朝の歌

後編


濃い藍色の衣を身にまとい、いつになく清雅で高貴な雰囲気がある。
絹の袖が、孔明のうでの動きにつられて、清流の下の魚の鱗のように動くのを目で楽しみつつ、客間に入ると、卓に食事の準備がしてあった。
色とりどりの、うまそうな料理がずらりとならんでいる。
家令のじいさん、ぎっくり腰のわりに、よく頑張ったなと、趙雲が感心していると、となりでは、孔明は得意そうしている。
「あなたを待っているあいだに暇であったから、すこし料理なぞしてみた」
「おまえが?」
「うむ。男子厨房に入るべからずなどと野暮は言わぬように。これはこれで、なかなか楽しい作業であった。やはり、待つにしても、楽しまねばならぬ。じつに有意義な時間であったぞ。むしろさんざん待たせてくれた、あなたに感謝だ」
「楽しんでもらえたなら、待たせた甲斐もあったというものだ。が、ひとつ聞く。味見はしたか」
「アジミ?」
得意そうに胸をそらしていた孔明であるが、趙雲の問いに、それはどこの国の言葉だ、と言わんばかりに怪訝そうに首をひねる。
それを見て、趙雲は、それ以上の質問を、あえてとめた。
孔明のほうは、逆に不安がつのってきたようだ。
「アジミとはなんだ? 料理というのは、出来上がったものの味におどろくものではないのか?」
「そういう意味でのおどろきの要素は、あまり必要ないものだと思うが」
「そうなのか…襄陽にいたころ、旅に出ると、交替で料理番をしたのだが、よく徐兄が『おまえの料理はおどろくところに醍醐味がある』とほめてくれていたので、そういうものかと」
聡明なはずのこの青年、出来がよすぎることに対しての反動なのか、ときどきひどく愚鈍になる。
趙雲は、ずばりはっきり言い切ることができなかった徐庶のやさしさを、すこし恨めしく思った。
とはいえ、孔明の期待に満ちた顔を見れば、無理にでも不安を封じこめたくなるところではある。
「とりあえず、せっかく作ってくれたものだからいただこうか」
「とりあえずなどといわず、しっかり食べてくれたまえ。ああ、でも食べる前にひとつだけ」
「なんだ」
箸を動かしかけたのをやめると、孔明は、急にしゅんとした顔をして言うのであった。
「いちおう先にあやまっておく。失敗であったならすまぬ。これも経験だと思ってあきらめてくれ」
「謝罪を受け入れるまえに聞きたいのだが、旅先の料理番とやらは、どれくらいの頻度でまわってきた」
「十日の日程で、ほぼ毎日野宿したとして、そうだな、一日あれば多いほうかな。徐兄や崔州平の具合が悪いときにまわってきた」
そこで孔明は、なにを思い出したのか、楽しそうにわらった。
「おかしいのだよ。ふたりとも、わたしに頼むときは、いまにも死にそうな顔をして頼んでくるのだ。おそらく、空腹を耐えかねて、とうとうわたしに頼んでくる、というふうであったのだろうが、いまさら遠慮する仲でもあるまいに、なぜに我慢をしていたのだろうね?」
「そうだな…………なぜかな」

答えは、箸の先に宿っている。
思いやりと、思い切りと、思いつきと、気まぐれが、たっぷり詰まった料理である。見た目はわるくないのだが。
覚悟をして口に運び、舌にのせて咀嚼してみれば、またまたおどろいたことに、普通の味であった。

「おどかすな。普通の味ではないか」
「? おどかしたつもりはないが…食べられるものならよかった。今回は当たりだな。運がいいぞ、子龍。しかし、料理という物は、博打に似ている。当たるか当たらぬかで、その後の評価が決まってくる。うむ、女人は毎日大変だ」
「その感心はまちがっている。おまえは食べないのか」
「ここに来る前に食べてきたのだ。それに、箸をつけるにしても、全部に問題がないか見届けないことには、落ち着かないからな」
いったいいつごろから待っていたものか、卓の上にはいくつか種類のちがう皿があり、趙雲はちがう皿に手を付けるたびにひやりとしたが、どれも問題なく、じつに普通の味であった。
「おまえの作るものに『普通』という評価が出る、というのも、新鮮な気がする……なにを笑っている」
「だって可笑しいではないか。こうして、あなたの食べるのを見ていると、まるでわたしがあなたの妻にでもなって、料理をつくったかのようだ」
趙雲は、いま口にしたものを、吹き出さずにいるのに苦労した。
「なんだって」
「そんなに鬼のような顔をすることはないだろう。ちょっとした思いつきだよ。でも、もしわたしが女に生まれていて、あなたの妻になっていたら、毎晩、こんなふうだったのかもしれないよ」
「毎日博打か。勘弁してくれ」
「でも、楽しいだろう」
そう言って、孔明は、機嫌よく、にこにことわらって見せる。いったい、なにがそんなにうれしいのやら。
しかし、楽しいというところは、否定できないところである。

