B.B.の世界
サンフランシスコ条約 その2
事件が持ち上がったのは、お昼休みの始めであった。
一年生のC組の生徒たちの、財布がなくなっていたのである。
彼らはちょうど体育の時間で、盗まれたのは、ロッカーに貴重品を入れなかった生徒ばかりだった。
緊急に一斉持ち物検査が行なわれたが、紛失した財布は、ついに発見されなかった。
「超ムカツク。なんだって、あたしたちが疑われなきゃなんないの?」
「どうもまた、キキカイカイのヤツが言い出したことらしいよ」
持ち物検査の成果は、財布に限ってはあがらなかったものの、抜き打ちだったため、かなりの生徒が、校則違反の品々を没収されて、ぴりぴりしていた。
理音も、お気にいりのフレグランスを没収されてしまった。
D組のほうでは、ひときわ騒ぎがひどいので行ってみると、女子たちを中心に、騒ぎの輪ができている。
覗いてみると、真ん中で、はるかが泣いているのだった。
「どうしたの、なんで泣いてるの?」
理音の姿を認めたはるかは、その名前を呼びながら、理音に抱きついてきた。
「理音ちゃん、あたしどうしよう、ごめんね」
「なあに? なにがあったの?」
「ラケットにつけてたマスコット……今日は手作りの理音ちゃん人形だったのに、先生が、こういう勉強とは関係ないものは没収! って、もってっちゃったの」
「没収物は即、焼却炉行きだからね……」
と、同情たっぷりにD組の女子が言った。
理音は、人形の自分が火にくべられる光景を思い浮べて、ぞっとした。
あまりいい気持ちはしない。それにしても……
「くっだらねえ、たかが人形じゃねぇか」
と、聞いていた沢登が言った。
とたん、D組女子が反発する。
「ひっどーい、手作り人形だよ。そこいらに売ってるフツーの人形と、一緒じゃないんだからね?」
「これだからサルは!」
ひどい言われようだが、本音のところは沢登と一緒であった理音は、口にしなくてよかったと心底、ほっとした。
沢登は、いささかヒステリック気味になっている女子の輪から、逃げ出していった。
「はるか、いつそんな人形作ったの?」
「お友達みんなの手作り人形を作ってあるの。でもどうしよう。理音ちゃん人形を持ってきた日に限ってこんなことに……」
はるかのことだから、家には自分と沢登の人形もあって、それは特別な場所に置いてあるのだろう。
一日の出来事を仏壇にするように、人形に話しているにちがいない。
「泣かないで、はるか。わたし全然気にしてないから」
「うん……ありがとう、理音ちゃん。あたし、今度はもっと気合い入れて、理音ちゃんの人形を作り直すからね」
その人形は、今度はどんな目に遭うやら。
しかし理音はにっこり笑って、
「うれしい、理音、楽しみにしているね!」
と答えたものだ。
そうして泣いていたはるかも、ようやくにっこり笑った。
D組から出た理音は、どっと疲れを感じた。
どうしてあそこで「そんなもん、作らなくていいから」と、きっぱり言えないのだろう。
はるかの親友だと思っていた頃は、ああいった、はるかの屈託のなさも、愛敬と思って、まるで苦痛に思わず、付き合っていられたのに。
そうなるといまは、自分は親友と思っていないことになる。
いやいや、親友じゃないと言ったのは、はるかのほうだった。
春休み、梅のほころびはじめた公園にいきなり呼び出された。
雪柳が風に揺れる、寒い一日だった。
「理音ちゃん、沢登くんに、告白されたの?」
鉛のごとく重い空気。それでいて火花がばちばち散っているような、緊張感あふれる雰囲気。
伝導体を流れる電気のように、はるかが怒っているのが伝わってくる。
自分はいったいなにをしてしまったのだろう。
はるかの次のことばをじっと待っていると、はるかは、いままで見せたことのない、怒りのこもった冷たい目で理音を見た。
「理音ちゃんは、あたしが沢登くんが好きだってこと、気付かなかったの?」
