藍の儀礼 Ⅲ

2

数日後、孔明の道路と橋を直そうという提言は、意外なことに、すぐに実行にうつされることとなった。
孔明の言うことには、とりあえずなんでも反対しておく、というのが政治姿勢になりつつある法正にも、あっさりと受け入れられたのである。
かくして、具体的に工事がはじまった。

これには裏事情があった。
法正も法正で、じつは流民問題に頭をなやませており、かれらをどう導いたものかと、その手段を探っていた。
流民は、民族間の競り合いのつづく交州や、家財を一式無くした民が、益州なら住み着きやすいという噂を聞いて、近年、荊州から移住してくる者たちとともに、大量に流れ込んできていた。
行軍のため、蜀の桟道を整えたことが、流民のためにもなった。
誇り高いきつね似の尚書令は、流民のことを左将軍府の長である孔明に相談するのをいやがって、これまで黙って自分ひとりであれやこれやと頭をひねっていたのだが、しかしこのたび孔明からすばらしい提言がぽんと飛び出し、めでたし、めでたし、というわけである。

影響は、すぐに趙雲のもとにも及んだ。
流民は、成都のあちこちに出来上がりつつあった貧民街に集まっていた。
そのため、成都にある軍兵のうち、首都防護の任についていない者は、午前は調練をし、午後からはそれぞれの貧民街に集められた流民たちを監督して、道路や橋梁の修理に当たらせることとなったのである。

「昼を摂って、休憩のあと、士卒長は各曲の曲長の指示どおり、隊を率いて、振り分けられた土地へいけ。現地ではすでに割り当てを決められた民が待っているそうだ。かれらを引率し、それぞれ割り当て箇所へ移動。のち、現地の監督の指示に従え。
おまえたちの仕事は、士卒長以下は流民らとおなじく道路・橋梁の修理にあたり、曲長はこれの監督を主に行うこと。
現地監督者との連携を密に、なにか問題が起こればすぐに巡回担当者へ報告。
巡回担当者は緊急性のあると見なしたものにかぎり、すぐに俺のところへ使いを送れ。

なにぶん、最初のことであるし、兵卒たちも戸惑いがあることと思う。だが、流民たちはそれ以上に不安をもって集まっていることであろう。士卒長らはそのことを十分に考慮したうえで兵卒の指導にあたれ。
揉め事は、どんな小さなことでも見逃すな。見つけたら、その場ですぐに曲長と相談のうえ、対処。それでもまとめきれぬものは、見栄を張ったり、内輪で解決しようと焦ったりするな。
部将は曲長より報告を受けたなら、すぐに解決へ動け。とくに部将に伝えておくが、よほどでないかぎり、揉め事を解決できないことを責めるな。解決が難しいから揉めるのだ。原因もさまざまに変われば、解決方法もさまざまに変わる。責めずにまず話を聞き、そして冷静に対処すること。それが貴殿らの仕事である。
これを部下の不能と決めつけ、むやみやたらに責める者を見つけたなら、これは俺に報告せよ。いかなる常日頃の感情もそこに入れるな。そして報告を上げることを、讒訴と混同させてはならぬ。
これを理解せず、むやみにその権能を振るい、みなを混乱させた者がれば、職務放棄と見なし、俺より処罰を与える。

よいか、この方針は、この事業に対するものばかりではなく、これから携わる、すべての作業についての方針と心得よ。
この春より俺の元へ配属となった者もいるので伝えておくが、俺は勲功を与えるさいには、戦での活躍はもちろんだが、常日頃の行いも重視して判断する。
断続的に戦の起こる昨今、思い違いを起こしている者もいるようであるが、戦において独走し、勲功を焦る者は英雄とは言わぬ。そんなやつは、仲間を混乱に陥れる、裏切り者だ。
戦になればこちらのものだとばかりに、調練以外のこうした任務をおろそかにし、戦が起こると、先に述べたような行為をする者は、ほかの誰が、なんと言おうと、俺は認めぬ。
異論のある者は、いまのうちに俺に言え。処罰を与えるようなことはせぬ。俺と真逆の考えをもつ将も軍のなかにはいる。俺と考えが合わぬまま、隊に留まるのはむつかしいであろうから、俺から上に報告し、再度の異動を依頼することにするゆえ、あとでかまわぬ、遠慮せずに申し出るように」

