遠きにありて

その3

たしかに都合のいい申し出である。
趙雲は表情にこそ出さなかったが、腹を立てた。
逃げたのは事実、けじめはつけなければならぬ。
趙雲の背後にいる兵士たちも、趙範の身勝手な申し出にぶうぶう非を鳴らしていた。
「ならば、そこになおるとよい」
趙範は、うらめしそうな顔をするでもなく、粛々とその場に正座をした。
苦しめるのはさすがに気の毒だったので、宝剣・青釭にて一気に首を刎ねてやるつもりだった。
「子龍どの」
かすかに震えてはいるが、気丈な声で趙範が呼びかけてくる。
「わたしは、あなたとふるさとでお会いすることがなかった。だが、次の世があるのなら、わたしはあなたとふるさとでお会いしたい。そのときこそ、真の友情をはぐくめる気がする。この期に及んでなんだが、わたしは貴殿がうらやましかった」
うらやましいとは。
趙雲は、剣を抜く手を止めて、そのことばのつづきを待った。
「貴殿はわたしと同年とはおもえぬほど若々しい。見た目だけではなくこころが柔軟で、それゆえ部下の方々にもたいそう慕われておられる。学識も豊かで、眼力もある。はっきりといおう、わたしは貴殿を目にすると、いつもみにくい嫉妬心に襲われて、自分を律することがむずかしかった」

なんと、と趙雲はこころのなかで、うめいた。
いつぞやの朝議のとき、おのれを見ていた趙範の、無表情すぎた顔が思い出された。
あれは嫉妬を押し殺していた顔だったのか。
要するに、お互い様だった、ということだ。

「わたしは子龍どのと同郷であったことを誇りに思いますぞ。常山真定は何度となく烏丸や黄巾賊、それに黒山賊におそわれてきた土地だ。人心は荒み、高い志を持っていたものも、時流にながされ、どんどん腐っていった。わたしがふるさとを離れたのは、愛する土地だからこそ、張燕のようなやくざ者しか生まぬ土地に幻滅したからなのだ。ところが、同郷にあなたのような立派な大将が存在することを知った。なぜ同じふるさとを持ちながら、どうしてわたしとこうもちがうのかと悩んだ時もありましたが、いまは嫉妬は消え去りました。あなたは、わがふるさとが産んだ英雄だ。そのあなたに斬られるのならまさに本望です」
すがすがしい、さっぱりした顔を向けて、趙範はさいごに、にいっと笑った。
その笑顔の裏には、口惜しさや嫉妬の影はかけらもなく、立派な士大夫の手にかかって死ねるおのれをことばどおり、誇らしくおもっているようであった。

ならば斬ってやらんと応じられるほど、趙雲も非人情な男ではない。
部下たちの手前、なんらかの処断をくださねばならないが、趙雲は、すっかりその気をなくしていた。
趙範のことばは、いままで自分を突き放してきたと思いつづけていたふるさとの、別な面を見せていたからだ。
厳父。まさにふるさとは趙雲にとってそれだった。
自分をきびしく育て、つぎつぎと試練を与えて鍛え、さらには広い世に送り出してくれたもの。
こころが何度もくじけそうになることの連続だった。
いじけそうになったこともあれば、自暴自棄になりかけたこともある。
それでも、ぎりぎりのところで希望を捨てずにいられたのは、なぜだったか。
やはり、それは、ふるさとがはぐくんでくれた強さゆえだったのではないか。
友もなく、恋人もなく、優しい両親もない。
そんな環境におかれたら、ふつうはゆがむ。
だが、自分はゆがまずに育つことができた。
それもこれも、ふるさとが根っこの部分で、自分を守ってくれていたからだったかもしれない。

そこに思い到ったとたん、趙雲は胸の奥がつんとするような感傷にとらわれて、腰の剣を抜けなくなった。
目の前に跪く趙範が、常山真定そのものにみえてきたせいもある。

迷っていると、さきほどの若者たちと、一族の女たちが、いっせいに趙雲のまわりに押し寄せてきた。
趙雲の部下が止めようとするのだが、かれらの勢いのほうがつよい。
趙範のまわりに人の垣をつくり、そして趙雲と趙範のあいだを人で埋めつくす。
あっという間のことだったので、趙雲も声を荒げることすらできなかった。
だんだん趙範の姿が老若男女の頭の向こうに遠くなるのを見るしかできない。
規模こそちいさいが、長坂の戦いの前後で民ごと逃げた劉備に対し、曹操も似たようなおどろきを抱いたのではあるまいか。
大人数ではなく、少数で逃げれば、逃げ切れただろうに、と。
しかしそうできない性分なのが劉備である。
趙範も同じなのだった。

