1話から3話までは、淡々とアニメ版のストーリーを追っていた。
何しろ前の劇場版から30年近く経過した作品だ。
最初は、このストーリーを思い出すために見ていたようなものだ。
前のストーリーでなんとなく記憶しているのは、1話の冒頭で会話するブルーとフィシスを夢の中で見守るシーン。
そして、翌日の「目覚めの日」の朝、母親がジョミーのために新調した服をジョミーに与える場面。
この二つのシーンは、1話の中に盛り込まれている。
それはとても懐かしく、それでいて、以前とは「違う何か」を感じた。
一つは「映像美」。
最初のブルーとフィシスの会話の場面で、ジョミーがその映像の中に飛び込んでしまう。
フィシスの部屋の透明感。
ブルーとフィシスが放つ淡い輝き。
そして、フィシスの記憶の中で展開する太陽系の神秘さ。
さらに、個々のキャラクターの繊細な表情。
その美しさに目を奪われた。
二つ目は「丁寧さ」。
それは、「繊細さ」にも共通するが、特に4話までの心理描写はとても細やか。
ただ、丁寧すぎて、場合によっては「テンポの遅さ」を感じる。
それをじれったいと捉えた人もいただろう。
しかし、劇場版という尺の中で描かれた心理描写と違って、初期のこの回では、ジョミーの戸惑いや不安、怒りの感情が手にとるように伝わってきて、好感を持った。
(当初、キャラクターが古いという感想を述べていた。確かに「古い」かもしれない。しかし、この世界にあわせ、そして、今の世代にも魅力が伝わるようにリニューアルされていると、見方が変化しているのはつけ加えておく。)
先にあげたジョミーの母親の心情。
機械的に接する母親は原作、及び劇場版で描かれた描写だったと記憶している。
そちらの母親は、奔放なジョミーを持て余し、ようやく子育てという「仕事を終える」ことができることで、別れの悲しみよりも、肩の荷が下りて胸をなでおろしていた、という印象が強かった。
それが、SD体制という人工的に管理された社会に生きる人間の典型だ。
だが、アニメ版に登場した母親は、あくまでジョミーを実の子と同様に心配し、気にかけながら、ジョミーを送りだしている。
それは父親も同じ。しかも、父親は事前検査に来た役人に不満を抱く素振りを見せている。
これは、元々の「地球へ…」の作品の根本を崩す解釈だ。
だが、このアニメ版では、その何気ない両親の言動が、ラストの展開を予感させる重要な意味を持ってくる。
それが最初は見えてこなかった。
だが最終回まで見終えた今、それが「必然」の言動だったことが見えてくる。
しかし、この両親は残念なことに、体制そのものを崩す考えまでは到らなかった。
3話でジョミーは、ミュウの船からアタラクシアに戻ってくる。
けれども、ジョミーは我が家に戻った時、もぬけの殻になっていることにショックを受ける。
この時は、いろいろと両親に対して憶測が生まれたが、両親は別の場所で新しい子供を育てていることが、後からわかってくる。
そのことは後で触れるとして、微妙に原作に沿った解釈を入れようとするので矛盾が生じる。
そこが、この作品の残念なところだ。
だが、その点は、あえて目をつぶることにする。
そうでなければ、アニメ版のストーリーは成立しない。
この両親に育てられたジョミーは、奔放な性格に育っても不思議ではない。
この作品のジョミーの性格形成は本人の資質よりも、環境が起因しているように思えてならない。
その描写が甘いと思われても、今の少年像とだぶらせた場合、その言動は不自然ではない。
もう一度、ジョミーの心理描写を振り返っておく。
今の若者の心理を分析すると、「現状に適応して、トラブルなく日々をすごすことに価値を置いている」らしい。
ジョミーもそれに追随するように、「成人検査」をパスし、大人の世界に行くことに価値を抱いている。
それは、両親や学校教育で植えつけられた管理社会の思想だ。
しかし、一方でジョミーは大切なものを失いたくないと無意識のうちに望む。
