百本ノック 2本目

彼女は向こう側に

前編

IT企業のSは派遣社員にも優しく、フロアをまるごとひとつを食堂にして、かれら、かのじょらのために提供してくれている。
泉田美乃里がお気に入りの席は、窓際のおひとり様用の席だ。
1メートルほどのコンクリートの影にひっそりとあるその席は、西日にも守られているほか、窓から見えるケヤキ並木が目においしく、外食するよりランチの味が引き立つように感じられる。
社員食堂そのものを背にする格好になるので、人の視線も気にならない。
ガラス越しには真昼の陽光を受け、ケヤキの輪郭がくっきりと鮮明に見え、枝葉が不規則に揺れるさまは、まさに杜の都らしい風景だったが、美乃里も、美乃里の背中側で食事をしている派遣社員たちも木々のダンスに興味をもたない。

かわりに美乃里が興味を持っていたのは、韓流ドラマの情報サイトであった。
昨今のTVのBS各局は、韓国ドラマを放送するのに熱心だ。
美乃里にとってはありがたいことである。
なにせ、美乃里は、ほとんどの韓流ドラマを視聴していたからだ。
TVを見ていないときは、お気に入りの俳優や女優の情報をネットで集めたり、または、何月何日からどんなドラマが放映されるのかをこまめにチェックしたりしている。
韓流ドラマは、毎日やるものがほとんどなので、それを追いかけるのも大変だ。
週末になると、部屋にこもって、録り溜めしておいた韓流ドラマを思う存分堪能する。

韓流ドラマがもっと一般的に愛されていた時期には、美乃里はドラマの甘いタイトルを見るだけで胸焼けをおこし、完全な食わず嫌いになっていた。
ところが、あるとき、ひとりの俳優のうつくしさに惹かれてドラマを見始めてから、あとは泥沼、現在に至る。
美乃里は自分の現実の恋愛にはうとく、一人がいい、自由でいい、とおもっているタイプだった。
だが、韓流ドラマで展開される、リアルなようでいて、まったくリアルではない、濃い恋愛模様には、どっぷりはまってしまうのだった。
韓流ドラマのもつ独特の中毒性、引きの良さも、美乃里を夢中にさせている原因の一つだ。
それに、アメリカやイギリスなどの欧米のドラマは、遠い国の出来事として眺めてしまうところがある。
韓国は地理的にも近いし、文化的にも近い。
そのため、よりドラマに強くのめり込めるのだ。
ドラマをみているあいだは、美乃里は味気ない現実を忘れられた。

その日もスマホを片手にのんびり韓流ドラマの情報をあつめて過ごしていたのだが、ふっと熱い視線を感じた。
そして振りかえってしまったことをすぐに後悔した。
有原優子が、昼食のトレイを両手に、あたりをきょろきょろ見回しているところだった。
優子は美乃里と目が合うと、たくらみのある顔をして、にやり、とわらった。
若い女性で、えがおが「にやり」と形容されるのもめずらしいが、優子のえがおは、どうしても「にっこり」とは表現できないものだった。
美乃里個人は、優子の腹の底にたまっている、いじわるさ、コンプレックス、不平不満、そのほかもろもろの負の感情が発酵して、優子特有の、えがおなのに癒されない、というざんねんな表情を産んでいるのだとにらんでいた。
優子はゴシップ好きなうえ、詮索好きで、しかもおしゃべり。
社内の人間関係をひっかき回すのが趣味のような女性だった。
それゆえ一部のずるい人間からは重宝がられていたが、たいがいの人間には敬遠されており、一人で行動していることが多い。
本人は自分がなぜ一人が多いのか、ぴんと来ていないようで、いつも仲間を求めてうろうろしていた。
美乃里も優子と関わらないようにしている一人だが、気が弱いため、完全には跳ねのけきれないでいる。

優子は社員たちのあいだをすいすいくぐりぬけ、悪い具合に、ちょうど空いていた美乃里のとなりの席にやってきた。
そして、「混んでなくてよかった」「美乃里ちゃんがいてくれたから、うれしいな」とかいいつつ、オレンジ色の、座り心地のあまりよくない椅子に腰を掛ける。
派遣社員用の食堂の椅子が、なぜ座り心地がわるいのかというと、回転率を高めるためだと聞いたことがある。
どこかのファストフード店の戦略のようだ。
食事のときでも、わたしたちは効率を求められるのかと、美乃里はあきれている。
だからこそ、美乃里は意地になって、昼休みが終わるまでのほとんどの時間を社員食堂で過ごすようにしていた。

