藍の儀礼 Ⅲ
3
流民の監督をしつつ、道路の工事と橋梁の修理をする、という事業は、ことのほか、順調にすすんだ。
これというのも、意外に法正が下には優しいところをみせて、流民たちへの食事も十分よいものにし、さらには賃金をはずんだからにほかならない。
法正は、権威を持つ人間がどうなろうと知ったことではない、苦しければ自分で立ち上がれ、と思っているが、権威を持たない者には優しいのだ。
理由は自分が士大夫の出自であるからで、『持つ者の義務』がわかっている。
そのあたりの考えは、孔明と非常に似ている。
似てはいるが、過激に極端なのが玉に瑕である。
そして事業がうまくいったもうひとつは、趙雲の部隊が、流民たちをよく監督したからである。
これは流民たちを守っただけではなく、流民を食い物にし、かれらの賃金を横から奪ってやろうと考える悪党も寄せ付けなかった。
日ごろの趙雲の影響の賜物であった。
これによって、法正は趙雲の評価をあらためるのであるが、その結果は、まだこの物語にはあらわれない。
趙雲に職務の全般をまかされた陳到は、よく働いた。
陳到は定時に帰るという確固たるつよい意思をもっていたので、そのためならば、どんな努力も惜しまなかった。
その力が他者のために発揮されることがあったなら、陳到はまちがいなく後世に残る英雄のひとりになっただろう。
だが、残念ながら、陳到の頭の中には、家族のことしかない。
ともかく定時までに区切りよく仕事を終わらせるため、陳到はさまざまに知恵を使って、将兵を采配し、細かく報告をさせ、そして各所に適切な指示を行った。
適切な指示は、よい結果を生み出す。
大きな問題も起こらず、順調に日々は過ぎた。
劉備がこれに喜んでいるという、陳到にとっては、ありがた迷惑な話も聞こえてきた。
遠からず、陳到は副将の地位から外れることだろう。
めでたいが、気の毒だ。
すこしばかりさびしい気持ちと、そしてさらにすこしの意地悪な気持ちをもって、趙雲はそう確信する。
陳到が自分に敬語を使わなくなる日は近い。
そのときあの男は、ほんとうに対等にこちらと接しようと考え直すだろうか。
一方、虎は、いまだに趙雲の屋敷でくすぶっていた。
すこしずつ、表に顔を出しつつあるが(そうしたいい加減な勤務状況でも許されてしまうところが、張飛の『劉備の義弟』という立場の強さをあらわしている)、ひとたび露見した、張飛の求心力のなさは、他者にはどうかわからないが、趙雲には目に付いて仕方なかった。
このままでは、張飛はさらに孤立してしまうのではないか。
将兵たちのあいだに、
『張飛がいないほうがうまくいく』
という印象を、これ以上与えてはだめだと、強く思う。
張飛は家に帰らねばならない。
さて、どうしたものか。
午後になると、趙雲は執務室に籠もり、事務仕事を片付けるのが、ここ何日かの日課になりつつあった。
おのれの部隊だけではなく、張飛の部隊の分の仕事も、片付けているのである。
事務仕事となれば、やはりきっちり教育を受けてきた趙雲のほうが張飛よりは早い。
文官に口頭筆記をさせる手間もなければ、文字を綴るのに誤字がすくないので、いちいち竹簡の文字をやすりで削る手間もない。
それだけでも差がつく。
その仕事を補佐していた者が、
「やはりずっとご一緒に行動なさっていたからか、将軍のお仕事の流し方は、軍師のそれに似ておられますね」
と感心して言ってきた。
よい影響をしっかり受けている、ということで、これは喜ぶべきだ。
孔明の仕事は正確かつ、迅速で、それに似ているというのは、誉め言葉のなかでも、かなりいいほうだ。
趙雲は素直に礼を言った。
そして宮城の兵舎に残っている兵卒たちの見回りをして、最後に、時間を測って、梅の古木の脇にある、放置されている小屋へ行く。
趙雲はその時間には、だれも付いて来ないようにと指示をしていたので、ここに足を運んでいることは、だれにも知られていない。
長年、使われていなかった卓を椅子代わりして座り、そしてそこから窓のそとを望む。
すると、やがて文官の一行が、今日も静静と移動していくのが見えた。
そのなかに、今日も孔明の姿がある。
孔明が、毎日、ほぼ同じ時間にこの小屋の前を横切っていくのを発見して以来、趙雲は、時間をうまくつかって、一瞬だけ、その姿を見るために、この小屋に足を運びつづけていた。