青天の霹靂。
ぜんぜん気付かなかったと、理音は正直に告白した。
だいたい、理音とはるかの間で、男の子の話が出たことは一度もない。
これはストイックな理音が、そういった話題を好まなかったせいもある。
思い当るといえば、部活が終わったあと、コートを片付けていると、かならず沢登が一緒に手伝ってくれたのだが、そのときの、もじもじしたはるかの様子……
「親友なら、気付いてくれていると思ってた。ひどい」
そんなの、はっきり言ってもらわないと、わからないから、と理音は言った。
いくら親友とはいえ、そこまで胸の内をわかりあえるほど、はるかと理音の付き合いは、まだ長くない。
しかし、はるかは聞き入れない。
「理音ちゃんは、あたしの親友じゃなかったんだね」
そう言い残すと、はるかは公園に理音をひとり残して駆け出した。
それから一ヵ月、はるかは理音と口をきかなかった。
そのことがあって以来、理音は、小学校のときの、集団無視を受けた経験を、たびたび思い出すようになっていた。
だれかにつよく否定されたときの恐ろしさ。孤独、さびしさ。
それを思うと、どんどん本音が話せない自分になっていくのがわかる。
このままだとおかしくなる。
それは自覚しているが、どうしたらいいかわからない。
『はるかの親友になれる子は、エスパーくらいのもんだ』
思考をまぜっかえすことで、とりあえず理音は、上がってきた心搏数を抑えた。
まわりの目が異常に気になる。
好きで二重人格を装っているわけじゃない。
しかし、みんなの思っている『天然ボケのお嬢様・田端理音』像からはずれて、自分の思うままふるまったら、みんなはそれを受けとめてくれるだろうか。
そうして考えながら歩いていると、どうも一年生のほうが騒がしい。
廊下の窓から覗いてみると、ちょうど中庭で、一年生とおぼしき男子学生と、その担任、それから貴海がいる。
周囲を、野次馬たちが取り囲んでいる。
「だから、なぜこの財布が、きみの下駄箱から出てきたのかと聞いている」
厳しい声で貴海が生徒を詰問している。
男子生徒は、ほぼ半泣き状態で、ちがう、知らないを繰り返している。
貴海はかるくため息をつくと、今度はゆっくり、言い聞かせるように言った。
「いいかね、わたしは責めているのではない。きみに状況説明を求めているのだ」
しかし男子生徒のほうは、満座のなかですっかり混乱してしまっているらしく、知らない、ちがうと、おなじ言葉ばかり繰り返すのだった。
「キキカイカイ、いつから生活指導になったんだ?」
理音がつぶやくと、同じく窓から中庭の騒ぎをながめていた生徒が、答えた。
「聞いた話なんだけどさ、このあいだの理事長会議で、学校の規律が乱れてることが話題になったんだって。
ほら、いまの生活指導担当って、テニス部顧問の茂手木でしょ? 茂手木を外して、総理事長にコネのあるキキカイカイが、生活指導担当になるらしいよ」
もう一人の生徒が言った。
「なるらしい、じゃなく、ありゃ、なったんだろ。最初だから、ずいぶんはりきってるんじゃない?」
「やだねえ、出世の鬼。ああいうオトナにはなりたくないよね」
出世の鬼。
しかし理音には、貴海の印象が、まわりが言っているような、つめたく厳しく容赦ない、といったものと一致しないのだった。
必死になって仕上げたレポートを、予想以上に誉めてもらえたから、好意的に見ているのだろうか。
それに、いまもこうして見ていると、たしかに声だけ聞くと、詰問しているような調子だが……理音は持っていた下敷きを立てて、ちょうど真正面に見える貴海の顔の、シメントリーを見せる端正なその顔の真ん中に、あわせてみた。
心理学的には、顔の右側は社会的な顔、つまり作った顔で、左側は本音をあらわす顔だという。
そうしてみると、冷徹そのもの、感情すら見えないように感じる印象が、変わってくる。
