはいかないが、移動教室で余裕があるときや、手持ち無沙汰なときなど、理音はC組を覗くようにしている。ただちょっと見ただけでは、横手吾郎の様子は変わったところはない。むしろ、あの汚れたプールの水面に、ラッコのようにぷかりと浮いていたのがウソのように思える。
 同じ一年C組の河村杏樹に、バイトのときなどに様子を聞くが、やはり奇矯なところはないようだ。
 「横手くんって、ちょっととろいところもあるけど、フツーの男の子ですよぉ。友達もいるし、休み時間なんか、プロレスごっこやって遊んでます。ガキですよねぇ。でもでも聞いてください、先輩。横手くん、一時期すっごく元気なかったんですよ。ほら、例の盗難事件のあったころ。そしたらね、貴海先生が、普通科に話をつけてくれて、横手くんは特例として、普通科の水泳部に入れることになったんですぅ。ほら、うちって水泳部ないじゃないですか。貴海先生って、ちょっと厳しすぎるかなあと思ってたけど、そういうフォローばっちりするなんて、ニクイですよねぇ。もー、やっぱ格好いいですぅ」
 カウンターの後ろでは、沢登がつまならそうにぼやいている。
 「なんかおまえら、最近、横手とキキカイカイの話ばっかりしてねーか」
 そうなのだ。テニス部でも最近、貴海は復権し、以前のように「貴海センセ」と甘い声をだして噂する生徒が目立ってきた。気が付くと、理音はその輪のなかに加わっている。
 積極的に話題に入るというのではなく、みんなの話をじっと聞いて、情報収集につとめている、というふうである。はるかも敏感にその変化に気づき、鋭いところをついてくる。
 「なんだか理音ちゃん、髪の毛切ってから、ずいぶん変わったみたい。もしかして、この間、泣いていたのと関係あるの?」
 自分は貴海にかなり関心があるらしい、というのを、理音は認めつつある。しかしこれが、テニス部の仲間や、あるいは河村杏樹のように、見てくれや雰囲気だけにつられてのものではないこともわかっている。だから話の輪に入っていても、純粋にその情報に一緒になってきゃあきゃあ言うことができない。どこかで実像とずれていることに気づいているからだ。
 貴海はみんなが言うような、端正そのものの男ではないことを知っている。いつもクールというわけではないことも知っている。仕事ができて出世の鬼というのも、どこか的外れだと知っている。しかし、では実際にどうなのかと自問しても、理音は知っているすべての像をひとつに結びつけることができない。貴海は多面的で、複雑なのだ。理音の二重人格を見抜き、本音を「嘘つき」と言い切った。つまりそれは、貴海自身の洞察力もあるだろうが、それだけではなく、彼も自分と同種類の人間だからではないのか……と、理音は考える。となれば、自分のこの関心の高さ、そして不思議と、貴海の前ではなんの抵抗もなく、普通の自分でいられることの説明がつく。
 と、同時に、この気持ちが厄介なものだということも、理音は気づいている。いまはただ、関心だけだからいい。しかし、あんまり接触していくうちに、どんどんのめり込んでしまいそうな自分がいて、それがおそろしい。
 
 「あー、わたしって可愛くない」
と、理音はぼやいてみせた。
 まわりにはだれもいない。雨上りの学校の裏手にある、石畳の坂の道だ。片手にカメラを持ちながら、理音は道の両側に鈴なりになっている紫陽花をながめている。この坂道は、雨咲町屈指の高級住宅街でもあり、かつての雨咲藩藩主の子孫の広大な屋敷もこの一角にある。道は整備されほとんどゴミがなく、被写体にはもってこいだ。隠れた名所なのだが、道が狭くあまりに引っ込んだところにあるため、観光バスが止まるようなことはない。たまに地元の老人会がここでスケッチ大会や俳句大会を開いている。
 将来を見通せるほどに賢く、きちんと理性を働かせることができる女というのは、そもそも熱くなれないように、そういう性質に出来上がっているのかもしれない。
 「失うものもあれば、得るものもあり」
と、これは理音の祖父が常々口にしていた言葉だ。人間万事塞翁が馬、というのが理音の祖父の座右の銘だった。
 キキカイカイのことを考えるのはやめよう。
そう思いながらも、こうして紫陽花をファインダーに納めながら、うまく撮れたら見せにいこうなどと思う自分もいる。
