七夕フェスタ リクエスト企画 第13弾 もち様よりのリクエスト
『ずんだGAME』番外編 アヌビスと心臓

後編

しばらく行くと、またも霧が濃くなってきた。  
雲海の中に放り込まれたように、四方が見渡せない。
自分が、林の中を歩いているのか、それとも立ち枯れの林のなかを抜け、別の光景の中を歩いているのかすら、わからない。  
真っ白い光景のなか、前方を行くアヌビスの黒い背中がときおり見えるのが、彼にとっては心強く思えた。  
この霧には匂いがないが、どこか蜘蛛の糸を束ねたような、軽い質感がある。とはいえ、さきほどの黒い雲とはちがって、禍禍しさはおぼえない。  
  
やがて、滝の落ちる音にも似た、ごうごうと唸るような、重々しい風の音が聞こえてきた。  
とたん、ゆっくりと視界がひらけてくる。
目の前に、石作りの、細い橋があった。
厚い雲に隠されて見えないが、前方に、深い峡谷があるようだ。そのはざまにかけられた長い橋であることが知れた。
しかし、危ういことに、その橋には手すりなどはなにもなく、辛うじて、人がひとり歩ける幅であり、さらに下流から風が吹きつけてくる。  
「これが試練? 肝試しということか?」  
どこか子供だましにも思える試練を前に、彼が呆れてアヌビスに言うと、アヌビスは、橋の手前で座り、言った。  
「そうだ。俺はおまえがこの橋を渡りきるまでは、向こう側に行けない。この橋はとても滑りやすいので、ただひたすら、まっすぐ前を向いて、集中して歩を進めるのだ。すこしでも足を横に向けたら、たちまち落ちるぞ」  
「脅かすな」  
「事実だ。さあ、行くがいい。ためらえばためらうほど、恐怖は増す」  
「そうだな」  
アヌビスの言葉に背を押される形で、彼は橋を渡り始めた。滑りやすい、という言葉に、慎重に第一歩を踏み出したのだ。
ところが、むしろ、足の裏にぴたりと岩が張り付いてくるような、安定感を覚える。  
足を離すときも、粘って足がもつれることもなく、たやすく岩から足を離すことが出来、そして、ふたたび足をすすめて岩に下ろすと、磁力が働いているかのように、ぴたりと、足を橋の中央で止めることができた。  
試練というには、あまりにたやすいではないか。たちこめる霧のせいで、峡谷がどれだけ深いかもわからないのが幸いしている。落ちるかも知れないなどという恐怖すら起こらない。これならば、向こう側に行くのも困難ではないだろう。  
彼はそれでも慎重なところを見せ、一歩ずつ、ゆっくりと前方を歩いていく。  
背後にいるアヌビスが、息を詰めて自分を見守っているのが、気配でわかった。  
  
そうして、危なげなく橋の中央にまでたどり着いた頃である。  
『久しいな』  
男の声が、すぐそばでした。
ぎくりとして、アヌビスを振り返ろうとして、余所見をしてはならないと言った、その言葉を思い出し、思いとどまった。
だが、そんな彼の心を揺るがすほどに、その声には覚えがあった。心臓が跳ね上がる。  
ひどく優しい、落ち着いた声である。  
『ずっと待っていたぞ。歓迎する。さあ、こちらへ』  
聞き覚えのある声だ。  
自分が何者かは忘れてしまったけれど、この声は知っている。この声の主を思い出したなら、自分が何者かもわかるだろう。
それに、自分のことすらわからないというのに、声をすぐに知っていると判断できたのだから、声の主とかなり親しかったことは、容易に想像できる。  
だれなのか。待っていてくれたという。
この声の主が何者なのか、その姿をひと目でいいから見て、確認したい。そして、自分が何者かを知りたい。  
『こちらを向いて、よく顔を見せてくれ』  
だめだ、顔を向けたなら、この不安定な橋から落ちてしまう。アヌビスにも言われたことだ。それに約束をしたではないか。アヌビスの言うことを信じると。  
取り戻した心臓が、締め付けられるように痛い。熱を帯びているようだ。  
思わず胸に手を当てようとした彼は、頬に滴り落ちる涙の感覚をおぼえ、胸に触れようとしていた指を、おそるおそる頬に当てた。  
視界がにじみ、橋の先が見えなくなる。  
『どれだけ待ったことか。泣くな。こちらを見るがいい』  
声に押されるようにして、思わず顔を向けると、そこには、自分とほぼ同じくらいの背丈をした、甲冑に身を包んだ男の姿があった。  
その姿を見ただけで、ふたたび心臓が跳ね上がる。  
「君は」  
『さあ、共に』  
指にある、小さな切り傷の跡さえ見覚えのある手を掴もうと、誘われるように彼は手を伸ばす。  

