朝の歌
前編
※はじめに※
このお話は、独立した短編(短編なんですよ〜)でありますが、「風の終わる場所・静かなる湖の畔」および、「説教将軍シリーズ?・うつせみ」の続編でもあります。さらに面倒なことに、新連載の一部OPでもございます。
「意味わからん」あるいは「このエピソードの続きは?」という部分は、以上の理由により発生いたします。あらかじめご了承くださいませm(__)m って、なんでこんな面倒な…悪いのは、はさみのです。すみません(>_<)
「鮮やかな色ですな。花の形も愛らしい」
屋敷を取り囲む柴垣の横に、濃い緑色の葉をもつ、ちょうど趙雲の胸くらいまである木があった。
木には、淡い桃色の筒状の花が咲いており、葉の色の濃さと花の淡い色合いが目に印象に残る。
趙雲は、あまり自然の風物に心を動かされる男ではない。
それは、見送りに出ていた屋敷の主・厳顔も知っていたから、思いもかけず、趙雲が馬に乗るのをやめて、花の前で足を止めたのを意外に思ったようだ。
「椿というのだ。将軍は知らなかったか。近頃、この花を庭木に植えるのが流行っているのだよ。葉がよく茂るので、柴のかわりに植えても風情がある。
一本で何度も咲くうえに、初冬から春まで咲く。儂の家の椿は淡桃だが、白や赤の花もあるそうな。儂は丈夫なので気に入って植えておるのだ」
と、老いてもなお、豪快な気風を失わぬ武将は、声をたてて笑った。
玄関先では、厳顔のちいさな孫たちが、祖父の真似をして、一緒に見送りに出てきている。
厳顔の屋敷は、広い屋敷とはとても言い難い。
いかなる事情か、趙雲は聞かなかったのだが、そこに、厳顔の息子たちが夫婦で三組ほど暮らしており、それぞれに子どもがいるので、屋敷はいつも雑然として、にぎやかである。
厳顔は、にぎやかであることを、喜んでいるようで、子犬のように元気にあちこちを跳ねまわる孫たちを、目を細めて見守っている。裕福ではなさそうであったが、屋敷は一家の仲の良さが感じ取れ、居心地がよかった。
屋敷にある温かい雰囲気は、現役の大黒柱である厳顔の、懐の深さをそのまま反映しているものなのだろう。
「儂の家の椿は、南蛮の商人から譲り受けたものなのだ。そうそう、貴殿の副将の陳叔至、あそこの娘が、椿をふやすのがうまいと聞いた。そも、陳叔至の家の椿がうつくしいと評判になって、流行したようなものなのだ。知らなかったのかね」
流行には疎いもので、と趙雲は気まずく答えた。
自分の世間の狭さを、思わぬところで突きつけられるのはうれしくない。
広く浅くという知識の持ち方を、趙雲はあまり好まなかったが、かといって、自分が狭く深く知識を持っているかといえば、これは疑問である。
たしかに戦や斬り合いにかけての知識は豊富だ。しかし、それ以外のこととなると、からきしダメだ。
世の中には、某軍師のように、広く深く知識を持つ、化け者じみた頭脳の持ち主もいるのだが。
「気に入ったのなら分けてもらったらどうだね。あそこの娘は喜んで分けてくれるぞ」
「娘というと、四人いるはずですが、長女のことでしょうか」
「そう、銀輪とか言ったかな。器量よしで気立てもよいが、鳩胸なのが残念じゃな。十三になるというから、そろそろ縁談もくるだろうに」
新野で野山を駆け回っていた銀輪が、もう縁談のことを噂される年になっていたのか。
自分の人生と照らし合わせて、月日の流れが早いことに眩暈をおぼえる。
新野にいるころから時間が止まっているような錯覚をおぼえていたが、もちろん錯覚でしかなく、時間は公平に、自分の上にも流れているのだ。
ため息をつきそうになって、あわてて口を閉ざす。
厳顔に、余計な気を遣わせてはまずい。
やれやれ、人付き合いというのは、やはり面倒の多いことだ。
楽しくないとは言わないが、疲労の仕方が、体を酷使したときとはまったく違うことに慣れない。
「今日は楽しかった。貴殿が話の判る男だというのが意外であったな」
また来るといい、と言って、厳顔は、カカカ、と豪快に笑って見せた。
後ろにひかえていた愛想のよい孫たちも、祖父に倣って、一緒に笑った。
つまり、話が判らない男と思われていた、と裏読みも出来るわけであるな、と趙雲は馬の背に揺られながら考えた。
