遠きにありて

その2

その夜、趙雲はまた兵舎の一角で寝台に横たわっていた。
だが、夜中にふっと目が覚めた。
夢を見ない。
真っ暗な闇のなか置きあがり、戸板でふさがれた窓から漏れる月光をたよりに、目が闇に慣れるのを待った。
なにかがおかしい。
こういうときは、眠気に負けずに、胸騒ぎの原因を探りに行ったほうがよい。

寝台から起きて、足を床に付けようとした、まさにそのとき、部屋の扉をはげしく叩くものがある。
「たいへんでございます」
趙雲の従者だ。
「いかがした」
すぐ乱れた衣を直して、従者を部屋に入れる。
薄暗い部屋の中では、従者の姿はうごく黒炭のかたまりのようにみえた。
表情こそわからないが、口調と手ぶりから、切羽詰まっていることがわかる。
「趙範が、逃げました」
「なんだと」
趙雲がすぐに思い浮かべたのは、日中に見た、どこかよそよそしい趙範の顔であった。
「一族も一緒です。さきほど、後堂をたしかめましたところ、家財道具はそのままですが、人がおりませぬ」
「いつごろ逃げた」
「わかりませぬ、しかし、かまどがまだ温かかったので、それほど遠くには行っていないはずです」
「よし、みなを叩き起こせ。手分けして街道を封鎖せよ。趙範は女子供を連れている。さほど遠くにはいけておるまい。それと、万が一捕まえた場合には、けして危害をくわえるな。抵抗してきたとしても、なるべく生きて捕えよ。これは徹底して下知せよ、よいな」
はっ、と小気味よく返事をして、従者は趙雲の命令を桂陽の全軍につたえるために出ていった。
すぐに武装をととのえながら、趙雲は腹の底からむかむかと怒りが湧いてくるのを感じていた。
趙範はおそらく、南下して、交州へ逃げた劉巴のあとを追うにちがいない。
劉巴もまた、かつて曹操に仕えていた男である。
北はすでに孔明ががっちりと押さえていて、曹操の残党たちが通れる隙はない。

なぜ逃げたのだろうと、趙雲はふしぎにおもう。
趙範はすっかり風光明媚な桂陽の土地に馴染んでいた。
領民からも慕われていたし、進駐軍といっていい趙雲の軍とも、そこそこうまくやっていた。
それなのに、夜逃げをするとは。
まるでさっきまでにこにこ笑ってともに暮らしていた女が、手のひらをかえして置手紙もなしに出て行ってしまったような気持ちですらある。
常山真定の人間は、夜逃げなどしないものだぞ。
こころのなかで悪態をついてみる。
もちろん、常山真定の出であれ、琅琊の出であれ、逃げるものは逃げる。

城をあらためると趙範の一族以外は、みな残されていた。
残された役人や一部の兵卒たちは、趙範の夜逃げの計画について、まったくなにもしらされていないようだった。
副将の陳到が、劉備軍の兵卒たちを叩き起こして、広場にあつめた。
陳到は、趙雲の命令を各部隊にそのまま伝えた。
趙範はおそらく交州に逃げ込もうとしているはずである。
街道を一気に南にくだって、かれらを生け捕りにせよ、と。
ねむいところを起こされて、兵卒たちはすこしだるそうにしていたが、緊急事態である、各部隊にわかれて、城を出ていく支度をする。
趙雲の軍隊についている司馬が、城を確認したところ、趙範はどうやら一族だけつれて、逃げたということだった。
「生け捕りにしたあとは、いかがいたしますか」
「捕らえてからかんがえよう。ところで、やつにわが軍の機密を握られているようなことはなかろうな」
「ありませぬ。とくに重要な書類などは、前々から趙範が触れないようにしておりました」
おそらく、政治の場から締め出されたことも、趙範の夜逃げの原因だろう。
趙雲から信頼しきれていないということが、趙範にとっては誇りを傷つけられることだったのかもしれない。
とはいえ、気を許し過ぎて、軍の機密を持っていかれるようなことになったら目も当てられないものだが。

と、ここで趙雲はかんがえた。
交州に逃げたところで、どうなるだろう。
間者のはなしでは、先に交州に逃げた劉巴は、土着の豪族たちと揉めて、苦しい立場にいるという。
仮にもっと南に進んで、交州を経由してぐるりと西進し、益州にはいっても、曹操の軍は待っていないし、助けてもくれない。
かれらは北にしかいないのだ。
それに、風土病の蔓延する交州に、大事な家族を連れて逃げ込むだろうか。
以前にもおなじように乱を避けて一族とともに交州へ逃げたものもいた。
だが、かれの一族は慣れない気候と風土病、異民族の圧迫などによってほとんどが死んだと聞いている。
かといって、北と西は劉備の軍で抑えられており……
「東。孫権のところか」
趙雲は低くうめいた。
なにも曹操ばかりが、われらの敵ではない。
同盟を結んではいるが、いまひとつ油断ならない相手が東にいるではないか。
食えない孫権のことだ。
仮に趙範が逃げてきた場合、劉備軍の内情を知る機会が転がり込んできたといって、よろこんでかれらを迎えるにちがいない。