とたん、ずるりと体が崩れ、一転する視界に、思わず悲鳴をあげた。  

峡谷から吹き上げてくる風にもまけず、それでもとっさに橋を片手で掴んだ。
だが、声に振り返るまでは、足裏に、吸い付くような感覚さえ覚えていたそれは、手で掴むと、とたんに無情なぬめりを帯び、徐々に手が滑っていく。  
彼は風になぶられる身体をささえる、たった一本の手に、すべてを集中した。  
爪をたてて、なんとか這い上がろうとするのだが、どんどん橋のぬめりはひどくなっていく。  
その手触りのなかにある、温かさ。そして、この鼻につく匂い。  
これは、岩などではない。橋の姿をした、なにかの生き物なのだ。  
切れ長の目の端でちらりと見れば、宙に浮くような形で、鎧の男は腕を組み、ただ立っている。端整な面差しに、悠然たる笑みすら浮かべて。  
助ける気は、まったくないようだ。  
心の中で、己に向かって悪態をつきながら、なおも這い上がろうとしているあいだも、彼の指は、さらに橋の汗ですべっていく。  

爪の先が、ぴき、と小さな音をたてて割れた。  
衝撃が走るが、墜落の恐怖のほうがまさり、痛みはさほどない。
やがて、次々に貝が割られていくように、一本、また一本と爪が割れ、あるいは剥がれていく。
恐怖と焦りでしたたる汗のために、橋のぬめりに手のぬめりも加わって、もはやすべる一方である。  
むしろ、残された爪と意地だけで、なんとか橋にぶら下がっているといっていい。  
ひゅうひゅうと吹き付けてくる風の源、峡谷の底は、まるで覆いのように漂っている、真っ白な雲霞によって隠されている。  
見えないことで、彼の恐怖はわずかに和らげられていた。もし見えていたなら、そのまま気が遠くなっていたかもしれない。  
最後の爪が割れた。  
それでもなお、指先にしたたる血の感触を覚えつつ、懸命に橋を掴んでいた手が、ずるり、ずるりと後退していく。  
そして、いよいよ、橋と密着していた肌の感触がすべて失われた。  
  
落ちる。  
  
彼が覚悟し、意識を手放しかけたそのとき、不意に上空より、力強く手首を掴まれた。  
意識を失いかけていた彼が、目をうっすらと開いて見上げると、いつのまにか霧が晴れて、白乳色の世界に、陽光がふりそそいでおり、その白光を背景に、やはり、甲冑を纏った男の姿が目に映った。  
逆光のため、間近にいながらも、顔は、影のようになってしまい、よく見えなかったが、その手首からつたわるあたたかい感触に、彼は安堵し、ちいさく息をついた。  
助かった。  
ぐい、と力強く引き上げられ、意識が朦朧とさせていると、救い手は、彼を休ませることなく、ぐっと、片手を掴んだ状態で、一気に残りの橋を渡っていく。  
途中、何度も足を取られそうになったが、そのたびに、前方にいる男が、つよく腕を引いてくれたので、転落の恐怖は、もう感じることはなかった。  
  