このところ、仕事を終えたあと、これはと思う士人の屋敷を訪問して回っている。
そして必ずと言っていいほど言われるのが、厳顔が言ったような、『意外だった』のひとことである。
人付き合いの利点は、人の中に、意外な己の顔を見つけることができることだ。
とはいえ、あまり人の中に己の顔を見ようとすれば、かえって混乱するので、その舵取りがむつかしい。
ふと思い立ち、いつも通っている、こじんまりとした佇まいの酒家を訪れる。
そこは、商売気のない主が経営している、いつ行っても客がぽつぽつとしかいない店である。
ほかの客も、たいがいが一人だ。
通いつめているから、常連客の顔は覚えているが、たがいに目があっても、とくに言葉をかわすことはない。
主の愛想もまったくないのであるが、その静けさが、妙に居心地がいい。ひとりで、純粋に酒を飲みたいときは、ここだと決めていた。
店は相変わらず流行っておらず、そう広くない店内には、数えるほどしか客がいない。
客がいないというのに、常連客ときたら、それぞれが、まるで縮こまるように、店の端の、なるべくひと目につかない席に座って、酒をちびちびとやっているのだから、おかしなものである。
とはいえ、自分とて、酒を飲みだしたら、似たような格好に見えるのかもしれない。
席につき、それから、雑念はなるべく追い払って、酒の味を舌で楽しむことに集中する。
陰気な店ではあるが、出す酒の味は、抜群によいのだ。
このところ、疲れている。
李巌や法正の差し金によって、古参の部将たちが引き抜かれてしまったため、その穴埋めとして、部隊に、新兵が配されてきたのであるが、これがいったいどこから手をつけてよいのやら、と思うほどに使い物にならない。
路地のあちらこちらで戦ごっこをしている子供のほうが、よほど兵卒らしく振る舞うであろう。
かれらは、趙雲や、古参兵たちが自分たちを苦々しく思っていることに気づいていて、ますます怯えて、失敗ばかりやらかしてくれる。
趙雲は、兵の調練で、あまり暴力を振るうことを好まなかったが、このまま、かれらが成長しないのであれば、方法を変えねばならないと思っていた。
しかし、そうなればそうなったで、自己嫌悪にさいなまされるにちがいない。
なぜに暴力を振るわないように気をつけているかといえば、自分が義勇軍として袁紹軍に参加したさい、古参兵に錬兵の名をかりた、凄惨な私刑にあわされたからだ。
もっとも感受性の鋭い多感な時期に受けた暴力の、屈辱や憎悪というものは、忘れようにも、なかなか忘れられない。同じような光景を、自分の手で生み出すことに、趙雲はためらいを覚えていた。
しかし、そのためらいが仇となって、戦地において、かれらをまっ先に死なせてしまうことになるかもしれない。それこそ避けるべきではないか。
とはいえ、まだほかに方法はないかと考えて数日をすごしている。
さらに、公務を終えたら、士人の招きに応じ、慣れない宴に参加する。
これがなにより辛い作業で、いつであったか、だれかが言っていた、苦労は若いうちにしておけ、といった格言が、いまさら身に沁みる結果となった。
とりあえず、存在感はあるようなので、忘れられるようなことはないのだが、宴席などに顔を出しても、話に乗ることができず、適当に相槌を打つだけになってしまう。
さきほど厳顔と酒を飲み交わしたときのように、一対一であれば、まだなんとか対応することも可能なのだが、会話の端はしに生じる沈黙が重くなるのは、なぜなのか。
それに会話というのも、一種の調練を必要とするらしい。
ここぞという時に言葉が出てこなかったり、あるいは意味のない言葉を口に出してしまったりするのは、会話というものに慣れていないせいだ。
自分で酌をしながら、一人で反省会をしているうちに、疲れているからだろうか、だんだんと眠くなってきた。
めずらしいことに、店が混んでいるのか、向かいの席に、だれかが座ったようである。
相席か。
あまりうれしくはないが、こちらが酩酊状態に入っているのだから、もう関係はない。
酩酊状態だというのに、そんなことを論理的に考えつつ、趙雲はつぶれた。
どこか遠くから、