 「ダメだ、もう葉っぱが黒くなってきちゃって」
 紫陽花は花(正しくは額)だけ見るといまが盛りのようであったが、爛熟しきっており、葉っぱは黒ずみ、理音好みの清々しさがなくなっていた。せっかく雨上りを狙ったのに、いまの紫陽花は、おいしいが見た目がよくない熟し切ったバナナのようだ。
 ふと、理音は、紫陽花の坂の脇に入ったところに、日陰になって、紫陽花の時期の遅れている一群があったのを思い出した。あそこなら、まだ葉っぱもきれいなままかもしれない。移動してみると、うまい具合に紫陽花はまだ熟し切っていなかった。いちばんきれいな花ぶりと、手のひらをいっぱいにひろげているようなみずみずしい葉っぱを見付け、理音はそれをカメラに納めた。ふと、紫陽花の横の橘の木に、ちいさな可愛らしいかたつむりがいるのを見つけた。やらせか? とつぶやきながら、理音はそれを紫陽花の葉っぱに乗せて、もう一度、撮影した。
  見上げると、さらさらと誘うような涼しげな枝振りのニレの木があり、理音はそれもカメラに納めた。若いしなやかな枝を風にそよがせる柳と、その隣にいい風情の灯篭があるのも見つけた。理音はそれも撮った。ふと、足元のお手水の脇にある菖蒲の剣先に、脱皮したばかりの青白いかまきりが、こちらを見て威嚇している。これもまたチャンスと見て、理音は撮影した。
 思い通りのものが撮れた。しかし……と、理音は周囲を見回す。
 路地だと思って入ってきた道だが、石畳ではなく砂利道だし、木々の配置もどうも人工物っぽい。それに表とはちがう色の砂壁。もしかして、ここは私有地?
 そのとき、理音は雨上りの、さわやかさと湿り気を半ばとする空気のなか、信じられないものを見つけた。真っ黒い幹に、巨大な蛹が巻きついている。いやいや、そんなバカな。
どこかの洗濯物が木に引っ掛かっているのではないか。しかしそれは具体的な厚みを持っていた。真っ黒い、大きなカタマリ。それは理音の気配を感じて、もぞりと動いた。
 「ギャア!」
 と、これは理音の声ではない。そのなぞの黒いカタマリから発せられたものだ。理音はというと、しっかりその手はシャッターを切っていた。それは、真っ黒い上下のスエットスーツに、目だし帽という犯罪者丸出しの格好をした若い男だった。変質者。理音が身構えると、目だし帽の男は泣きだしそうな顔をして木にしがみついたまま、蝉のようにわめいた。
 「あんまりッス。田端先輩、ブラック・サトーの仲間だったんスね!」
 聞き覚えのある声に、理音はさっきより驚いた。横手吾郎の声だ。
 「なにやってんの、あんた!」
 「ブラック・サトーに語る言葉はないっス。すべてわかっているくせに、白々しいッスよ!」
 話がさっぱり見えない。理音が呆然としていると、童顔のくせにがっしりした体格を持つ横手は、するすると木から下りてくると、目だし帽を脱いだ。
 「こうなったら仕方ないッス。正正堂堂と勝負しましょう!」
 「なんのためによ。ちょっと、近づかないで!」
 「仲間がいるのは、わかっているんスよ!」
と、横手はすっ、と理音の背後にある、古い砂壁に囲まれた、木造のこじんまりとした二階建の家を指差した。赤い屋根の、古いが手入れの行き届いた、少々モダンな日本家屋である。玄関の幾何学模様の格子戸と、その横にある丸い窓が特徴だ。木に隠れて見えなかったが、表札には「佐藤」とある。そして、わかりづらいものの、石畳の道から砂利道に入った時点で佐藤宅になっているようだった。
 「さあ!」
 「やめてよ、マジで警察呼ぶわよ!」
と、理音は後退りながら携帯電話を取り出した。その指が、1を二回押したところまで来て、真剣そのものの横手の顔が、ふたたび理音の背後を見て強ばった。理音もつられて振り返ると、レースのカーテンで閉ざされた二階家の窓に、人影が映った。すると、横手は理音の手を乱暴につかみ、木立の影に引き寄せた。なにするの、という暇もなく、緊張した声で横手はささやいた。
 「静かに! あの人が来た!」
影は窓辺に立ったきり、ぴたりと動かない。レースのカーテンと薄曇りの天候のせいで、そこにどんな人物がいるのかさえ見当もつかない。こちらを見ているのだろうか。
 「先輩に謝るッス。先輩は、ブラック・サトーの仲間じゃなかったんスね」
 「だからなによそれ。黒砂糖?」