趙雲は、集めた士卒長以上の各隊の曲長、部将らを調練場にあつめて訓告した。
さすがに古参の部将らは、趙雲のこの論法に慣れているので、納得した顔は見せていても、驚きはしていないが、新入りや、異動してあらたに趙雲の隊に入った者などは、おどろいて、同期の仲間とひそひそと相談をしている。

張飛や関羽といった、貧しい身分から将軍にまで登りつめた英雄たちの話を聞いて、我も我もとやってきた若者のなかには、戦さえ起こればいいと勘違いを起こしている者がたまにいる。
武術の天才か、さもなくば軍略の天才でもないかぎり、平素はろくでなしであっても、戦のときに一気に勲功を上げることのできる人間はいない。
そもそも、どんな身分に生まれつこうと、才覚のあるものは、平素から、他者と比べると光るなにかを持っているものである。
ただし、一人だけのし上がろうなどと考える人間は、黄巾賊の討伐隊があちらこちらで結成されて、かえって混乱をきわめていた時代とはちがって、より高度な調練をうけた軍が戦の主流となりつつあるいまでは、受け入れられない。
共同作業ができない人間が、隊に受け入れられるはずがなく、たとえそのまま戦場に出たとしても、孤立して真っ先に死ぬか、足手まといになるか、運がよければ、仲間とはべつの、勲功とはまったく関わりのない仕事を与えられるかの、いずれかだ。
こうした事実を考慮し、仲間とうまくやれない者は、去ったほうがいい、という意味での訓告であった。

だが、どちらかといえば、強くあれ、のし上がれと、尻を叩かれるようにして鍛錬を受け続けてきた者には目新しい、悪く言えば混乱する話であるから、戸惑いがあるようだ。
報告を密にする、というところも、かれらには戸惑いであるようだ。

趙雲は、仲間同士の風通しをよくするためにも、上と下の連携は常日頃から強くしておいたほうがよいと考えているのだ。
それにはまず、問題を共有し、ともに考えることが、いちばん手っ取り早い。
士卒長や曲長にしても、そうしたほうが、部下の特徴を実地で掴みやすい。
上から与えられた命令を、ただこなす兵ではなく、上から与えられた命令を、自分の頭で理解し、柔軟に動ける兵を育てたい。

上から下へ、ただひたすら頭ごなしに、という方法は、組織が巨大になればなるほど、無理がある。
下は上を恐れて問題を隠し、それが解決されないままあると、問題は、膿んだ傷のようになって、最後には腐り、ついには組織の一部を切り捨てなければならないほどになる。
ある程度の服従を求めるのは軍という組織の性質上、やむを得ないが、それが過剰になってはだめなのだ。
そのあたりの均衡を、兵卒たちにも、日ごろから学ばせておかねばならない。


昼を摂るために解散となったところで、陳到がまたも近づいてきた。
「今日はめずらしく長いお話でしたな」
「みなの反応はどうだ」

陳到は、元は袁紹の細作であった。
その武術の才能の高さと、高い協調性を買われて、細作から部将に転職した男である。
いまでも、その情報収集力はたいしたものであるが、しかし欠陥がひとつ。
陳到の高い情報収集力は、政治にはまったく関係ないところ、他者の噂話を集めるためだけに存在する。
どこのだれが酒場女といい仲だ、とか、あの隊のだれそれと、この隊のだれそれは、夕飯の餅をめぐって対決をした、とか、そういう、知っても知らなくてもどうでもいい話である。
きな臭い話になると、陳到はとたんに引っ込んで、見ざる聞かざる喋らざるに転じる。
あたりさわりのない話の場合は、陳到はぺらぺらと、じつによく口を動かす。
癖のつよい、扱いにくい男なのだ。

「率直に申し上げますと、なるほど、おさすがと頷いたのが半分、なにを言っているのだか、さっぱりわからぬ、というのが、これまた半分」
「となると、あとで異動の申し出はありそうだな」
「どうでございましょう。みな、申し出ると左遷されるのでは、あるいは処罰されるのではと怯えております。これまた率直に申し上げますが、ふつうは『儂が気に入らぬか』と折檻されますからな」
「古い、いや、腐敗した体制の負の遺産だ。そんなふうに縛り付け、人を根本から変えようとすることに無理がある」
「軍師も同じことをおっしっておりました」
「影響されたのだろう」
「軍師は将軍に影響されたのだとおっしゃっておりましたが」
「なら、影響されたのではなく、もともと考えが似ていたのだ」
「ふむ」