趙雲は、南へ兵を向けようとする陳到を呼び止めた。
そして陳到を南へ、自分は東へと部隊を進めた。
足の遅い女子供を連れている相手を追う作業である。
すぐに追いつくことだろう。
趙雲は松明の灯りと月光を頼りに、ひたすら街道を急いだ。

夜の街道にはほかに人の姿はなく、たまに道を横断する野生動物が趙雲の部隊に仰天しているのに出くわすくらいだった。
静寂を踏み荒らすように、どかどかと人馬の足音をさせながら、趙雲は街道を急ぐ。
やがて、先兵が引き返してきた。
趙雲は自分の勘がただしかったことを確信した。
「この先に、おります、趙範にまちがいございませんっ」
なぜだろう、趙雲は落胆した気持ちをおぼえた。
趙範が逃げてしまったことは事実なのに、自分はこの期に及んで、まだ趙範のまことを信じたいとおもっているのか。
もやもやした思いを抱きつつ、さらに馬を走らせる。
やがて追いついた。
夜の街道の途中で、趙雲が放った先兵たちに囲まれ、立ち往生している。
先兵たちは、趙範を遠巻きにしている。
というのも、かれら一行を守るべく、複数の若者が槍や矛でもって、趙雲の兵が近づくことを拒んでいるからであった。

かれらの背後には、趙範の一族が団子のように塊になっていて、これからの運命の到来におびえている。
抱き合う女子ども、街道に落ちている石を拾って投げようと威嚇する者、早くも泣き出す者、気丈にしているがひっきりなしに歯と歯のすきまから唸り声をあげている者、さまざまだ。
そのなかで、趙範はとくに子どもたちを守るようにして、固くたがいに抱きしめ合っている。
そのさまは、団子、というより、蓮のつぼみのようにすら見えてきた。
ただし、この花を咲かせるときは、苦労しそうだ。

趙雲は、気づいた。
趙範が逃げてしまったことをざんねんにおもったのは、裏切られたことに落胆したこともある。
だが、もっと強い原因は、かれらをなんらかのかたちで罰さねばならない状態に直面したことだ。
和気あいあいと城を守っていたというわけではないが、短いあいだに趙範の一族とは顔見知りになっていた。
罰するときは、女子どもも連座することになる。
趙範は、ばかだ。
趙範が翻意をみせず、このまま桂陽も落ち着くようだったら、おれは主公に、趙範を桂陽の太守にもどすよう上奏するつもりであったのに。
あらかじめ、そうすることをつたえるか、あるいはにおわせておけば、逃げたりしなかっただろうか。
とすると、おれの根回しが悪かったのかな。
そこに思い至り、趙雲の気分はますます悪くなった。

「われらに近づくな、近づいたなら、迷わず斬ってやるぞ」
威嚇する若者の声を聴いて、趙雲は、おや、とおもった。
趙雲が馬から降りると、若者たちも、間合いをとるためか、数歩、うしろに下がった。
「さきの太守はおらぬか、女子どもとおしくらまんじゅうか」
冗談めかして言ったのは、くさくさした気持ちをいくらか和らげるためであったが、若者たちのほうには通用しなかった。
「来るなっ、来たらさいご、斬る」
「もしおまえたちがおれを斬るというのなら、おれもおまえたちを斬らざるをえまい」
感情をこめずに言ったつもりだが、ぎゅっと身を寄せ合って怯えている趙範の一族からは、ひい、とか、きゃあ、とか悲鳴があがった。
なんだか羅刹になった気分だな、と趙雲はおもった。
仮におれが羅刹に生まれていたら、人間に会うたびに、恐怖の感情を向けられることになるのだろう。

一方で、若者たちがしゃべるたび、ひっかかるものを感じた。
もしかしてとおもい、たずねる。
「おい、おまえたち、もしや、常山真定のものか」
場違いな質問に、若者たちは顔を見合わせる。
「どうだ」
うながすと、若者の一人が、答えた。
「そ、そ、それがどうしたっ、貴殿も常山真定の出自と聞き及んでおる。だが、われらは趙範さまにご恩がある。たとえ同郷相手でも、われらは容赦せぬぞっ」
「そうだ、そうだ、容赦せぬ、かかってこい、こわくないぞっ」
威勢はいいが、若者たちはみなへっぴり腰。
どうやら、趙雲があらわれたことで、すっかり怖気づいてしまっているのだ。
が、なんとかそれを隠そう、隠そうと虚勢を張っているようである。
かれらの突きつける槍や矛の穂先は、夜目にもはっきりわかるほど、ぐらぐら揺れて、定まらない。
手練れだったら厄介だと、趙雲はかまえていた。
が、若者たちの幼さの残る顔が月光に照らされて青ざめているのを見ていると、だんだん、気が抜けてきた。
もちろん、あいては凶器を持っているのだから、油断するのは禁物だ。