右側の顔は裁判官のように表情を殺した顔だが、左側の顔は、あきらかに困惑し、目の前の生徒に同情している。
「キキカイカイ、やさしいじゃん。でもみんなの前で、ああいうふうにするのはマズイよなあ」
理音の、ちいさなちいさなつぶやきが聞こえたのか、貴海が顔を上げた。
あわてて理音は手をひっこめて、さりげなく窓から離れた。
※
音楽室からピアノの旋律が流れてくる。
私立雨咲名望の特別進学科は、比較的金のかかるところである。
結果的に、金持ちの家の子弟があつまりやすい。
金持ちというのは、生活に余裕がある。子供にいろいろお稽古をさせる余裕もある。
結果、ピアノの腕の高い者が多く在席することにもなる。
けっしてまちがえても、知った顔して「ねこふんじゃた」ばかり連打するような生徒が、ピアノをいたずらしているようなことはない。
「へえ、グリークの『春に寄す』だ」
理音は立ち止まり、そのままだれもいない廊下の隅に座った。
やわらかい、雪解けを表現したような、きれいな旋律が心地よい。
化学準備室はすぐ目の前にある。
しかし理音はいまひとつ意気地なく、そこを訪れることができないでいた。
こうしてじっと周りを観察していると、この化学準備室の環境というのは、抜群だというのがわかる。
生徒の出入りは少なく、最上階にあるため、敷地のいちばん高いところにある校舎の中でも、眺めは最高。
いまは芽吹いた緑と、みずみずしい黒い幹の木々のコントラストが美しい。
つばめが空を飛び、風に乗って、音楽室から洗練されたピアノが流れてくる。
きっとピアノ同好会だろう。
吹奏楽部がないため、音楽室は、ピアノ同好会の練習場となっているのだ。
「いい場所を独り占めしてるなあ」
と思うと、やはり出世の鬼といった評価も、妥当かもしれない。
生徒の目から見ても、教師のなかでも、貴海は抜きんでて目立った存在であり、将来の学長候補というのは、あながち噂だけではないのだろう。
もともと、雨咲の町では貴海家といえば、高名な大学教授も輩出している家柄で、古くは代々の雨咲藩主に、学問を教えていたという。
町でいちばんの実力者たちとの絆は、いまも保たれており、町の基準からすれば、貴海が若いながらも将来の学閥の長を約束されているのは、それこそ「お約束」なのであった。
「あれだけ騒ぎがおおきくなった以上、退学が妥当でしょう。なぜ処分保留なんですか」
すりガラスの向こうから、耳慣れた低い男の声がした。
理音の所属するテニス部の顧問・茂手木の声だ。
「証拠がありません」
と、貴海の声。
いつもは平板な口調だが、いまは苛立ちがまじっているのが聞き取れる。
「証拠? あるでしょう、下駄箱から、盗まれた財布が出てきた。横手は、おそらく中身を抜き取ったあと、持ち物検査を予期し、下駄箱に財布を隠したんです」
「では中身はどこへ。横手の所持金は4千円。被害額は3万円強。クレジットカードの類も盗られている」
「それはもっとわかりにくい場所に隠してあるんだろう。このままでは被害にあった生徒の親から抗議がくる。泥棒と自分の子を、おなじ教室においておけない、とね。
わかっているかと思うが、被害にあった生徒の両親のなかには、うちに多額の寄付金をいれている者がいる。ここでトラブルを起こしたらあとあと面倒だ」
単に聞くだけなら、前生活風紀指導の教師として、新任にアドバイスをしている、というふうにも聞き取れた。
しかしその口調は、親切をよそおいながらも、どこか攻撃的だ。
理音は、茂手木と貴海の仲がわるい、という噂を思い出していた。
テニス部に対する特別あつかいは、茂手木が生活風紀指導をしていたゆえのものであったから、担当がかわったとたん、特別あつかいがなくなるのは当然だ。
それゆえ、化学のレポート提出問題が持ちあがった。