気づけば、陳到は、なにやら考え深そうに、ひとりでふむふむとつぶやきながら頷いている。
「なにを納得している」
尋ねると、陳到は答えた。
「いえ、将軍は口数が多くなったように感じておりましたが、やはりそうだな、と」
「そうか?」
自覚がなかったのでおどろいていると、陳到は、そうですとも、というふうに、力強く頷いた。
「よいことでございましょう。趙将軍は、傍で見ているとやきもきするほど、いままで言葉が足りなさ過ぎましたからな。
趙将軍はこのままでは、あまりにもったいないお方。ここで一気に波に乗り、論客としての趙子龍の才覚もばばーんと見せ付けておやりなさい。目指せ、大将軍、でございます」
「大将軍ねぇ」

趙雲は現在の雑号将軍である『翊軍将軍』の位よりも、もっと上の地位を目指している。
が、武官の頂点にあたる大将軍の地位を狙おうとまでは考えていない。
名誉がほしいので、軍の全体の方針を云々と構想しているわけではないのだ。
地位と、それに付随する権限がほしい。
なにより、それが全体のため、ひいてはおのれのためになると信じているからだ。

「先ほど、ぽかんとしていたのが半分、と申し上げましたが、単に耳慣れぬ話を聞いたので、戸惑っているだけかと思います。反発を持っているような者はいなかった様子。
士卒長以上ともなれば、やはりそれなりの人間でございますから、まったく理解できない、ということはなかったのかと」
「では、いまは様子見か。俺は、みなから見られているな」
「逆に言えばそうでしょう。気になりますのは」
「うん」

陳到と趙雲以外の士卒長や曲長は、仲間たちと歓談したり、あるいは食事に向かったり、木陰で昼寝をしたりと、思い思いに過ごしている。
厩へ食べ残しを持って、自分の馬に会いに行く、趙雲のような部将もいる。

陳到は言葉を切って、周囲に気を払い、それから声を落とした。
「張将軍の部隊からこちらに異動になりました者たちは、反発とはいわないまでも、戸惑いがつよいようでございます。
あえて申し上げますが、あそこは、先ほど将軍がおっしゃったとおりの古い体質を、そのまま引きずっておりますからな」

それを聞いて、趙雲もまた、周囲の目を気にしつつ、嘆息した。
張飛の、部下に対する扱いの荒さは、聞いていて知っていた。
調練のなかで兵卒を殺してしまうことさえあるとも。
恐怖で縛り付けて服従させる方法は、有象無象が集まっている、かつての義勇軍のような組織であったなら、通用したかもしれない。
だが、いまは、似たような共同体からあつめられた若者が主流の組織に変わっているのだ。

趙雲は、集められた若者たちのなかで、戦で成り上がりたいと真剣に考えている若者が、果たしてどれだけいるか、それも怪しいと思っていた。
おそらくだいたいは、早く兵役を終えて、故郷へ無事に帰りたいと願っているにちがいない。
そんな彼らの心に恐怖を植えつけて育てたところで、実際に役に立つだろうか。

趙雲はこれまでの経験から、日ごろ、暴言放言をくりかえしてる素行の悪いものほど、いざとなると役に立たず、むしろ、毎日をこつこつと真面目に過ごしている者のほうが、思わぬ勇気を奮うことを知っている。
そして、軍のなかで、どちらの数が多いかといえば、圧倒的に後者なのだ。
後者がよく育つ組織でなくてはならない。
それが『強い軍』になる。

張飛はなぜ古い体質にこだわるのだろう。
かつて、自分がそうした中で強くなったかなのか? 

