55555HITリクエスト作品
青い玻璃の子馬
弐
その後、馬超は青翠という女を屋敷にとどけ、なにか釈然としない気持ちを持て余したまま、自邸に戻った。
自邸に戻れば戻ったで、習氏はあいかわらず、おかえりなさいませと慇懃に迎えてくれるのであるが、なんだかうれしそうではない。
とはいえ、自分がどこかへ泊りがけで遊びに出たら、どんな顔をして見せるか、馬超は容易に想像することができた。
気晴らしに酒を飲んでみるが、やはりなにか、気が晴れない。
善行をしたはずである。
青翠を助けてやったはずである。
なのに、なぜに気持ちがこんなにもやもやとしているのか、その理由がさっぱりわからない。
わからないまま、一夜が明けた。
※
翌日、馬超はまたも愛馬にまたがり、お気に入りの場所へとむかった。
なにか、予感があった。
あの娘、青翠が、きっとまたあらわれるような気がしたのである。
だから、昨日とおなじ時間をねらって、いつもの青草のうえに寝そべった。
そうして目をつぶって、うとうととしかけたとき、さくさくと、期待したどおりの足音が聞こえてくる。
さすがに今日は、従者をつれてくるのではないかと思った馬超であったが、そうではなく、青翠は、やはりひとりで、杖をついてあらわれた。
昨日、自邸へおくりがてら聞いた話では、この山道までは車をやとって、そこからさきは、ひとりで歩いているというのである。
この場所に、相当の思いいれがあるというのだろうか。
たしかに、断崖絶壁に突如としてひらける、むき出しの岩盤の屏風は圧巻であるが、その風景は、目が見えればこそ楽しめるものだ。
青翠のような身では、どこであれ同じ山道であろう。
ここにしか咲かない花か、あるいは木があるかして、匂いがちがうのだ、というのならば、話は別であるが。
学習能力のない女め、と苛立ちをおぼえつつ、馬超は叢から起き上がると、声をかけた。
「おい、また来たのか、懲りぬ娘よ。またおなじ目に遭うかもしれなかったというのに」
すると青翠もたいしたもので、表情をまるで変えずに言い切った。
「昨日、貴方様があれほど痛めつけたというのに、懲りずに現われるとは思えませぬ。ですから安全であろうと踏んだのですが、間違っておりましたでしょうか」
馬超は、青翠には、自分がほかならぬ錦馬超であると告げていない。
告げていたなら、娘の態度もだいぶちがうものとなったであろうが、それは、馬超はいやなのだ。
なぜだか、「錦馬超」という仰仰しい名前に邪魔されないように、この娘には本音をぶつけてみたかった。
「愚か者は懲りるということを知らぬから、愚か者なのだ。おまえも、その類いらしいな」
馬超の嫌味に、青翠は、怒りをあらわすでもなく、興味がなさそうに、ふいっと顔をそむけると、ふたたび青草の上を歩きだした。
馬超は立ち上がり、それを追うようにしてたずねる。
「おまえは、この山になにをしに来ているのだ? 探し物でもあるのか。それとも逢引でもしているのか」
「わたしが高大人の囲い者になっているということを知っているのに、なぜ逢引などということばがでてくるのです」
莫迦じゃないかしら、ということばを、次に付け加えたそうに、娘は言った。
「高大人とやらは、撫で回すだけなのだろう。なら、厳密には囲い者とは言えぬのではないか」
「理屈っぽい方なのね」
娘はあきらかに馬超とことばを交わすのをうるさがっていたが、馬超はそれでも、あえて食い下がってたずねた。
「おまえはこれから、どこへ行こうとしているのだ」
「山を下りて、また家に戻ります」
「なにもせずにか。この山に、なにをしに来ている」
「散策のためでございます」
娘はきっぱり言うと、そのまま馬超に背を向けて、杖を左右に動かしながら、さくさくと青草を踏みしだく音をさせて、遠ざかっていった。
その背中は、はっきりと、ついて来るなと語っている。
馬超は、そのだれをも拒むつよい気に押されるようにして、しばらく、その背中を見送っていた。
曹操を怖じさせ、遷都すら本気で考えさせたとまで噂された男が、なにもできずに、ぽかんとその背を見送るだけになったのだ。
その事実がなにやら妙に新鮮で、あまり腹が立てることもなく、思わず頭をぽりぽりとかきつつ、馬超はひとり、ぽつねんとのこされた。
そうして、ほんとうに何も用があるというわけではなく、娘はそのまま山道を下りて行ったようだった。
※
わけのわからぬ話だ。もう首を突っ込まないほうがいいかもしれない。
そうして愛馬にまたがって帰ろうとしたとき、ただらぬ気配をおぼえて、思わず剣を抜き、振りかえる。
