55555HITリクエスト作品
青い玻璃の子馬
一
孔明の主簿である胡偉度が、絹のちいさなつつみをふところから取り出したのを見て、陳到の娘である銀輪は、もしやと胸をときめかせた。
成都では、いま流行っているものがある。
それは、はるか大秦国(ローマ)から流れ流れて成都にやってきた職人集団がつくりだす『玻璃(ガラス)』でつくった、ちいさな人形、あるいは装飾品である。
金属の粉、あるいは玉石をこまかく砕いたものをおりまぜて、高温でもってさまざまな形につくりあげるその細工、むかしから無いわけではなかったが、あたらしく工房をかまえたかれらの技術はとくに繊細ですばらしく、娘たちの気を引くに十分な愛らしいかたちと色をしていたので、たちまち大流行となったのだ。
そしていま、成都においては、この玻璃細工を、意中の娘に贈って、きもちを示すのが、若い者のあいだではやっている。
果物を投げるなんていうのは、もはや野蛮で古代の風習だ、というわけである。
であるから、銀輪もそれを期待して、偉度が、剣を持つ身のわりには、おどろくほど細く繊細な指でもって、絹を取り出したとき、もしかしてと思ったのであるが、しかし、なかから出てきたのは…
「なんで亀なの」
それは、亀に蛇がからまっているという、奇体な姿をした神・玄武をかたどった、青銅の置物であった。
みるなり、不機嫌そうな顔を浮かべた銀輪に、偉度こそ、怪訝そうにする。
「なにを怒っている。これは軍師からのお使いものだと言っただろう。おまえの母上の容態がよくないと聞いた軍師がだな、わざわざ故郷の琅邪において、魔除けの達人とうたわれる老師にたのんでもらってきたものなのだぞ」
「ふーん」
銀輪の声には抑揚がまったくない。
それもそのはず。
ちっともうれしくなかったからだ。
銀輪の母の容態は、このところ、よかったりわるかったりをくりかえしていた。
世界一とまでいわれる名医華侘をのぞいては、ありとあらゆる医者に見せたのであるが、診断はみなおなじで、ともかく養生するようにといわれるばかりなのである。
「どうもありがとうございます。軍師によろしくおつたえくださいませ。母上にきっとお渡しいたします。母上もそのうちに挨拶にうかがわせていただくと思いますが、そのときはどうぞよしなに」
「なんだ、その紋切り型かつ、音律のまるでなってない台詞。だいたい、病人のおまえの母上がきたら、軍師がかえって恐縮するだろ。礼を言ってくれるというのなら、軍師が直接、こっちにくると伝えておいてくれ」
「わかりました。そうします。さよなら」
そうして、ばたりと門を閉めようとする銀輪に、あわてて偉度は足を差し入れて、門が閉まるのを押しとめた。
「待て。おまえ、なんか怒ってないか? 玄武が気に入らないのか? たしかに見舞いの品に玄武はないと、わたしも思う。気味が悪いからな。
わたしもそう思ったのだが、軍師は、『うちに置いておいて置いて、夜中に起きたときに目があったら、いやだ』とかわけのわからないことを言ってだな、いや、押し付けたわけじゃないぞ。あのひとだって、真剣に見舞いの品を考えて、これになったのだ」
「わかってるいるもん」
ふくれっ面になりながらも、孔明のことばにウソはないだろうことを銀輪は思ったので、答えた。
ますます、偉度は怪訝そうになる。
「だったら、なんだっておまえは、そんなふうに怒っているのだ」
「偉度さん、玻璃って知っている?」
「知っているとも。あの壊れやすいものがどうした」
「………もういい」
そう言って、銀輪はばたりと扉を閉めると、扉の向こうの偉度にむかって、おもいきり、
「わからずや!」
と、叫んだ。外にいる偉度に聞こえたかどうかは、定かではない。
馬超の任地は臨沮(りんそ)にあるわけであるが、このたび、劉備との会見のため、家族とともに成都の屋敷にまでやってきていた。
臨沮には、だれより信頼している従弟の馬岱がのこっている。
このだれよりも信頼する馬岱が、家族と呼び、実際にそのように遇している、ともに涼州から移り住んできた、自分の自慢の騎馬軍団の面倒をみてくれているから、問題はない。