そうだろうか。
劉備の義勇軍は、官軍よりも行儀のよい軍であった。
公孫瓚の白馬義従であったときに劉備の軍を見て、それで趙雲はその配下になりたいと思ったのだ。
もしも古い腐った体質を受け継いでいるような軍であったなら、趙雲は劉備の元へ行こうとは思わなかった。

張飛は戦の天才だ。
だれに教えられなくても、だれより有利に戦うコツを知っている。
兵を鼓舞し、敵に果敢に向かい、そして最高の勲功を上げてきた。
だが、人を指導する才能は、別であるらしい。

まずいな、というのが、趙雲が率直に思ったことであった。
春になって軍のおおかたの編成が終わってから、趙雲は考え始めたことがあった。
いまは自分の隊だけで行っているこの方針を、蜀の軍の全体の方針にすることである。
劉備の抱える武将たちは、よく言えば個性的、わるく言えば寄せ集め。
各地より、さまざまな出自の人間があつまっているので、全体に一貫した方針がない。
なので、一方で趙雲のように、時流を読みこした運営を展開する部隊もあれば、張飛のように、昔ながらの方法で運営をする部隊もある。

だが、趙雲は、はっきりと感じ取っていた。
いま現在、荊州に駐屯する関羽や漢中の魏延の部隊、そして馬超の武騎(涼州兵)を含めても、いま、蜀でもっとも強い部隊は、自分の部隊だ。
おそらく、次の戦では、はっきりとそれを証明することができる。
確信があった。
それほどに、部隊の仕上がりは見事であった。
だが、戦が起こったあとに、動くのでは遅い。
これだけ、ばらばらな軍のなかで、方針を統一するというのは大変なことだ。
いまから変革の素地をつくっておかねばならない。

そんなことを考える趙雲の横を、午後からの作業の手順を話し合いながら、古参の部将たちがとおりすぎていく。
かれらは上役に似て、みな職務熱心な者たちばかりだ。
「悪路の整備と橋梁の工事。文句を言う者もおりますが、流民らに仕事を与えれば、かれらの暮らし向きも立て直せるし、そのうえ、民も喜び、治安もよくなり交通の便もよくなりと、いいこと尽くめなので、このたびの仕事は喜んでいる者がほとんどです。
尚書令どのも、今回は、見事に手際のよいことで」
陳到のことばに、趙雲も同意してうなずいた。
なにが手際がよいといえば、流民たちを、すでに各所に集めて、いつでも作業に従事できる状態にまでしている、というところだ。
よほど周知をうまくしたにちがいない。
「法尚書令は癖のある御仁ではあるが、まつりごとに対しては軍師に勝る才能を持っている」
「まったくですな。積極的に好きになれるお方ではありませんが、こういうときには素直に感服いたします」
「本人に聞かせてやれ。喜ぶであろうよ。誉め言葉を聞きなれていないだろうから」
「止めておきましょう、あのお方のことですから、変に裏があると思われるといけない」
「たしかに」

この言葉にも、趙雲は思わず、うなずく。
法正の性格を考えると、十分にありうる話であった。
だが、うなずいて、あわてて咳払いをして、ごまかす。
ここで話を肯定して終わらせてしまっては、大将の品格を疑われるところであるし、陳到のためにもならない。

「その発言は、外でするなよ。ほかの連中に悪い影響が出る」
「了解しました。ところで」
陳到は、昼寝を終えたばかりの童のような、ぼんやりした顔(いつもの顔ではあるが)をしつつ、たずねてきた。
「われら将は、各担当に付き添って見張り、ということでございますが、将軍はどうなさるのです」
「俺はその監督の監督だな。なにか不都合が起こるようであったら呼べ。計画では、宮城を中心に道の整備をはじめていくそうであるから、洛陽門から順に、まず宮城の各門の担当各所を一巡する予定ではある」
「それならば提案がございますが、将軍は詰め所にいていただき、われらが将兵を班に分けて振り当て、これを監督したほうがよいのではありませぬか。
巡回は、副将格の数名で行います。そのほうが、有事の際に動きやすいでしょう」
「なるほど、たしかにそうだな。俺が北にいるあいだに、南で諍いが起こるともかぎらぬし」
「なるべくならば問題が起こらぬほうがよいのですが、なにせ初めてのことでございますから、何が起こるかわかりませぬ。できれば将軍には、動きやすい状態でいただいたほうがよいかと」