孔明が常にいるのは左将軍府であるが、このところ毎日、なぜに宮城の中にいるかというと、これは法正との打ち合わせのためであると、後で知った。
漢中と荊州を狙う周辺の動きが怪しくなってきており、役職の見直しも含めて、組織改変を協議しているという。
趙雲はそこに自分のことも期待をかけていたが、同じくらいに張飛のことを心配していた。
この時期に張飛が問題行動を繰りかえし、目立つのは、まずい。
かといって、虎は、まったく趙雲のいうことを聞こうとしない。
どころか、毎日、酒を飲んでは、家に帰りたいと、めそめそする。
戦場での張飛を知っている者で、ふだんの張飛を知らない者が見たら、趙雲の屋敷でいじけているのは、張飛本人ではなく、双子の弟かなにかではないかとさえ思うのではないか。
それくらい、張飛は別人のようにしょげて、家を恋しがっていた。
趙雲はおのれの屋敷に、酒のにおいを撒き散らしながら、いつもどこかに張飛がいる、という暮らしに、すでに慣れていた。
孔明をお気に入りの山里に連れて行く計画も、もうあきらめていたので、帰れとも思わない。
むしろ、日に日に陰鬱になっていく張飛の様子が心配で、目を離せないでいた。
これで、うちに子供でもいたなら、ちがうだろうな、と趙雲は思う。
張飛が家を恋しがるのは、子供たちに会いたいということもあるのだ。
馬の子ならいるが、張飛は馬のことを、ありがたい運搬道具、あるいは飯を食う武器、という以上には、あまり思い入れを持っていない男である。
馬の子を見せても、あまり喜ばなかった。
俺はこういうときに、知恵がなにもないな。
相談できる人間も、軍師だけ、というところが、なんとも頼りないではないか。
そんなことを考えながら、歩き去っていく孔明の姿を、しばらくじっと眺めていた。
孔明の横顔は遠すぎて、はっきりと見ることができない。
眺めているといっても、その輪郭から想像し、記憶につなげて頭の中で再現している程度である。
こうして遠くから距離を置いて眺めると、逆に孔明の姿を客観視できることに気がついたのは、趙雲のなかでは、あたらしいことであった。
あらためて見れば、孔明の容姿というものは、やはり特異と表現してもいいほどのものだと思う。
贔屓目で見なくても、ぞっとするほど精緻な細工のように美しい顔だ。
輪郭はあくまでなめらかで、ごつごつとした骨っぽさはない。
その肌は触れるとやわらかく、けれど肉そのものはしっかりしている。
触れる、といっても、不意のときに支えて触れた程度であるが、そのときの感触が一瞬、甦り、趙雲は手のひらにじわりと汗をかいた。
甦った感触を忘れるため、手のひらを拭き、ごまかすように、だれもいないのに咳払いをしてみせる。
すこし、落ち着いた。
孔明の姿は、まだ窓の外にあった。
よほど畏まった場に臨むものか、文官の一行は、ほとんど私語を交わさず、粛々と進んでいく。
静か過ぎる葬列のようだなとさえ、趙雲は思った。
とりあえずは、元気そうでなによりだ。
遠すぎて顔色がよく見えないが、足取りから察するに、調子はいいにちがいない。
孔明は、近くで見れば、おどろくほど肌理の細かい白い肌をしている。
遠くからでも、その白さはずば抜けている。
ほかの文官たちが、みっともないほど黒く見えるほどだ。
鶴のように白く痩せているが、それでも、弱弱しい印象はない。
動いているからだろう。
孔明は、ふだんの所作はきびきびとしている。
そのため、名前どおりの陽の印象を人に与えられるのだ。
孔明の名と、そのこれまでの経歴、そして言動をなにも知らないものが見たら、孔明は得体の知れない人物に映るにちがいない。
判断がつかないからだ。
男なのか、女なのか、陰気な人物か陽気な人物か、なにをどうかんがえているのか、端麗すぎる容姿がかえって邪魔をして、ふつうなら見当がつけられるおおよその印象さえ、判断ができなくなってしまう。
趙雲は、こうして客観視してみて、なるほど、孔明の初対面での印象がよくない理由、とっつきにくい人物だと思われる、その原因は、やはり容姿なのだなと納得した。
思い出してみれば、この自分とて、孔明に最初に会った当時は、ずいぶん場違いなやつだな、と思ったのではなかったか?
