新古今和歌集とエピソード
増鏡、古今著聞集、十訓抄
平家物語

時雨落葉
 
増鏡
 増鏡は、後鳥羽院の天皇践祚(治承四年)から後醍醐天皇の隠岐からの帰京(元弘三
年)の150年間を著した歴史書で、室町の南北朝時代に書かれた歴史書です。

 以前の仮名歴史書である栄花物語、大鏡、今鏡、水鏡、弥世継(散逸)を受けた鎌倉
時代を編年体で記し、大鏡などの様に嵯峨の清涼寺に参詣した聞き手と百歳を超える老
尼の語り手を登場させたものです。

 新古今和歌集の成立、千五百番歌合の様子、歌人達の動向が記してありますので、第
一のおどろの下のみ記載しております。

 様々な面で才能を発揮した後鳥羽院が、承久の変と隠岐に流された「新島守」がメイ
ンなのですが、いずれ記載しますので、後鳥羽院の絶唱だけ今は記します。

われこそは新島守よおきの海荒き浪風心して吹け
同じ世にまたすみのえの月や見ん今日こそよそにおきの島守
うらやまし長き日陰の春にあひて塩汲むあまも袖やほすらん
あやめふく茅が軒ばに風過ぎてしどろに落つる村雨の露
故郷を別れ路に生ふる葛の葉の秋はくれどもかへる世もなし
たらちねの消えやらで待つ露の身を風より先にいかでとはまし
八百よろず神もあはれめたらちねのわれ待ちえんと絶えぬ玉の緒

 後鳥羽院にとって、隠岐の寂しい生活を慰める物は、和歌のみだったのでは?と思っ
ております。
 雑歌下の巻頭の菅原道真公の太宰府左遷中の歌の異様さは、自身の隠岐配流を予感さ
せていたと記す本もありました。


 
十訓抄
 建長四年(1252年)に、成立した十か条の教訓をそれぞれのエピソードを踏まえて
説いたもの。その十か条は
 第一 可施人惠事    人に恵を施すべき事
 第二 可離驕慢事    傲慢を離るべき事
 第三 可侮人倫事    人倫を侮らざる事
 第四 可誡人上事    人の上を誡むべき事
 第五 可撰朋友事    朋友を選ぶべき事
 第六 可存忠直事    忠直を存ずべき事
 第七 可専思慮事    思慮を専らにすべき事
 第八 可堪忍諸事事   諸事を堪忍すべき事
 第九 可停懇望事    懇望を停むべき事
 第十 可庶幾才藝事   才芸を庶幾すべき事

新古今和歌集の関係者のエピソードなどが盛り込まれています。


古今著聞集
 古今著聞集(ここんちょもんじゅう)は鎌倉時代、伊賀守橘成季によって建長六年
(1254年)編纂された世俗説話集。七百余りの説話などを神祇・釈教・政道忠臣・公
事・文学・和歌・管絃歌舞・能書・術道・孝行恩愛・好色・武勇・弓箭・馬芸・相撲
強力・書図・蹴鞠・博奕・偸盗・祝言・哀傷・遊覧・宿執・闘争・興言利口・恠異・
変化・飮食・草木・魚虫禽獣の30編にまとめた物です。

新古今和歌集の歌の背景や新古今時代の歌人のエピソードなども盛り込まれています。


平家物語
 平家物語は、信濃前司行長が作者であり、生仏という盲目の琵琶法師に教えて語ら
せたと徒然草には記載があり、鎌倉時代に成立していたとされております。

祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。
驕れる者も久しからず。ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ。
の序は、あまりにも有名。

新古今和歌集で撰歌された歌などが数カ所入っております。
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後鳥羽天皇即位
 巻第八   賀歌  754
 巻第十七 雑歌中 1633
後鳥羽天皇即位と大嘗会。幼少の頃から利発で活発な天皇だった。和歌に心をくだき始めていた。
なお、この754は、安徳天皇時。
水無瀬離宮
 巻第一  春歌上   36
後鳥羽院が二十歳で土御門天皇に上位して気ままな上皇として活躍する。水無瀬殿での後鳥羽院を代表する歌。
新古今和歌集勅命
 