「本当はね、あなたのことが心配だったというのもあるが、ずっと連絡がないので、もしや、だれか良い人ができたのかと思って、様子を見に来たのだよ。しかし、わたしに料理を振る舞ってもらっているようでは、それはまず、ないな」
「うれしそうに言うな」
憮然として言うと、孔明は、ころころと声をたてて、またわらった。
「怒られたな。そうだよ、わたしはわがままで残酷な人間なのだ」
「開きなおるとは」
「だって、開きなおるほかないではないか。それともなにかい、もっと本音を聞きたいのかな?」
「本音?」
なんだそれは、と口にしかけて、孔明が、なにやら小悪魔的な微笑をうかべて、思惑ありげにこちらを見ている。
わるい予感がして、趙雲は首を振った。
「いい。遠慮しておく」
「おや、つまらない。聞けば、感激にむせび泣くあまりに、眠れない夜になったかもしれないのに」
「恐怖にふるえて、眠れない夜になった可能性もあるだろう」
「ま、そういう可能性もあったかな。しかし惜しい」
そういう孔明は笑うのであるが、さきほどのような屈託のなさは影をひそめて、どこか憂いが含まれているように感じられた。

気のせいか。
広漢の村の一件以来、孔明の表情のなかに、唐突に憂いがふくまれるようになった。
機嫌よく戯言ばかり口にしているかとおもえば、不意に泣きそうな顔をしてみせる。
なぜなのか、知りたいと思う反面、趙雲は、知ってしまうことをおそれていた。
知ってしまえば、大きな変化にさらされることになる。
いまでさえ、心をもてあましているというのに、また変化にさらされるとなったら、正気をたもっていられる自信がなかった。

「ああ、でも安心した。やはり来てみるものだ」
「以前に来たときから、さほど日も経っていないだろう。早々、俺は、変わりはせぬ」
「そうかな、変わったよ。やはり優れた資質を持つ人というのは、なにごとにつけても成長が早いものなのだね。もちろん、心の内までも、急に変わってしまうことはないと、わかってはいたけれど、言葉を交わしてみるまでは、すこし恐ろしかったよ。
正直に打ち明けてしまえば、あなたという人はわたしなどよりずっと世間が広いから、一度、とっかかりが出来てしまえば、広い世界を探索するのに夢中になって、狭い世間しか知らぬわたしのような人間のことなど、忘れてしまうのではないかと思ったからな」
幼い子供のような孔明の言葉に、趙雲はすっかり呆れて、まじまじとその顔を見た。
だれのために苦労していると思うと咽喉まででかかって、言葉をひっこめる。
「あきれたな。なんだって、そんな奇妙なことを考えるのだ」
孔明は、すこし困ったような顔をして、趙雲の問いに答える。
「知っているとは思うけれど、わたしという人間は、人付き合いが苦手だから、あなたの身の処し方を見て、いろいろ自分なりに学んで、それでようやくいまの形に落ち着いているのだ。
それでも、まだ十分ではない。だというのに、わたしの手本となった人間が、さらに上に行こうとしているのだから、これはあせるだろう」
「俺なんぞを手本にしてどうする。だから、おまえは俺を良く見すぎているのだ」
「それはちがう。わたしはあなたの良いところを、たぶんあなたより、よく知っているのだ。自信を持つといい。わたしは、いままで出会った人間のなかで、あなたほどに優れた人間をほかに知らない。
あなたは天下を取る人間ではないが、しかし将としては、最高の器を持っている。ほかのだれが言うのでもない、このわたしが言うのだよ。あなたは、このわたしがだれより信頼し、愛する者なのだからして」
「あ……あい? なんだって?」
「なにをそうあせる。愛にもいろいろあるだろう」
わるい冗談だ。趙雲は苛立ちつつも、誤魔化してうなずいた。
「ああ、あるな。そうだ、うん、山ほどある」
趙雲が言うと、孔明は、愉快でたまらない、というふうに、声をたてて笑った。
「ああ、面白い、あなたときたら、まるで怒らないのだもの。思い切り笑ったら、眠くなってきたな」
「怒るとっかかりが、なかっただけだ」
「あなたは怒れやしないよ、だって、わたしが言った言葉は、あなたの思ったとおりで合っているからね」
「なんだと?」
「さて、ここで質問。わたしの本音は、どこからどこまでが、それか?」
「………おまえ、酔っているのではあるまいな」
とはいえ、孔明も酒には強いのだ。酔いつぶれているところを見たことがない。
「酔ったとすれば、最初のあなたの言葉に酔ったのかもしれないね。不意打ちで、あんなふうに言われては、普通だっておかしくなるさ」
「俺はなにか言ったか」
「忘れているところが興ざめだ。よし、罰として、食べ終わった食器を厨まで運ぶべし」
「それは構わぬが」