咄嗟に脳裏をかすめたのは、昨日の仕返しに、あの馬鹿どもが、腕の立つものを雇ってやってきたか、ということである。
そうして構えてふりかえって見れば、そこには昨日のような、街の鼻つまみものではなく、宮城における随一の変わり者、趙子龍が、呆れた顔をして、鞘におさめたままの剣でもって、とんとんと肩をたたきつつ、立っていた。
「鬼とは貴殿か。昨日は、ずいぶんと、くだらぬものを斬ったようだな。俺は報告書になんと書けばよい?」
趙雲に問われて、馬超は考えた。
昨日斬ったものといえば、あのならず者の、あの、からす瓜っぽいもののことであろうか。
「こう書くのはどうだ。馬平西将軍は昼寝をしていた。ねぼけており、ならず者が娘を襲おうとしているのを目撃したが、なぜだかそいつらが、からす瓜を持っていることにきがついた。
そのからす瓜を切れば、ことは治まるであろうと思い、ちょっと斬ったら、逃げて行った。娘はたすかり、めでたし、めでたし」
趙雲は、あいかわらず年齢のつかみがたい、冗談だろうとおもうほどに整った顔をあきれさせて、肩の力を抜いた。
「そういうことにしておきたいが、まあよい、からす瓜が大好きな悪霊が出て悪さをしたとでも、てきとうに書いておこう。
ところで聞くが、貴殿、なにゆえこの場所にいる。ここは貴殿の地所ではあるまい」
「それはそうだが、出入り禁止の山なのか。だれかの荘園か、なにかか」
「出入り禁止ではない。それに俺の地所だ」
「ああ、それはすまなかったな。勝手に入り込んだことはあやまる。しかし、なかなか壮観な眺めではないか。
緑の林を抜ければ、いきなり断崖絶壁につきあたり、目のまえには岩盤でできあがった屏風のような崖がいくつも連なっている。わたしに詩心はないが、一句ひねりたくなるような光景だ」
馬超がいうと、この、たいがいのことでは馬超と意見を対立させる武将は、めずらしく肯定の意味でうなずいてみせた。
「たしかにおもしろい光景だ。だから、近くの子どもたちも、たまに遊びに来る。貴殿がここを気に入ったというのなら、成都にいるあいだ、好きに来るがいい。ただし、気をつけてくれ」
「なぜ。マムシでも出るのか」
「マムシも出るが、むかし、ここで事故があったそうだ。なんでもあの崖に咲く花を取ろうとした男があやまって転落して死んだそうだ。貴殿のことだから問題は無いとおもうが、くれぐれも注意してくれ」
「心得た。ところで、なぜ貴殿が直々にやってきた」
「俺の地所であるし、俺が屯所の当番であったときに持ち込まれた事件であったからな。ほかに理由はない」
と、趙雲は、馬超からしてみれば、あまりおもしろくない答えをかえしてきた。
なんだ、劉備のやつが、わたしの動向を気にして、いちばん口の堅そうなやつを寄越したのかと勘繰ってしまったではないかと思いつつ、馬超は、事故があったという断崖絶壁のほうに目を向けた。
暗い林の向こうには、殺風景な岩の屏風のつらなりと、大空だけが開けて見える。
なんだか空でも飛べそうな錯覚をおぼえるところだと、そのときは思った。
「それでは俺はこれで失礼する。貴殿は好きなだけ、ここで昼寝なりなんなりしていてくれ」
では、と言って、すたすたと趙雲は、宮城で見せる態度とほとんど変わらず、事務的な態度でもって、馬超に背を向けて帰っていく。
馬超は、客将としてあつかわれていたから、劉備の配下のほとんどから、私的な宴に招かれて、主賓としての待遇をうけていた。
だが、唯一、そうした『特別扱い』をする気配をみせないのが、趙雲という男であった。
はじめて見たときには、あまりに整いすぎている容姿ゆえに、なるほど、脇に置いておきたくなるような、立派な柱のような男だな、と思ったものだが、成都で何度か顔を合わせて、少し考えが変わってきた。
こいつ、見た目だけの男とはちがって、なにやら内側に秘めたものがあるような気配を、どこか漂わせている。
つまり、なにやら意味ありげな感じが、馬超にはするのである。
意味ありげでわけがわからぬといえば、さきほどの娘もそうであったが、この男もわけがわからぬ。
あらわれたのが張飛であったなら、もっと事情を、根掘り葉掘り聞きだそうとしてくるだろう。
厳顔や黄忠であったなら、こんな崖っぷちで、昼寝など危ない、と説教がはじまっただろうし、漢中にいるのであらわれることはなかろうが、魏延であったなら、これを縁とばかりに、やたらと擦り寄ってきて、酒席にさそってきただろう。
こいつの、この無関心ぶりは、なんなのだ?