当時は、文官のすくない新野のなかだからこそ、余計にそう思うのだろうかと考えていたが、いま、文官たちのなかにあっても、孔明の存在は際立って浮いている。あいかわらず、場違いだ。
なにがそう思わせるのだろう。
そも、最初に孔明と打ち解けられそうだと思ったのも、こちらが武器の手入れをしているのを見て、孔明がどういうふうにするのかと手順に興味を持ち、それがきっかけで、よもやま話をするようになったことだった。
あのとき、これまでつんと澄ました表情ばかりであったのが、弛んだようになって、それからこちらも安心した。
いや、大きな山をひとつ乗り越えたくらいの達成感をおぼえた。
気取っているわけではない。
ひどく内気なのだ。
そして自信家を装っているくせして、ほんとうは自信家ではなく、むしろ内省的である。
手先は器用だが、性格は生真面目で不器用だ。
こうして細かく特徴を並べてみると、難しいやつだな、と呆れる。
若くして容姿と才覚と地位に恵まれながらも、交友関係がいまだに狭いのは、こうした難しさが邪魔をしているのだろう。
そのうえ、人に触れられるのを極端に厭う癖。
あれがさらに他者と孔明の距離を広げている。
好んで他者と距離をとってきた自分と、ずいぶん対局にある。
だからこそ、惹かれたのだろうか。
それにしては、最近は、似ているだの似てきただの、よく言われるようになってきたのは皮肉だが。
孔明が目の前を横切っていく、そのほんの一瞬のあいだに、趙雲はそんなことを、すさまじい速さで考えていた。
孔明の前でもたまに出る、凝視して考えこむ癖であるが、そのあいだ、たいがいは、こんなことをぐるぐると考えている。
文官の一行とともに孔明が行ってしまったあとは、もう小屋にいる理由はない。
趙雲は気持ちを切り替えるために、大きく身体を伸ばして、それからふたたび職務に戻って行った。
帰宅してみると、家令のじいさんがすぐに対応にあらわれて、奥で虎の様子がおかしいと伝えてきた。
さて、酒に酔うのも飽きてきたのかな、と客間を覗いてみると、そこには、巨漢を団子のように丸めて、さびしげにちまちまと荷物をまとめている、張飛の背中があった。
哀愁漂う背中である。しかも、断続的に、すん、すん、と鼻をすする音が聞こえてくる。
泣いているらしい。
蜀軍のほこる最強の男の、なんという情けない後ろ姿だろう。
張飛をあこがれて武人を目指す若者だって少なくないというのに。
「へんな遠慮はしなくていいのだぞ。ことがおさまるまで、ずっと泊まっていけばいい」
長丁場を覚悟していた趙雲が言うと、朝から寝巻きのままで過ごしていた虎は、皺くちゃの衣のまま、涙を隠すことなく振り返った。
「女房から信が来て」
「うん」
「中身を見たなら、たった一行しか書いてないのだよ」
「うむ」
趙雲は、手紙の内容を想像してみた。
探さないでください、なら、いますぐ屋敷を飛び出すべきであるし、戻ってきなさい、というものなら、歓迎すべきものである。
「そんなにわたしが嫌ならば、もう二度と帰ってくるなって」
うう、と子供のように嗚咽を漏らしつつ、虎は告白した。
袖で鼻の始末をして、また涙を流す。
自慢の髭は、涙と鼻とでぐしょぐしょになっていた。
髭の先でそれは、きらきらと雫を作っているが、美しいとはお世辞にもいえない。
「で?」
「で? ってなんだよ。一行だけだよ」
「いや、おまえはどうするつもりだ」
「俺はもう、生きている甲斐はない。坊主になって、兄貴たちと女房と子供たちの幸せを、遠くから見守るつもりだ」
「坊主?」
また妙なものにかぶれたものだ、と趙雲は呆れる。
この当時、仏教は、黄巾賊が全土を席捲するのとほぼ同時期に、洛陽の貴族たちを中心に流行った新興宗教に過ぎない。
成都にも寺は建立されたのだが、まだまだ一般大衆への影響力は持っていない。
すこし名前と、教えの内容が知られているだけの外来宗教である。