 「ちがいます。悪の組織ッス。オレは山形にいた頃から、連中と戦って来たっす。前はすんでのところで取り逃がしましたが、今度は失敗しません!」
 理音はかつて、横手がプールにぷかりと浮いていた様を思い出し、そしてまた貴海が言っていた自殺未遂の話を思い出しぞっとした。ここは刺激しないほうがいいかもしれない。
そう判断した理音は適当に話を合わせることにした。
 「悪の組織ってなに? 具体的になにをするところ?」
 「ブラック・サトーは全国にまたがる悪の組織ッス。それこそありとあらゆる悪さを平気で行なうおそろしい組織なんスよ。見てください、あそこもブラック・サトーの支部です。あそこの二階にいる人は、気の毒に連中に閉じこめられているんスよ」
 理音には閉じこめられている、というより住んでいるというふうにしか見えなかった。
 「なんで閉じこめられているなんて思うの?」
 「見てください、ホラ!」
 しばらくすると、からりと窓が開いた。手首がようやく出る程度だ。中にいたのは女性らしい。時代がかったレースの手袋をはめている。手には紙を持っており、それがしばらくして、はらりと落ちた。するとそれが合図だったように、ぱっと茂みから横手が飛び出し、ゆらゆらと頼りなく揺れ落ちる紙を取った。そしてまるで犬のように、理音のところにすばやく戻ってきた。
 「取りました。見てください」
 見ると、おどろいたことに紙にはこうあった。
 『助けてください』
不意に、空から声が降ってきた。二階屋の開いたすき間からである。甲高い女の声だった。
それが抑揚のない一辺倒な声で叫んでいる。それは不明瞭ながらこう聞こえた。
 「ぼうやー、ぼうやー」
 その声を聞いて、となりにいた横手が心底くやしそうに、うめいた。 
 「畜生、ブラック・サトーめ!」
 理音はというと、雨上りの午後にいきなり巻き込まれた不条理の世界を前に、なすすべもなく呆然とするばかりであった。

 化学準備室に入る前に、ふと気づいて理音はゴム止めをはずした。手櫛で髪を整えると、自分にまよう隙を与えないようにして、一気に扉を叩き、勢いのまま、名乗った。
 「2年B組14番、田端理音、入ります!」
 貴海はめずらしくカラーシャツに白衣という出で立ちだった。小テストの添削をしていた途中だったらしい。赤ペンを持ったまま、椅子ごと振り返った。
 「どうした」
と単刀直入に貴海は言った。理音は後ろ手で扉を閉めて、しかしそのまま動けなくなってしまった。ほとんど一日中考えていたあいさつの言葉が出てこない。
 朝から小雨が降ったり止んだりをくりかえしていた。斜めに雨が走っているのが窓越しに見える。ちらりと見えると、以前、理音が贈った瑠璃色の鳥のパネルが違和感なく、ちゃんと壁にかかっていた。
 「ええと、ええと、色々あるんですが」
わたしはバカか? 理音は、貴海がそのいかにも神経質そうな眉をきゅっとしかめたので、てっきり「用件はきちんと整理してから切り出すように」とかなんとか言われることを想像したのだが、しかしそうではなかった。
 「まず、座りなさい」
 医者に診察を受けにきた患者のようだと理音は思いながら、素直にそれに従った。理音が座っているあいだ、貴海は机にひろげた小テストを片付けていた。気配りの人だ。そして理音のほうを振り返るなり、手でかるく理音の髪をなぜるように払った。
 「癖が残ってるぞ」
 手櫛はうまく効かなかったらしい。理音は照れかくしに大振りに貴海の手をのけた。
 「そういうのはいいです。というか、わたしのことじゃなくて、横手くんのことで、先生に相談があるんです」
 横手の名前が出てからは、理音の舌はなめらかだった。そうして、雨あがりの午後の顛末を一気に貴海に話して聞かせた。話しているうちに理音も冷静になり、ようやくまともに貴海の顔を見ることができるようになった。
 貴海は、最初は片手でぷらぷらと赤ペンを揺らして理音の話を聞いていたが、次第に固まり、しまいには指先をくちびるとあごに当て、深刻な顔になってしまった。
 「あのー、マズイですよね、これって」
 「それ、だれかに話したか?」
片手を胸のあたりで組み、もう片手を唇と顎に当てた姿勢のまま、貴海はたずねた。理音は首を振った。