「それでは、お約束ですよ」
と、声が聞こえたのだが、それが若者か、老人のものか、低かったか、高かったか、どころか、男か、女かさえも、思い出せなかった。
あとで、趙雲はひどく後悔することとなる。
「看板でございます」
と、慇懃無礼な声に揺り起こされ、趙雲は目を覚ました。
いつのまにか机に突っ伏しており、顔を上げれば、酒瓶が、二本ほど転がっている。しかし、だれかが前に座ったかと思っていたのに、そこにはなんの痕跡もなかった。
「その酒は、悪酔いしないはずなのですがね」
と、あるじは、頑固そうな顔を、迷惑そうにゆがめる。
突っ伏して乱れた前髪をかき上げつつ、趙雲は尋ねた。軽い頭痛がする。
「俺の前の席に、だれかいなかったか」
「あいにくと、よく覚えておりませぬ。今日はすこしばかり混雑しておりましたので」
あるじの声に店を見回せば、たしかに混んでいたのはまちがいなく、人のいなくなった卓には、空の酒瓶や小料理をつついた痕跡が残っていた。
独特の酒の匂いと、料理の匂いがいりまじり、なんともいえない臭気が漂っている。
「夢か」
つぶやくものの、ずいぶん鮮明な夢であった。
だれかが座り、なにか言葉を交わした記憶がある。
そうだ、急に店が賑やかになって、そいつは、うるさくなってきたから、こちらへ来てよろしいですか、とかなんとか言っていなかったか。
「今日は賑やかであったな」
確かめるべく尋ねると、あるじは気のないふうに、そうでございますねえ、と答えた。早く帰って欲しいらしい。
趙雲は、勘定をしながら、ふと、自分が座っていたの席の、差し向かいの席の床に、足跡がついていることに気づいた。
屈んで確かめてみれば、まだ新しいものであると知れた。
沓についた泥が、黒い足跡となっているのかとよく見てみれば、そうではない。
床に黒ずんでついているこれは、血ではなかろうか。
ぞっと悪寒が走った。
血に怖じたのではなく、なにやら不気味な予感がしたのである。
血であったとして、しかし、これを単純に人のものだと決め付けるのは早い。もしかしたら、屠殺場でついたものなのかもしれぬ。
店のあるじに追い立てられるようにして外に出た趙雲であるが、酔客もまばらな町の通りは、いつになく暗く、つめたく感じられた。
帰路の途中、こらえきれぬ吐き気に襲われ、趙雲は馬を下り、何度か道端にうずくまる格好になった。
酒には強い自信があったが、その夜は特別であった。
往来を行く者の姿はなく、介抱を頼める相手もない。
たいがいの人間には、なんということもない軽い付き合いというものに、いちいち煩悶している自分の姿を見られたくないがために、従者をともなわなかったことが悔やまれた。
しかも、懐にいつも入れている薬が、その夜にかぎって切れていた。
そうして、昼間、鍛錬のきつさに耐え切れずに気絶した新米のために、自分の薬をわけてやったことを思い出し、間の悪さに苛立つ。
とりとめのない悪態や、無関係な連想が、脳裏にながれるままにまかせているうちに、つぎの吐き気がやってくる。
こめかみをじくじくといじめる、軽い頭痛もあらわれた。
もう大丈夫かと馬に戻れば、ふたたび胃を中心に悪寒が走る。
これはただの悪酔いとは思えない。医者のもとへ向かおうかと迷っているうちに気分がよくなってきて、安心したころに、ふたたび吐き気がこみあげてくる。
そんなことを繰り返しているうちに、胃のほうが空になったのだろう。
歩いても響かないていどに回復したため、軽い頭痛をこらえつつ、趙雲は帰宅した。
広い屋敷であるが、中に住まう人の数はすくない。
当然、明かりの数も少なければ、人の気配にもとぼしい。
まったく知らない人が見れば、なにか不幸があった家なのではないかと誤解したかもしれない。
それほどに、寂しい雰囲気を漂わせている屋敷であった。
修繕をさせてはいるものの、年代を経て、さまざまに主の代わった屋敷は、闇のなかにうずくまりながら、饒舌に趙雲に語りかけているような気がしてならない。
勧められるままに、報奨のひとつとして受けた屋敷であったが、だまって眺めてみれば、どこか、老いた父を中心に、ちいさな社会を築いていた、陰鬱な故郷の屋敷に似ていた。