「たしか、浮屠というものは、頭を丸めて、あとは禁欲生活をする、のだったな?」
頭をつるつるにして、粗末な衣装を着て、変な髪形をした胡坐をかいている像のまえで、聞いたことのないごにょごにょとした呪文を唱えているのが『坊主』というもののはず。
聞きかじった知識を自分自身に確かめつつ趙雲がたずねると、張飛は、こくりとうなずいた。
「これから毎日、酒を断ち、女を断ち、肉を断ち、そして豆ばかりを食べて過ごすのだ」
「豆だけか。馬より悲惨な暮らしだな」
「馬より悲惨だからこそ、修行になるのだろうが。そんな俺を見て、女房がすこしでも、反省したのだとわかってくれればいいのだが」
「待て。未練たらたらではないか。そんな半端な心で、おまえが酒を断てるものか」
「やってみなくちゃ、わかるまい」
「あのな、あえて言わせてもらうが、おまえがそう言って、禁酒できたところを見たことがないぞ」
「明日からの俺は生まれ変わるのだ!」
「それも何度も聞いた」
「ええと、それじゃあ、これはどうだ。『俺の心は酒を忘れた』」
「おまえにしては詩心のある文句だが、宣言を変えたところでダメだろう」
「ダメか」
「ダメだ。それに、冷静になって考えろ。女房殿が書いてきた文言は、『わたしが嫌いなら、二度と戻ってこなくていい』?」
そうそう、それそれ、と張飛は真剣に頷いてみせる。
こういう愛嬌を、部下たちにも見せることができたなら、張飛が孤立することはなかろうに、と趙雲は思う。
「落ち着いて、意味をよーく考えろ。そのままの意味じゃない。それは、『わたしが好きなら戻って来い』、つまり、帰って来い、という意味だ」
張飛は、最初は意味がわからなかったようで、そんなことがあるかしら、というふうに首を右に、左に、とひねっていたが、半分だけ納得したらしく、眉をひそめつつも、ああー、などと、頼りなげな感嘆の声をあげる。
もうすこし、解説が必要であるようだ。
趙雲は、言葉を選びつつ、つづけた。
「女房殿の性格からして、素直におまえに仲直りしましょうと言えないのではないか。
戻ってきて欲しいから、そんな文面になったのだ。帰ってくるなと思っているのなら、ずばり『帰ってくるな』の一言で終わりだろう」
それを聞いて、張飛の大きな目に、ぱっと希望の光がともったのが見えた。
「そうかもしれねえ!」
「いい機会だ。いますぐ屋敷へ戻り、そして、このあいだも言ったとおり、泣いて謝れ。坊主になるよりましだろう」
「そういうものだろうか。追い出されやしないだろうか。出て行くとなったら、どうしよう」
「そのときは、このあいだも言ったとおり、すがりついてでも引き止めろ」
なるほど、そうだな、と張飛はあれこれ類例を頭の中で想像しているらしく、ふんふん、と頷く。
しばらく頭で考えていた張飛は、やがて顔を上げた。
「しかし子龍よ、おまえ、軍師みたいだな」
またか。今日だけで二回目。
ここ数日間のあいだに、陳到をはじめ、いろいろな人間から、同じようなことを言われる。
四方八方から似ているといわれるということは、相当に似てきたのか?
「なんだよ、誉めたのだぜ。あんまりよろこばねぇな」
「どう喜んでいいかわからん。ほかの連中にも、似たようなことを言われた」
「へえ」
張飛は感心したように、趙雲をまじまじと見た。
先ほどまでの涙は乾いて、いまは背中を丸めて、童子のように足を組み、こちらを面白そうに見上げている。
「ここに来てから、ずっと思っていたことだけどよ、おまえ、最近、すごく変わったな」
「そうか?」
「そうさ。なんというか、丸くなった。昔のおまえだったら、俺にこんなふうに、あれこれと助言してくれなかっただろうし、さっきだって、あれだ。軍師みたいだ、と言っても、ぶすっとして、なーんにも答えなかっただろうよ」
俺はいままで、そんなに愛想が悪かっただろうか?
