100本ノック・1本目
山幸彦、海幸彦
風が強いせいか、宮の外では木々のこすれ合う音がざわざわとひっきりなしにしている。
ふだんのように、宮殿のまわりの木々が騒がしいだけであったなら、山幸彦もこう落ち着かない気持ちにならなかったろう。
初夏のみずみずしい葉を揺らせて、なつかしい木々たちは、かれに訴えかけているかのようにもおもえた。

まずいぞ、まずいぞ、山幸彦、これからよからぬことがおこるぞ。

兄の海幸彦にねだって狩猟の仕事と釣りの仕事を交代してもらった朝も、やはり山々は沸き立つように騒いでいた。

まずいぞ、まずいぞ、山幸彦、これからよからぬことがおこるぞ。

結果、どうなったかというと、山幸彦は兄の大事な釣り針をなくし、窮地に追い込まれたのである。
とはいえ、人間万事塞翁が馬とはよくいったもの。
山幸彦はふしぎな老人のみちびきによって、わだつみの神の姫と出会うことができた。
さらにつり針をとり戻せたうえ、姫と結婚することすらできたのである。
妻の豊玉姫は、実家のある海の宮から、大亀の背に乗って、毎日のように岸辺の山幸彦のもとへかよってくる。
豊玉姫は、その名の如く玉のようにうつくしい女で、誇り高く、なおかつ賢い。
どう賢いかというと、おのれの美質はけしてひけらかさず、むしろ、考えなしに突っ走ってしまうところのある山幸彦をじょうずに良い方向へ導くすべを持っていた。
なにより、姫とは話がなんでもぴったり合うことがすばらしかった。
山幸彦が好きなものは豊玉姫の好きなもので、かれがきらいなものは、かのじょもきらいだった。
聡明で、話し上手で、聞き上手、やさしい豊玉姫に、山幸彦はすっかり夢中だ。

彼女が大亀に乗ってやってくる時刻になると、山幸彦は波打ちぎわに立って、潮騒とウミネコたちの声を聴きながら、じっと地平線を見つめて、待つ。
すると、かならず決まった時間に、豊玉姫は、大亀の背に乗って波をすいすいとかき分けて、やってくる。
ふたりが再会するときは、まるで七夕のときにだけ再会できる織姫と彦星のように情熱的。
ふたりが夕刻になって別れるときは、永遠の別れをする恋人たちのような雰囲気。
「いちにち、ずっと一緒にいたいよ」
と山幸彦は豊玉姫に訴えるのだが、豊玉姫は、それははしたないことだから、いけません、というのだ。
なにがどうはしたないのか、山幸彦はわからない。
だが、豊玉姫を傷つけるのがいやなので、しぶしぶ従っている。

潮騒の音と山の揺れる音は似ている。
ざわざわ、ざあざあ、ごうごうと、さまざまな、ぞくぞくするようないつもの音を聞きつつ、山幸彦は、燭台の灯りごしに訪問者たる兄の海幸彦を見た。
建屋のすき間からはいってくるぬるい風が、ともしびをひっきりなしに揺らすため、むかしより痩せた兄の顔が、いま、どんな表情を浮かべているのか、はっきりしない。
ただ、橙色の灯りのなかで、兄は緊張しているらしいというのは、雰囲気でわかった。
海幸彦は口を引き結んで黙ったままだ。
山幸彦は、ぼんやりと灯りにうかうそのくちびるが、まるでイトミミズのようだなとおもいながら、兄が口をひらくのを待った。
「豊玉姫が懐妊したそうではないか」
兄はいきなりそう切り出してきた。
山幸彦の警戒心は高まった。
もしや、兄は、生まれてくる子が山幸彦の富を相続することが不満なのではないか。
海からの恵みは、ほんらい「海幸彦」たる自分のものだと主張するのでは。
山幸彦は慎重に答える。
「ありがたいことに、そろそろ産み月です」
「産屋を岸辺に建てると聞いたが」
「岸辺にと願ったのは妻ですので」
海幸彦は、うむ、とむずかしくうなって、それから、山幸彦のほうにぐっと身をよせてきた。
「山幸彦、おまえにどうしても伝えなくてはならぬ」
警戒心は、さらに高まった。
本能が、そして、山野で狩猟していたころから、いつでもかれの味方をしてくれた木々たちが、いけない、いけない、聞いてはいけない、と警告をしてくる。
それでも、兄のことばを聞かないわけにはいかない。
山幸彦は、自分が兄を海から遠ざけ、慣れ親しんだ土地から追い出してしまったという負い目を抱えていた。
だから、聞かないわけにはいかない。
そんな弟の気持ちをしってかしらずか、海幸彦は重々しくいった。
「豊玉姫は、鮫の化身なのだ」
山幸彦は絶句した。