「おつかれー、新人の子、仕事おぼえるの、早そう?」
優子が、ぐっと美乃里のほうに体を寄せてきた。
美乃里は優子のペースに巻き込まれないように、わざとスマホでニュースサイトを見はじめた。
ニュースでは、三日前に発生した、S市内の女性が首なし死体で見つかったという猟奇事件の続報をしきりに報道していた。
女性の年齢や名前は、いまのところ明らかになっていない。
自宅マンションの洗面所で、首なし死体で見つかったということである。
一人暮らしで、問題の自宅マンションには侵入者の形跡はなく、しかも密室だったというおまけつき。
ちょっと凝ったミステリー小説のような事件だ。
まあ、たぶん、現実では、犯人は合いカギを持っていた、というオチになるんだろうけれど。
それにしても、ただ殺すだけではなく、首を持ち去っているあたり、尋常ではないと美乃里はおもう。
そして、優子のいう「新人の子」というのは、繁忙期も過ぎたいまごろになって、なぜか一人だけ雇われて入ってきた女の子である。
美乃里の午前中は、ほとんど、この突然現れた新人に仕事を教えることに費やされた。
新人の覚えはよく、明日からは、即戦力でやっていけそうである。

「なんとかなりそうですよ」
「そう。よかったねー。ところでさ、美乃里ちゃんも知っておいた方がいいとおもって。うちの会社のトイレ、出るらしいよ」
食事時にトイレの話か、と美乃里は眉をしかめた。
さいわい、美乃里は食事を終えていたのだが、優子はいつも頼むミートソーススパゲティにほとんど手をつけていない。
ちなみに、この社員食堂のスパゲティは、いつも茹ですぎで、ねちょねちょする。
「なにが出るんですか。というか、有原さん、ごはん食べてから話したほうがいいんじゃないですか」
冷めちゃいますよと、けん制したつもりだが、笑うバンシー・有原優子はまったくいうことを聞かなかった。
「だいじょうぶ、冷めてもおいしいから。美乃里ちゃんは知ってたの、出るって?」
「出るって、なにがですか?」
下ネタは勘弁だ、とおもいつつ聞き返すと、優子は、えくぼを作って、にやあっと笑った。
優子の「優」は、「優しい」の「優」ではなく、「優越感」の「優」なのかもしれない。
「幽霊」
「はい?」
「ゆ・う・れ・い! 出るらしいよ。こわいよねー」
「トイレに出るんですか?」
「そう。きのうから、トイレの入り口の隅っこに、盛り塩がしてあるの気づかなかった? ビル管理のおじさんに聞いたんだけれど、土日のあいだに神主さんを呼んで、トイレをお祓いしてもらってたんだってさ」
「幽霊のために、ですか?」
「そう。金曜日に残業していた子が、トイレで幽霊を見たって。しかも複数の子がトイレで見たらしいのね。もちろん、騒ぎになったらまずいから、口止めされているみたいだけれど」
優子はそういいながら、愉快そうに、けけっ、と妖怪のようにわらった。
「でも人の口に戸は立てられないよねえ。みんな、幽霊の話をきいて、トイレに行くのをいやがっているよ。ほら、今日、社員食堂に人が少ないでしょ?」
優子の言うとおり、いつもは混み合い、にぎわっている派遣社員用の食堂だが、今日は半分ほどしか人がいなかった。
利用者のために設置されたTVの音声だけが、とくに食堂に響き渡っている。
TVの内容は、もちろん、首なし密室殺人のことばかり。
「仕事中はトイレに行くのを極力がまんして、お昼休みに外でトイレをすます、って人が多いみたい」
「膀胱がきつそうですね」
「だよねー、膀胱炎になったら困るし、わたしは幽霊に会っても平気だから、トイレに行くけど」
鈍感なあなたなら平気だよねと、美乃里はこっそり、こころのなかで返した。
「みんな、その幽霊の話を知っているんですか?」
「7階のコールセンターの人たちはみんな知ってるみたい。コールセンターの子が見たらしいから。でも、わたしたち事務フロアの人間は、まだほとんど知らないんじゃないかな。フロアがちがうと、人の交流ってあんまりないじゃん、うちの会社」
たしかにそうだ、と美乃里は納得した。