それが、ジョミーの場合、「母親」を含む自身の成長の記憶である。
それを失うことが、通常の管理社会に適応することだ。
しかし、ジョミーはソルジャーブルーの呼びかけに応じて、記憶を手放すことを拒絶する。
その意志の強さを与えたのも、ジョミーを育てた両親だといえないだろうか。
両親は自分達が信じた考えを実践しているだけである。
だが、それが、ジョミーのようなミュウ因子を育てる引き金になる行為であり、最終回で語られるグランドマザーの「プログラム」の一貫だろう。
恐ろしい現実だが、ミュウ側にとっては、とても幸運なことだ。
なぜなら、おかげで、ジョミーという健全なミュウの指導者を選任することができたのだから…。
ただし、この段階では、ジョミーは自身が教えこまれた管理社会の思想に固執し続ける。
そこが、視聴者と重なる点だ。
人間がミュウという人種をどう受け止めているのか。
また、逆に、ミュウは人間をどう思っているのか。
ジョミーの悲劇は、管理社会の思想を捨てられないために、すでに管理社会からは排除される存在になりながらも、ミュウと交わることができず、行き場をなくして孤独を味わうことだ。
その迷いが、ジョミーを唯一の行き場として残る、我が家に向かせてしまう。
それほど、ジョミーの気持ちは、寂しさと悲しさで満たされていた。
管理社会に支配された人間が、いかなる思想を持ち、ミュウと出会った場合、どういう行動をとるのか。
それはジョミーを通して、「地球へ…」の世界観の基礎になる管理社会のあり方を説明しようとしている。
そして、この強固なジョミーの思想を取り払うのに、ソルジャーブルーが命を賭けることになる。
当初、ジョミーがとんでもない迷惑者に思えたが、SD体制の思想がそうさせていると考えると、逆に、ジョミーが気の毒に思えてきた。
しかし、ジョミーは「人の心」を失わなかった。
ソルジャーブルーの記憶に残る「アルタミラの悲劇」。
ブルーが最初に発見されたミュウであることから、研究資料を兼ねた実験体として、次々と処分されていくことになるミュウの人類。
それとともに、より確実にミュウが排除されるように改良されていく「成人検査」。
最終的にアルタミラごとミュウを排除しようとした人類から、ブルーは生き残った仲間を引き連れて脱出し、現在の長の地位でありつづける。
その悲しみと重さを成層圏で知り、涙を流すジョミーは、優しい感情にあふれていた。
それは、4話のうちで、最も美しく描かれた名シーンである。
青く冷たい空気の描写は、まるでブルーの心の悲しみのように。
惑星アルテメシアの大気の青さと太陽の光は、ミュウに目覚めたジョミーの新天地への展望のように。
そう感じられたのは、おおげさすぎるだろうか。
惜しいと思えたのは、ブルーの回想が曖昧な描写で終わったことだ。
300年前にミュウが発見されたのは、SD体制の初期なのか、そのあたりの描写も欲しいところだ。
(具体的な話は、12月に発売される「Expansion Disc」で描かれるとは思うが…。)
その重みを受け止めることができたからこそ、ジョミーはミュウとして生きる決心を固める。
あくまで自分ができること…。二度と自分のような子供を出したくない。
純粋でささやかな希望が、この地点のジョミーの立場をうまく表現している。
一方、ブルーはジョミーを信じきることができたからこそ、ミュウとしてジョミーを覚醒させることに成功し、また、原作の世界以上にいき続けることができる。
それは、ミュウと管理体制の中で生きる人間が、手をとりあうことができる可能性を描き出している。
すべてがきちんと描写されたわけではないのに、なぜ、好感を持つことができたのか…。
オリジナルが「自分好み」だった…といえば、それまでだ。
だが、描かれた中に、心引かれるものがあった。
4話の中で、「アルタミラの悲劇」が描かれたことで、ジョミーと同じように気持ちが揺らいだ。
ブルーの悲劇を、ジョミーとともに体験し、一緒に投影できたからだと、私は考えている。