翌日も、身重の豊玉姫が、大亀に乗ってわだつみの宮からやってきた。
今日から出産の支度のため、豊玉姫が産屋に籠ることになっている。
以前から決まっていたことである。
身重な姫に何度も岸辺と海のなかを往復させるのは心配だったから、それはそれでいいことなのであるが。
『鮫だって?』
いつだって花のように装っている姫のうつくしさは、身重になっても変わらない。
いや、母になるということで、いっそうの神々しさが姫には加わり、まぶしいくらいだ。
「つらくはないかい」
山幸彦がいたわりつつ、姫の手をとる。
その手はすべすべとしてなめらかで、とても鮫のものとはおもわれない。
『きっと、兄上のいやがらせだ。兄上の奥方はたいそうな醜女だそうだもの。わたしがきれいな妻をもらったことをねたんで、あんな突拍子もない嘘をついたのだ』
海幸彦も婚姻をしたのだが、その相手というのが土地の有力者の姫。
しかし、かわいそうに、鼻がぶたのように反り上がっているとか。
風のうわさで、海幸彦が、そんな妻に不満をもっている、ということも山幸彦に伝わっていた。
ぶたとくらべれば、うちの奥さんのすばらしいことはどうだろう。
嫣然とほほ笑む妻を見て、山幸彦はこころの底から、充足感に満たされる。
そして、この胸いっぱいの愛情をもって、相手に尽くせることこそ、しあわせ、というのだろうなとおもった。
兄は、そんな気持ちをしらないのだ。
だから、弟の足を引っ張るようなことをするのだ。

海幸彦はその夜も岸辺の宮殿にやってきて、山幸彦を責めるようにいった。
「おまえはわたしのいうことを嗤ったが、姫は鮫だ。いまのうちに追い出してしまうといい」
「追い出すなんてひどい、なぜそんなことをおっしゃるのです」
すると海幸彦は大仰に眉をあげて、鼻を鳴らしつつ、言った。
「なぜ、というか。おまえはわたしたち兄弟が尊い血筋のとくべつな人間であることを忘れたか。父は邇邇芸命、母は木花佐久夜姫、この秋津洲のなかで、わたしたちほどに誉れの高い一族はいないのだ。それなのに、おまえは妻に鮫をむかえて、血を汚すのか」
一方的になじられて、山幸彦はムッとした。
自分は、ぶたのような鼻の姫を妻にしたのではないか、と言いかけたが、兄のおそろしげなまなこを見て、思い留まる。
下手に反論すると、兄は逆上しかねない。
今夜から豊玉姫がそばにいるのである、身重の彼女に、兄とのいさかいを聞かせるのはしのびなかった。
「姫を追い出すことなどできません、兄上、どうぞお帰り下さい、わたしたちはうまくやっていきますから」
「相手が鮫だというのにか」
「鮫だとしても、わたしのこころは変わりませぬ。姫はほんとうによくできた女人なのですから」
「鮫でも?」
「鮫でもです」
きっぱりと山幸彦は宣言し、海幸彦が去るのを待った。
だが、かれは、なかなか立ち上がろうとしなかった。
腕を組み、なにごとか思案している。
ゆらゆらと揺れる燭台の炎が、気むずかしい兄の表情をさまざまに変化させて見せた。
「どうしてもわたしのことばを信じられないのか」
「申し訳ありませぬ、兄上」
「なんたることか」
そして、兄は意外な表情を見せた。
ぽた、ぽたと、大粒の涙をこぼし、口惜しそうにしはじめたのである。
「兄上、なぜ泣かれる」
「なぜ泣くというか、それすらわからぬか」
よほど口惜しいらしく、海幸彦は、床を片手でばん、ばん、と叩いた。
「おまえがわたしの大事なつり針をなくしたこと、そのあとおまえがわだつみの宮の神のちからでわたしを海から引き離したこと、それらはもうとっくのむかしに水に流していた。ところがおまえときたら、まだわだかまりがあるらしい。たったふたりきりの兄弟なのに、わたしを疑い、わたしのまごころによることばを信じない。これを口惜しいとおもわずにいられようか」
つり針をなくしたこと、あれほど海を愛していた海幸彦をその海から引き離したこと。
それを言われてしまうと、山幸彦も弱かった。
「お泣きにならないでください、兄上。わたしはどうすればよいのです」
すると海幸彦は、涙を眼尻に溜めたまま、いった。
「産屋を覗き、姫の正体を見きわめろ」
「産屋を。しかし、豊玉姫はけっして産屋を覗いてはいけないと」
いわれている、とことばをつづけようとしたが、お人よしの山幸彦も、はっと気づいた。
姫は鮫。
鮫だからこそ、産屋を覗いてはならぬと自分に堅く約束させたのではないか……
自分のことばに弟が引き込まれたのを見て取ってか、海幸彦は、また身を乗り出した。
「よいか、もし姫が鮫であったなら、そのまま産屋から追い出せ。この神聖な邇邇芸命の土地に近寄らせてはならぬ。海は遠き土地よりよからぬものを運んでくるものだ。姫とて、その海の神の娘、穢れを帯びているにもかかわらず、いままでそれを隠していたかもしれぬからな」
あまりに穿った見方だな、と山幸彦はおもった。
そもそも、海のめぐみを得て生活をしていたのは、兄のほうだ。
それを忘れて、穢れだのなんだのと、ひどい兄だと山幸彦はおもう。
だが、海幸彦がまた激昂するとなだめるのが大変なので、だまってうなずいた。