相変わらず、気の利く男である。しかも先の先まで読める。
つねづね、おのれの副将としてとどめておくには惜しいと趙雲は思っているのだが、陳到自身が出世を望まない。
陳到は、もしかしたら足るを知る、想像以上に高い境地に心を置いている男なのかもしれない。
そんなことを考えていると、これまで春の風にいまにも攫われてしまいそうなほど、頼りなさげな、ぼーっとした男の表情が、不意にきらりと輝いた。

趙雲は構えた。
嫌な予感がする。

「将軍、張将軍は、まだ奥方からお許しをいただけておりませぬので?」
来たか。
これさえなければ、陳到は、それこそ『素直に感服できる』人物のひとりなのだが。

趙雲は、呆れて、ため息を吐きつつ、答えた。
「なぜ尋ねる。それが職務に関係あるのか」
「ございませんとも」
陳到は、なにをおっしゃいますやら、とかえって不思議そうな顔をする。

とぼけた男だ。
趙雲は、すでにこいつは、俺のつぎの言葉をわかっているだろうに、と思う。
そういう、変な方面での腹黒さは、趙雲の苦手なところだ。
いまひとつ、気を許せない。
どうしてこいつは噂のたぐいが、こうも大好きなのだろう。
陳到は、きょろきょろ、と周囲を見回し、ほかの将兵が、こちらに注視してないことを確かめてから、つつ、と寄ってきた。
趙雲は、一歩、下がる。

「なんだ」
「いえ、実を申し上げますと、張将軍の部隊の将兵どもから、ぜひ聞いてきてほしいと頼まれておりまして、張将軍がもし趙将軍のお屋敷からも追い出されるとなると、これはいよいよ、自分たちが助けなければならないだろうということで、いまからみな、決死の思いでその担当の割り振りを考えているそうでございます」
「待て。担当の割り振りを決めるのはよいが、『決死の思い』とはなんだ。わけのわからぬ『はやり病』を捏造しただけで十分だろう。益徳はすっかり騙されているぞ」
「それはそれ、なにせ張将軍でございますから、ねえ?」
陳到の『ねえ』にこめられたさまざまな意味に、趙雲はあえて同意せず、ぴしゃりと跳ね除けた。
「なにが『ねえ』だ。『益徳の日ごろの行いが悪いから、みなから倦厭されるのは仕方ないからねえ』の『ねえ』か。
それとも、『部下が上役を厭うのは当然でしょうねえ』の『ねえ』か」
「ほかにも、『泊めるくらいはいいけれど、そのまま居つかれたらどうしようかしらねえ』の『ねえ』も含まれております」
「おまえというやつは! 益徳とは友人ではないのか。おまえが率先して泊めてやれ」

趙雲が顔をゆがめると、陳到は、あわてて両手をぶんぶんと振って見せた。
「いえいえ、わたくしのあばら家なんぞに、畏れ多くて、主公の弟君をご招待などできませぬ。
それに、これは、わたくしが申しているのではなく、多くの将兵の意見をまとめたものでございまして、みな必死なのでございますよ」
「だから、決死だの必死だの、どうしてそう話を大げさにするのだ。おまえ、楽しんでいるだろう」
趙雲がにらみつけると、陳到は、逆に平然として、小憎らしいほどふつうに肯定した。
「それはもう。こんな愉快な騒動、めったにありませぬから」
冗談ではなく、真顔でうなずくところが怖いところでもある。

「ともかく! 益徳のことは本人に聞け」
「虎は怖い。聞いたところによれば、今朝も痛飲がたたって、寝込んでおられるとか」
正確な情報だ。
趙雲はなにも言っていないし、家令のじいさんも口が固いから、外に漏らすとも思えない。
こいつの情報網、ほんとうにどうなっているのだ。
そして、それが公務に生かされないのは、なんでだ?