笑い声が絶えることのなかった、にぎやかな厳顔の屋敷とは、たいへんな違いである。
寝そべる虎のように闇に浮かぶ屋敷は、門をくぐったところで足を止めて、自分をながめている屋敷の『主人』に、結局、おまえは、あれほど嫌っていた家に、どうしても戻らざるをえない男なのだと、皮肉たっぷりにつぶやいているようにさえ見えた。
たわいもない空想を振り払って、趙雲は、厩番に馬を預け、そのまま井戸へ向かった。
衣を汚してはいなかったが、口をすすぎたかったし、半端に残っている酔いを取り払ってしまいたかったのだ。
つるべが水に落ちる音を聞きながら、趙雲は思う。
なんとも気弱になっているものだ。以前のふてぶてしいまでに強靭であったはずのおのれは、いったいどこへ行ってしまったのか。
立ち止まり、あれこれ迷うなど、敵を目の前にして、どこを斬ればよいのかと迷っている新米の兵卒と同じではないか。
いませねばならぬことは、人のなかにおのれの位置を作り、そこを足がかりに、地位を上げることだ。
地位を上げる。
すなわち、いま以上の大きな影響力を手に入れるということ。
権勢欲にとりつかれたのではない。
いままで無頓着に、ただ身軽でありさえすればよいと思っていたが、考えが変わった。
おのれを守るために、そして、だれより守らねばならぬ者を守りきるために、大きな、そして正当な力が必要なのだ。
だれよりも守らねばならぬ者。
その者の姿を思い浮かべ、趙雲は苦笑する。
皮肉なものだ。人は、守るべきものがあれば、強くなれるものだと喧伝している。
それなのに、自分は真逆ではないか。だれにも心のうちを知られぬように、本心を押し込めたまま、一生を過ごさねばならないとは。
これもまた、流行り病のようなもので、一夜明けたなら、嘘のように熱が引くようなものなのだろうか。
ありえないな、とすぐに自分で打ち消す。
たとえなんらかの形で終りがきたとしても、おのれという魂を身の内に抱えているかぎり、想いが消えるなどということはないだろう。
それが、おのれの宿命なのだ。あきらめるしかない。
覚悟を決めているのなら、道はひとつだ。
たとえ、おのれの本心が他者に悟られることがあっても、その者が口を閉ざさざるを得ないほどに、強い存在になってしまえばよい。
だが、障害がふたつある。
まずは、趙雲の主君にして、父親のような存在でもあった劉備が、趙雲の本心に、うすうすではあろうが、気づいている。
その証左に、劉備は、このごろは趙雲を避けているふしがある。
それを恨むつもりはない。恨むよりも、劉備の懐の深さに感謝しているほどだ。
劉備は趙雲を忌避するというより、同情し、あえて目を逸らしているようなふうなのだ。
もしも、凡庸な精神の持ち主が主君であったなら、いまごろ自分は追放をうけているだろう。
そして、もうひとつの障害が面倒だ。
目下の孔明の政敵ともいえる李巌、これにも気づかれている様子なのだ。
鋭敏な男で、人を観察する目に長けている。李巌の言葉で、かえって趙雲は自分の心のうちを知ったくらいなのである。
不幸中の幸いといおうか、李巌というのは慎重な男であり、なおかつ頭が良い。
趙雲が、たとえどんな心をかかえているとしても、単なる風聞だけで、失脚させることはむずかしいと睨んでいる。
そのため、確たる証拠をつかまないかぎり、趙雲の態度を盾に、下世話な追及をしないであろうことは予想できた。
とはいえ、楽観視はできない。
李巌はすでに行動をはじめている。古参の部将を何人も引き抜かれたのがいい例だ。
いま、このときにも、どう潰しにかかるべきかを、慎重に頭の中で練っているにちがいない。
敵に立ち向かうためには、多くの味方が必要だ。
劉備が、いくら趙雲を警戒しようと、地位を与えずにはいられない立場になるためにも、いまこそ人の力が必要なのである。
つるべを落とし、水をくみ上げ、身をかがませ、頭に水をかぶせる。
冷えた水が、火照った体に心地よい。
雑念も、ともに水に流そうとするかのように、趙雲は、衣を濡らさないように気をつけながら、二度、三度と、水をかぶりつづけた。
髪をつたって、ぽたぽたと雫が地面に落ちる音が、闇に目立って聞こえた。