翌日、山幸彦は岸辺の産屋に行ってみた。
産屋は急ごしらえのものにしてはじつに立派であったが、人の気配はうすく、入り口には見張りすら立てていなかった。
この土地は山幸彦が目を光らせている土地であるから、姫も安心して警護のものを配していないのだろう。
これ幸いとばかり、山幸彦は足跡をたてぬよう、砂浜をあるき、そして産屋に近づいていく。
近づくと、中から人の声が聞こえてきた。
話声ではない、歌声である。
豊玉姫が歌をうたっていて、いっしょに連れてきた侍女たちも唱和している。
その長閑でやさしい歌声は、腹の中の、もうすぐ生まれるこどもに向けられていた。
愛情深い豊玉姫。
彼女を疑い、裏切るようなまねをして、ほんとうによいのだろうか。
兄には同情する、しかし、だからといって、豊玉姫との約束をやぶってよい理由にならない。
山幸彦は、産屋に背を向けた。
そして、また足音を立てぬように歩き出したそのとき。

産屋の中から、奇妙な音がした。

ずる、ずる、と大きな重量感のあるものが、引きずられているような音。
なんだ、いまの音は。女ばかりいるはずの産屋で、どうしてあんな重苦しい音が聞こえてくるのだ。
山幸彦は、また踵を返し、産屋に近づいた。
産屋の中でなにがおこっているのか、好奇心を刺激されたためである。
それに、豊玉姫の腹の中の子は、自分の子でもあるのだ。
姫がほんとうに安全なところにいるのか、確かめておく必要があると、山幸彦は自分に言い聞かせた

丸太で組まれた産屋の、木材のすき間から、そっと中を覗いてみる。
だが、そんな細い隙間からは、はっきりしたものは見えない。
どうしたものかと思案していると、また、あの、ずる、ずる、ずどん、という音が聞こえてきた。
部屋の中で、おおきなものが、のたうち回っているのだ。
何が中にいるのだ?
「豊玉姫は鮫だ」
無情な兄の声が聞こえてきて、山幸彦はそれを否定するために大きくかぶりを振る。
そんなわけがない、鮫があんなにうつくしく、従順であるものか。
兄は嫉妬のあまり、わたしに嘘を吹き込もうとしているのだ、なんとしても、姫が鮫ではないということを確かめて、兄を黙らせなくてはならぬ。
山幸彦は、今度は産屋の入り口に立った。

豊玉姫の歌声はまだつづいていた。
山幸彦は、大きく息を吸い込むと、中にいるはずの姫を呼ばわった。
「姫や、姫、おまえの顔を見たくてやってきたよ。どうぞ中に入れておくれ」

ぴたりと、歌声がやんだ。

と、同時に、中でなにかとんでもなく大きなものが、どったんばったんと、産屋をひっくり返さんばかりの勢いで暴れているのが気配でわかった。
「入るよ、豊玉姫」
愛する妻が鮫なはずがない。
兄はわたしを疑心暗鬼にさせようとしているだけだ。
山幸彦はこころでつぶやきながら、入り口をひらく。
そこには、わだつみの宮の神の自慢の娘、豊玉姫の変わらずうつくしい姿がそこにあった。
ほおっと山幸彦は息を抜いた。
やはり、兄上はわたしをだまそうとなさっていたのだな。
安堵すると、こんどは、恥ずかしいきもちがこみあげてきた。
まさかと愛する妻を疑ってしまった自分に対する、恥ずかしさである。
山幸彦は産屋に入り、銅鏡のまえで身づくろいをしていたらしい妻の手を取った。
その手はやはり白くなめらかですべすべ、鮫のものではないのはまちがいない。
「まだ身づくろいがすんでおりませんの、そうまじまじと見られては恥ずかしいですわ」
姫はほんのり顔を桃の花のように染める。
その恥じらう姿も愛らしく、山幸彦は抱きしめたくなってしまう。
姫を軽く胸に抱きとめると、潮の香りをうすめて花の香りをまぜたような、なんともいえない心地よい香りが鼻孔をくすぐった。
よい香りだな、とおもいつつ、何の気もなしに、銅鏡を見る。
そこには、でれでれした自分の顔と、そして、その胸にだかれている。
「さ、さっ、さっ」
鮫、ということばがすぐにでてこない。
鏡の中には、容赦のない現実が映しだされていた。
ほっそりした、青と灰のいろがまざった、みずみずしい鮫だった。
これで、なにもしらず、海で出会っていたなら、きれいな鮫だなとすら、山幸彦はおもったかもしれない。
その鮫が、山幸彦の腕の中で、うっとりしている。