劉備も、最初に馬超をむかえてくれたときのことばどおり、
「あんたは俺の部下ではなく、僚友なのだから、好きに振る舞ってくれていい」
ということばを守って、馬超を家臣としてあつかわず、あくまで客将、どころか上客のようなあつかいで、もてなしてくれた。
それに従い、法正や孔明も、馬超には礼を尽くしてくれており、また、成都の民も、最初はその名を聞いただけで忌み嫌って、よそよそしくあったが、劉備の態度にしたがって、最近では、頼もしい英雄のひとりとして尊崇のまなざしをむけてくれるようになった。
しかし、馬超の心は、鬱屈としている。
馬超の問題は、べつなところにあった。
馬超には、臨沮に居をかまえるようになってからむかえた、妻がいた。
これを習氏という。
このたび、成都におもむくにあたり、この習氏と、そのあいだにうまれた娘を連れてきたのであるが、最近、この妻と、仲がうまくいっていないのである。
習氏は、臨沮一帯に古くから勢力をのばしている豪族のむすめで、錦馬超の声望をきいた習氏の父が、ぜひこれを縁にと、差し出してきた女である。
そういったことはめずらしくなく、馬超には、ほかにも数人の妾がいた。
これもまた、似たような理由から差し出されてきたもので、曹操すら怖じさせた天下の英雄・錦馬超とよしみをつくっておきたいという、豪族たちの心が、どれも似たりよったりだったというわけだ。
そんな女たちのなかでも、唯一、子を成してくれたのが習氏であった。
習氏を正妻として遇すことはしなかったが、馬超は、この女をすこしとくべつなところに置いていた。
習氏の器量は、正直なところをいえば、十人並みである。
ほかの妾のほうが、よほど若くて器量よしだといえた。
しかし習氏のよいところは、控えめで、寡黙で、賢いところであった。
この賢さとは、字が読めるとか、むずかしい詩文を諳んじることができるとか、そういった賢さではない。
習氏は、黙っている時には黙り、口にせねばならぬときには、的確なことを口にできる、聡明な女であった。
忍耐づよく、馬超が押し黙っていても、おなじように沈黙し、無理に機嫌をとろうとしない。
その嫌味のない、癖のなさが気に入って、馬超は、習氏に子を産ませたと言い換えてもよいだろう。
習氏の産んだ娘も、馬超が益州に慣れてくるのとおなじくらいのはやさで、どんどんと大きくなっていき、もう多少のことばならば口にすることができる、利発でかわいらしい子である。
馬超が内心、ほっとしたことには、生まれた娘には、自分には濃く出ている羌族の血が、あまり出なかったことであろう。
肌はいささか褐色で、目鼻立ちはくっきりぱっちりしていたけれど、漢族の娘とちがったところは、どこにもない。
馬超はこの娘はとてもかわいがっていたが、しかし、娘のほうは、鋭敏なたちであるらしく、母親と父親がうまくいっていないことが、子ども心にわかるらしい。
あからさまに、父親を避けるのである。
母親がそう仕向けているのではない。
あきらかに、習氏は、娘が父親になつかないことに困惑をしている様子である。
なにかと、娘と父親である馬超のあいだをとりもとうとするのであるが、すこしもうまくいかない。
娘はどうやら、こうと決めたら貫きとおす、つよい心を、馬家からしっかり受継いだらしかった。
その子どものこと、そして生母である習氏のことが、馬超にとっての鬱屈の種である。
なぜ、うまくいかないのか。
習氏は、もともとおとなしい女で、それこそ、声を立てて笑うことすらも稀な女であった。
神経質なところがあり、屋敷はいつも清潔で、益州の女の例に漏れず、迷信深いところがある。
馬超は、この女と一緒にいて、退屈することはなかったが、しかし、心から楽しめることもなかった。
習氏の実家は、なかなかの権勢家であったから、嫁いだ娘のために、馬超の心が離れぬよう、あれこれと贈り物をしてきたり、あるいはさまざまな宴をひらいては、これにさそったりと、『婿』を遇してくれるのであるが、馬超には、習氏の実家の心遣いと比例して、習氏自身に、自分への愛情が薄いような気がしてならないのである。