「虎はいつ動くか? せめて推理の材料だけでもいただけませぬか」
「断る! くだらぬことをこれ以上聞き続けるつもりなら、午後からの職務はすべておまえに一任するぞ」
「はあ、かまいませぬ」

腹が立つほど、あっさりと陳到は承諾してみせた。
そして言葉どおり、陳到は問題なく職務を遂行できるだろうということも、陳到本人も趙雲も、わかっている。
だから余計に腹が立つ。

腹が立ったので、いつもならそんなことはしないのだが、ほんとうに職務を丸投げすることにした。

「よし、やれ」
「は」
「かまわぬと、いま言ったではないか。がんばれよ、叔至。
尚書令には、俺から、『貴殿の見事な行政手腕にいたく感動した叔至がみずから申し出て、率先して任務に当たっている』と伝えておく」
すると、陳到の顔が、肉つきの骨を、いちばんおいしいところで取り上げられた犬のように、悲しげにゆがんだ。
「そんな! そんな報告をされてしまったら、出世してしまいます!」
「出世しろ!」
趙雲が叱り飛ばすと、陳到はふううっとため息をつきつつ、悲しげに首を振った。
「趙将軍はわかっておられませぬなあ。そこそこの地位で、責任もそこそこ。
そういうちょうどいい位置にいて、適当に、みなと罪のない噂話をして盛り上がる。そういう毎日が楽しいのでございますよ」
どこまで芝居で、どこまで本音だ。
というか、俺をおちょくっているのか、こいつは。
「罪がないかどうかは俺が結果を見て判断する! ともかく行け!」
「将軍はどうなさるので」
「高みの見物をさせてもらう」
「はあはあ。ただ見ているだけ、と。構いませぬが、ところで最後にひとつ」
「なんだ」
「定時には家に帰れましょうや?」

頭が痛くなってきた。
趙雲は懐にひそませた小袋に、頭痛のための頓服はあったかな、と思い出しながら、こめかみをさすりつつ、答えた。
「ひとつ言う。おまえが定時に帰れるかどうかは、おまえ次第だ。ただし、帰りたいからといって、いい加減に仕事をこなしたり、ほかのやつに押し付けて自分は帰ったりしたら、俺がおまえを処罰するからそのつもりでおれ」
「そのような、人をまるで怠け者のように」
「おまえには前科があるだろうが!」

冬の日、趙雲が劉備の主騎をつとめていたあいだ、代わりに孔明の主騎をした陳到は、まだ孔明が職務中だというのに、定時になると、さっさと帰ってしまっていた。
前科を思い出させても、なおも陳到は顔色を変えない。
むしろ、こんなことを言ってきた。
「軍師からは好評をいただきました」
そうだろう。
「あれは単に、だれにも口を挟まれず、好き勝手をしたかっただけだ。あんな向こう見ずの世間知らずを一人にしたら、どれだけ面倒か、わかっているだろうが」
「偉度がおりましたから、大丈夫、大丈夫。将軍は心配性ですなあ」
と、今度は陳到は、子供をからかう大人のような顔をして笑ってみせる。
ちなみに、趙雲と陳到は同年だ。
「あのな、そう思って放っておいて、何度か攫われたり、暗殺されかけたりしているのだ、あれは」
「稀に見る波瀾万丈。どうしてそうなのでしょう?」
「知るか! おまえと話をしていると、頭痛がしてくる!」
「それは昨夜の酒が残っているせいではありませぬか」
「なぜ知る」
「さあ? なぜでしょう?」

わざとらしく首をひねる陳到に、趙雲もとうとう堪忍袋の緒を切らせた。
こいつと話をしていると、真面目に生きて、真面目に悩んでいるのがばかばかしくなってくる。
「ふざけるな! ともかく行け!」
「はいはい、行きますよ」
いなすように言いながら、陳到は趙雲の勘気に触れないようにするためか、小走りに駆け去って行った。
あいつ、とりあえずはこちらに敬語を使っちゃいるが、実のところ、舐めきってないか?


さて。
陳到は、たしかにふざけた男だが、良くも悪くも公私のけじめはきっちりつけている。
受けた命令は定時内であったら完璧にこなす。
あれだけ叱っておいたし、なにか流民に不穏な動きがないかぎり、放っておいてよいだろう。
午後からの時間が急に空いたことになる。

しかしだからといって、自由に過ごそうなどと思えるほどに、趙雲は要領のいい男ではなかった。
新入りが入ってきてだいぶ経つから、そろそろ目立ちはじめる落ちこぼれのために、救済策を考えておかねばならない。
さきほどの訓告の内容を受けて、実際に異動を申し出てくる者もいるかもしれない。
軍馬の調教はうまくいっているか、実地で確認しておきたいし、報告のあがってないなかで、部隊内に問題が起こっていないか、確かめてもおきたい。
やることはたくさんある。
趙雲はいったん、おのれの執務室に戻ると、残っていた事務仕事を片付け、それから各隊の報告に目を通し、そこに矛盾がないかを精査した。
そうしてしばらくを室内で過ごしたあと、外へ出て、兵舎に残っている兵の様子を見に行った。