橋の向こう側についた途端、手首を引いてくれた男の手は失せ、同時に、支えをなくした彼は、その場にしゃがみこむ。  
いまさらながら、どっと汗が噴出してきて、ぽたぽたと地面に、雨のように落ちた。  

不様におさまらない震えと格闘しながら、顔をあげると、霧が晴れて、全貌が見渡せるようになってきた。  
橋の向こう側から、アヌビスが黒い矢のように飛んでくる。  
「ばか者、なぜ、俺の言うことを守らなかった!」  
やってくるなり、アヌビスは怒鳴った。苛立ちのあまり、激しく白い牙をむいている。  
息を整えながらも、ようやく彼は答えた。  
「すまなかったと思っているよ。でも、橋の傍らに立っている、彼は何者だ? わたしは、彼を知っているのだ。でも、なぜわたしは、彼を知っている? 教えてくれ。なんなのだ?」  
言いながら、彼は顔を向けると、橋の途上で見た、甲冑の男は、峡谷からの風に、自身の姿をさらして、あいかわらず悠然とした笑みをうかべて、こちらを見つめている。
その姿は、ありえないことに、宙に浮いていた。足元にはなにもなかった。さきほどまでの引き寄せられるような慕わしさは薄れ、彼が邪悪なものだというのがわかる。だが、それでも彼は、言った。  
「あれも、さきほどの見た、立ち枯れの森の木霊たちと、同じ類いのものなのか? だとしたら、わたしは彼を助けねば」  
「待て、落ち着け!」  
立ち上がろうとする彼の服の裾を、アヌビスがぐいっと噛んで、引っ張った。  
「なぜだ。木霊と同じように、ずっとあの橋の傍らにいなければならないというのであれば、わたしは彼を助ける!」  
「落ち着けと言っているだろう! 俺に、人のような手足があれば、おまえを殴り飛ばしているところだぞ! 深呼吸!」  
「は?」  
「は、ではない! 深呼吸して、十数えて、それからもういっぺん、橋を見ろ! ろくに呼吸もしないでそう興奮しているから、いつまでも幻惑されつづけているのだ、愚か者めが!」  
「幻惑?」  
アヌビスの言葉に戸惑いつつ、彼は素直なところを見せて、深呼吸をし、それから律儀に、一から十までをしっかり数えた。  
そうして、軽く呼吸をととのえつつ、ちらりとアヌビスのほうを見ると、犬は、もうよかろう、というふうに、こくりと頷く。  

言われたとおりにしたお陰で、持ち前の冷静さを取り戻した彼は、気まずく思いつつも、橋のほうにゆっくりと近づいた。  
  
峡谷から吹き上げている風に衣があおられ、おもわず足元がぐらつく。
ひやりとするが、しっかりした大地に足をつけているので、谷底に落とされる恐ろしさは、もう覚えない。  
だが、目の前にいた、宙に立つ甲冑の男は、彼が無事な姿を見せると、男らしい凛々しい顔を邪悪にゆがませ、残念そうに舌打ちをした。  
『なんだ、つまらない』  
「なんだって?」  
思わず尋ね返すと、その姿が、見えない巨大な手に掴まれたかのように、ぐしゃりと崩れた。  
思わず彼が息を呑むと、哄笑があたりに響き渡り、陽光にさらされた、形のおぼろな黒ずんだ染みのような影が、宙に浮いていた。  
その染みは、中央に顔を冠しているが、肉体としての形を持たず、その輪郭は、端にいけばいくほどに、透明でぼやけていた。  
その姿を見ただけで、彼は背筋を震わせた。  
危険だ。これに触れてはならない。  
「あれも堕天したアトラ・ハシースだ。だが、神代の魂なので、木霊になってしまった連中とちがい、自由に動き回り、ああして、新しい魂を仲間に引き入れようとしている。ずいぶんと大物が来たものだな」  
いつのまにか、隣に並んでいたアヌビスの声に、緊張が含まれている。  
彼は、首をかしげて、尋ねた。  
「あれが何者か知っているのか」  
「おまえに似た名を持つ、神代の魂だ。だが、おまえや俺とちがって、もともとの組成が違う。黄金の人々がまだ地上にいた時代の魂だ。噂によると、最高府から堕ちたそうだ」  
「なんだかわからぬが、まちがっても触れてはならないものだということは、理解したよ」  
言ったまま、厳しく、黒い染みのごとき禍禍しい影を睨みつけ、動こうとしない彼に、アヌビスが尋ねてくる。  
「どうした。あれの正体が知れたのだ、もういいだろう」  
「いや、せめて、石でも投げつけてやりたいと思うのさ。人の心を愚弄しておきながら、あいつ、笑っているじゃないか」
腹立ち紛れに言うと、アヌビスは怪訝そうに顔を向けてくる。  
「笑っていると? おまえ、あいつの顔が見えるのか?」  
「見えるよ。このうえなく美しいが、なんと邪で、いやな目をしているのだろう。世の悪意をすべて合わせて、泥をなすりつけても、あんな濁った目にはならないだろう。あまり見ないほうがいいとは判っているが、なぜだか目が逸らせぬ」  
「あまり見ると引き寄せられるぞ。見ないほうが賢明だ。目を逸らすついでに、谷底を見るがいい」  
  