ちらりと見れば、戸口のところで、いまにも倒れそうなほど眠そうな顔をした家人たちが、あくびをかみ殺しつつ、卓の食器を下げるために控えているのが見えた。
眠さのあまり、なにも聞こえていない様子なのが幸いである。
それもそのはず、普段であれば、とっくの昔にみな寝入っている時間なのだ。
孔明も、趙雲の目線でかれらに気づき、すまなさそうな顔をして、笑みをひっこめた。
「たしかに、はしゃぎすぎたかな。もう眠ろう。いつもの部屋を借りていいだろうか」
「あの部屋くらいしか、ろくな部屋がないからな」
孔明がやってくると、かならず泊めることにしている部屋は、趙雲の屋敷の中でも、いちばん静かで日当りの良い場所にあった。
いつ孔明があらわれるか判らないので、その部屋は、とくに念入りに毎日のように掃除をさせているのである。
「では、言葉に甘えよう。明日はすこしゆっくりでいいから、あなたと一緒の時間でかまわぬ」
「ああ、そうするように言っておく」
孔明は、家人たちが、だるそうに食器を下げていくのを手伝いつつ、ふと、客間から出るときに足を止めて、振り返った。
「子龍」
「なんだ」
「さっきの言葉だが、ぜんぶ本当だ」
「ぜんぶ?」
「そうだよ。わたしの考えは、あなたとぜんぶ一緒だ。それではお休み」

わるい冗談を言う、と、趙雲は自室にもどると、身を投げるようにして、寝台に横になった。
今夜の孔明は、おかしかった。
酔ってはいないようであったが、よほど腹に溜め込んでいるものがあったのか、屈託なく口を利けることに、子どものようにはしゃいで、喜んでいたように見える。
もっと早くに帰ってやればよかったと思う。
しかし……
だれより信頼し、愛する者なのだから、と。
ぜんぶ一緒だというが、言葉どおりに受け止めてよいものではなかろう。
孔明が、どこまでこちらの抱えているものを理解しているかによって、意味は違ったものになる。
孔明は、おそらく一緒だと信じているというだけで、こちらの心の深さは知らないだろう。予想すらしていないのではないか。

すでに、敬愛する主君にさえ背く道を歩きはじめている。戻ることはできない。
それだというのに、この道には、連れというものが存在しないのだ。
宥和という言葉が、これほどむなしく響くようになるとは思ってもいなかった。
ごく近くにいるように感じていても、まったく同質のものになることはないという、この不安。
この世のすべての者は、同じように、内なる不安と戦って、日々を過ごしているのだろうか。
一人になったとたん、なくなったと思っていた軽い頭痛が、ふたたび戻ってきて、こめかみをいじめはじめた。
仕方なく、趙雲は目を閉じた。
ほどなく、ふかい眠りが襲ってきた。



遠くから、歌が聞こえてくる。
古謡であった。

「朝でございます」
家令の老爺の声で、趙雲は目を覚ました。
まだ夜も明けきっておらず、老爺は、燭を片手にかしこまっている。
「腰はよいのか」
「おかげさまで、軍師によいお薬をいただきまして、一晩やすんで、痛みが取れました」
「そうか、無理をするな。ところで、あの歌は?」
「軍師でございましょう。朝起きるなり、院をながめて、ずっと唄ってらっしゃいます。昨夜は、あまり眠れなかったご様子でした。軍師にお出しする朝餉は、軽めのほうがよろしいでしょうか?」
眠れなかったようだと聞いて、趙雲は、夕べの孔明の様子や言葉を思い出し、ちいさくため息をついた。
「そうしてやってくれ。ほかには、なにか変わったところはあったか」
「休んでらっしゃらないせいか、すこしお顔の色が冴えないご様子でした。昨日もいらっしゃったおりには、沈んだご様子でしたが、将軍がお戻りになったときは、ずいぶん笑ってらっしゃいましたねえ。わたくしの離れにまで、声が届いておりました」
と、孔明贔屓の老爺は、目を細めた。
「沈んでいたというのか。疲れているとは言っていたが」
「軍師は将軍を、実の兄上さまのように頼りになさっておられるのですよ。今朝も、もし許されるなら、ずっとこの屋敷で過ごしたいなどと、冗談をおっしゃっておりました」
そういって、善良な老爺は笑うのであるが、孔明は、冗談のつもりではなかっただろうと、趙雲は思った。