TVでは、フリップを使って、首なし密室殺人のあらましを詳細に報道していた。
被害者女性の姓名と年齢、そしてくわしいプロフィール……どこに勤めていて、どんな人柄で、どんなトラブルを抱えていたのか……がわからなかったので、猟奇殺人で、しかも同じ市内での事件なのに、いまひとつ怖いとおもえない。
事件の舞台は、S市の中心部にあるマンションの一室であるらしい。
だが、その詳しい場所も、モザイクに隠されて、よくわからないままだ。
美乃里が家を出る前からずっと、マスコミはこの事件のことを流しつづけていた。
いまのところTVを見るかぎり、新しい情報はないようだ。
優子がこのままご飯を食べ終わってくれて、歯を磨きにでも行ってくれたら、あたしはまた韓流ドラマの情報収集ができるんだけどなと、美乃里がおもったのが伝わったのか。
優子は、ずるずるっと、透明度がなく、いかにも喉につかえそうなパスタをすすり終ってから、また、にやっと、悪だくみをしているような顔をした。
「いまTVでやってる殺人事件さ」
「はい」
「被害者、うちの派遣社員のひとりだよ」
「はい?」
「立林さやか」
美乃里は目をぱちくりさせて、邪気あふれるえがおを見せる優子をしげしげと見つめる。
この厚ぼったい唇の女は、いま、だれの名まえをいったのだ?
「社員さんが話しているのを聞いちゃったんだ。DNA鑑定したら、まちがいなかったって」
「立林さん、家の事情で休んでるだけじゃ」
「ちがうよー、立林さやか、死んじゃったんだよ。死んだ人のぶん、人数合わせしなくちゃいけないから、すぐに人が入ってきたの。美乃里ちゃんが面倒見てる子は、立林さやかの代わりってわけ」
残酷な事実を、唄うようにいう優子。
美乃里はぐっとこみあげてくる吐き気を我慢しながら、不幸を拡散するたのしさを堪能している優子の浅黒い顔を見つめた。
優子はさやかから邪険にされていた。
うわさ好きの優子をさやかは辛辣に「ダダ洩れ女」と呼び、嫌っていたのだ。
優子もそれを知っている。
優子はわざと、さやかと仲のよかった美乃里に凶報を伝えに来たのだ。
美乃里にダメージを与えるために。
その邪気のあるえがおを見つめているうち、立林さやかの細長い顔が浮かんできた。
さやかは、けして美人ではなかった。
いつもぱりっとトレッド系のブランドに身を包んでいて、気品があり、持ち前の気の強さもあいまって、彼女を女王のように見せていた。
美乃里がうらやましくなるほど頭がよく、自分に自信のある女性だった。
じっさいに、かなりの高学歴の持ち主で、実務能力もたかく、それゆえ、どこの派遣先でもリーダーに推戴されていたようだ。
ただ、あまりになんでもできすぎるため、高飛車なところがあり、陰では、高慢な馬面女と言われることもあったようである。
さやかは美乃里の、韓流ドラマにしか強い興味を示さない、のほほんとしたところが気に入ったようで、暇ができるとランチに誘ってくれた。
聞けば、さやかの実家は地元でも有数の名家で、父親も定職につかず、土地ころがしで儲けているという。
つまり、金は唸るほど持っている家に育っていたので、さやかは、がんばって正社員をねらわずに済んでいた。
プライベートでも好きなことばかりしていたようである。