新たな勅撰和歌集を五人の選者命じる。補佐として後京極良経の役割が重要だった旨を記す。
千五百番歌合
 巻第一  春歌上   76
空前絶後の歌合の千五百番歌合を催す。宮内卿という若くして亡くなった天才女官のエピソードを記す。
新古今和歌集竟宴
  竟宴和歌
元久二年新古今和歌集が一応完成し竟宴を行う。
















 一ノ二
雑歌中 1687 天智天皇
天智天皇の木の丸殿のエピソードど朝倉の歌。
 一ノ十八 後徳大寺左大臣が小侍従に通っていた頃のエピソードで待宵の歌(恋三 1191)を踏まえた蔵人の即答を、伊勢大輔の速詠にもひけをとらないと。平家物語月見に類話がある。
 一ノ三十六 定家と家隆が、和歌の双璧といわれていた時、良経 が家隆にどの歌が優れていると聞いた時、家隆は紙を落として出て行ったが、それには定家の歌が書いてあった。用意していたわけではないが、用意深いと十訓抄の作者は褒めている。
 一ノ四十七 晴の歌は、縁起でもないものを作ると貴人が亡くなったりするので、気をつける。良経も窓が開かないと詩を作ったために、寝てる間に頓死したと言う。
 一ノ四十八 歌や詩を作ったために変なあだ名を付けられたりするが、さむるうつつの少将とか宵待の小侍従など優雅な異名を付けられたりするものだ。
 一ノ五十七 藤原知房の歌を藤原伊家が褒めたら、知房が下に見られたと立腹した。また、藤原範永の歌を当時の第一人者の藤原公任が褒めたら、それをとても喜んだ。褒める貶すも考え物。

 三ノ八 最勝光院に梅盛に、身をやつした女房がいて、僧がからかって連歌を仕掛けたが、相手が俊成卿女で付けた句に驚いて逃げてしまった。

 五ノ三
離別歌 877 後三条院
後三条院がまだ皇太子だったころ、学友の実政が国司として派遣される時に漢詩と和歌を贈った。
なお877の初句は「思ひ出でば」となっているが、十訓抄では、「忘れずは」と異伝されている。

 六ノ九
羇旅歌 912 橘良利
橘良利は、宇多天皇の出家とともに出家して修行のお供をして歌など作っていた。また円融院が崩御した時、藤原行成は哀傷歌を作った。
宇多天皇と橘良利のエピソードは、大和物語 二段にもある。

 七ノ十五
秋歌下508花園左大臣室
鳥羽院の時、雨の日に若い殿上人が集まって、どの女性が一番良い手紙の返事を書くかを競った。源雅定は、源有仁家の督殿という女房ところへ久しぶりに手紙を書いたが、思った程良い返事ではなかった。後に人の話では、有仁家の北の方がよく女房の返事の書き方などを教えていたが、その日はあいにく不在で、督殿があわてて書いたために良くはなかったとの事。手紙はよく心得て書くべき。有仁室と紀貫之の娘の良い例を記す。
 七ノ三十二
巻第八 哀傷歌 814
大江高遠は、思慮深い人で、ある時女房車の牛飼いが帰りが遅れてと文句を言っているのを聞いて、その主人が女房に車を貸す位の人だからとそんな事で怒らないと言って、牛飼いを帰して自分の牛飼いに女房の車を彼女らの好きなように走らせよと命じた。高遠が亡くなった後の夢枕の歌が掲載されているが、新古今では、藤原道長女威子となっている。

 八ノ序 忍辱を勧めて、身に保っている人を五徳のあるといい、源信、軒の忍草、不軽品の話を交える。
 八ノ四 西行は、最愛の娘が死んだ時、弓遊びをしていてその事を知っても耐えて、他に気取られることが無かった。それに比べ安子皇后、隆家大納言らは、それぞれ罪を着ることとなった。
 八ノ七
巻第十五 恋歌五 1372
ある男が二人の妻を迎え、鹿が鳴いたので、本妻に聞くと、我も鹿の歌を返し、新妻を帰して本妻と暮らした。 大和物語百五十八段今昔物語巻第三十第十二に同様の話がある。
 八ノ八 伊勢物語筒井筒のエピソード。高安に在原業平が通う頃、元の妻は琴を鳴らし、あわれに歌を詠む。

