歌論 無名抄、後鳥羽院御口伝と新古今和歌集     

東屋

 古来から歌い継がれてきた和歌もそれぞれ歌の善し悪しを論ずるようになり

ました。良い歌とは何か、どんな歌が人の心を動かすのかに歌人達が苦心し、

後世に伝えようとしてきました。

 現存する中で最も古い歌論は、紀貫之が書いた古今和歌集の仮名序とのこと。

その後俊頼髄脳や俊成古来風体抄などがあります。

 そのうち新古今和歌集に関係の深い歌論の、鴨長明の無名抄と後鳥羽院御口

傳です。


無名抄

 歌林苑を主催した俊恵(1113〜1191年)の門下で歌を学んだ鴨長明(1155〜

1216年が著した随筆的歌論書。80段ほどの歌論、故事由来、逸話など挙げて

います。俊恵との会話の中でそれぞれの歌の善し悪しを述べたり、俊成、寂蓮、

隆信、俊成卿女、宮内卿のエピソード、三体和歌での様子、せみの小川の歌、

新古今の秀歌三首(このうちの一首は無名抄のみにあり、切り出されたものと

考えられております。)などがあります。

 「関清水事」に「建暦の初めの年」(1211年)とあり、その後鎌倉に行って

帰って来ているのであるいは、源実朝の教科書として執筆したのかもしれませ

ん。

 長明は、千載集に一首入撰したことをとても喜び「いみじき面目なり」(

「千載集事」)と記していますが、新古今には十首も入撰したことから、その

喜びは計り知れません。

 無名抄の中で特に新古今和歌集に関係の深い部分と愚説「詩歌と気象 古池

と蛙」の中で取り上げましたので、そのものをピックアップしてみました。


後鳥羽院御口傳

 後鳥羽院(1180〜1239年)は、承久の変(1221年)で隠岐に流され、院を慰

めるものとして、歌のみがその絶望を救ったと思っております。

 この口伝は、その隠岐にいる20年間に記されたものとされております。

 それぞれの歌に対する評価、特に定家に対しては、歌は評価するものの性格

が悪いと、一時期蜜月に経ての手厳しく語っております。

 新古今歌人に関係の深い後段のみ記してみました。


 藤原定家の記した近代秀歌や詠歌大概は、撰歌した歌のみを別掲(秀歌撰)

しておりますので、そちらをご覧ください。


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せみのを川事
 巻第十九 神祇歌 1894
 鴨長明
長明がせみのを川を詠み、誰もこの川を知らず顕昭に由来を言うと驚いて各歌人が歌い出した。祐兼が難癖を付けたが、新古今に入撰して面目を果たしたエピソード。
井手款冬蛙事
或人が井手に泊まって、古老に井手の山吹は見えないがと聞くと田を作るため鋤いてしまったとのこと。井手のかはづは聞くべきだと言っていたが、その後聞くことができずにいる。数寄の情は年毎に衰えていく。
上句劣秀歌事
 巻第一 春歌上 35
藤原実定と源頼政の歌に、俊恵が上句と下句のバランスを取るのが困難な例として挙げる。
代々戀歌秀歌事
 巻第十五 恋歌五 1338
 巻第十三 恋歌三 1206
顕輔が、後拾遺集(詞花集)、金葉集、詞花集、歌苑抄(千載集)から撰んだ恋歌各一首と長明が新古今から撰んだ三首。その内の一首は新古今の各本に伝わらなかったことから、早めに切り出されたと考えられる。
隆信定長一雙事
定家の異父兄の隆信と定長(後の寂連)は一対に評価されていたが、隆信は仕事に追われて良い歌ができなくなり、寂連は逆に出家していたので、人々が絶賛する様になった。
大輔小侍從一雙事
殷富門院大輔と小侍従を近年の女性の歌詠みとして評価している。
俊成卿女宮内卿兩人歌讀替事 俊成卿女と宮内卿の二人を現代の女性の歌詠み上手として評価。二人の歌の詠み方にそれぞれ特色があり、宮内卿は苦悶型で体を壊して死んでしまった。
會歌姿分事
三体和歌でのエピソードで、寂連と顕昭(?)の対応を対比。三体和歌はとても難しい題で長明を含め六人しか参加できなかった。
近代歌躰事
六条藤家と御子左家の二流に近年は対する。如何心得すべきと或人が聞き、或人が万葉からの歌体について答えた。と問答形式で歌論を展開。幽玄の体について記載。


















源経信、俊頼親子
経信は、たけもあり、麗しく心巧み。俊頼は二通りの詠み方ができると絶賛している。
藤原俊成、西行
俊成は、愚意を理想とし、西行は、生得の歌人で真似するべきではないとし、不可説の上手としている。 
藤原清輔、俊恵
 巻第七 賀歌 743
 巻第五 秋歌下 451
清輔は古めかしいところがあり、俊恵は穏やか風に詠む。俊成は龍田山の歌を優だと言っている。
式子内親王、藤原良経、慈円
 
 巻第六  冬歌  580
 巻第二十 釈教歌 1932
 巻第十八 雑歌下 1780
 巻第四  秋歌上 379
 巻第十  羇旅歌 984
 巻第十一 恋歌一 1030
 巻第十四 恋歌四 1322
 巻第六  冬歌  618
式子内親王は、細い部分まで行き届いた歌。藤原良経は、崇高壮大で諸方を兼ねた秀歌が多く、平凡で下手な歌が無いのが欠点。慈円は西行の様で、珍しい様が多くの人に好まれた歌が三首、それ以外普通の様で詠んだ歌の中にも最高の歌が八首例示して他にも沢山あるとのこと。
寂蓮、藤原家隆、藤原雅經、藤原秀能
 巻第一  春歌上 87
寂連は、普段は雄大な歌は詠まないが、いざ詠めとすばらしい歌を詠み、急に言われても故有る様に詠むことで、真実の堪能者だと。家隆は、歌になりかえりたる様にかいがいしく秀歌を詠み、たけもあり心も珍しい。雅経は、たけある歌は少ないが手練れ。秀能は、身分の低い割にはたけがあり、のびのびとしている。
 宜秋門院丹後
 巻第十八 雑歌下 1794
 巻第五  秋歌上 593
 巻第十六 雑歌上 1505
 巻第十四 恋歌四 1303
 巻第十七 雑歌中 1621
丹後は、、優しい歌が沢山詠んでいるとほめ、良経 は、院があまり丹後の歌を褒めるから老いてから上手くなったと度々言っていた。 
藤原定家
 巻第十六 雑歌上 1454
 巻第二 春歌下 135
 巻第二 春歌下 136
定家は歌は優れているが、傍若無人だとして、大内の花見の件、最勝四天王院の生田の森が採用されなく不満を述べていた件などをあげて批判している。