「お願いいたします、われらの父を殺さないでくださいっ」
「あるじを斬られるなら、このわたしを代わりに」
「どうしてもご主人様を殺めるというのであれば、どうぞもろともにわたしも」
そんなことを口々にいって、だれもかれもが涙と鼻水を流しながら、趙範をかばい、必死に趙雲に訴えてくる。
趙範の人徳がにせものではなく、ほんものであった証拠だ。
ふつうなら、趙範が斬られたら、隙をねらって、我先にと逃げるものだ。
だが、だれひとりとして逃げない。
趙範はたしかに大人物というわけではない。
それでも、人の父であり、夫であり、主君なのだ。

趙雲は、刃を鞘におさめて、太いため息とともに、いった。
「貴殿を斬ったなら、わが主公である劉左将軍の評判が落ちる。せっかく降伏した者を逃亡するまで追い詰め、そのうえで一族の前で切り伏せた、残酷な男だったとそしりを受けてしまうからな」
趙雲が言わんとすることを察し、趙範が目を丸くした。
演技ではないだろうことは、かれの膝が大笑いしており、立てないくらいになっていることからわかる。
「貴殿は斬らぬ」
「ヒエッ」
よろこびの声とも、死地をくぐりぬけた安堵の声とも、どちらとも取れない間抜けな声を趙範はあげた。
「その代わり、約束してもらいたい。おれは貴殿の中に、おれのふるさとである常山真定を見た。同郷の者は斬るにしのびない、それもあって、斬らないということもあるのだ。だから孫権の元へ逃げ込むのはやめてくれ。間道ぞいに北へいって、一族とも故郷へ帰れ。そして、できうるなら、曹操にも、われらの情報を流してくれるな」
さいごの条件はきびしいだろうな、と趙雲はおもった。
常山真定のある冀州はかんぜんに曹操の支配下にある。
うまく間道を抜け、中原に入ることができたとしても、そこで待ち受けているのは、曹操による尋問だ。
あの苛烈な男が、情報源のカタマリのような趙範をただで故郷に帰すはずがない。
だから、「できうるなら」という条件も付けた。
趙雲の心の中にもあった嫉妬心は溶けてなくなり、殺意も消えた。
代わりに、趙範がぶじにふるさとに帰れたらいいと、心から願うようになっている。
おそらく、大願成就の日がくるまで、ふるさとには帰れないだろう自分の代わりに。

解放された趙範とその一族は、東から北へ向きを変えて、逃げていった。
趙雲の気が変わることをおそれてか、かれらの足どりは早かった。
東の空が白みはじめ、鳥たちが目を覚まし始めている。
枝から枝へ、仲間たちに挨拶するように鳴いて飛ぶ鳥たちと、早くも点となっていく趙範を見送りながら、趙雲は、さて、孔明や劉備になんと説明しようかなとかんがえていた。

趙範なきあとの桂陽の城は、問題なく落ち着いた。
趙範の故吏たちは、趙範らを止められなかった咎を自分たちが受けるのではないかと、びくびくしていたようだ。
趙雲が、残された者の罪は一切問わない、というと、だれもかれもが安堵した。
そして劉備政権に、ますますの協力を申し出た。

すべてを安定させたうえで、だれに引き継いでもよい状態にしてから、趙雲は桂陽を出て、臨烝へおもむいた。
臨烝には孔明がいる。
孔明と趙雲の関係はこれまできわめて良好であった。
だが、趙範の件が理解されるかどうかは五分五分。
人間関係がこれまでよいからといって、あぐらをかいて安心しきってしまうほど、趙雲は図々しい男ではない。
孔明の厳格な性格も重々承知している。

臨烝にて孔明に、かくかくしかじかで、趙範が逃げ、それを追いかけたが逃がした、という話をした。
孔明は、じっと瞑目して趙雲の話に耳をかたむけていたが、話が終わると、ぱっと目を開き、言った。
「あいわかった、趙範はいずれ逃げるだろうということは予想していた。だから、問題はない」
「逃げるとおもっていた、とは?」
「あなたにだから打ち明けよう、気を悪くしないでほしいのだが、趙範が降伏したあと、かれに逃亡のおそれがあると、わたしに密告してきたものがいたのだ。その密告者によれば、北からの使者らしきものが、しきりに趙範に逃亡をすすめていたという。何者かはわかるだろう」
「趙範の一族の手のものだったのだな」
「そのとおり。わたしが掴んだ情報では、趙範は間道を抜けて、ぶじに中原にもどったようだよ。あなたとの約束をまもったのだな。手近に、孫権のもとへは行かなかった。ついでに教えておくが、趙範は曹操に詰問されても、あなたと桂陽の内部情報は、決して言おうとしなかったそうだよ。それがあなたとの約束だからと」