 九ノ七 鴨長明のエピソード。出家の様子、方丈記についてなど、出家者の理想と書かれている。
 九ノ八 藤原伊通が参議の時、他者が中納言に昇進したのを恨み、官を辞して、女のもとへ引きこもり、愛用の弓を源雅定に返したりした。ほどなく中納言に昇進し、太政大臣まで出世した。


 十ノ三十六 藤原定家は、若い頃勅勘により謹慎していたが、父俊成が後鳥羽院に歌を送り、院がその歌により感じ入って定家を許した。
古今著聞集193話に引用されたと言われる。
 十ノ四十
巻第十一 恋歌一 1032
後撰集の蛍の歌と俊成の古来風体抄の差違を述べる。寂蓮の本歌取りした歌を載せる。
 十ノ五十 身分の低いものでも、その才能があれば勅撰集にも撰歌される。古今集の遊女白女のエピソードを記す。
 十ノ五十三 家隆が天王寺に八十歳で亡くなった時の辞世の句のうち一首のみ記載。
 十ノ五十五
第十八 雜歌 1785
 前右大將頼朝
文武両道の例として、源頼朝、源順、唐の魏徴、房玄齡を上げる。






































  57話   西行法師大峰に入り難行苦行の事
西行法師が山伏の山岳の難行苦行の修行が辛く、いじめと思い涙を流していると、宗南坊行宗という山伏が、この修行は地獄、餓鬼、畜生を体験するものだと諭し、西行は掌を合わせ、涙を流して随喜し修行を続けた。
  66話   後鳥羽院聖覺法印に一念多念の義を尋ね給ふ事後鳥羽院が、聖覚法印に近年流行している専修念仏の一念他念の意味を聞いた。



 103話   後鳥羽院内辨の作法を習ひ給ふ事
後鳥羽院が、宮中の内弁の作法を藤原基房に聞いた
 104話   後鳥羽院白馬節會習禮の事
後鳥羽院が、正月七日行事の白馬節会(あおうませちえ)の礼を習うとして、予行練習を行った。弾正台の国章が女官の役をしていると周りの者が堪えきれず笑い出した。





















 145話
雜歌上 1444 花山院
  花山院紅梅の御歌の事
花山院が出家して、叡山から降りてくる途中で紅梅の花がきれいに咲いたのを眺めていると惟成入道がたしなめると歌を詠んだ。
 156話   西行法師崇コ上皇を悲しみ奉る事
保元の乱により崇徳上皇が讃岐に流され、和歌の道が廃れるのを西行が嘆き寂念の下へ歌を送った。
 157話   西行法師和歌を兵衞局に贈る事
西行法師が、法勝寺の花を見に行くと、上西門院が行幸されて、昔なじみの待賢門院兵衛が来ていて歌を送る。
西行物語にも記載がある。
 162話   いろは連歌に小侍從難句を附くる事并びに大進將監貞度
  が附句の事
いろはの文字の順番に句を作る連歌で小侍従が難しい「ゐ」の歌を付ける。また家隆家でも同じ連歌の会を開くと貞度が、いい加減な「る」の句を付けたのでみんなに笑われてしまった。
 193話   後鳥羽院御時俊成和歌を奉して定家勅勘を免ぜらるる事
定家が若い頃喧嘩したことで謹慎処分になっていた時、父の俊成が和歌を奏じて、後鳥羽院の勅勘が解かれた。
十訓抄十ノ三十六を書写したものと言われる。
 194話   壬生家隆臨終に七首の和歌を廻向の事
家隆が八十歳で臨終を天王寺で迎えるとき歌を七首詠んで回向した。
 198話   宗順阿闍梨醍醐の櫻會にて童に歌を送る事并びに中院
  僧正見物の事
醍醐寺の桜の法会で、源運の舞を宋順が見て感激し、歌を送った。それを見ていた中院の僧正が入道右府にいい加減な歌を教えた。
 212話   西行法師が御裳濯歌合並びに宮河歌合の事
西行が、御裳濯歌合と宮河歌合の二つの自家歌合の経緯と家隆がそれを引き継いでいる。
 217話   京極定家土御門院の御製に合點の事并びに壬生家隆感涙の事
土御門院が初めて百首歌を作った時、感激した家隆は、定家に御製とは言わずに見せ、評価を得た。
後嵯峨院も初めて百首歌を作った時、父帝に似て優れていると家隆は感涙した。
 218話   松殿僧正行意の夢に鬼神家隆の歌を詠吟の事
行意が赤痢に罹り死にそうになった時、家隆の歌を鬼神が歌う夢を見て、病気が治ったということ。
 219話   陰明門院中宮の時六事の題を賜はりて定家家隆同じ
  古歌を選ぶ事
土御門院后の陰明門院藤原麗子が中宮の時に六事の題を出して思う事を書かせた時、定家と家隆が同じ古今集の壬生忠岑の歌を書いたので、大変興のあることですと沙汰があった。
 224話   家隆七十七歳の七月に九條前内大臣良通の許に和歌を贈る事
家隆が、七十七歳の七月七日に和歌を良通へ送った。
術道第九  300話   後鳥羽院陰陽頭在繼をして千手經の紛失せるを占はしめ給ふ事
後鳥羽院がお経を紛失したので、陰陽頭賀茂在継に占はせると「無くしていない」と卦がでて、事実箱の蓋にくっついていた。