「おまえたちは孫権の手の者か」
ずばり聞くと、若者たちは、また顔を見合わせた。
「答えぬか」
趙雲がすごむと、若者のひとりが、答えた。
「ちがう。われらは常山真定の趙範さまのご実家から頼まれてやってきたものだ」
「たのまれた、というと」
「われら常山真定のものの耳にも、趙範さまが桂陽で劉備軍にかこまれ、仕方なく降ったというはなしは聞こえてきていたのだ。なんとかお助けせねばとおもい、みなで相談して、桂陽にこっそりはいり、趙範さまと連絡をとった。そして、なんとか北へ帰る算段をつけたのだ」
「東の孫呉のもとへいくのではないのか」
「ちがうっ」
「そういいつつ、おまえたちは東に向かっていたようだ。同郷を助けたいというのはあくまで建前、本音のところでは、孫権にうまく取り入り、桂陽の情報をながして、孫権の力で桂陽を取り返さんとした企みではなかろうな」
だとしたら、容赦はしない。
たとえ同郷であってもだ。

自分も同じ常山真定の人間だというのに、ふるさとのものたちは、趙範のほうを助けることを選んだ。
なぜなのだろうと単純な疑問が浮かぶ。
つづいて、悲しさにも似たやるせなさにも襲われた。
趙雲の実家は、父を亡くし、長兄を亡くしたあと、次兄が継いだ。
だが、とても才覚のある兄ではなかった。
いまでは、土地の権勢をうしなって、いまも盛り返せないでいると風の噂で聞いた。
その噂は、どうやらほんとうのことらしい。
時の流れの残酷さをおもった。
同時に、恵まれているのに逃げようとした趙範への怒りをあらたにした。
さきほどまで気が抜けていたのもむかしのこと、目の前の青年たちを屠らねば、気が治まらないという残虐な気持ちすら芽生えてくる。
これでふだんの趙雲なら、たとえ嫉妬に身を焦がすことになろうと、おのれの判断をまちがえたりしなかったはずである。
だが、これまでさんざん、常山真定の夢を見つづけて、なんだろうとふしぎにおもっていたところへ、趙範の逃亡である。
常山真定という故地がくれたものは、趙雲には面白いものばかりではなかった。
だが、趙範にはちがうのだ。
趙範にとっては、ふるさとは、厳父のように容赦なく子を世間の荒波に突き出すものではなかった。
それどころか、過保護な母親のように、やさしく手を差し伸べてくる存在なのだ。
おなじ土地に生まれ、ほぼ同じ身分で、おなじ世間の荒波に揉まれてきた。
それなのに、ふるさとは、どうしてこうもそれぞれにちがう顔を見せるのか。

裏切ったのはおまえのほうだぞ。
だれにたいしてでもなく、趙雲はこころのうちでつぶやいた。
そして、がくがくと膝を笑わせている若者たちを斬るべく、ゆっくりと歩を前へ進めた。
若者たちからすれば、槍をもった死神が向かってくるように見えたにちがいない。
かれらは両手で必死に得物を持ちつつも、「ひい」と、いまから死にそうな声をあげている。
もっとも雄弁だった若者の胸をめがけ、趙雲が槍を突き立てる姿勢をとった。
そのときだった。

「待たれよ、待たれよっ、殺してはならぬっ」
叫ばれたことばの訛りは、あきらかに常山真定のものだった。
さきほどまで、女子供を抱えて、ふるえていた趙範が、たまりかねて叫んだのである。
趙範は自分にしがみついていた女子供を脇にどかすと、動きを止めた趙雲の前に、身を投げ出し、地に伏した。
「その若者たちは、わたしの実兄が、わたしを心配してふるさとから寄越したものたちなのです。かれらは善行をなさんとおもっているだけで、劉備軍がどうの、孫権軍がどうのといった政治のことにはまるでかかわっておりませぬ。どうぞかれらが将軍に刃を向けたことは、許してやってくだされ」
趙雲は、趙範を見おろした。
こころの片隅で、こいつは実兄に助けられ、おれは実兄にたすけられたことがない、ということをかんがえていた。
趙範は、地べたに這いつくばるようにして、深々と趙雲に頭をさげた。
「命を助けていただいたうえ、まえの桂陽太守としてのわが立場もおもんぱかってくださり、一族にもあなたさまは危害を加えることはなかった。その恩義を無視するように、夜逃げなどしたことはわたしに非がある、申し開きのしようもない。非があるとすれば、わたしのみ。またわがままを言うようで心苦しいが、趙子龍どの、斬るならわたしだけを斬って劉左将軍への手土産とし、この若者たちと、女子どもは許してやってはくれまいか」
2017/7/31 🄫はさみのなかま

つづく

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