アヌビスの言葉に誘われるようにして、彼は谷底を覗く。  
すると、まるで蓋のように、隙間なく谷底を覆っていた霧も薄れており、その下に、息を呑む光景があった。  
何組もの人間が、たがいに激しく取っ組み合いをしているのである。  
戦争をしているのか、と思えばそうではない。  
争っている人々は、必ず二人組になっており、互いに互いを罵倒しながら、決して相手を傷つけることを止めない。  
そこにいる人々の纏う衣裳はまちまちで、肌の色もまちまち。  
互い以外のものは目に入らないらしく、協力して複数で敵に当たる、ということはしない。ひたすら、目の前の人間を倒すことだけに、専念しているのだ。  
「戦争か? それにしても異様な」
「戦争などではない。この橋で誘惑に負けて『堕ちた』、アトラ・ハシースと、アヌビスたちだ。堕ちた責任は、お互いにあるのだと、ああして、ずっと罪をなすりつけ合うのさ」  
「アヌビスたち? 犬なんて一匹もいない。おまえは特例か」  
「好きに解釈するがいい」  
「よくわからぬことだらけだな。おや」  
彼は、晴れつつある世界を見回し、さきほど、橋の上に引き上げてくれた男を捜した。  
だが、周囲には、アヌビスと彼しかおらず、黒い染みのすがたも、いつしか消えていた。  
「あれは、さきほど森の中で助けてくれた、白い影と同じ者じゃないのか」  
「気にするな」  
「またか。『中央都市』に至るまでは、ほかのことには気を回すな、ということか? それにおかしいな。爪が全部はがれてしまったはずなのに」  
と、彼は片手を見た。  
肩は脱臼するかというほど痛んでいたのに、その痛みもいまはなく、剥がれたはずの爪も、元通りになっている。  
「なぜだ? やはり『死んだ』ので、この肉体は実態ではないと?」  
「いいや、ちゃんと実態さ。ただ、『生前』とは比べ物にならないほどに頑丈になっているのだ。アトラ・ハシースの肉体は、霊力によって保持され、時間回復が可能だ」  
「医者いらずだな」  
「場合によるが。それよりも、見ろ、霧が晴れた。あれが『中央都市』だ」  