一瞬、ことばにつまった。
趙範が約束を守るとはおもってもいなかったからだ。
曹操のような苛烈で、残酷なところのある男に、約束という盾ひとつで、趙範は戦ったのだ。

「で、趙範はどうなった」
「どうにもならなかった。曹操も、約束ならば仕方ないといってすんなりあきらめて、趙範を常山真定に帰したそうだよ。義のひとに弱い曹操らしいな。自分が義のひとじゃないからだろう。人の面白いところだ」
「そうか、よかった」
安堵するが、しかし、そこで終わる話ではないことは、趙雲も承知している。
「降将をむざむざ逃がした罪は受ける。おれはどうしたらよい」
「罪もなにも、あなたの冷静な判断のおかげで、劉左将軍は降将にも約束を守らせる、たいそうな男だといういい評判が立った。むしろ功があって、おつりがくるくらいだよ。それに、桂陽もよく治まっている。あなたの尽力のおかげだ」
「そういってもらえるのはうれしいのだが」
「けじめがつかぬか? なら、私的にあなたに罰を与えるとするか。見ての通り、この臨烝の政務庁は接収したものだから、あちこち補修をせねば、隙間風がひどいわ、虫が入りたい放題だわ、床が抜けそうだわで、ろくなことがない。あなたとあなたの部隊とで、政庁の補修工事をしてくれると助かる」
「そんなことでいいのか」
「左様。立派な仕事だ。どうだ、受けてくれるか」
「もちろん、明日からさっそく工事に入ろう」

意気揚々として引き上げようとした趙雲だが、ふと思い出して、孔明を振りかえった。
「そうだ、趙範が逃げる以前に手紙を出したろう。おまえはそれに、『常山真定の人間に注意せよ』と書いてきた。それはどういう意味だったのだ?」
孔明は、軽く肩をすくめつつ答えた。
「なに、密告者の情報によれば、常山真定の若者は、頻繁に趙範の身辺にあらわれているということだった。おそらくだが、あなたがやけに故郷の夢を見るようになったのは、趙範だけではなく、そのそばにいた人間がお国訛りで話をしているのを知らぬ間に耳にはさんで、故郷を思い出していたからだよ。
じつは、わたしも以前、似たような経験をしてね。司馬徳操先生のところへいくと、なぜか琅琊の夢を見る。どうしてかわからなかったのだが、しばらくしてわかった。司馬徳操先生の門下生に、おなじ徐州のなかまがはいったのだ。かれの訛りを聞いたので、頭が刺激されたのだな。あなたの場合は、あまり愉快な夢じゃなかったようだが、いまもまだ見るかい」
「いいや」
趙雲はかぶりを振った。
「もう見ない」
「ならよかった。夢の力というのは、あんがい、侮れないものだからな。おたがい、いい夢をみよう」
孔明なら、笑ってしまうほど壮大な夢を見そうだな、と想像しつつ、趙雲は場を辞した。

ひとつ、孔明にはあえて言わなかったことがある。
たしかに、あまり愉快じゃない夢はみなくなった。
その代わり、別の夢をみるようになった。
兄が午睡しているあいだに、趙雲は屋敷を抜け出し、土塁を作っている男たちといっしょに、作業をする。
なつかしいふるさとの民謡を声高らかにうたいながら。
そして、村を守っていく。
村を襲ってくる烏丸たちは、現実とはちがって、紙相撲の力士たちのようにぺらぺらに弱く、夢のなかで、戦った趙雲は、たいそう村人たちから感謝される。
みなが喜ぶ。
母も、次兄や一族の者も、趙範たちも、そして、長兄も。
そんな夢である。
果しえなかった夢物語を見たあとは、なつかしいような、くすぐったいような気持ちになる。
生まれた土地は、今も昔も、自分を見守ってくれているのだという幸福な想いにも満たされる。
そして、またあらたな試練に立ち向かう勇気がこみあげてくるのだ。
2017/7/31 🄫はさみのなかま

おわり

御読了ありがとうございました(^^♪

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