もともと「アレン」の父殺しの設定は、原作にはない。
しかし、吾朗監督自身の気持ちをアレンが代弁したからであり、映画の「ゲド戦記」では、真っ先に必要な演出だった。
吾朗監督は、ジブリの裏事情も絡んで、自身が監督をしなくてはならない状況にあった。
宮崎監督は、「ゲド」のアニメ化には反対だったらしい。
その反対を押し切る形で、アニメ製作に入らざるをえなかった。
つまり、アレンが父を最初に殺す事情は、吾朗監督が父親の駿監督を殺さなくては製作に入れなかったという厳しさの現れではないか。
そこに理屈は許されない。
状況がすでに決められている。
自身も決意をもって、この映画製作に望むしかない。
まず、父親を殺し、自分の世界観を早々に築きあげなくてはならない。
この映画で、アレンの父親殺しの理由が具体的に説明されないのはそのためだ。
それからアレンの心の悩みは消えない。
何かにおびえ、時として「闇」に支配されながら、何者も恐れずに突き進み、ふとしたときに正気にもどり、自身の生き方に答えを出せずに悩み続ける。
その自信と迷いは、映画製作を引き受けた「監督の心の迷い」だ。
映画のテーマである「生きることの大切さ。そして、その意味。」
「生きる」ことこそ、監督にとって、「監督そのものになる」という意味だ。
映画製作を続けていく中で、「監督という自分」と見つめあい、多くのスタッフに支えられながら、この映画が製作されていった。
ラスト、「生きる」ことに意味を見出し、前向きになれたアレンの姿こそ、初監督という大仕事を終えられた吾朗監督自身かもしれない。
また別の意味で、アレンは「現在の若者の心」を表現している。
多くの場合、親子の間のコミュニケーションの少なさが指摘される。
親が子供の話を聞く場を作ることができない。
子供の心を親は充分にわかってやれない。
我慢できない子供。
時にはキレて、限度なく相手を傷つけてしまう。
後で後悔する若者もいれば、まったく反省できない若者もいる。
一方、家庭に居場所がないことで、簡単に寂しさを埋めるために、プチ家出をする若者もいる。
そんな社会状況が、アレンと国王と王妃の関係にだぶってくる。
アレンは何不自由ない暮らしを約束された一国の王子だ。
私達の社会でいうなら、ごく普通の一般家庭に育った子供。
その彼が父親を殺してしまう。
「父さえいなければ、生きられると思った。」
これが、アレンが父親を殺した理由の一つ。
アレンは「自由」を望んだ。
何不自由なく手に入るものではなく、「心」の自由。
しかし、父親の束縛が自由を許さなかったことが、映画から読み取れる。
「ゲド」では、「均衡」が闇によって崩されている。
親子との絆も大切な世界の「均衡」だ。
しかし、「闇」に心を犯されたアレンは、その「均衡」を崩す。
その象徴的なものが「父親殺し」という行為。
あるいは、アレンの父親が持っていた剣。
この「魔法で鍛え上げられた剣」をアレンの「闇の心」が欲したためとも受け取れる。
いずれにしても、アレンは「闇の心」に支配されて罪を犯す。
この剣はアレンが正気を取り戻さない限り、けっして抜くことができない。
剣を抜くことができた時、アレンの心が浄化された一つの証明になる。
だが、アレンは心の弱さをずっとひきづり続ける。
きっと、「災い」の思うツボに、アレンは陥っていたのだ。
テルーがテナーの家で、アレンと出会った時、「命を大切にしないやつは大嫌いだ!」と鋭く言い放つ。
単純に、野ウサギの一味を倒したアレンの凶暴さを嫌ったのではない。
テルーは親から虐待された経験をもちながらも、テナーに助けられたことで、生きる強さを身につけ、弱さを克服した芯の強い女の子だ。
そんなテルーから見れば、弱さをいまだに克服できないアレンが、ひどい軟弱者にみえただろう。
特にテルーは、感性が人よりも鋭かったので(幼児虐待などを経験した人に多いと聞いた)、アレンの内面をすぐに見抜いたのかもしれない。
アレンは、その後も多くの誘惑に惑わされる。
ポートタウンという見知らぬ都会で。
麻薬をもられそうになり、野ウサギの策略にはまって、人買いの餌食になって奴隷として売られそうになり…。
この危うい誘惑が、現代の若者にも迫っているのは説明するまでもない。
では、アレンはいつから「心の闇」に支配されてしまったのか…。
そもそも「心の闇」とは何なのか?