彼がアヌビスに言われて振り向くと、なだらかな緑の丘をゆく白い道の行く手に、天にも届く壮麗な塔を中心にした、ありとあらゆる建築様式の混在している、それでいて、ふしぎと整然とした町並みを持つ都市が広がっている。  
しんとした静寂のなか、天をつくほどにのびる塔の天辺は、やはり霧に覆われて見えないものの、その霧は、幾重もの虹によって飾られていた。  
「城壁がない」  
「外敵なんぞいないからだ。さっきの奴だって、中央都市には、髪の毛の先さえも入ることができない。『光掲げし者』の名が泣くな」  
「それがさっきの、黒い染みの名前なのか。石を投げてやろうと思ったのに、いつの間にかいなくなっていた」  
「いらざる恨みを買うことになるから、良かったのさ」  
「あそこに行けばよいのだろう。これで、おまえの仕事も終わり、わたしの初仕事とやらも終わるわけだな」  
彼が都市へ向かって歩き出そうとすると、アヌビスは言った。  
「いいや、あと一つ残っている。ここまでたどり着いたのだ。都市に入ることは可能だ」  
「まだ何をする必要が?」  
彼が尋ねると、アヌビスは、首を何度か振った。  
すると、アヌビスと彼の間の、なにもなかった空間に、ぼおっと炎のように浮かび上がるものが二つある。  
それは、神秘的な淡い光に包まれた、緑と赤の杯であった。  
  
「この杯は、緑の方が『記憶を取り戻す杯』、赤い方が『忘却の杯』だ。緑を飲めば、おまえは、生前の記憶を取り戻すことが出来る。自分が何者かわかるだろう。  
ただし、思い出すことは、苦いもの、辛いもの、身を裂くようなものさえあるかもしれない。中には、思い出した記憶があまりに酷すぎて、自ら峡谷に身を投げたアトラ・ハシースもいたそうだ」  
「赤い方は『忘却』。つまり、それをを選べば、わたしは己が何者かもわからず、ずっとこのままなのか」  
「新たな人生を歩みなおすことができる、とも言えるだろうな」  
  
赤い杯と、緑の杯は、それぞれ炎のように揺らめき、宙に浮いて、差し伸べられる手を待っている。  
「『中央都市』に集められた魂は、世界のために戦うことができる魂だと言ったな。世界のために戦う、とは?」  
「理由はさまざまさ。この世界は、おまえが生きた『基本世界』を中心に、巨大な時空の連なりとなっているのだ。連なりあう世界は、それぞれすこしずつ変化があり、その小さな変化が大きな変化を生み、まったく違う歴史をつむいでいる。  
それぞれの空間に、それぞれ人がいて、それぞれに暮らしている。人が集まれば行動の記録は歴史となるが、歴史はつまり、揉め事の記憶でもある。その揉め事が深刻になり、世界の維持そのものがむずかしく、世界の住人だけではどうしようもなくなってきた場合、アトラ・ハシースが召集される」  
「アトラ・ハシースとは、つまり世界の便利屋のようなものか。その戦いは、いつまで」  
「人の世から、争いが消えるときまでだろう」  
「途方もない話だな。歴史は揉め事の記憶だという、おまえの言葉と矛盾しているぞ」
「アトラ・ハシースに与えられた時間は、ほとんど無限に近いという。なれば、時の果てすら見ることが可能かも知れぬ」
「気が遠くなりそうだな。アトラ・ハシースとして選ばれなかった魂たちは、どこへ?」  
「その魂が気高く、人の世に貢献した、あるいは善行を積んだと最高府に認められた場合は、真の楽園へ行く。名もなき勇者たちの町にて、安楽な日々を過ごしているのだ」  
「もし、真の楽園に、会いたいと思う者がいたとして、そこに行って、会うことは可能か」  
「ある程度、高位のアトラ・ハシースならば、往来は可能だ」  
「高位になるためにはどうしたら?」
「最高府から与えられる命題をひたすらこなし、霊格を上げていけばいい」
「もし、楽園にもいけなかった魂は」  
「残念だが、もう存在しない。魂魄のうち、魂とは心を司り、魄というのは、肉体を動かす原動力となるものだ。
人は死ぬと、このふたつが分かれるが、心を司る魂のほうは、ふたたび『基本世界』に戻って、あらたな命として人の世を変えていく。魄のほうは、肉体を生かすための原動力だから、肉体が消滅した時点で消えている」  
「では、大半の人間は、消えてしまうと?」  
「生き方の問題だろう。人のために戦った者、あるいは犠牲になることも厭わず、果敢に生きた者が、アトラ・ハシースになるか、楽園に行くかで選り分けられ、ほかの者たちは、魂となって、あらたに世界へ挑戦するために、ふたたび肉体を得て、基本世界に戻っていくのだ。  
だが、もはやそれは同一の人間ではない。以前の記憶はなくなってしまうからだ。だからこそ、人は精一杯、現世で力を尽くして生きねばならぬ」  
「以前の記憶は完全になくなってしまうのか」  
「完全に、というわけではない。夢として思い出す。そして無意識のうちに、過去の失敗をしないように、おのれに警告しているのさ。ある程度、前世は、あらたな人生の糧となる。そして、人の世は進化していくのだ。だから、以前は極悪人だった魂が、次の世ではアトラ・ハシースに選ばれてもおかしくないような善人に進化する可能性もある。よく出来ているだろう」  
「では、もし会いたいと思った人間が、より分けられなかったほうに入っていたら、その人そのものには、二度と会うことは叶わぬ、ということだな」  
「夢の中で会うということが可能らしいが、その方法は俺も知らぬ」  
  