「美乃里ちゃん、いいアルバイトがあるんだけれど、乗ってみない?」
さいごにランチをしたときに、さやかは美乃里にそういった。
さやかとは対照的に、美乃里は金に困っていた。
生活費が足りないのではない。
趣味のお金、つまり、韓流ドラマのために使うお金が足りなくなっていたのだ。
今月は、大好きなドラマのDVD-BOXが特典付きで売り出される月であり、それを買うためには、ちょうど2万円たりなかった。
そのことを美乃里は、さやかに愚痴った。
一銭でも韓流ドラマに使いたい美乃里からすれば、たまにランチをおごってくれるさやかは女神同然だったので、口も軽くなったのだ。
すると、さやかが、目をかまぼこのように半月にして笑わせて儲け話をもちかけてきたのだ。
茶目っ気たっぷりのえがおに惹きこまれ、ついつい美乃里は答えていた。
「内容によりますけれど、やってもいいですよ」
「そう、助かるなー、美乃里ちゃんに頼めなかったら、だれに頼んだらいいんだろうっておもっていたんだ。やってくれる?」
「なにをすればいいんです?」
「正社員の平栗真吾さんとふたりで、B通りを端から端まで歩いてほしいの。18時ジャストにね」
意外な提案に、美乃里はさやかの長く細い指にさっきから輝いていたダイヤモンドのリングに、あらためて注目した。
そのリングは、今朝、はじめてさやかが身に着けてきたものだった。
さやかと敵対するグループは、
「なにあれ、派遣が職場にダイヤしてくるか、フツー?」
とぶうぶう言っていた。
さやかとしても、その批判がくることは予想していたろう。
が、それをわかったうえでも、どうしても嵌めてきたかったのだろう。
さやかとは、そういう自意識の強い女性だった。

「さやかさん、もしかして、平栗さんと?」
美乃里が慎重にたずねると、さやかはほほを赤く染めもしないで、平然といった。
「婚約したのー。来週の日曜、かれのご両親と会うんだ」
「へえ、すごいですね」
うらやましいとはおもわなかったが、うまくやったな、とはおもった。
平栗真吾は正社員のなかでも、メガネハンサムで通っていて、部長の覚えも目出度い有望株である。
派遣社員を取りまとめる役を平栗はしていた。
そのため、派遣社員のリーダーであるさやかと正社員の平栗とは接触することが多かったのだろう。
「ところで、ただ歩くだけでいいんですか、平栗さんと?」
すると、さやかは美乃里を押しとどめるように、片手で制止のポーズをとった。
「あんまり突っ込まないで、ただ言ったとおりにしてほしいな。詳しいことはLINEで指示するから。でも、悪い話じゃないでしょう? 美乃里ちゃんに、あとで迷惑をかけることはしないから」
「うーん、なんだかよくわからないけれど、いいですよ、2万円のためなら」
「そうよー、割り切ってよ。わたしも助かる話なんだし。ありがたいなあ、ほんとうにありがたい。拝みたくなっちゃう」
さやかは大げさにいう。
「美乃里ちゃんが複雑にかんがえない子で助かるわ」
たしかに美乃里は2万円に目がくらんでいた。
そして深く考えずに、会社が終わったあと、B通りに直行した。

B通りは大通りから離れたところの、金融機関があつまっているビジネス街の中心をつらぬく、味もなにもないふつうの通りである。
江戸時代には、おおきな商家がならんでいて、S市の中心部だったというが、いまは商店は移動し、平凡なビルばかりが建っており、往時のにぎわいのおもかげはまったくない。
道幅は狭く、街路樹のたぐいもない、うるおいのない通りで、これで特色のある店舗が並んでいれば、また印象も変わるのだろうが、あいにくと、目立つのはコンビニくらいなものであった。
美乃里が平栗と待ち合わせしたのは17時45分過ぎだった。
すでに平栗は待っていて、しきりにスマホを気にしていた。
さやかとLINEでもしているのかな、と美乃里は単純にかんがえた。
突っ込まないでといわれたものの、あらためて美乃里はふしぎにおもった。
なんだってふたりで、こんな地味な通りをてくてく歩かなければならないのだろう。
会社帰りの勤め人たちが足早に帰宅していくほか、近くにある専門学校の学生たちが、1ブロック先の繁華街目指して歩いていく。
たのしげな顔、くたびれて無表情な顔、歩きスマホをしている者、ひたすら急ぎ足な者、さまざまだ。
美乃里が平栗に声をかけると、かれはなぜか、びくっと身をすくませた。
そして、声をかけたのが美乃里だとわかっても、おびえたような表情をしたまま、ぼそりといった。
「今日はごめんね」
なにが「ごめんね」なのか、美乃里にはさっぱりわからない。
美乃里としては「ありがとう」なのだが。
平栗とB通りを歩くだけで大金がもらえるのだから。
そのお金で買える韓流ドラマのDVD-BOXのもたらすうるおいをかんがえると、美乃里の頬は、ついついゆるむ。
「なんてことないですよ。で、一緒に歩けばいいんですよね」
平栗は、屈託のない美乃里のようすに気圧されているようであった。
いつものシャープさはどこへやら、ああ、と生返事をして、B通りの日銀S支店がある地点まで歩き出した。
「ゆっくり歩いてくれればいいから」
「歩くだけでいいんですか」
「いいよ」
平栗が答えたすぐあとのことだった。
平栗は片手にしっかり握りしめているスマホを見て、ことばを訂正した。
「いや、ごめん、楽しそうにしてくれるかな」
「楽しそう、ですか。なにかおはなしでもしましょうか?」
「泉田さんが面白いという話をしてくれればいいよ。おれは楽しそうにしてみるから」
なんでもいいのか、と念押しすると、平栗は、それでいいとうなずいた。