そして寝台から起き上がり、更衣をすませて身だしなみを整えながら、ふと、孔明が語っていた、尚書令と李巌の接近のことを考えていた。
さらに魏延がそれに加わるというのであれば、昨夜は聞き流してしまっていたが、たしかによいことではない。
法正、李巌、魏延と、並べてみれば、どれも劉備の信頼厚い人材ばかりなのである。
対する孔明はどうか。
許靖と劉巴、そして董和と、優れた人材ではあるが、董和以外は、劉備の不興を買っている顔ぶれでもある。
すでに、戦いは始まっていたらしい。

じきに朝餉になると教えられ、趙雲は孔明を呼びに、院にまで足を運んだ。
孔明は、ゆるゆると闇の薄れていくなかで、欄干に腰かけて、ながめるとはなしに院をながめて、ゆったりと歌を口ずさんでいる。

椒聊之実 蕃衍盈升
彼其之子 碩大無朋
椒聊且 遠条且…

知ってはいるが、それまでほとんど気に留めていなかった歌であった。
気に入った歌だから、たまたま口ずさんでいるだけなのだろうか。
節回しにあわせて、指で軽く欄干を叩き、夢想にふけっているような瞳をして、見どころのない庭をながめ、似合わない悲しげな歌を、よく通る声で唄っている。
すこしだけ横を向いているその顔は、歌うことを楽しんでいるようにも見えたし、歌わずにはいられないほど、悲しんでいるようにも見えた。
しばらく、そうして華奢な背中を眺めていると、孔明が気づいて、歌を止めて、振りかえった。
悲しそうに見えたのは錯覚だったのか、その顔は、いつものとおり澄明な光を宿している。
「おはよう、いい朝だ」
「そうだな。よく眠れたか」
「まあまあだな。あなたのほうは、ぐっすり眠っていたようだね。わたしがそばによっても、まるで気づかなかっただろう」
「そばに来た? いつ?」
「すこし眠れなくてね。本当は、夕べのうちに言ってしまいたかったのだが、あなたの顔を見たら、言わなくてもよいかと心がくじけてしまって、思い切れなかった。けれど、一晩考えて、やはり言うことにしたよ」
「なんだ」
うながすと、孔明は、欄干に腰かけたまま、浮かべていた笑みを引っ込め、口もとを引締めると、趙雲を真っすぐ見すえて、口をひらいた。
「わたしたちは、これからしばらく、慎重にならねばならないようだ」
「どういうことだ?」
趙雲は眉をしかめてたずねるが、孔明は、戦地で見せるのとおなじ、凛々しくもきびしい顔を見せて答えた。
「李巌が、わたしたちの身辺を探っている。おそらく、尚書令と結んで、わたしたちを一気に失脚させるつもりだろう。
知っているだろうが、李巌は、わたしたちのあいだに、世人に秘めた関係があると疑っている。真実は、わたしたちが互いに知っているとおりだ。かれが騒ぎ立てることができる材料は、なにひとつない」
趙雲は答えなかった。答えられなかった。
李巌が、自分にたいして、邪な疑念をもっていることは知っていた。それでも、自分でも思いもしなかったほどに、李巌にたいするはげしい怒りにふるえて、声が出せなかったのである。
こういうときは、孔明のほうが、感情の調整がうまい。
孔明は、淡々とつづけた。
「下世話な男だ。いくら才覚があろうと、あのような者に、主公の補佐を任せるわけにはいかぬ。魏延が李巌と結んだというのなら、多少、強引な手を使ってくることも考えられる」
「ならば、俺をつかうがいい」
「いや、だめだ」
「なぜ」
「いま内紛を起こしてはならぬ。巴蜀のなかで争っていては、荊州の守りに影響するからな。荊州を孤立させることは避けねばならぬ。だから、力によって相手を圧するのではなく、策によって、かれらを瓦解させることに力をふるうのだ」
「どうする」
「考えだけはあるのだが、まだ明確ではない。しかし、安心してくれ。あなたを巻きぞえにして、失脚することはしないよ」
「それはちがう」
巻きぞえにしているのは、こちらではないか。そう言いかけて、趙雲は口を閉ざした。
孔明の眼差しの色が、変わった。
きびしいばかりではなく、覚悟をうちに秘めた、憂いをふくんだ眼差しである。
「前に言ったことを覚えているか。わたしは、決して破滅することはない。あなたのすべてを背負って、どこまでも行く覚悟はついている。
これは、命令されたわけでも、あなたに同情して決めたことでもない。わたしがそうしたいから、決めたことなのだ。だから、あなたはわたしに、なにひとつ負い目を感じることはないのだよ」
「なにが言いたい」
「もしもわたしがだ、仮に倒れることがあっても、あなたはわたしに従う必要はない。いや、あなただけでも主公のそばに残って、いつかわたしを取り戻してくれ」
趙雲は、肩で大きく息をつくと、声をおさえて言った。
「弱気だな」
「いいや、あなたがかならず、大将の器になると信じているから、言うのだ。あなたはすごい人なのだよ。おそらく、自分で思っている以上にね。
知っているか、子龍。おのれでおのれを認められない者には、真の成功というものは訪れないのだそうだ。わたしは覚悟を決めた。あなたもそうであればいいと思うが、だめだろうか」
「だめもなにも、答えは知っているだろう」
「そうだな。けれど、どうしてもこの目と耳で、きちんと確かめたかったのだ」
孔明は、安堵したように、しずかに微笑した。
「人はそれぞれの道を歩いていて、まったくおなじ道を歩けることはないと思う。けれど、あなたとわたしの道は、かぎりなく沿いつづけているのだよ。離れてしまうことはない。わたしが言うのだから、絶対だ」
と、孔明は、欄干から趙雲に片手を差しのべてきた。