彼は、橋のほうを見た。  
橋の向こう側は、相変わらず霧が晴れずに、白乳色の世界が横たわっている。  
いや、ふと気づけば、霧の中で、木霊から庇い、そして橋の上に助け上げてくれたあの男が、ふたたび白い影だけの姿となって、こちらを気遣わしそうに見ているのが目に入った。表情はわからないけれど、心配をしてくれているだろうことは、その佇まいでわかる。  
きっと、あの男も、生前の記憶に連なる者なのだ。  
そして、橋の上には、もうだれもいない。  
さきほど、『光掲げし者』が、姿をとっていた男。自分が何者かはわからないが、あの男の本物に、もう一度会いたいと思った。  
記憶を取り戻せば、自分が何者か、そして彼が何者か、助け手の白い影の正体もわかるだろう。  
だが、橋の上の男が、選り分けられておらず、基本世界に魂だけが戻っていたとしたら、記憶を取り戻してしまったら、思い出に悩まされ、どれだけ苦しむことだろうか。
それは、あの男に限らず、白い影をはじめとする、ほかの知己に関しても、同じ事が言えるだろう。  

だが…  

「忘れることを選ぶことと、無関心ということは、同義のように思えないか」  
「どういう意味だ」  
「思い出だけで生きることは可能だが、そもそもの思い出がなければ、偲ぶことすらできなくなる。それはすべて無に帰してしまうということだ。無とは、無関心にも通じる冷たい態度だ。思い出のなかの人々を、愛していなかったのと同じだよ」  
「つらい記憶が共に蘇るとしても?」  
「そうであっても。わたしは、戦う者として選ばれたのだろう。ならば、苦しみが供にあったとしても、耐えられるのではないかな。自分の強さに賭けるよ。緑の杯をくれ」  
彼は緑の杯を受け取ると、ためらいもせずに、一気に飲み干した。  
とたん、口腔から鼻腔にかけて、芳醇な香りが突き抜けていく。  
同時に、頭の中が渦を巻くようにぐらりと揺らめく。明るい光が、頭上ではじけたような感覚があった。  
  
  
  
目をふたたび開くと、なだらかな緑の丘につづく白い小道と、中央に壮麗な塔のある、さまざまな形の屋根をもつ建物の並ぶ、大きな都市が広がっているのが見えた。  
そこに至るまでの道には、葡萄畑がつづいている。  
目も覚めるように鮮やかな青葉の茂る、宝石のように美しい眺めであった。都市の向こう側には、透き通る青空と、白い龍のような雲が流れていくのが見える。  
雲とは、もともと龍が形を取ったものだと信じられていた。
だから、龍と雲は対のものである。だからこそ、あれほどにその存在すべてに引き寄せられたのかもしれない。
そして、いまもそうだ。
「わたしは、あの塔に住むことになるのかい。あなたも?」  
「さあ、俺もあの町に入るのは、今回が初めてだからな。先に主公がお待ちだ」  
そうか、主公が。
孔明は安堵した。記憶に連なるなつかしい人々。つらい記憶も蘇る。だが、それよりも増して、思い出したかった記憶が、奔流のように脳裏を駆け巡っていた。

