私的感想帖

 

私が、新撰組に興味を持ったのは、漫画のストーリーからだった。
最初は、木原 敏江さん著書の「天まであがれ!」。
高校時代に、友人から借りて一度だけ読んだきりなので、ストーリーの大半は忘れてしまった。
しかし、その中に描かれていた土方歳三の勇ましさ、沖田総司の無邪気さと屈託のない愛らしさは、強烈な印象として残っている。
この漫画では、特に、この二人がお気に入りだ。
私の「『新撰組』にわかファン」の熱は、ここから燃え上がった。

といっても、えらそうなことは全然いえない。
京都の高校、短大に通った私は、「新撰組」の舞台になった京都三条河原町周辺を、生活圏の場として何度も行き来していたくせに、あちこちに立っている碑を見たり、その由来の説明を聞いても「ふーん。」と聞き流すくらいに無頓着だった。
そんな私が、もう一つの漫画、いや、アニメを見たのが先だったが、その影響で、「新撰組」への思いがさらに高まった。

それが、和月伸宏さん原作の「るろうに剣心」。
和月伸宏さんも、司馬遼太郎さんが好きだったようで、漫画の中で、司馬遼太郎世界の影響を受けたと思われる描写が随所に登場する。

たとえば…。
幕末、剣の終わりを悟った剣士達は、新しい時代になっても剣を棄てられずに苦悩する。
その結果、孤独を味わい、気持ちを切り変えて時代についていこうと涙ぐましい努力を重ねる。
明治という、不安定な世の中に不満を抱き、謀反を企てようとする人々。
一方で、そんな人々の暴走を阻止しようと必死に働く人々。
だが、いつの時代でも、人は、ささやかな平和を望んで生きようとする。
自分の信じた未来と、希望を達成するために、戦友とともに戦いに挑む若者達。
その悲しみと一途なはかなさ。
そして、矛盾を自覚しながらも、迫り来る時代に流されながら、ひたすら突き進む維新志士達と左幕派の武士達。
彼らは激しく対立し、悲劇を重ねていく…。


私は、司馬遼太郎さんの小説を読みかけて挫折してしまった。
その世界そっちのけで、漫画の世界を通じて夢中になってしまったのだ。
そんなわけだから、「新撰組」の詳しい経緯なんてよくわからないし、ある部分は興味を持って見れるけれど、それ以外は、調べることもせず、無知のまま、今の大河ドラマを見始めた。

それが、よかったといえばそうかもしれない。
なぜなら、最初から、大河ドラマ「新選組!」を夢中になって見ることができたからだ。
へたに知識を持っていたら、一部の歴史好きなファンのように、このドラマを大批判(※注1)していたかもしれない。
だが、私は、今回の大河ドラマ「新選組!」にのめりこんだ。
このドラマには、今まで私が見てきたような、漫画と「同じ空気」を感じることができた。
それが好みだったといえば、それだけの結論で終わってしまうのだが…。


しかし、このドラマは、本当に、おもしろくなかったのだろうか。


ここで、話の視点は少し変わる。
もともと、三谷幸喜さんは、舞台の脚本も書かれている。
テレビドラマでもいえることだが、設定された世界の裏方を描写していることが多い。

例をあげると、「オケピ」のようなオーケストラの舞台裏。
「笑いの大学」のような、講師と喜劇役者の問答。
「古畑任三郎」のような、刑事と犯人だけの会話という微妙な駆け引きと心理戦。
「王様のレストラン」のような、フランスレストランの従業員たちの裏の人間模様。

今回の「新選組!」も、まったく、同じ演出方法で作られている。
具体的に、新選組が参加した戦いの描写はほとんどない。
新選組の隊士達の会話と行動を中心に、裏の、さまざまな人間模様がドラマの主軸だった。
しかし、彼らの心情の奥深くまで役者の演技を通して描写することで、隊士達がたどった軌跡を、私達は、十分に感じ取ることができた。

戦いの場では、隊士達の緊迫した様子で、戦いの劣勢を理解し、テレビの前でハラハラした。
隊士達の勢いあるやりとりで、彼らの優勢さと、前向きにどこまでも疾走する実直な姿勢を感じて、私達は、一緒になって応援することができた。

私達は、「新選組!」という、一つの舞台をテレビで見ていたといえないだろうか。
そして、何よりも、三谷幸喜さんが個々の登場人物を愛し、思いをそそがれたために、改めて、それぞれの登場人物に愛着と親しみをもって接することができた。
それは、製作者の期待どおりに演じようとした、役者さん達の演技の素晴らしさもあって実現した。