そこで、美乃里は、会社で起こった小さなトラブルを面白おかしく話はじめた。
美乃里の話しぶりはなかなかのもので、おそらくふだんであれば、平栗もその話を素直に楽しめたにちがいない。
ところが、美乃里がちらりと横顔をうかがうと、平栗の顔は緊張でこわばっている。
笑みらしきものを浮かべてはいるが、目がすこしも笑っていなかった。
ゆっくり歩きながら、なんだってこんなに平栗さんは緊張しているんだろうと美乃里は訝しんだ。
と、そのとき、ふと、なにかに呼ばれたような気がして、美乃里は横を向いた。
二車線道路の両脇には、人が二人ほど横に並ぶと、もうほかに隙間がないような歩道がある。
美乃里と平栗は、その歩道の片方をゆっくり歩いていたのだが、対向車線の向こうの歩道に、気になる人物がいた。
髪の長い女性である。
さやかも髪が長いが、その女性が人に与える印象はさやかなひとに与える華やかさとはかなりちがうものだった。
まず、その女性の髪は、手入れがあまりされていない。
不揃いの前髪は七三で分けられ、七の部分がピン留めされているだけで、肩から背中にかけて垂れている黒髪も、やはり不揃いで、貧弱に見えた。
着ているのは、さくら色を基調にした、どこかの会社の制服だった。
だが、ずいぶん痩せているので、これまた印象がぱっとせず、美乃里には彼女が、咲くまえにしおれてしまった花のようだと感じた。
なぜその女性がそれほど目についたかというと、彼女が通りの真ん中で、あきらかに平栗と美乃里を見て、立ち尽くしているからだった。
呼ばれたようにおもえたのも、実際に呼ばれたからなのかもしれない。
だが、二車線道路をひっきりなしに通る車の音で、声がはっきり聞こえなかったのかもしれなかった。
女性は、まさに呆然、というふうに美乃里と平栗を見ている。
人間は、こんなに呆気にとられた表情ができるんだなあと、美乃里が感心したほどだ。
こころが放たれている、と書いて「放心」というが、彼女の場合、こころを何かに奪われてしまって、「開け放った」という表現のほうがぴったりきそうな顔をしていた。
そしてなぜだろう、美乃里はその女性の見開かれた双眸をみて、定点カメラ、という単語を思い出した。
この場合、放心している定点カメラだ。
もし、そんなものがあるのなら、だが。

「平栗さん、あのう」
知り合いですか? とたずねようとしたが、すると突然、平栗が美乃里の手をにぎってきた。
好きでもない男に、予告もなくいきなり手をにぎられて、美乃里はぞわっとして、手を振りほどこうとした。
ところが、平栗はそれを見越してか、すばやく美乃里にささやいた。
「ごめん、手をはなさないで」
「なんでですか」
「いいから。このまま歩いて」
美乃里は、いったい自分は、なんのイベントに参加しているのだろうとおもった。
なんだか悪いことに加担しているのでは?
だが、その思いを打ち消すように、美乃里の脳裏に、福沢諭吉のプリントされた紙幣が2枚、浮かんだ。
同時に、贔屓にしている韓流スターの顔も。
突っ込みはナシだ、ここでがまんしなくちゃ、かれらに会えない。
「美乃里ちゃん、助かるわ」
とわらっていたさやかの顔も、頭の中でちらちらしていた。
美乃里は自分の手をにぎっているのが、大好きな韓流スターだとおもうことにして、我慢した。
にじむ汗の感覚に耐えつつ、平栗の言うとおり、謎の女性の前を通り過ぎ、B通りを歩ききった。