 328話  宮内卿男疎遠の時詠歌の事
宮内卿が甥と恋仲にあり、捨てられて歌を作ったとある。今と違い、母は違う人なので遠縁か従兄弟並なのでしょう。二十歳前後で死んだの宮内卿の唯一の実恋の伝承です。詞書並ですが。
 329話
 大原邊の尼男に遇ひて後身を隠す事
ある男が、大原の尼に誰も近くに人がいないので犯してしまったという話し。終の棲家も悩みは多い原ということです。
新古今に下句が同じものがあり、この歌を参考にしたと思われます。
書図第十六  401話  藤原信實後鳥羽院御幸の繪を畫く事
後鳥羽院が、今度御幸の際の記念に信実に院の姿を書かせた。




 414話  後鳥羽院を御鞠の長者と號し奉るべき由按察使泰通等表を奉る事
後鳥羽院が蹴鞠が上手なので泰通、宗長、雅経がこの道の長者として奉った。
 415話  順コ院御位の時高陽院に行幸成りて御鞠の事
順徳院の時、高陽院殿に行幸して御鞠を行った。雅経は、珍しい赤帷を来ていた。
偸盗第十九  436話  後鳥羽院強盗の張本交野八郎を召取らるる事
後鳥羽院が、自ら強盗を捕らえた。強盗がなぜ捕まったかと聞き、院がすごくて観念したと話したために召し抱えた。









廿


 460話  鳥羽院御葬送の夜西行法師詠歌の事
西行法師が、高野山より京都にたまたま来ていたとき、鳥羽院崩御の葬送に出会って、歌を三首詠んだ。
 463話  後京極良經夢に冷泉内大臣良通と會ひ六韻の詩を和する事
良経 が、兄良通が文治四年年22歳で亡くなって21日目の夜、夢で会い六韻の漢詩を和せよと言われ、覚めてから涙ながら詩を作る。良経自身は、和歌より詩を好んでいったらしい。兄の突然の死により摂関家として政治の表舞台に登場することとなった。
 464話  後京極良經故中宮權大夫家房の舊宅を過ぎ獨吟の事
建久七年七月に藤原家房が亡くなり、その後彼の家の前を通った時、昔の事を思い出して詩を作って吟じた。
 465話
雜歌下 1845b 西行
 西行法師釋迦入滅の日往生せんと願ふ事
西行は、釈迦が入滅した二月十五日に死にたいと思っていた。そしてついに二月十六日の満月に亡くなり、定家と藤原公衡が歌を送り合った。
 466話  後京極良經曲水宴を催さんとし日至らずして薨逝の事
良経は、建永元年三月曲水の宴を催すつもりでいたが、熊野神社が焼けたということで日延べしたところ、突然良経が亡くなってしまった。それを悲しみ、定家と家隆が歌を送り合った。また息子の道家が歌合をした時、往事を思い出して、慈円と定家が歌を作った。
 469話  壬生二位家隆七首の和歌を詠じて往生の事付けたり侍從隆祐詠歌の事
家隆は、出家して難波の天王寺付近に住まいし、臨終の際和歌を七首つくる。息子の隆祐は、父が死んだ次の年母も亡くなったので和歌を二首作った。
宿執第廿三  494話  西行法師後コ大寺左大臣實定中將公衡等の在所を尋ぬる事
西行法師が、昔仕えた徳大寺左大臣藤原実能の息子、孫達を訪ねて、失望してしまう。西行物語にも同様の部分がある。