 「言ってません。というか、言ったところでだれも信じてくれませんって。先生、ブラック・サトーって、本当にあるんですか?」
すると貴海はその姿勢のままぐらりと横に傾いだ。そしてうめくように言った。
 「田端、おまえ悩みでもあるのか」
 「はあ?」
 「ブラック・サトーなんて組織、あるわけないだろう。横手の妄想だ。きみまで巻き込まれてどうする。冷静になりなさい」
 「ええ? だって、もしかしたら、あるのかもなーって、ちょっと思ったりしただけなんです。『助けてください』なんて紙まで降ってくるし」
 「その紙がどういう趣旨のものかは判断しかねるが、ブラック・サトーに関しては断言できる。んなもん、ない。落ち着け! いや、ちょっと待ってろ」
と、貴海は立ち上がると、かつては空っぽのスチールの棚しかなかったところに、ホットプレートと茶色の液体の入ったビーカーがある。化学準備室の私室化は確実に進んでいるようだ。貴海は職員室にも置いてある、来客用の茶わんをふたつ取り出して、液体を注ぐと理音に差出し、自分も飲んだ。
 「なんの薬品ですか、コレ」
 「カモミールティーだ。乱れた神経がすこしはまともになるだろう」
 と言いつつ、貴海は軽いため息をついた。
 「いいか、今度横手がわけのわからんことを言っても、決して同調してはならない。妄想というのは、相手を得るとどんどん膨らむ性質を持つ。つまり、横手の精神状態を悪化させてしまうんだ。精神科の医者が、たまに陥る同調現象だ。ほんとうに、悩みがないんだろうな?」
 と教師の言葉をつむぎつつも、以前のことを思い出したのか慎重になっている気配が伝わるのが妙におかしい。理音はハーブティーを飲みながら答えた。
 「あれ以来、先生にいじめられてもいませんし、平和なもんですよ」
 貴海の顔が紅潮したが、理音のチェシャ猫のような笑みにぶつかると、すっとそれは消えた。
 「大人をからかうんじゃない。それよりいまは横手のことだ。まったく、専門医への通院は樺原先生が請け負ってくれたし、水泳部に入部してからも、問題があるようには見えなかったのに」
 「先生も大変だね。二年の担当なのになぜか一年の面倒までみなきゃいけないなんて。かばっちが横手くんのお医者さんの世話をしてるんだ。で、先生が水泳部の様子も見に行っってるんだね……」
と、言い掛けてようやく理音は思い出した。普通科の水泳部の顧問は、ほかならぬ増峰千夏。なんのことはない、貴海の恋人ではないか。急にばかばかしくなってきた。
 「先生、プライベートの充実もいいけど、ちゃんと仕事もしなきゃ」
 「なんだ、いきなり」
 「別に。わかんなきゃいいです。それより、相変わらず殺風景な部屋だよね。カノジョの写真でも置いたら? とりあえず、カモミールティー、ごちそうさま。さいなら!」
 背後で待ちなさい、とかなんとか貴海が言ったようだったが、理音は無視して部屋を出た。現実というのはひたすら味気なく容赦なく、まったくもっておもしろくない。
 「ありゃ」
と、すっとんきょうな声がした。見ると、2年B組の担任、広川学年主任である。中肉中背のたれ目の中年教師で、萩本欽一にすこし似ている。怒らせると怖いが、普段は話のわかるひょうきん者で生徒の人気も高い。
 「田端、貴海先生に用事があったんか?」
 いつでも腕に黒いウォームワーカーをしている広川は、めずらしそうにじろじろと理音を眺めた。理音はすかさずスイッチを切り替えた。不機嫌に尖った目は、満月のごとく真丸く、への字にまがった口は、すばやく半月に。
 「はあい。化学のことで、先生にちょっと質問があったんですぅ」
 「あー、そうか、おまえも貴海先生のアレかあ。たしかに爺さんの菅原先生より、若い先生に質問したほうが勉強にも張りがあるよなあ。いいなあ、若くて格好いい先生は。なー?」
 だまれオヤジ。
 「広川先生は、こーんなところで、どうなさったんですかあ?」
 「オレか? おれも貴海先生にちょっと質問だよ。じゃな、田端」
言いざま、広川は理音のお尻を軽くはたくと、笑いながら化学準備室へ入っていった。いつかあのセクハラを繰り出す腕を、ねじり鉢巻きのようにするのが理音の夢だ。
 「くそオヤジ、いつか殺す!」
 触られたところをさすりつつ、いろんな怒りを抱えたまま、理音は立ち去った。


つづく…