今回、土方歳三、沖田総司はもちろんのこと、山南敬介、藤堂平助、永倉新八、原田左之助、斉藤一、山崎烝といった、あまり、知らなかった隊士達も、とことん愛することができた。
特に、山南敬介の死の場面は、何度みても、胸が痛くなり心が熱くなる。
それは、堺雅人さんが演じられたおかげ。
そして、スタッフが山南敬介という一人の若者の死を、おおげさに飾ることなく、自然に描くことにこだわったからである。
他の隊士達も同様に、ありのままの個性豊かな人物像を引き出す趣向がとられている。
そして、そうして描きだされた人物像は、どれも、私が抱いていたイメージのとおりだった。
いや、それ以上にはまっていたと思うのは、ひいきしすぎるだろうか。
最初は、なんか違うと感じた近藤勇でさえも、いつしか、近藤勇は香取慎吾さんでなければだめだと思うようになった。
個々の役者さん達も、それぞれの隊士になりきるだけではない。
そのものに同化して演じられていた。

だからこそ、ドラマの中で、個々の登場人物達が、実にイキイキと動き回った。
また、その世界がしっかりと確立されたことで、あえて、オリジナルキャラクターとして登場した中村獅童さんが演じる捨助さえも、重要なキャラクターとして欠かせない存在になった。


「新選組!」は、先日、最終回を迎えた。
最期を迎える近藤勇は、どこまでも静かで落ち着いていた。
それは、今まで手にかけた者も含めた、死んでいった者達への敬意と、自らの信念を貫いた誇り高き姿だった。
武士でないことを差別され、非難されつつも、近藤勇は、どこまでも武士であり続けることができた。
そして、後に残された隊士達は、個々に、近藤勇の意志を受け継ぎ、それぞれの置かれた立場、状況の中で、新しい気持ちを持って、残りの人生を疾風のごとく駆け抜けていった。
そこに、悲劇はない。
悲劇を通り越して、輝く明日へと向かう、力強い一歩が刻まれる。
それが、新時代の幕開けへと続く、壮大なプロローグだった。

そして、それこそが、三谷幸喜さんが目指した「新選組!」の姿なのかもしれない。

新選組が結成されて、隊士達が活躍できたのは、わずか6年。
歴史は、彼らを人生の「負け組み」に追いやった。
しかし、あのドラマを見ている限り、彼らは、「負け組み」には属さない。
それが、新鮮な驚きと、心地よい爽やかな感動をもたらした。


私は、今を精一杯生きている。
自分の与えられた中で。
自分が出来る限りのなかで。
いつの時代でも、それは変わらないし、誰もが、そうして生きている。
生涯が短いのは仕方がない。
その中で、どのように生きることができたのか。
それが、このドラマの中に込められた強烈なメッセージ。
私達に突きつけられた課題だった。

今、あの「新選組!」の音楽を聴くだけで、とても、胸が熱くなる。
それは、作品を通して、彼らが、ひたすら突き進む姿と、熱い絆を見せられたからだ。
きっと、同じように見てきた地元の三条河原町の光景を見ても、泣きそうになるくらいに、深い感慨に襲われるだろう。
それは、先人達が時代を駆け抜けた同じ舞台の地に、自分も立っていると思うからだ。

私達が見たドラマは、けっして「架空」ではない。
それは、今を生きる、私達に繋がる人が築いた道そのもの。
私達は、先人達の意志を受け継いで、今、こうして存在している。
それは、忘れてはならない“事実”である。

歴史は、私達を通して、そのことをきちんと証明し、ずっと、語り続けている。
たとえ、私達が、そのことにまったく気がつかないとしても…。


  

  •  注1…
ー補足ー
このドラマでは、史実とは違う描写が多いのも事実である。
ドラマそのものは、ただの「人斬り集団」だけではなく、人として悩みながら成長する等身大の青年達の姿を描き出し、「青春群像」のような清廉潔白な生き様を強く描写している。
もちろん、そのことを歓迎するファンの人達も多い。
三谷幸喜さんも、ただの「人斬り集団」だけではない一面があることを知ってほしいという気持ちから、あのような脚本を書かれたと思うし、それは視聴者にも十分に伝わったはずだ。
しかし、近藤勇は、汚いことに手を染めることを嫌い、誰にでも心優しく、仲間の死をいつも悲しみ思いやるという人格者のように伝わってしまうと大きな誤解が生じる。
新撰組は、けっして、美化礼賛される聖人君子達ではない。
しかし、このドラマではその事実を含ませることを、意図的に排除しているように思う。
なぜなら、三谷幸喜さんの視点で書かれた「新選組!」だからだ。
その事実を踏まえたうえで、ドラマを楽しむ気持ちが必要だ。