孔明は、あらためて、犬の姿から一転、目の前に立つ武人を見た。  
『生前』において、もっとも心に残っている時代、その当時の姿をした友であった。  
孔明は、泣きそうになりながらも、懸命にこらえた。泣くのを彼は嫌がると、おぼえていたからだ。
精一杯の笑みを向け、腕を、首に巻きつけるようにして、趙雲を抱きしめた。
すると趙雲は、たじろいだのか、わずかに逃げるように後ろに下がるが、しかし思いなおし、ぎこちなく背中に腕を回してきた。  
そして、宥めるように、背中を軽くぽんぽんと叩いてくれる。  
温かい感触に、孔明はまた、感極まった。嗚咽は漏らさないまでも、しばらくそうして肩に頬を預け、噛みしめるように喜びに浸った。
「変わっていないな。よかった」  
「おまえもな」  
「しかし、一点だけ変わったようだな。犬に化けることができるとは、たいしたものだ」  
ああ、それは、と言いながら、趙雲は腕をほどき、泣き笑いの表情を浮かべている孔明に言う。  
「おれはアトラ・ハシースではなく、アストラルとして選別されたのだ。アストラルの初仕事は、『新しいアトラ・ハシースを、無事に中央都市に届けること』。古式にのっとり、生前の姿はとらないことになっている」  
「アストラル…またも知らぬ言葉が出てきたな。それに、回りくどい規則だ。誰が作ったのか知らぬが、覚え切れるだろうか」  
「犬の姿なのは、公平さを期すためだそうだ。俺なんぞは運良く、おまえを導く役目であったが、中には、敵将だったアトラ・ハシースを導かねばならぬ場合もあるとか。
そうなった場合、いくら記憶をなくしているとはいえ、どこかで記憶が刺激されて、うまくいかなかった例がある。そのために、死者の守り神の姿をとるらしい」  
「なるほどな」
孔明は、峡谷の底で、争いをつづけているアトラ・ハシースとアヌビスたちを思った。かれらもまた、不運なめぐり合わせで、感情がかみ合わなかったのだろうか。死んでまでも、いがみ合わねばならない。不幸なことである。
「すんなりと中央都市に通せばよいものを、わざわざ試練を経験させるのは、アトラ・ハシースは、高い霊力を持っているからだそうだ。中央都市にうっかり通した後に、堕ちてしまった場合、その処理が面倒なのだとか。堕ちた魂でも、集ればたいそうな力を持つ。それを防ぐため、最終的な試練をくぐらせる必要があるそうだ」  
「それにしては、ひどいな。単に迷いがあったというだけで、彼らはずっと、木霊として苦みつづける、あるいはずっと、峡谷の下で戦い続けるのか」  
「よくわからぬが、戦うために選ばれたということは、決して祝福とはいえないからだ、という気がする」  
「わたしたちが選ばれたのは、生前に犯した罪をつぐなうための、罰の一種だと?」  
「勘だがな。大義のためとはいえ、血は流された。その血を贖うため、われわれはここにいるのかもしれない。とはいえ、明確な回答はないのだ。なにせ、ことあるごとに、『それは最高府が決めたことだから』という答えしかかえってこない。
この世界も、俺たちが生前に夢見たような完成された平和な世界ではなく、まだ未整備な、混沌としたところが残されているのだろう。この世界全体を動かしている、最高府というのも、正体がつかめぬ」  
孔明は、趙雲の言葉を聞きながら、ふむ、と考えつつ、唇に指を添える。