仲間がおおく処分をうけたため、テニス部内での貴海の評判はわるい。
しかし、テニス部以外の生徒は、テニス部の生徒が貴海をわるくいう理由がわからない、という。
「事情もよく知らない親の思惑なんぞで、横手を処分せよ、とおっしゃるのは、筋が通りませんな」
と、貴海はぴしゃりと茂手木のことばを撥ね退けた。
「そもそも、横手の下駄箱に財布があるようだ、と密告を入れたのはだれなんですか。密告してきた人物は、すくなくとも横手が下駄箱に、中身を抜き取った財布を入れたところを見たはず。その者の話を直接に聞けるなら、わたしとしても処分を検討いたします」
「密告とはおだやかではないね。その人間は、勇を鼓して仲間を告発したんだよ。そこへきみが出てきて、事情をあれこれさぐったら、その人間が、今度はほかの者たちから、白い目で見られるだろう」
そんなこともわからないのか、と言いたげな口調だ。
「だれなんです、それは」
「大切な生徒との約束でね、それを口にすることはできない。やはりわたしのほうが、ここでの教師生活が長いのでね、生徒の信頼も、きみよりはいくらか厚いんだ。信頼というのは大切な財産だよ。教師の勲章かな。
きみもこんなせまい部屋にひとりで閉じこもってないで、ちゃんと職員室で仕事をしたまえ。総理事長からのじきじきの指示がある、という理由もわかるが、こそこそしていると評判がわるいのも事実だよ。やはり人間、明朗快活なものに信頼を寄せたがるのさ。ここで長く教師生活をしたいなら、考えてみるべきだね」
なんだか白々しいぞ、と理音は廊下で耳をそばだてつつ、思った。
茂手木というのは、生徒に体罰も平気でふるい、えこ贔屓も平気でおこなう、最低な教師だ。
理音は親が高額の寄付金納入者なので、贔屓をされているほうだが、それをありがたいと思ったことは、一度もない。
いじめられ、除外されて、いちばん底辺から周囲を見上げるような、さみしい日々をおくったことをおぼえている。
てっぺんにはやはり、要領がよく、えこ贔屓をされるのが当然と思っている人間が君臨していた。そのみにくさもおぼえている。
あんなふうにはぜったいにならない、と理音は誓っていた。
親切めかした嫌味のジャブ。
さて、貴海はなんと応酬するだろう。
「検討しましょう。検討するだけなら、いくらでもできますから」
と、貴海は、はっきりと相手を見下した口調で、言い放った。
さすが、と理音は思わずちいさくつぶやいていた。
茂手木は職員室でもかなりの力を持っている教師だ。
職員室で行事がある場合の音頭は、たいがい茂手木がとっている。
高圧的でたいがいの人間をうまく丸め込んでしまうのに加えて、意外と面倒見がよいので、職員室内に自分の派閥のようなものをつくって、好きなようにしきっているのだ。
ほかの教師たちは、面倒に巻き込まれるのがいやなのか、茂手木に気を遣っている。
その茂手木に対し、堂々と反駁する教師を、理音は入学して以来、はじめて見た。
ふと、すりガラスの向こうの影が動いた。茂手木が出てくる。
理音は立ち上がり、廊下の柱の影から様子をうかがった。
伊達男を自認する茂手木は、いつもブランド物の、ホストのように派手なスーツを着ている。
加えてカラーシャツ、ごってりした印象のブランド物の腕時計をはめ、がっしりした体格でのっしのっしと歩く。
教師どころか、堅気のサラリーマンにも見えない風情だ。
茂手木は目ざとく、理音の姿をすぐに見つけた。
「なにをしている。こんなところで」
あのう、と理音は、とっさの嘘をつこうとした。化学の質問があるとか、なんとか。
しかし、先に戸口のところから顔をだした貴海が、言った。
「つぎの化学の授業につかうスライド作りを、手伝ってもらう予定だったんです。田端、入りなさい」
はい、と答えつつ、理音は逃げるように、化学準備室に入った。
背中で、茂手木がおおきく鼻を鳴らした。