ふと、袖に突っこんでいた小銭が、趙雲の動きにあわせてか、袖口からこぼれ落ちた。一度、毬のように跳ねて、井戸端に敷かれた石のうえに落ち、鈴のような心地よいたかい音をたてる。
そして、生き物のように、夜闇の地のうえを、ころころところがっていく。
濡れた髪を手で無造作にしぼり、目線で闇の奥にころがっていく小銭を追っていると、それは、庭木の茂みの横に、ほのかな明かりをともなって立つ者の、その瀟洒な沓のつま先にぶつかって、それから、ぱたりと地に伏した。
回転の余韻にふるえる小銭を、ひろいあげる指先が、ほのかな明かりに浮かびあがる。
そして、衣擦れの音をさせながら起きあがり、怪訝そうに、高く明かりを掲げる。
同時に、相貌も、明かりのなかにあらわとなった。
燭の明かりをたよりにして、こちらを伺う顔の、おぼろげな輪郭の美しさは、いつか放浪中に見た、群雲のなかに滲んで浮かぶ月を思い出させる。
思わず言葉をなくしていると、孔明が問いかけてきた。
「子龍? そこにいるのか?」
がさりと、木々をかき分けてこちらにちかづいてくる音がする。
がらにもなく、瞬間的に心臓が跳ねた。
「なぜここに」
声が妙に浮き立ったようになり、自分で眉をひそめてみる。
しかし、燭台を片手に、怪訝そうにしている孔明のほうは、さほど頓着するでもなく、答えた。
「今日はすこしばかり早く仕事が片づいたので、思いついて寄ってみたのだよ。あなたが帰るのをずっと待っていたのだが、どうした、具合でもわるいのか」
わるくないといったら嘘になる。
妙に不安がらせてもいけないと思い、趙雲は答えた。
「悪酔いしたようだ。だいぶ落ち着いた。大事無い」
「だからといって、冷水をかぶりつづけていたら、風邪を引いてしまうよ。早くなかに入って、体を拭くといい」
あきれたように言うと、孔明は踵をかえす。
周囲に、その足元を照らす燭を持った家人が、ひとりもついてきていないのに気づき、趙雲は眉をひそめた。
「うちの家令は、なにをしているのだ」
「ぎっくり腰だよ。わたしに用をさせるのが済まないといって、起き上がろうとするのだが、あれは安静にしていないとダメだ。あなたの家は、人が少なすぎるな。以前にいた娘たちはどこへ行ったのだ?」
「全員にひまをやった」
孔明と深いつながりをもつ趙雲の、その縁を頼りにして、多くの下心をもつ者が、自分の娘、あるいは姉妹を、ぜひに使ってやってくださいと、家人として屋敷に送り込んできたのは昔のこと。
一時は、後宮屋敷などと陰口を叩かれるほどであったが、たくさん送られてきた娘たちの、どれにも手をつけるつもりはなかったので、彼女たちの未来に傷がつかないうちに、そろって送りかえすことにしたのである。
しかし、おかげで屋敷は人手が足りない。
「ふむ」
なにやら一人合点をしながら、孔明はしげみの横で、趙雲が自分に追いつくのを待っている。
「一時は、売るほど人がいる、なんて冗談が出てくるほどであったのに、さては、娘たち目当てに集っていた若い家人が、娘たちがいなくなってしまったので、つぎつぎに辞めてしまったのだろう」
「そんなところかな」
「やれやれ、それを黙ってみていたのか。まあ、あなたのことだから、辞めていく者たちは、さほど信頼できる人間ではなかったのだろうね。けれど、いまの状態では問題だよ。
わたしの知り合いに、家人の世話を頼もうか。あなたには奥方がいないのだから、ぎっくり腰持ちの家令の助けとなる、もうすこし若い人間が必要だ……足元はふらついていないようだが、大丈夫か?」
「なぜ」
「さっき、井戸の前で笑っているように見えたから。気のせいかな」
笑っているように見えた、と言われて、はじめて趙雲は自覚して笑った。
孔明が、その反応に、たじろいだのがわかる。
ひとしきり笑ったあと、趙雲は言った。
「そうか、俺は笑っていたか」
「ほんとうに大丈夫か。だいぶ悪い酒であったようだな。はやく屋敷に入って、ゆっくり休むがいい。腕を貸そうか?」
「かるい頭痛がするだけだ。ひとりで歩ける。第一、濡れてしまうだろう。それよりも、おまえは俺に用があったのではないのか」
孔明と二人になるのは、久しぶりのことであった。