そうして思い出されるのは、どうしても、置き去りにしたあげくに死を選ばせることになってしまった、最愛の女、董氏と、董氏の生んだ子である、息子の秋のことであった。
張魯のところから逃亡する際、馬超はこのふたりを置き去りにせざるをえなくなり、結果、董氏はみずから辱めをおそれて死をえらび、息子の秋もおなじく死を選んだ。
馬超と董氏は、歳が近かったということもあり、堅苦しい気遣いがほとんど必要の無いあいだがらでもあった。
あれこそが、まさに恋愛であったのだと思う。
そばにいるだけで楽しかった。
とくに知恵をひねるでもなく、してやりたいこと、してほしいことが浮かんだし、離れれば離れたで、いまはどうしているだろうとか、つぎに顔をあわせたとき、なにを土産にしようかとか、どんなことばをかけてよろこばせてやろうとか、浮き立つ心で考えていた。
習氏とはどうかというと、まったくそういった心の動きがないわけではなかったが、まず、習氏のことを思い出すのと同時に考えてしまうのが、娘のことであり、つぎに、習氏の実家への気遣いであった。
習氏の実家は、馬超ばかりでなく、涼州兵たちの面倒までも、あれこれと見てくれていたのである。
もはや、習氏は軍団からみても、なくてはならない存在となっていて、余計に馬超は気を遣うのだ。
つまり、習氏とは、父と母、協力者の仲立ちという間柄にはなれても、男と女になりきれないのである。
董氏と一緒にいたときは、まだ若かった。
実際より若く見られることがおおいが、馬超は、いまはもう、四十をだいぶ超えている。
習氏に対する気持ちが浮き立つことがすくないのは、自分が老いたからであろうかと馬超は考える。
そうして、習氏といっしょにいると、気詰まりにさえ思う自分に気付いてしまい、さらに自分で傷つくのであった。
馬超は、誤解されやすい男ではあるが、根はやさしい男であったから、人を傷つけたり、失望させたりするのが、ともかく嫌であった。
そんなふうにするならば、自分がぼろぼろになったほうが、マシだとすら考える男であった。
だから、習氏ががっかりするところを見たくないあまり、無理に屋敷にとどまっているのであるが、しかし、当の習氏が、なにやら馬超に対して、気詰まりな様子を見せているのである。
馬超はそれまで、習氏が自分に対して愛情をもっていないのではないか、などという疑問をいだいたことが、一度もなかった。
それは、ほかの妾たちに対してもおなじである。
なにせ天下の『錦馬超』の女になれるのだ。
この栄誉によろこばない女がどこにいる?
習氏はしかも、正式ではないけれど、子を成したから、正妻とおなじあつかいを受けているのである。
豪族の娘として、これほど名誉な話は、なかなかないだろう。
だから、自分に感謝し、これに愛情をいだくのは当然ではないかと、馬超は思っていた。
ところがだ。
習氏の、反抗するわけではないけれど、どこか壁を作っているような、よそよそしさの含まれる態度にぶつかるにつけ、馬超は、自分が愛されていないのではないかと疑うようになっていた。
かといって、自分を愛していないのではないかという、この疑問を習氏自身にぶつける勇気が、なんと、天下の馬超には、なかった。
と、いうのも、習氏を怒らせるということは、すなわち、家庭内にごたごたを生むということであり、そういった面倒は、馬超はいやだったのだ。
それに、習氏の実家の力がなくなるのは、いまの馬超にとっては痛い。
打算的であるが、現実問題としてそうである。
というわけで、自然と習氏と馬超のあいだは、ことばがすくなくなり、たがいの様子をうかがいあう、緊張したものとなった。
この隙間に、ほかの妾が入ってこなかったのは、幸いだった。
というのも、この隙間を埋めてくれるのが、娘の存在で、男と女としては隙間のある存在でも、父母としては、ふたりはうまくやっていたからである。