記憶を探っているあいだに、張飛はつづける。
「余裕が出てきた感じがする。うん、いいことじゃねぇのか」
「そうだろうか」
「そうだよ。俺はつねづね心配していたのだよ。おまえは古株で、経験も深いし、ちゃんと能力もあるのに、なんでか、みんなに忘れられる。というか、みんなが、おまえを嫌いじゃないのに、避けているような、変な空気があった。
このまんまじゃ、おまえは後からきたやつらにぜーんぶ追い抜かされて、そのまんま、ただの軍師のお守り役でおしまいになるのじゃないか、とな。
どうしてそうなっちまうのか、なぜだろうと、ずっと考えていたのだが、いまわかったぜ。原因は、それだ」
「どれ」
「余裕だよ、余裕。おまえはどこかいつもキリキリしていて、久しぶりに会っても、話もまともにできたことがないというか」
そうだそうだ、と張飛は自分で自分の発見におどろいて、おお、と感嘆の声をあげ、それからまた趙雲を見上げて、言った。
「思えば、おまえとこれだけ長いこと喋ったのも、初めてじゃないか」
「それは誇張だ。そこまでひどくなかったはずだぞ」
さすがに傷ついてきた趙雲が反駁すると、張飛は無情に言った。
「いや、ひどかった。こいつ、お高く止まってやんの、と何度思ったことか」
「そのときに注意してくれ」
「注意すらできない空気が、おまえの周りにもわもわと漂っていたのだって。
おまえって、ちょっと下手な冗談をいっただけで、めちゃくちゃ怒りそうに見えていたしな。職務中に冗談はよせ、とかなんとか言って」
「そこまで極端じゃない」
「いや、そういう印象があった、ってことだよ。俺だけのことじゃないぜ。聞いてみろよ、まわりの人間が、たぶんだいたいそんなことを言うから。
やっと人らしくなったな、おまえ。よかった、よかった」
「それはありがとうよ」
「いやほんとうだよ。安心した」
張飛は、さきほどまでめそめそと泣いていたのに、そのこと自体をすっかり忘れたように、さっぱりとした表情で立ち上がり、頬と髭を涙でぬらしながらまとめた荷物を、ひょいと持ち上げると、言った。
「安心したし、帰るわ」
「自分のこともあるが、俺のことも心配だから、ここに居たわけか?」
面倒を見ているつもりだった趙雲が、戸惑いつつ答えると、張飛は、にかっと無邪気に笑った。
「いいや、そういうことは、なにも考えてなかったぜ」
そうだろうな。それが張飛だ。
「あとでちゃんと礼に戻ってくるけどよ、まあ、ほんとうに、長居したな。仕事のほうも、だいぶおまえがやっておいてくれたのだってな」
「それは気にしなくていい。俺の仕事を珍しく叔至がほとんどやったから、手が空いたのだ」
そこまで言って、趙雲は、いい機会だから、ついでに言っておかねばならないな、と思った。
張飛が部下から倦厭されている。
これは厳しすぎる調練と、張飛のはげしすぎる感情の波にみなが付いていけなくなっているからだ。
ほんとうに孤立してしまう前に、言っておかねば。
「俺に余裕が出来たといったな」
「言った。実際、そうだろ。なにかいいことあったのか」
「まあ、あったといえばあったが、俺のことはいい。おまえはどうだ。余裕がないのではないか」
趙雲の質問は、張飛にとっては意外なものであったらしく、立ち上がり、荷物を掴んで帰り支度をしていた虎は、目を丸くして、黙ってしまった。
どちらなのか、判断が付かない。
余裕があるのか、ないのか。
「おい? 聞こえたか?」
「聞こえた。余裕か」
「そうだ。余裕がないのではないか。率直に言うが、おまえの仕事を手伝ってみて、おまえの評判があんまりよくないのが気になった。俺の心配をしている場合ではないぞ」
「あんまりよくない、か」
趙雲のことばを繰り返し、張飛は目線を落として、気になる笑みを口元に浮かべてみせる。
良くも悪くも正直者の張飛にしては、あいまいな笑みである。
「気を遣うなよ、すごく悪いのだろ。それは俺もわかっている」
わかっているなら、なぜ、治さないのだと言いかけて、趙雲はやめた。
わかっていても酒を止められないのと同じで、どうしても止められないことはある。
そこをあえてなぜと問いかけるのは残酷だ。
それに、その原因を突き止めるのは、どうしてもいまでなくてはいけない、ということはない。
もう帰れと言おうと趙雲が口を開いたとき、張飛が目線を落としたまま、ぽつりと言った。
「おまえにだから言うが、じつは、どうしたらよいのか、困っているのだ」
「困っている? なにを?」
「蜀に入ってから、なんというかな、なにもかも勝手がちがう気がして、どうしたらよいのか、わからないのだ。これまでの俺が通じないのだ。わかるか」
「わかる。そうか」