ふとした思いつきであった。
馬超は、思いついたら即実行のひとである。
後先のことは、なんとかなるさと考えている。
だから、この男と酒を飲んだらどうなるだろうという好奇心に動かされるまま、趙雲の背中を追いかけていた。
「おい、翊軍将軍、これからどうする」
趙雲は、馬を山道の入り口に待たせてあるらしく、歩いて山道を下っていたが、馬超に問われて怪訝そうにふりかえった。
「これから、とは」
「ことばどおり、これからだ。屯所に帰るのか。それとも、屋敷に帰るのか。どっちだ」
その先につづくことばを予測したのか、馬超よりいくぶん年下の武将は、一瞬だけ、迷惑そうな表情をうかべた。
そこでひるむ馬超ではない。
思いついたら実行しなければ気が済まないし、思い通りにいかねば、腹も立つ。
「貴殿、いま、言い訳を考えておるな」
ずばり言うと、趙雲のほうもまたあきれたことに、正直に答えた。
「よくわかったな。ついでに言わせてもらうが、俺ほど晩酌の相手としてつまらぬ者はほかにおらぬぞ。ほかをあたったほうがよい」
回転の早いやつ、と苦りつつ、馬超は言った。
「なぜだ。錦馬超のさそいを断る莫迦は、おまえだけだぞ。相応の理由がなければ納得せぬぞ」
すると趙雲もたいしたもので、まっすぐ馬超の顔を見返して、じつに平然と言ってのけた。
「単に、俺が、人付き合いが好きではないという理由では、納得できぬか」
「む?」
趙雲のことばに、馬超はなにか引っかかるものがあった。
どこが引っかかったのかはわからないが、胸のなかにくすぶって晴れないもやもやを、なにか追い払ってくれる鍵のようなものを、馬超は、そこに見つけたのである。
「なにやら気になる」
「なにがだ。先に言っておくが、俺は主公に頼まれて貴殿の様子を見にきたのではない。純粋に、屯所に持ち込まれた『鬼退治』に足を運んだだけだからな。
何を気にしているのかはしらぬが、俺に貴殿の心を満足させるようなものがあるとは思えぬが」
深読みするやつめ、しかも一部、当たっているところが、いささか心憎い。
「いや、主公のことはよい。わたしが気にしているのは、貴殿のことばの、ええい、うまく言えぬが、『なにか』だ」
「なんだそれは」
「わけがわからぬだろう。わたしも自分で口にしていて、わけがわからぬ。ゆえに、理由を知りたいのだ。だから、すこし付き合え、翊軍将軍」
ちなみに、馬超は平西将軍で、趙雲よりも位は上である。
今度こそ趙雲は迷惑そうな顔をしたものの、しかし、本音を言ってもなお誘われて、うまく断ることばも思いつかなかった様子で、結局、二人して成都の繁華街にもどり、酒席を設けることとなった。
※
酒席の結果はといえば、馬超からすれば、収穫なし、であった。
酒というものは、人のこころをほがらかにしてくれる、楽しい飲み物ではなかっただろうか。
こんなふうに、葬式のような酒席は、はじめてである。
まず、趙雲は、ほとんどしゃべろうとしなかった。
馬超のほうが気をつかって、なんやかやと話題をみつけては、ことばをかけてみるのであるが、帰ってくる返事は、つれないものばかり。
会話は一度としてはずむことはなく、沈黙の間を埋めるためだけの酒瓶だけが増えていく、といったありさま。
最終的には、ここまで飲む予定ではなかったのにと、後悔するほど飲んでいた。
この男は、こちらに気を使っていないのかなと、ちらりと馬超は趙雲を観察するのであるが、ほとんど忘れたころに、ふと趙雲のほうが話題を振ってくるので、どうやら、ほんとうに単純に、話が合わないだけらしい。
これで、多少世知に長けた男なら、噛みあわないならば、噛みあわないなりの知恵をつかって、場をもりあげようとするものだが、趙雲はその知恵すらない様子だ。
馬超から観察するに、この男がいつまでも若々しく見えるのは、こうした、あまりよくない意味での、つたない、とも言い換えられる幼さが原因にあるのかもしれないと思った。