こうした打算のなか、馬超は疲れて、屋敷を従者もつれずに、ひとりで遠出に出ることが増えるようになった。
いまだに曇天のおおく、湿気のおおい、益州のじめっとした、それこそ伝説の生きものが、ごくごくふつうにひょっこりと顔をだしそうな神秘的な風土には慣れなかったけれど、屋敷で、らしくもなく、あれこれと習氏の機嫌をうかがいながら過ごすよりは、外で、ひとりでいたほうが、よほどマシであった。
そうして愛馬を疾駆させ、てきとうに成都の郊外をはしる。
順路は決めていない。
最近は、法正や孔明らが編纂した蜀科の効果で、野盗も減ったという。
たしかに街道はしずかで、馬超はなにに邪魔されることもなく、のびのびと大地を走ることができた。
そうして、お気に入りの場所がひとつ、できた。
それは成都の郊外の、とある何の変哲も無い雑木林の果てにある崖っぷちで、おそらく地元の物が山菜採りのためにつかうであろう農道をぬけていくと、とうとつに林が途切れて、目のまえに、切り立った、それこそ伝説の巨人・盤古が切り崩したのではないかとおもうほどに、岩盤を削り落としたような、殺風景な屏風岩がつらなっているような山岳がひらけるのである。
緑深い林の向こうにある、無機質な灰色の光景との落差が気に入って、馬超は、愛馬をここにはしらせると、しばらく、そこで休むようになっていた。
この唐突で、一見すると関連性のなにもないような光景も、自然からすれば、まさに『自然』なものなのだろうと、あたりまえのことを、草の上に寝そべりながら、馬超は思う。
そうして、じつにらしくない状況に苦しんでいるおのれを振り返り、ひとり、心を沈ませるのであった。
そんなふうに過ごしていた、ある日のことである。
毎日のようにだれかの屋敷に招かれていた馬超であるが、さすがに疲れてきたので、その日はなにも予定をいれず、馬をはしらせて、崖にやってきていた。
ここに足を運ぶようになってから、ほかのだれかと顔をあわせたことはない。
たまに、ぬかるみに人の足跡がのこっているから、ほかに、だれかがこの場所を使っていることはわかっていたが、すくなくとも、成都の町中にいるのとちがって、孤独をたのしめるのには、まちがいなかった。
やわらかい草のしとねのうえで、目をつむっていると、さく、さく、と、軽い足音が、草のうえをあるいてくる音が聞こえてきた。
どうやら、だれかがやってきたものらしい。
鹿やたぬきの類いではないだろう。足音がそれにしては大きかった。
とはいえ、大人の男でもあるまい。足音が軽すぎる。
女、あるいは子供か。
馬超は、いい意味でもわるい意味でも、両方のことが好きであったから、向こうを驚かせてもいけないだろうと思い、上半身をおこして、あらわれる何者かにあいさつをしようと思った。
そうしてみれば、やってくるのは、粗末ではあるが清楚な身なりをした若い娘で、まっすぐ前をむいて、ゆっくりと慎重に歩いている。
その手にはその身を先導するための杖があり、杖の先は、行く手の安全をたしかめるために、ひっきりなしに右に、左にと動いている。
娘の目線が、真っ直ぐ正面からほかに向かないところから見ても、娘が盲目であることはすぐに知れた。
従者を連れていないようであるから、良家の子女ではあるまい。
だが、その顔を見たときに、馬超は、野に咲く可憐な、名前も知らない白い花を思い出した。
青白い肌をしたその娘は、垢抜けてはいなかったけれど、聡明そうな、かわいらしい顔立ちをしていた。
盲目の娘が、なにゆえこんなところで一人で歩いているのだろう。
ちらりと、崖のほうを気にしていた馬超であるが、娘はというと、ちゃんと農道に沿ってあるき、崖のほうには向かわない様子である。
これは、かえって声をかけないほうが、驚かせないだろうと考えて、娘がさくさくと道を行くのを見守っていると、そのうしろから、邪魔なものが数名。
いかにも街の鼻つまみものだとわかる男たちが、小走りに娘を追いかけてきたのである。