割り引いて考えても、いくら大義のためとはいえ、自分の行いが立派だったとは孔明は思っていない。むしろ、償っても償いきれないほどの罪を犯したという気持ちのほうがつよい。この場合、仕方がなかったのだと、いいわけをくりかえしながら、闇雲に前に進んだ。
忘れていたとはいえ、その気持ちが強かったからこそ、孔明は、最初に楽園に行くことを許されたと聞いた時、抵抗をおぼえたのだ。
もしも本当に楽園へ行ける魂があるのなら、それは名もない、勤勉な善人たちにこそ用意されていなければ、うそだ、と思う。

ふと、隣で、趙雲がこちらを見て、笑っているのがわかった。  
「なにがおかしい」  
「いや、本当に、変わらぬな、と」  
「莫迦は死んでも治らない。天才も、同じことであったというわけだ」  
「余計なところまで変わってないな」  
先が思いやられるよ、とつぶやく趙雲に、孔明は笑みを投げかけた。
どうやら、世界の果てまでも共に見に行こうと言った約束を、自分だけではなく、趙雲も覚えていたらしい。それが嬉しかった。

「ところで、あの橋の向こう、森のあったところだろう。なぜ、あの人はあの森にいるのだ」  
と、孔明は、森の奥に向かって、その巨体を、ゆっくりと、霧の彼方に運んでいく後姿を見つめつつ、尋ねた。  
  
それは、孔明を木霊から救い、橋にて、転落を防いでくれた、あの男であった。  
背が高く、甲冑に身を包んだその姿。そのうしろ姿には見覚えがある。いつも緊張と共に眺めていた者の後姿である。
彼の自慢の髯は、顎の髯袋でまとめられていたので、影だけでは記憶が刺激されなかったのだ。  
霧に呑まれ行くその後姿を見ていた孔明は、ふと、その体の周囲に、木霊の森のものと同様の、黒い霧がまとわり付いているのを見た。  
「子龍、あの人は…関羽は、木霊の一部なのか? 主公は街のほうにいるのだろう?」  
「あの人は、アトラ・ハシースに選別されたものの、死ぬ直前に祟りを為したために、死の穢れに縛られて、『中央都市』に入れなくなってしまったのだ。
だが、自ら死の穢れに汚染されているために、『光掲げし者』ら堕ちた魂の誘惑にも乗らぬし、あの橋も自由に渡れる。木霊の攻撃にも耐えられる。  
だれに命じられたわけでもないが、あの人はああやって、たどり着いたアトラ・ハシースを助ける役目を買って出ているのさ。そうすることで、己の身にまとわりつく、死の穢れが薄れると信じているようだ」  
「本当に、死の穢れは薄れているのか」  
「わからん。主公の話によれば、すこしづつ変わってきているそうだ。また会いに来よう。あの人が近づけるのは、橋の途中までなのだ」  
「主公もがっかりなさったであろうな。主公もアトラ・ハシースに選ばれたのか?」  
「主公はな。張飛は俺と同じようだ。俺たちが行くことは、もう知っているだろうから、きっと待っておられる。ほかにも、おまえを待っている者がたくさんいる。行こう」  
趙雲に促されつつ、孔明は、後ろ髪を引かれる思いで、厚い霧の中に姿を消した関羽を振り返った。  
「きちんと礼を言うことができなかったな。今に至って、あのひととは間が悪い」
「大丈夫だ、機会は、まだたくさんある」  
そうだな、と答えつつ、孔明は、新たな棲家となる、中央都市へと歩きだした。  
※あとがき※
以前に質問いただいた分の、答えともなるお話でした。この世界の成り立ちについては、細かく突っ込むとキリがなくなるので、このあたりで…だれとだれが残り、だれが残らなかったのか、そのあたりについては、おいおいと…判るのでしょうか? すみません、未定です^^;。思いもかけず長いお話となりましたが、リクエストありがとうございました&ご読了ありがとうございました(^o^)丿

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(C)Hasamino Nakama 2005 09 19