趙雲が、その手を差しのべられるままに受けとると、孔明は、欄干から、いささか乱暴におりてきて、趙雲の手を逆につかみ、自分のほうに、つよく引っ張った。
不意のことであったから、思わず前につんのめる。
倒れないようにするために、目の前の孔明につかまざるを得なくなる。
それを孔明のほうは予測していたのだろう。
小さく笑うと、身をすりよせるようにして、空いているほうの腕を首にまわし、おのれの顔をぴたりと、趙雲の首に寄せてきた。
思いもかけぬ接近に、思わず身を引こうとすると、孔明が腕に力をこめてくる。
「そのままで聞け。前にも言ったとおり、わたしはあなた以外のだれも、心の内に入れさせない。よいか、誰であろうとだ。そして、あなたを許すのも、あなたを背負うことができるのも、この世でただひとり、このわたしだけなのだ。忘れるな」
言い終わると、孔明は、ほんの一瞬だけ、趙雲に笑いかけた。
長年見なれた顔のなかでも、とびぬけて凄艶な、うつくしい笑顔であった。

趙雲が返す言葉をなくしていると、、孔明は、趙雲から身を離し、何事もなかったように客間のほうを向いた。
「朝餉の準備が出来たようだな。今日は、本当によい朝だ」
「軍師」
趙雲が呼びかけると、孔明は、晴れやかな笑顔でもって振り返り、言った。
「子龍、わたしたちは必ず勝とう。そして、だれにも気がねなく、こうして語り合える時間をふたたび取りもどそうではないか。そうしてまた、やかましい世間との付き合いに繰り出そう」
そう言って、孔明は、あざやかにきびすをかえすと、客間へと向かって行った。

その颯爽たるうしろ姿をながめつつ、趙雲は、ふと呼ばれるように、孔明が座って唄っていた欄干を振りかえった。
そこに、さきほどまでの孔明の残像が見えるような気がしたのである。
もちろん、そこには、もうだれもいない。
だが、記憶に蘇る、唄う孔明の横顔は、やはり笑ってはおらず、悲しそうな顔をしていた。
忘れるものか。
心でそうつぶやくと、趙雲は、孔明のあとを追って、ゆっくりと足を動かした。

はじかみの実が器にあふれるほどになっているのに、わたしの手には届かない。
彼のひとは、姿も立派な、ひとり身の男。
それなのに、はじかみの実は、わたしの手からは遠く届かない枝にある…

※詩に関しましては、白川静先生の「詩経」を参考にさせていただきました。

あとがき
…長編・「椒聊よ、遠き条よ」につづく…
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