豊玉姫は、やはり、鮫だったのだ、兄のいうことが正しかった…いや、それより、わたしは鮫を抱いた、鮫を愛した、鮫と子まで成した。
人ではない、鮫と。

嫌悪感が胸の底からせりあがってきて、山幸彦は、姫を突き飛ばした。
姫はちいさく悲鳴を上げて床に突っ伏す。
すぐさま顔をあげて、抗議の声をあげようとしたようだ。
が、聡い姫は、はっとして鏡を見て、それから夫を見て、
「ああ」
とちいさくいった。
「あなたさまは、わたしの真の姿をみてしまったのですね」
「さめ、さめ、さめ」
体の震えがとまらない、自分がなにをいっているのかもわからない。
豊玉姫は冷静で、夫の山幸彦のおびえる顔をみて、はあ、と大きくため息をついた。
「あなたは、わたしの正体を知った。わたしを拒んだ。もしあなたがわたしを拒まなければ、わたしはあなたのもとにとどまることもできたでしょうに」
豊玉姫は、侍女たちに支えながら立ち上がると、いまだ怯えてすくんでいる夫に、きっぱりといった。
「わたしたちの縁はこれまでです。わたしはこれから子を産みます。でもわたしは、わたしを突き飛ばした夫の顔は、二度と見たくありません。生まれてくる子の面倒は、わたしの姉妹が見るでしょう」
鮫が子どもを産む。
鮫の子は鮫じゃないのか、とよからぬことをかんがえていると、山幸彦はいつの間にあらわれたのか、わだつみの宮の神の兵士に両脇をがっしりつかまれて、産屋のそとへ叩きだされてしまった。

豊玉姫が子を産んだまでのあいだのことは、山幸彦はおぼえていない。
気づくと、時間がたっていて、かれの腕の中には、むつきにくるまれた赤ん坊があった。
鮫らしいところのどこにもない、五体満足の、それどころか、とても賢そうな顔をした玉のような赤ん坊であった。
産屋はあっという間に姿を消した。
姫は従者たちをつれて、わだつみの宮へと帰っていった。

呆然とする山幸彦の頭上、岸辺を見下ろす岩のうえから、海幸彦の声が聞こえた。
「山幸彦は鮫とちぎった、山幸彦は鮫の子を得た。男やもめの山幸彦、やあい! おまえのこれからの人生は、もはや余生だ。おれの海を奪った報いだ、思い知るといい!」
勝ち誇って、からから笑いながら、海幸彦は去っていった。
そのうしろには、いつか世話になったことのある翁がいた。
山幸彦に、わだつみの宮へ行くきっかけを作ってくれた、あの知恵のある翁である。
どうやら、かれは、今度は、なにもかも失くした海幸彦に同情し、豊玉姫のひみつを海幸彦に打ち明けてしまったらしい。
翁は申し訳なさそうに、山幸彦に深々と頭を下げてきた。

山幸彦は怒る気力も失くしていた。
ただ、腕の中の赤ん坊のぬくもりだけが、つめたい潮風の中でたしかなものである。
眼前にひろがる波がしらはきらきらと陽光を受けてかがやき、地平線のちかくでは、巨大な鮫の背がまっすぐ太陽に向かって泳いでいるのが見えた。
それらを呆然とながめながら、山幸彦はおもった。
姫は子どもを育てるよろこびを残してはくれた。
しかし、わたしはこれからさき、姫と過ごした最上に楽しかった日々を思い出しながら、ただ生きてくことになるのだろうな、と。
山幸彦のにじむ視界のなかで、残照を受けて輝く鮫の背が、琥珀色の海にゆっくり消えていった。
おわり
2017/7/24 🄫はさみのなかま
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