問題はないようだ。
むしろ、張飛がいないことで、全体に穏やかな空気が漂っている。
各隊の将兵らに短い声をかけてあちらこちらを回りながら、趙雲は、表面はあくまで愛想よく、しかし内心では、よくない傾向だと眉をひそめた。
軍全体にとって、ではなく、張飛にとって、である。

張飛が部下たちから敬遠されているのは、以前からわかっていた。
劉備の義弟というその立場があるからこその、いまの地位だ。
そしてここがもっと肝心なことであるが、劉備という人間が、公平さを保って国政の手綱を握っていられるからこその安定だ。
これは、劉備の人間性を疑っているわけでも、張飛の危うさを必要以上にあやぶんでいるわけでもない。
最悪を想定して、しかしそれを防ぐために、慎重かつ楽観的に、いまから動いておかねばなるまい。
張飛のことも含め、蜀の軍の全体を守るためには、どうしたらよいか。

これが今までの趙雲であったなら、関羽もいるし、張飛も子供ではない。
自分の出る幕ではないと引っ込んでしまったことだろう。
だが、最近はそんなふうには思えなくなっていた。

おのれの年齢が進み、自他共に軍の中心になりつつあるという自覚が強くなってきたことも、ひとつ。
もうひとつは、他者を冷静に観察する余裕ができたこと。

妙なものだ。
孔明を守るという、ただその一点に目的を絞り、おのれを研鑽しつづけてきた。
それほどの緊張感をもって対峙しなければ、孔明という人間についていくことはかなわなかった。
決してほかのだれのためでもない。
だが、その努力が、いまは自分を守り、支えている。

いつであったか、孔明は、人と人との出会いや結びつきのなかには、惰性で交わっているものもあれば、その逆に、たがいを限りなく切磋琢磨していけるものもある、と言った。
自分たちはそうであろう、とも。
いま、言葉どおりになっている。
新野での最後の春に出会ったときから、強烈に惹きつけられた。
それは、今日のこのときを、予感してのことだったのか?

考えすぎだな。
あまりによく膨らませすぎているかもしれない。

身を包むような南風が吹きぬけ、趙雲は足を止めた。
どこからか、ちらほらと白い花びらが舞ってくる。
咲き遅れの梅の花か。

ふだんは花を愛でることなど滅多にないが、花びらに誘われるようにして、趙雲はそちらの方角へと足を向けた。
粉雪が舞っているかのように、花をほとんど散らしてしまった梅の古木から、白い花びらが降ってくる。
周囲を見てみれば、そこは古く、使われなくなった小屋のとなりであった。
小屋のなかには、なんの値打ちもなさそうな埃をかぶった椅子と卓が放置されており、小屋の床にしても、一部が腐って、地面から生えた植物が青々とした姿をのぞかせている。

こんな場所があったのか。
時間と余裕があるときにでも、壊してしまったほうがよかろうな、と考えていると、開けっ放しになっている小屋の窓の向こうに、宮城にいくつかある建物のあいだを移動する、文官の一行が目に入ってきた。
趙雲の位置からは、その姿は、ちょうど手のひらほどの大きさにしか見えない。

その何番目かを行く者の姿が、すぐに目に飛び込んできた。
孔明だ。
ずいぶん久しぶりに見るその姿に、趙雲は感動に近いものをおぼえて、しばし見入っていた。
当然のことながら、孔明はこちらの目線に気づくことなく、横顔だけを見せて、去っていく。

一行が去ってしまってもなお、趙雲はその場から動くことなく、じっとしていた。
余韻を、なるべく長く保たせておきたかったのである。

ほんのすこし見ただけで、これだ。
こんなふうなら、つぎに会ったときには、心の臓が止まってしまうのではないか。

それはそれで、なかなか幸せな幕切れではないか、などと考えているおのれに気づき、趙雲は苦笑した。

張飛のことなど、これっぽっちも批判できやしない。
俺も十分にどうかしている。


3へつづきます。
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