かれらは、叢に隠れる格好となっている馬超と、そのそばにつないである愛馬には気づかない様子である。
「おい、待て、青翠、どこへ行くのだ」
青翠(せいすい)という名であるのかと、馬超は、その粗野な男のことばで、娘のなまえをおぼえた。
うすい灰色の衣に、うすいみずいろの帯をしめた、名前にぴったりの落ち着いた色合いの服をまとった娘である。
手にした杖は白く、男たちがあらわれても、青翠は、まるで聞こえないかのように、たんたんと道をあるきつづけていた。
が、馬超は、近づいてくる男たちの顔を見るなり、ひどく不愉快な心持ちにおそわれた。
男たちの顔に浮かぶその顔には、はっきりと、この人気の無い場所で、いかに娘を思うようになぶってやろうかという、その思惑が浮かんでいたからである。
名前を知っているからには、知り合いなのだろう。
青翠という娘が、なぜひとりで、こんなふうに人気の無い場所を(若い娘にとっては、危険な場所であるといえよう)を歩いているのかはしらない。
知らないが、どうやら、男たちは、青翠がこの場所に入るのを見て、よからぬ思惑で持って、追いかけてきたようであった。
「青翠、すこし、話をしないか」
男のひとりが、なれなれしく口をひらいた。
ことばをいくらか交わすことで、これから自分たちが行おうとしている狼藉の罪の重さを、軽くしようとでも思っているのだろうか。
「どこへ行くのだ。こんなふうにひとりでは、あぶないだろう。俺たちが一緒についていってやろう」
狼の群を引き連れていくのとおなじである。
青翠は、沈黙のまま、さくさくと道を踏み分けていく。
最初、馬超は、青翠が黙っているのは、おそろしさのためであろうと想像していた。
なにせ男たちは四人。
自分は目が見えない。
まわりには、助けてくれそうな者はいない。
これでは、たしかに恐ろしかろう。
しかし、青翠が、馬超が寝そべっていた場所にどんどん近づいてくるにつれ、そうではないことに気がついた。
馬超は、青翠が、耳も聞こえて無いのではと疑った。
それほどに、青翠の表情には、恐怖や戸惑いが浮かんでいなかった。
かといって、まさか喜色が浮かんでいるわけでもない。
無色な女。
そんな奇妙な言葉が頭に浮かぶ。
男たちはたがいに目配せをして、青翠をてきとうな藪の中に押し倒す計画を、無言のうちにたてている。
間近にいる青翠に、その気配が感じ取れないはずがない。
それでもなお、青翠の表情はうごかない。
いや。
馬超は、じっと娘の表情を観察していて、気がついた。
娘には、表情がないのではないのだ。
恐怖もなにも通り越して、すっかりあきらめきった顔をしているのである。
こういった目に遭わされるのは、じつは一度や二度ではないのではないかとさえ、馬超は嫌な想像をはたらかせた。
と、同時に、怒りが沸きあがる。
女子どもを理不尽に傷つけて平然としていられるような輩は大嫌いだ。
そういう輩こそ、この刃の餌食になるべし。
というより、ただ斬るだけではすまさぬ。
宦官にでもして、劉備に献上品として贈りつけてやれ。
腰に帯びた剣の柄に手をかけた馬超のこともしらず、男の一人がいう。
「なあ、おまえも、なんにもしらないわけじゃないのだろう。なにせ高家の旦那の囲いものになるののが決まったそうじゃないか。
それも、高家の旦那はいまからおまえにご執心で、もうおまえの家に通いつめているって。いい思いをさせてもらっているのだろう。
なあ、おまえが高家にもうすぐ引き取られてしまうのは聞いているのだよ。その前に、おれたちにも旦那とおなじことをさせてくれよ、さびしいんだよ、青翠。おまえみたいにやさしい娘なら、俺たちのことをなぐさめてくれるだろう」
いいながら、男が青翠の肩をつかみ、藪のなかに引き込もうとする。
娘は、一瞬だけ抵抗する素振りをみせたが、すぐに力を抜いた。
抵抗することを、あっさりとあきらめてみせたのだ。
それを見て、男たちはたがいに顔を見合わせて、よこしまに笑いあった。