おそらくは、『人付き合いが得意ではない』という理由は、ほんとうで、自覚があるがゆえに、馬超に最初に示した態度でもって、老若男女のほとんどを拒んできたのであろう。
そういえば、こいつはめずらしく妻帯していない男だったな、とも馬超は思い出す。
妾を幾人ももつ馬超としては、信じられない環境である。
しかし、『人付き合いが得意ではない』趙雲には、それが楽なのであろう。
「それにしても気が利かなさすぎる! おのれの至らなさが不甲斐ないとか、そういう反省は、貴殿にはないのか!」
と、酔った勢いもあり、馬超は趙雲に詰め寄ってみる。
趙雲は対称的にざるであったらしく、頬をわずかに上気させたままの状態で、平然と答えてきた。
「気が利かないとはなんだ。酌をする回数が足りないというのならば、あらためて酌をしてやろう、ほれ、杯をよこすがいい」
と、酒瓶をかたむける趙雲を、馬超は手ぶりで払った。
「ちがう、ちがう、そうではない。わたしが言いたいのは、そんなことではないのだ! よいか、翊軍将軍、いま、貴殿の目のまえにいるのは、だれだと思う? 馬孟起! 錦馬超と恐れられた、涼州の英雄なるぞ!」
「そうだな。だからなんだ」
莫迦にしているわけでもない、その淡々とした問いかけに、馬超のほうは、かっと頭に血をのぼらせた。
「だからだな、ふつうは、以前のことをあれこれ聞いてくるものだ! おまえと親しい軍師将軍もそうであったし、揚武将軍も、ほかの連中も、俺が神威将軍と呼ばれていたときの様子をくわしく聞きたがった。
そうして、どのように軍を統率したのかとかな! あるいは、張魯のところにいたときの様子などもだ!」
「武勲を聞いてほしいのか。ならばたしかに気が利かなかったな。軍師から、あらかたのことは聞いていたから、いちいち口をひらかせて、貴殿に苦労をかけさせては悪いと思ったものだから、聞かなかったのだ」
「む?」
「そうか、ふつうは聞くものなのか。俺は、俺の武勲であれ、昔のことをあれこれしつこく聞かれるのは好まぬ。ゆえに、貴殿も同じだろうと勝手に思ってしまったのだ。なれば、聞こう。教えてくれ。ちゃんと聞こう」
趙雲は生真面目なところをみせて、威儀をただし、馬超の話を聞こうとするのだが、管を巻いていた馬超のほうが、かえって酔いが覚めてしまい、しらけてしまった。
「いい。どうも貴殿は『聞かねばならないようだから聞く』というふうだ。そういう相手にまで、押し売りのようにおのれの話を聞かせるほど、わたしも図々しくないぞ」
すると、趙雲は困ったような顔になった。
「となると、やはり、貴殿とは話題がないな。ほかの軍のことか」
ここで世慣れたものならば、たがいの出自のことや、親兄弟のことが話題になるのであるが、馬超が気を利かせてそれを聞こうとすると、趙雲はにべもなく、それは語りたくない、ときっぱり断ってきた。
では自分のこととなるわけであるが、それは、趙雲は人づてに、もういろいろ聞いている、というのである。
『こやつ、つまり、わたしにさほど興味が無いのだな』
というのが、馬超が引き出した結論であった。
新鮮といえば新鮮である。
天下の馬超の話である。
それを人づてのあやふやなものではなく、本人から聞ける機会にめぐまれたなら、たいがいは喜んで、場ははずむ。
しかし、この男は、もとより馬超に興味がないのである。
話にならない。
『いや、わたしは、この男に自慢話をしたかったわけではない。うむ。ほかの話題を探すか』
考えてみるものの、しかし、馬超と趙雲、それまでに接点はあまりにもなかった。なさすぎた。
立場もあまりにちがう。
華々しい経歴をもつ馬超にくらべ、趙雲の功績は地味であったし、いまの地位とて翊軍将軍という、なにをやっているのか名前だけではよくわからない雑号将軍だ。
噂では、軍師将軍の使い走りということだが。
それに、もともとの性格が『合わない』。