通りを抜け、女性が視界からいなくなったとたん、平栗の態度は急に事務的になり、またスマホをせっせといじりだした。
なんのフォローもない状態に腹が立ち、美乃里はてきとうにさよならの挨拶をして、その場を去った。
翌日、さやかから、茶封筒に入った現金が渡された。
「美乃里ちゃん、ありがとう、助かったー」
さやかは期待通りに感謝してくれた。
それが五日前のことだ。
美乃里は嬉々として家電量販店へいき、DVD-BOXを買ったものだった。
それでおしまい。
不穏な予感はなにもしなかった。
美乃里にも罪悪感といったものはない。
第一、自分がなにをしたのか、よくわかっていないのだ。
あの日の行動は何だったのか、さやかに聞いてみたい。
なのに、さやかは死んでしまった。
それも尋常ではない死に方で。

となりには、優子がまだいて、伸びきったねちょねちょのミーソトーススパゲティを唇の回りを赤くしてゆっくり食べている。
バンシーにして人喰い(グール)。
そんな連想をついついしてしまい、美乃里は自分を戒める。
優子はたしかに好きになれない女性だが、あんまり彼女を貶めると、今度は自分がみじめになる。
優子がこれっぽっちもさやかの死を悲しんでいないのは、優子の感情に欠落があるからだ。
それはそれで、かわいそうではないか。
そうけなげに自分を律している美乃里をあざけるように、優子は、またにんまりと笑って、付け加えた。
「じつは、事件の容疑者についても聞いちゃったんだ」
優子は複数の情報源を持っているらしいのだが、これほど人徳のない女性が、どうやって他人からディープな情報を集めているのか、美乃里にはまったく見当がつかなかった。
「正社員が話していたわけですか」
平常心を保とうとするが、さきほどから胃がむかついてしかたない。
だが、弱気を優子に訴えると、彼女に勝ちを譲ることになりそうな気がしたので、がまんした。
「警察がマークしている容疑者ってね、なんと! 平栗さん、だよ。立林さやかの家の合いかぎを持っていたんだって」
「まさか!」
「まさかって、美乃里ちゃん、なにか立林さやかから聞いてたの?」
「いえ、あの、別に」
美乃里は下手な嘘をついた。
嘘をつかないと優子はあることないこと別の人に言いふらしそうだったからだ。
「でも、なんで平栗さんが?」
百歩譲って、痴情のもつれで平栗がさやかを殺した、というのならわかる。
だが、今回の事件では、さやかの首が持ち去られている。
完全に異常な事件だ。
そして、美乃里の知るかぎり、平栗は冷淡だけれど、異常なところはなかった。
いや、人は見た目ではわからないものだ、もしかして、わたしは、とんでもない人と手をつないでしまったのでは…
じわじわとこみあげてくる恐怖、嫌悪感に耐えていると、スマホが震動した。
めずらしく、だれかから電話である。
スマホの画面を確認すると、渦中の人・平栗真吾であった。
優子には、だれから電話が架かってきたのか、それはわからないようだったが、好奇心を露骨に見せて、美乃里を観察してくる。
さすがにここまでくると、優子が邪魔だった。
美乃里は電話に出ながら、席を片付け始めた。
「どうしましたか」
美乃里は平栗にたずねる。
つれない返事だと、われながらおもった。
婚約者を非業の死で亡くしたばかりの男性に対して、不適切な言い方だったかもしれない。
でも、うかつなことをいえば、優子にネタをひとつ与えてしまうことになるし、ネタを得た優子が、今度はだれに言いふらすかとおもうと、ここは平静さを装うしかないのだった。
「泉田さん、いますぐにきみに伝えなくちゃいけないことがある。2階の廊下にいるから、いますぐ降りてこられないか」
用件だけいうと、美乃里に有無も言わせず、電話は切れた。
声はたしかに平栗のもので、優子の話を聞いたからそう感じるのか、その声はいつもより切迫感があるように聞こえた。
美乃里は優子をてきとうに言いくるめ、そしてS社ビルの2階へと急いだ。
仮に平栗が犯人だとしても、会社では手を出してくることはないだろうし、美乃里はなにより、平栗からじかに状況を聞きたかった。

後編へつづく
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🄫はさみのなかま 2017/8/28