「言ったじゃないか、こいつは、だれになにをされても文句を言わない。あの変態のひひじじいの言いなりになっているくらいだ。俺たちの言うことだって、ふつうに聞くさ」
「高家の旦那なんかより、おれたちのほうが、よっぽどやさしくしてやるよ、ほら、そこに横になれ」
どん、と乱暴に娘を藪に突き飛ばし、逸る気持ちをおさえきれぬとでもいうように、男が自分の帯に手をかけた。
そうして、前をくつろげてみせるのであるが……
「斬るにしても小さすぎて、なかなかむずかしいな。からす瓜を切り取る要領でよいのかな」
などと軽口をいいながら、ひゅん、と刃が男の鼻先を掠める。
と、同時に、すさまじい、それこそ筆舌に尽くし難い激痛が、股間を襲った。
ぱっと鮮血が、青草の上に散る。
まるで若者は、命を取られたように絶叫するが、馬超は、若者の、その粗末なものの表面を、ちょっぴり傷つけただけにすぎない。
「つまらぬものを斬った」
いいながら、馬超は、ほかの三人のほうを振り返ると、無造作に言った。
「おい、おまえたちも脱げ」
ことばの意味がつかめずに、凶悪な闖入者の出現におどろきうろたえる三人であるが、馬超は短気なところをみせて、ぼう然としている男たちの帯を、ざくり、ざばりとみずから切り取った。
そうして、下着のうえからでもかまわぬと、畏縮しているそれを斬ってしまおうとするのであるが、とたん、三人の若者と、大事なものを斬られて恐慌に至っている若者は、怪物に遭遇したように、けたたましい悲鳴をあげながら、雑木林のなかを、めちゃくちゃに走って、逃げていった。
青翠のほうはといえば、横倒しにされたままの状態で、なにがあったのかと、ふしぎそうな顔をしている。
馬超は、丁寧に、剣の先についた血を拭き取ると、盲目の娘に近づいていった。
その足音に、娘は、はじめて怯えたように、身体をすこしよじらせた。
「安心せい、おまえを襲おうとは思わぬ。怪我はないか。立てるか。手を伸ばせ」
そうして、馬超が手を伸ばすと、娘は素直に、自分の手を差し伸べてきた。
馬超の手をにぎって、はじめて、むすめは口をひらく。
「助けてくださって、ありがとうございました。あなたは、高大人に雇われた方ですか」
さきほど、連中が言っていた、高家の旦那とかいうやつのことだな、と思い、馬超は答えた。
「いいや、俺は単に、ここで昼寝をしていた者だ。高大人とは何者だ?」
馬超がたずねると、かえって娘はおどろいたような顔をした。
「ご存じないのですか。高大人は、成都でも有名な金貸しです」
「おまえがそいつの囲い者だと、連中は言っていたな」
とくになんの感慨もなく、事実を馬超が口にすると、娘は、どこかで見たことのあるような、皮肉げな、冷たい笑みをうかべてみせた。
「あれを囲い者というのかしら。わたしはこのような身ですが、男と女のことは知っています。けれど、ただただ、わたしを撫で回すことが、男女のまじわりというの。あんなことしかできない老人なんて、ちっとも怖くないわ」
馬超はおどろき、言った。
「清楚な身なりに見合わぬ大胆なことを口にする女だな」
「あなたは、成都の方ではないのですね。ことばでもわかります」
と、立ち上がりながら、青翠は言った。
その青翠に、馬超は落ちていた白い杖を握らせてやる。
「高大人はたいそうな高齢で、それでもたいへんな好色家なのです。金を貸したものが返せなくなると、そこの家の若い娘を担保の代わりに奪っていく。そうしてわたしも担保にされたのですけれど、お気の毒なあの方には、年をとりすぎていて、もうわたしを『女』にする力はもうないのです。
ただ、わたしを撫で回したり、舐めまわしたりするだけなのが精一杯。それがどうしてよそにばれたのか、そのことは、成都のほとんどの者が知っています。わたしは笑話の登場人物のひとりというわけです。
さっきの者たちは、そんな話に刺激をされて、わたしをつけてきたのでしょう。あなたがいてくださってよかった、あらためてお礼を申し上げます。そうでなければ、わたしはいまごろ、あの男たちに『女』にされていたでしょうから」