だから共通点もないために、話題がなにもないのである。
気疲れした馬超はそんなことを思いつつ、じつに白けた空気のまま、酒席はおひらきとなった。
そうして、ふと気づいた。この空気、なにかに似ている。
そうだ。わが屋敷の、いまの空気にそっくりではないか。
習氏と一緒に二人だけでいるときの、あの気詰まりな空気である。
山で思った、なにか気になると思ったあの感覚は、趙雲のなかに、習氏と同じものを感じ取ったからだったのか。
趙雲の考えのなかに、どこかよそよそしい習氏の真情、をつかめないかと考えたものだったのか。
それでは、なにか得られたかと問われれば、答えは、否、であった。やはり疲れただけである。
※
馬は邪魔なので、趙雲の従者が、先に気をきかせて屋敷にまでつれて帰ってくれている。
趙雲は酒につよい体質であったらしく、馬超とほぼ同等の量を飲んでいたにもかかわらず、まるで酔った様子ではない。足元もしっかりしており、顔もいつもとかわらず、なんというか鉄面皮である。
こういう、なんというか、でくの坊ともちがうが、何を考えているのか、掴みにくい男も、この世には存在するのだなと思いつつ、馬超は、二度とこやつとは飲むまいと思いながら、帰路をいそいでいた。
と、夕暮れの市場のなかで、ほかがほとんど店じまいにいそがしいにもかかわらず、それでもなお、客が集まっている店がひとつだけある。
覗いてみれば、どうやら玻璃細工の店である。
集まっているたいがいが、若い者たちで、店主は、成都ではあまりめずらしくない西域の、黒い縮れ毛に彫りの深い顔立ちをした男であった。
これが、たくみな漢語をあやつって、あつまった若者たちと交渉し、紙になにやらかきつけて、金を受け取っている。そうして若者は去っていく。
おそらくは、いま成都で流行しているという玻璃細工の店であろう。
予約注文・前払い、というわけだ。
興味をひかれた馬超が店をのぞいたので、趙雲も足を止めるが、若者のにぎやかさがうとましいのか、店内には入ろうとしなかった。
店のなかはずいぶんと質素であった。
見本か、あるいは受取人を待っているものとおぼしき、いくつかの掌におさまるようなちいさな玻璃細工がならべられており、中央に、店主の立っている台座があって、紙があり、ひとびとが並んでいる。
行列にはつい並びたくなる馬超は、その列につづいた。
趙雲はというと、困ったような顔をしていたが、馬超が無理にさそって列に並ばせた。
容姿も際立って目立つ、身の丈八尺の大男が、いきなりふたりも列に加わったのだ。周囲にいた若者たちは、なにごとかという様子で振りかえり、それまで、馬超たちのまえに並んでいた者も、なにをおそれてか、順番を先に譲ってくれた。
それを好意的にうけとり、馬超は、店主の前に立つ。
店主も、馬超が羌族の血を濃く引いた顔立ちであることには、さほど注意を払わず、気持ちよいほどに、ふつうに尋ねてきた。
「どのような形の細工物もお作りいたしますよ。お急ぎの方は、いま頼んでくださるなら、明日には受け取れるようにできます。ただし、料金は通常の倍いただきますが」
「商売上手だな、おやじ」
ちらりと店の奥を見れば、奥は工房に繋がっているらしく、たまに、店主とおなじく西域からやってきたとおぼしき職人らしい男が、『勘弁してくれ』『国に帰りてぇ』といった意味のつぶやきをもらして、ふらふらと横切っていくのが見えた。
不眠不休体制であるようだ。
そして馬超は、見本、あるいは完成品としてならべられている細工物をみた。
そのなかに、赤い馬の細工物があった。
おそらくは、どこかの娘が、武人に贈ろうとしているものではなかろうか。
娘のつたない知識で考え出した、玻璃の『汗血馬』というわけである。
そうしてふと、馬超は、いつか董氏が、赤い馬がいるのなら、青い馬がいたら面白いのに、という冗談を口にしていたのを、馬超は思い出した。