会おうと思えばいつでも会いにいけるところにいたが、互いに忙しさに追われて、ろくに連絡も取れない状態であったのだ。
歩きながら屋敷に近づくと、廊下にともされた燭台の明かりで、ようやく孔明のすがたをよりはっきりと見ることができた。
これほど名前に容姿がぴったり似合った者も、そうはいなかろう。
相も変わらず、酔いも醒めるほど、あざやかな姿をしている。
甚だしく明るいという意味を持つ名のとおり、闇にいるよりも、光のなかにいるほうがずっとにあう、明るい風貌の持ち主だ。
どんな苦難もうばうことのできなかった、太陽のようなかがやきを宿す力づよい双眸が、趙雲は好きである。
趙雲に問われて、孔明は、かるく首をかしげて、答えた。
「久しく会っていなかったから、どうしているかと思ったので」
「どうもしやしない。相変わらずだ」
そう言うと、孔明は、元気そうでよかったと、うれしそうに笑った。
屈託のないやわらかな笑顔は、あまり人には見せない種類のものであることを知っている。
水をかぶって濡れた体を温めるために、用意してあるという風呂に入り、それから、あらためて身づくろいをした。
風呂の用意をしてくれた家人は、趙雲の様子を、ごくごく普通の、客をもてなす士人の態度として見なしているらしい。いや、そのように見てもらわねば、こまる。
家人が増えれば、いろいろと見咎めて、くだらぬ噂を流す者も出てくるかもしれない。それを危ぶんで、わざと人が減るのにまかせていたのもある。
とはいえ、高齢なうえに、張り切り屋の家令ひとりに負担をかけさせるのは不憫だから、孔明の言うとおりに考えなければならないようだ。
孔明の待つ客間へ行こうとする途中、ほかならぬ本人が、まだ夜風の冷たい季節だというのに、雨戸を開けて、院(中庭)に向かう廊下の欄干から、ぼんやり庭をながめているのに行きあたった。
ちいさく歌を唄っているように聞こえたのだが、趙雲がやってきたのを、足音で気づいたのだろう。孔明は笑顔で振りかえった。
すこし、様子がおかしいなと、長年の付き合いから、趙雲は感じ取った。
よく笑う男だが、このように、なんでも笑顔ばかりで応えてくるときは要注意なのだ。
「うちの庭は、見ていてもおもしろくないだろう」
「庭を見ていたわけじゃない。相変わらず、廃墟のように静かだなと思っていたのだ」
「人より馬のほうが多い家だからな。訪問してくる者も、おまえくらいなものだから、庭を飾る気にもならない」
庭には、以前の持ち主が整えたままの形で庭木が佇んでいるだけで、趙雲の意向は反映されていない。
そのためか、屋敷そのものと同様に、庭も、みすぼらしいことはないのだが、生彩に欠けるのである。
「椿を植えたらどうだ。叔至のところの銀輪が、上手に椿をふやすというので、評判になっているようだよ」
「厳将軍のところで聞いた。もう縁談のことが噂になっているようだ」
縁談と聞いて、孔明はおや、というふうに軽く眉をひそめた。
「器量のよい娘だから、もう嫁にと狙っている者がいるのだな」
「わたしも年を取るはずだ、と加えなかったのは誉めてやる」
「ありがとう。知っているか、子龍。人は、三十を過ぎると、年を取る速度が遅くなるのだ」
「初めて聞いた」
「そうだろうとも。いまわたしが作った話だから」
孔明は自分で言った冗談に笑っている。
しかし趙雲は、世間的には通じない理屈であるが、孔明にだけは、そのめちゃくちゃな法則が当てはまるような気がした。
新野で初めて会ったときは、この内気な青年軍師は、緊張していたせいか、ずいぶん強ばった顔をしていた。いまのほうが、若く見えるほどだ。
同年の士大夫が、貫禄太りをしはじめるなか、孔明の体格はまるで変わらず、その肌も髪の色も、褪せることはない。
こういう、容姿に関しては、だれもがうらやむほどに恵まれた人間というものも存在するわけだ。
しかし皮肉なことに、本人は、自分の、男らしくない中性的な容貌を嫌っているのである。
そんなことを考えていると、孔明は欄干に半身をあずける格好でもたれこみ、趙雲の顔をのぞきこんで、言った。
「あなたは、会ったころからすこしも変わらないな。本当は、年を数えまちがえていて、わたしと同じくらいではないのか」