廿
 522話  皇太后宮大夫俊成卿の口遊に或女房連歌の事
藤原俊成が、最勝院に花見に行った時、ついでに御堂を拝みたいとしたが、カギが無いということで、つい下の句を詠んだら、ある女房が大胆にも上の句の連歌を付けた。
   
   



廿
 638話  九條前内大臣基家壬生家隆に雪を進むる事
 并びに二條定高に雪を贈る事
二月に九条基家の家に家隆が呼ばれ、雪にアマズラを掛けたものを勧められ食い終わってから、藤原定高が好きということで贈ってもらうと、返しの歌が来て、家隆がえらくこの歌を気に入った。今のかき氷か?
 639話  壬生家隆所勞に依りて蓮の實を食する事
家隆が、所労の為、蓮の実を所望して、贈られて来たので、歌を返した。


廿

 662話  冷泉中將定家南庭のの八重櫻の枝を折取る事
源仲朝が朝出仕すると、一人の侍を連れて南庭の八重桜の枝を折るものがあり、それが定家であった。帝の耳にも入り、接ぎ木にしろと命じられたので、女房の伯耆が歌を送り、定家が返歌をした。












 704話  宮内卿家隆秘藏の鵯荻葉を侍從隆祐に預くる事
宮内卿が大事にしていた荻の葉というヒヨドリを息子の隆裕に預けていたが、隆裕が住吉に持って行ったので、代わりの鳥と交換に返してもらおうとしたが、添えた歌に感じて、荻の葉を返した。
 705話  後久我太政大臣通光秘藏の鵯おもながを壬生家隆に贈る事
源通光が秘蔵していたおもながというヒヨドリを家隆が所望してたので歌に付けて贈った。鵯は、鴇(朱鷺)の誤写かと言われる。
 706話  二條中納言定高斑鳩を壬生家隆に贈るとて詠歌の事
定高が斑鳩を壬生家隆に贈るというので歌を詠んだ。
豆旨し、聖憂きは、斑鳩の鳴き声らしい。
 710話  寛喜三年夏高陽院の南大路にして蝦合戦の事
寛喜三年(1231年)は、数年来の天候不順で、寛喜の大飢饉と呼ばれる餓死者が多数出た年、蛙が大量に高陽院に集まり、共食いを始めた事が記されている。



巻第五 月見
 恋三 1191 小侍従
源実定が、福原より月見に京に戻ったエピソード。後半は、小侍従と実定、ものかわの蔵人を載せる。 十訓抄一ノ十八に類話がある。
卷第八 山門御幸
 夏歌 207 藤原範光
安徳天皇が西国へ落ちていったために、後白河法皇が次の帝として後鳥羽院を選んだ時のエピソード。藤原範光が妹の都落ちを止めなければ、後鳥羽院は帝位に就けなかった。その後範光が出世しないので、落書してそれを後鳥羽院が知り三位としたとある。正治二年後鳥羽院初度百首歌を利用。もう一首は寂連の歌を拝借。
灌頂巻
 夏歌 244 よみ人知らず
建礼門院は、壇ノ浦から生きて戻った後、大原に住み、安徳天皇他平家一門の菩提を弔っていたが、時鳥が鳴いたので手すさびに歌を書き。
物語
差違
 我も鹿 伊勢物語、大和物語、今昔物語、十訓抄、古今著聞集における物語の類似性とその差違を比較してみました。
 定家勅勘
 東下り