白でも、黒でもなく、青空をそのまま切り取ったような、真っ青な馬である。そんな馬がいたら、さぞかし美しかろうと、彼女は言った。
そしてその馬は、千里どころか万里をも駆け抜けることのできる馬だ。
そんな馬がもしいたら、部族間の争いも、漢族とのいさかいも全部捨てて、だれも追いかけることが出来ない土地へ、ふたりで行きたいと言っていた。
どんな馬であれ、追いかけることの適わぬところへ、あの女は、息子と共に行ってしまった。
「どんな造形でもよいのか。なら、青い馬を作ってくれ」
「馬でございますね。よろしゅうございます。どうぶつを作るのが得意なのが、うちにはたくさんおりますから、きっとお心に適うものをお届けいたしますよ。で、そちらさんは、如何なされますか」
と、店主が声をかけたのは、趙雲に対してである。
「ここの店の玻璃細工を、心に想ってらっしゃる方に贈ると、その想いは成就するのですよ。どうです、ものはためし、作ってみませんか」
馬超はおどろいた。
店主がそう言ったとたん、ほんの一瞬であるが、ほとんど表情らしいもののなかった趙雲が、さっと表情を変えたのである。
すぐに元に戻ったが、そのうろたえた顔を見て、馬超は直感した。
『こやつ、惚れた女がいるな』
こうなれば、もともと世話好き、お祭り好き。店主とともに口ぞえする。
「貴殿の俸禄からすれば、細工物に出す金など、微々たるものであろう。物はためし、なにか頼んでみたらどうだ。ん?
たとえ、うまくいこうと、いくまいと、それは天を運にまかせろというものだ。しかし、たいしかに玻璃細工はうつくしいものだから、嫌がられることはないであろうしな。どうだ、ひとつ」
憮然と趙雲は言った。
「貴殿、何を言っている」
「この錦馬超に隠しごとなどできぬということだ。ほれ、あとがつかえておる。何か注文しろ」
事実、趙雲のあとにも、ずらりと人が並んでいる。
すでに夕暮れ、若い娘の姿もそこに見つけた趙雲は、引っ込みが付かない状況にいることを悟ったのか、やはり憮然としたまま、言った。
「では、白い龍を」
「白い龍、でございますね。龍は縁起物でございますからねぇ、お若いお嬢さんが、恋しいお方のために、よく注文されるものでございますよ」
「なんだ、貴殿、自分のためのものとして注文するのか、つまらぬ」
馬超が、つまらなく思って言うと、今度こそ趙雲は不機嫌そうに、
「貴殿には関係ない!」
と、つよく言い返してきた。
あの生きた人形のように見えていた趙子龍にも、なるほど、人の子としての気持ちがちゃんとあったわけである。
思わぬひみつを得た馬超は、なにやら思わぬ発見に、うきうきしつつ屋敷に戻った。
そうして、習氏の出迎えを受けるのであるが、上機嫌な馬超の顔を見ても、習氏の態度はいつもと変わらない。
馬超としては、習氏に、今日の顛末を聞かせてやって、一緒にあれこれ話してみようと思っていた。
これが董氏であったなら、話も際限なくつづき、趙雲の想い人がだれなのかと、あれやこれやと面白おかしく話ができたであろう。
しかし、習氏の顔を見るなり、馬超の機嫌はぱっと風が攫って言ったように失せ、あれこれ言おうと思って用意していたことばもなくなってしまった。
習氏は、馬超の身づくろいを手伝ってくれながら、家であったことを淡々と語る。
酒の匂いを全身からさせているというのに、だれと一緒だったかは尋ねてこない。
そういえば、この女は、自分からわたしに、なにか尋ねてくる、ということがあっただろうか。
さきほどの趙雲の様子と、習氏の姿がかさなり、とたん、馬超は嫌な気配にとらわれ、あわてて考えを振りほどいた。
錦馬超の、正妻の座はあたえていないが、同等の待遇を受けている女。
そこになんの不満があろう。
なのに、いや、そんなことはない。ないはずだ。
習氏が、このわたしに、まったく無関心などということなど、あるはずがない。
(C)Hasamino Nakama 2006 07