ときには死者を出してまで部下を厳しく鍛え上げ、そして戦場に臨む。それが張飛の、これまでのやり方だった。
寄せ集めの軍をまとめるには、劉備の求心力では足りない、強烈な力を示す必要があったからだ。
張飛のこうした粗暴な面は、これまで、確実に劉備に益をもたらすものだった。
寡兵で多数を打ち破れるほどの、凶悪にして強烈な力。それを見事に『軍』としての形に押さえ込める、張飛はそういう男だったのだ。
だが、時代は急激に変わっていく。
三国が分かれた時点で、身分も、民族すらも関係なく、運と度胸と才覚さえあればのし上がれる時代は終わった。
混乱は収束に向かう。
そも、そのための戦いだった。喜ぶべきことなのである。
だが、しかし、ここに、時代の流れについていけなくなりつつある男がいる。
張飛は敏感に、これではいけないと感じている。なのに、どうしたらよいのか、その方法がわからない。
だからこそ苛立ち、よけいに暴れ、孤立感を深めているのだ。
寂しがり屋なのだ。妻が去ってしまうかもという、その可能性ひとつで、子供のように泣いてしまう。
周囲から、置いていかれるのではという寂しさは、身に迫るものがあるのだろう。
「無理をすることはない。どうしたらよいかわからないのであれば、俺でもいいし、主公にも相談したらよいではないか。義兄弟だろう」
「兄貴か。兄貴は駄目だよ。俺は兄貴を支えなくちゃいけない。こんなことで兄貴の足をひっぱりたくないのだ。
だって、言えるか? 俺はおまえみたいに器用じゃないから、戦うしか出来ないっていうのに、その戦うことが、なんだかうまくできなくなっている、なんてよ。俺はそれじゃあ、役立たずということじゃないか」
「それは足を引っ張ることではない。嫌なことを言うかもしれないが、おまえはいま、益州にいる武官の頂点に立っているのだぞ。
主公に嫌われたくないとか、そういう理由で黙っていていい立場ではない。出来ないことは、出来ないと正直にいえ。そうでなければ、全体がおかしくなる」
「そうかもしれねぇなあ」
張飛はそうつぶやいて、また、あいまいな笑みを口元に浮かべて見せた。
「俺はおまえみたいに、全体だなんだと、そういうのは考えられないみたいだ。みんなのことは、なんとなくわかるけれど、気の合わないやつのことも含めて、方針とやらにあわせて動く、ということができない」
「得手不得手があってもよかろう。不得手がおまえの場合、全体に合わせて動くということなら、それが得意で、おまえを上手く補佐できる人材をそばに置け。それだけでも、負担がちがうぞ」
「軍師のようなやつか」
張飛がいまだに孔明を苦手に思っていることを知っている趙雲は、肯定せずに、こう答えた。
「軍師と同じような人間でなくていい。あれに関しては、似ている人間もいないからな。龐士元とは気が合っていただろう。これも似た人間はなかなかいないだろうが、ともかく、探してみろ。
それこそ、だれか適任はいないか、主公に相談してもいいではないか。お手上げ状態だと報告に行くより、ずっといいだろう」
「そうか。それならいいか」
張飛は、完全には納得してないようであるが、趙雲の提案が気に入ったようで、さきほどよりは元気を取り戻した。
そして、馬のように、ふんっ、と大きく鼻から息を吐き出すと、趙雲の屋敷を床から天井まで、ぐるりと見回して、言った。
「ほんとうに、長居したもんだな。迷惑かけたよ」
「いや、気にするな。またいつでも来い」
趙雲は心から言った。
押しかけられた当初こそ、迷惑だと思ったが、いまは、こうして腹の内を明かして話すことができたのだから、いいことだったと思っている。
率直なことばに、張飛は、にっ、と顔を笑わせて、言った。
「ほら、それだ。おまえは、前はそんなことを言わなかった。どろか、むすっとして、二度と来るなという顔をしていたよ」
「それはすまなかった。俺は相当に嫌なやつだったな」
張飛は、からからと声をたてて笑うと、趙雲の肩を親しげに何度か叩き、それから言った。
「嫌なやつだとは思わなかったさ。実際、俺はおまえに迷惑かけてばかりいたからな。
俺もおまえを見習って、すこし変わらなくちゃならん。まずは女房に土下座し、つぎに兄貴のところへ行って、いまおまえが言ったことを言ってみるよ」
「ああ、それがいい」
「ありがとうな」
そう言って、張飛は趙雲の肩を、今度は優しく、ぽんと叩いて、そして、きびすを返して、力強く屋敷を出て行った。
虎は去った。
その後姿を見送りながら、なんだかんだと、あれほどにぎやかな男がいなくなると、急に周りが寂しくなるなと、趙雲は思った。
そして、ふたたび、どれだけ会っていないだろうかと、孔明のことを考えた。