「それはない。毎年、ちゃんと数えている。おまえの五つ上だよ」
そうであったかな、と孔明はつぶやいて、欄干から身を起こすと、指を折って勘定をしている。
「なにかあったのか?」
不意に尋ねると、孔明は、わからなくなった、と顔をしかめて、それから答えた。
「なにかって? 様子がおかしく見えるのか」
「見える。はしゃぎすぎる。おまえは、ときどき、落ち込んでいるときと、元気な時の顔が一緒になるからな。いまは、落ち込んでいるだろう」
「いつもの問題にぶつかって、腐っているだけだ。気にしないでくれ」
いつもの問題と孔明が言う場合、それはたいがい、法正との政策上の対立を意味する。
「そういえば、最近、李将軍と法尚書令の接近が目立っていると聞いたが」
「面倒なことだよ。主公はみんなが仲良くすることはいいことだ、などとおっしゃっているが、李将軍は野心が強い男だから、安心できぬ。そこへいくと、尚書令のほうが、主公に対しての忠誠心が強いので、信頼できるほどだ。
さらに面倒なことに、魏文長、あれが李将軍側に付こうとしているようだ。負けるなよ、子龍」
「うん?」
「いやな男だが、魏文長は、たしかに大将の器だ。漢中の守りはじつに良くやっていると思う。だが、あれが張飛のあとにつづき、巴蜀の武の中心になりえるとは思えない」
「言っていることが矛盾しているぞ。大将の器と認めていながら、なぜ中心になれないと?」
「答えは明快だ。わたしとそりがあわないからだ。わたしは必ずや文官の頂点を極めるだろう。そのとき、武官の頂点に立っているのは、あなたがいい」
あいかわらず、大きなことを、太陽は東から昇ると語るのとおなじくらいに、平然と口にする。
そして、口にしてきたことを、ほとんど実現してきたのだから、恐れ入る。
「わがままな奴だな」
「わかってくれているとは思うが、わたしは巴蜀の文武のすべての実権を握りたいなどと、だいそれたことは考えていないのだよ。魏文長とは、どうしても駄目なのだ。不思議なくらいだ」
それはおそらく、魏延が、劉備によって、孔明と良く似た引き立てられ方をしながら、その後の歩みがまったくちがうところに、無意識のうちに反発しているからだろうと、趙雲は思う。
魏延は、なりふりかまわない男だ。
賄賂も堂々と、盛大に贈るし、精力的に豪族たちともつながりをつくり、ときには、子どもや女をつかって、強引に姻戚になることもいとわない。
強引とはいえ、将来を見越す目は確かだ。付き合う相手を慎重に選んでいる。
そのために、魏延にたいする不平の声もおさえられているのである。
上手な身の処し方も、才能のひとつとするならば、魏延には才能があるといえるだろう。
対する孔明は、ただおのれの才覚だけでいまの地位を築いた。
孔明のこの潔癖ぶりは、生い立ちに起因するものだ。
賄賂だの、婚姻による地盤固めなど、発想に浮かぶことが、そもそも、ない。
しかし、それゆえに、遠まわりをせざるを得ない状況に、ぶつかることもある。
あまりに対照的な二人である。
どちらが正しい、正しくないという単純な比較で片づく話でもない。
孔明が魏延を厭うのと同じように、魏延のほうも、孔明をこころよく思っていない。
まったくなにもかも違う相手ならば、逆に認めることもできようが、才能があるという点において、どこかで似ているから、反発してしまうのだ。
これを仲良くさせるのは、天と地のあいだに橋を架けようとするくらいに、むずかしいにちがいない。
孔明は、となりで落ち込んで、ため息をついた。
「わたしは狭量だな。どうして、あなたのように泰然としていられないのだろう」
「俺のどこが泰然としているって?」
「しているではないか。あなたが、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てているところは見たことがない。沈黙すべきときには沈黙し、語るべきときには的確な言葉で端的に伝える。
世間では、美辞麗句をとうとうと口から繰り出す人間を、弁舌の才があると評する傾向にあるし、わたしも勘違いをしてきたが、やはりそうではないと思うよ。