馬超は、女の表情に浮かんでいた、あきらめの表情の意味を、ここでようやく知ったが、しかし同時に、うまく説明はできないけれども、反発もおぼえた。
「担保など、おまえの親はどれだけの借金をしたというのだ」
青翠が答えたその金額は、馬超の俸禄の十分の一にも満たない額であった。
「莫迦らしい。それならば、これもなにかの縁、わたしがおまえの親のかわりに高家のじじいとやらに借金を払ってやろう」
「では、その代わりに、あなたがわたしを担保になさるのですか」
そのことばは、馬超の誇りを、いたく傷つけた。
もしも青翠が女でなかったなら、容赦なく横面を張り倒していたであろう。
「わたしはそのようなことはせぬ! 世の男のだれもが、おまえにおなじ欲望を抱くと思うなよ! まったく、不愉快なことだ。
おい、青翠とやら、このまま散歩をつづける気はもうないだろう。馬でおくってくれよう。わたしもここでゆっくりする気が失せた。来い!」
そう言って、なかば引きずるように、馬超は女を馬に乗せると、成都へと戻って行った。
一方、屯所の趙雲は、遠方から、わあわあと騒ぎながら、戸板に乗せられて運ばれてくる若者と、その父親らしい姿をみるなり、なんとなく用件を想像して、うんざりした。
こういうところの勘は、とてもよくはたらくのである。
せっかく、今日はなにもない、穏やかな一日で終わりそうだと思っていたのに。
「趙将軍、どうぞお力添えを!」
戸板のうえで、泣きわめいている若者と、付き添いの医師と、若者を励ましているその仲間たちの、にぎやかななかで、ひときわ哀れっぽい声で、若者の父親らしい老いた男は言った。
「峠に鬼がでたのでございます! そうしてその鬼が、あろうことか、息子の、わが息子の大事なものを、斬ってしまったのであります!」
みれば、戸板の上の青年の股間はぐるぐると真白い布で巻かれ、血がにじんでいる。
戦場で負傷した者を見慣れている趙雲はたずねた。
「すっぱり斬られたのか」
そのことばに、蒼白な顔をしたのは老人のほうである。
ぶんぶんと首を振って、言った。
「とんでもございません! 傷が出来た程度で済んだのは、まさに先祖の霊の加護があったからこそ。うちは祀りをかかしておりませぬからな!」
「ならば軟膏でも塗って、寝ておれ。ほかに金品を盗まれたというのならば、話は別であるが」
「いいえ、峠の鬼は、金を無心するでもなく、わが息子の大事なものをいきなり斬ったというのです。これは、祖霊に仇なす鬼神がつかわした、悪霊のしわざにちがいありませぬ! 息子が子をなせなくなったなら、わが家は絶えてしまいます! この世に、これほどの悲劇がありましょうか!」
趙雲は、むっとした。いろんな意味で、むっとした。
「悪霊にも意味があって、おまえの息子をねらったのだろう」
突き放すと、老人は目を剥いて叫んだ。
「なにをおっしゃいますか! わが息子ほど、親孝行で優しい子はおりませぬ! 趙将軍、どうぞ、峠の鬼を退治してくださいませ、後生でございます!」
趙雲は、おおげさに戸板のうえに寝かせられている若者の、仲間らしい青年たちを見た。
どれもこれも、いかにもあそび人といったふうではないか。
これはおそらく、ろくでもないことをしでかして、しっぺ返しをくらったにちがいない。
もしかしたら、叢で村娘を襲おうとしたまさにそのとき、蛇にがぶりと噛まれたものかもしれない。
だとしたら、天罰はすでに下っているわけだ。
あとは、このわあわあとうるさい連中を静めるのも、屯所の当番の役目ではある。
「わかった、峠の鬼だな。今日はもう日が落ちるゆえ、明日になったら、退治に行ってやろう」
「ありがとうございます、趙将軍!」
感謝する老人であるが、趙雲は帰り支度をしつつ、冷たく言い放った。
「それとな、治療の甲斐なく、おまえの息子が息子として役立たずになったら、俺に報告しろ。知り合いの宦官に、口をきいてやるから」
そういうと、父親は、哀号! とふたたび騒ぎ出したが、趙雲はまったくそれを無視して、自邸へとむかったのであった。