これだけ世の中が乱れて、ありとあらゆる考えの人間があふれかえっているなかでは、自分がどんな位置にいて、どんな考えを持っているのか、正確に人に伝えられなければだめなのだ。
沈黙は美徳とばかりに口を閉ざしていては誤解を招くし、かといって、思うさまに言葉を垂れ流すのは、軽薄にうつる。
わたしはお調子者なので、ついつい余計な言葉を口にしては、あとで誤解を受けたり、後悔したりする。あなたは、そういうことはすくないだろう」
趙雲はいささかうろたえた。
しばらく会わないうちに、孔明は、自分のことを妙に美化してとらえていなかろうか。
孔明は、趙雲が返事をしないので、不機嫌そうに、夜風になぶられたおくれ毛をおさえつつ、言った。
「そこで、なぜ沈黙する」
「おどろいたのだ。おまえ、俺を良く見すぎているぞ。俺が黙っているのは、そんなにいい動機からじゃない。単に言うべきことが見つからないだけだ」
「だから。言うべきことが見つからないくせして、知った顔をして意見を述べてしまうのが、わたしや凡人なのだ。変だぞ、子龍」
「悪かった」
「言っておくが、わたしのこれは、八つ当たりではないからな」
「それも判っている」
「いま、突然に気がついてしまったのだが」
「なんだ」
「風呂上りをつかまえて、こんな冷える場所で話しこんですまなかった。冷えていないか?」
と、孔明は、自分の上着の帯を解き、趙雲にかさねて着せようとする仕草をしてみせる。
趙雲は、あわててそれを手で制した。
「今度はおまえが風邪を引く。これくらいで冷えてはいないさ。話に夢中になっていたから、冷える暇もなかった。おまえと話すのは楽しいからな。おまえの言葉を追っていると、ほかのことは、なにも考えられなくなる。そこがおまえの魅力というか、すごいところなのだろう」
客間に戻ろうとして、ふと孔明のほうを見れば、なぜだかすこしばかり頬が朱に染まっている。
「知らないあいだに、ずいぶんと力をつけたな。これでは、あと一月もしたら、あなたはどうなってしまうのだろう」
「なにが」
「屋敷にいた娘たちを、里に返していて大正解だったな。うむ、しばらくは女人と語り合ってはならぬ」
「なぜ」
「自覚のないところが問題だ。どうしても語らねばならぬ場合は、筆談にするように。まあ、もっとも、どうしても言葉をかわしたいという女人がいるなら別だが」
「そんなもの、いるか。おまえが特別なのだ。おまえのほかに、この世に特別な人間がいるとは思えない」
「……子龍、すこし黙れ」
せっかく誉めているのに、なんなのだろうと首をひねっている横では、孔明が、解きかけた帯をもとに戻しつつ、どうなっているのだ、などとブツブツつぶやいている。
「これだから、最近、あちこちから、あなたの名前を聞くはずだ。似たような調子で、そこいらを口説きまわっているのではなかろうな。わたしのまわりには、どうしてこう、人たらしがあつまるのだろう」
「人たらし? なんのことだ。それはおまえだろう」
「知らぬは本人ばかりなりか。それはもう、素晴らしくよい噂が飛び交っているぞ。いろんな人間がこの世にはいるが、あなたほどによい噂を立てられやすい人間は、なかなかいないだろうな。
人づき合いが苦手なくせして頑張って、ずいぶん疲れているだろうと心配したが、杞憂であったようだ。なんだかつまらぬ」
「疲れているのは事実だぞ。やはり人づき合いというのは苦手だ。証拠に、もう腹が減っている」
胃が空になった反動だろう。
それとも、行水のおかげか、風呂のおかげか、帰途の具合のわるさが嘘のように、趙雲の気持ちは晴れていた。
あるいは、孔明の姿をひさしぶりに見たために、心の曇りがはらわれたのが原因かもしれない。
まるで子供のようだ。悟られないように注意しつつ、おのれを嘲っていると、ふと、孔明が、さきほどの不機嫌そうな様子はどこへやら、きらきらとした眼差しを送っているのにぶつかった。
「腹が減ったと聞こえたが」
「言ったが」
「そうか、そうか。そうであろうと思った。こちらへ来たまえ。驚かせるものがあるよ」
と、孔明は、うれしそうに言うと、勝手知ったる人の家。いつもかならず通される客間に、自分から入ると、趙雲もつづくようにうながした。