いつからというのは、「この映画の冒頭から。」としか答えようがない。
アレンは、そういう設定で登場した少年だ。
しかし、何なのかというのは予測ができる。
一言でいうなら「欠点」。
(「二重人格で分裂した裏の人格」といえばわかりやすいが、単純にそれで終わらせたくない雰囲気がある。)
欠点を認めることは、自分を見つめなおすこと。
しかし、若者も含めて、自分のことをわかってるといえる人は少ない。
だからこそ、アレンは私達そのものだと、製作者は説明する。
アレンはこのまま絶望の淵をさまようだけで、未来に希望は持てないのか…。
その鍵を握るのは、アレンを援助するハイタカであり、テルーの面倒もみるハイタカの昔馴染み、テナーだ。
ハイタカはアレンのように、若い頃「闇」に心を奪われた過去があり、また、テナーも、ハイタカのおかげで、闇の世界から光の世界に連れ出された体験をもつ。
同じ境遇を経験しているからこそ、アレンに対する思いやりは、他の登場人物よりも愛情にあふれて深くなる。
元々、アレンは正義感にあふれた心優しい少年だ。
そのことを、テナーの家の様子からも感じとれる。
世界の均衡を保つことを諭すため、ハイタカはアレンに農作業を手伝わせる。
唐突に思えるシーンだが、自然を相手に地道な作業を続けることが、人として基本となる健全な生き方だ。
そこには、都会で蔓延している偽りはなく、手作業で作物を育てるという真実の結果と人の技がストレートに試される。
素朴でありながら、アレンの心を癒すのには、必要不可欠なことかもしれない。
アレンの心の和らぎをはっきりと感じることができるのが、テルーの歌声に涙するアレンだ。
その涙の意味とは…。
テルーの歌に素直に感動できたのか、それとも、自分の心の闇の悲しさに気がついたのか…。
(後者の可能性が高い)
しかし、それらしい心の変化が、アレンの中にあった。
それから、アレンとテルーの関係も親密さをましていく。
ここで気になることがある。
この作品で指摘を受ける画面に登場する人物の少なさだ。
かつての宮崎アニメなら緻密なモブシーンが目を引いた。
ところが今回は、複数のキャラクターを配置しても数人程度。
モブシーンが抑えられている。
そのため、画面も寂しく、がらんとした空間がやたらと目立つ。
ただ、この「ゲド戦記」のキャラクター達は、孤独な心を抱えている人達ばかり。
その孤独感を表現しようとして、わざと空間を作ったとしたら…。
宮崎監督なら、緻密なモブシーンの中に主人公を配置し、その主人公の動きや仕草の違いで孤独感を表現しただろう。
しかし、この「ゲド」での身内は、たったの4人。
ハイタカにテナー、アレンにテルー。
他の登場人物は「世界の汚れ」に染まっていて、この4人は、そんな人物達と交わるわけにいかない。
必然的に4人だけの空間を作るしかない。
それは、この世界でやっと作り出された貴重な人間関係であり、とても小さなコミュニティ。
空虚な画面の中にぽつりぽつりと人物を配置していくと、逆に世界の広がりが見えてくる。
言いかえれば、この4人以外の人物関係が作りづらい寂しい世界なのだ。
しかし、この貴重な人間関係が救いになる。
すでに光を手に入れたハイタカとテナーが中心にいることで、アレンとテルーに安心した場を与え、暖かな家族と同じような強い絆をもたらす。
絆を逆手にとられても、守るべき人のために、4人とも強い心でクモに立ち向かうことができる。
人が成長するためには、小さくても心を育む健全な場所が必要なのだ。
それと共通して、クモ側の人物配置もなぜか少ない。
強引なこじつけになるが、あえていうと、クモ側は「孤独」そのものの人間関係を築いている。
特にクモは自身の魔法の力を誇示しているので、よけいな人間関係を排除しても困ることはない。
テナーの家とクモの館の人物配置のあり方は、同じように少なめでありながら、そのあり方はあまりに対照的だ。
この作品において、もっとも大切な手段となる「真の名前」。
先の農作業のシーンで、さらりとハイタカが説明する。
「真の名を知ることで相手を支配できる。それこそが「魔法」の力である。」
しかし、よくわかっていない。
いったい「真の名前」を、どのタイミングでいえばいいのか?
これは、作品においての矛盾点の一つだが、だんだんと「真実の名前」に意味がないように思えてきた。
登場人物達は、それ以上に、自身の意志を固めながら行動する。
セリフのやりとりの中に、キャラクターの心情や決意が現れたものがある。
が、そのセリフを口走ったからといって、キャラクターが動かなければ、ストーリーは成り立たない。
(特にアレンは、ラストまで動くことができなかった)
これは仮説である。
もし、「名前」に別の意味が含ませてあるとしたら。
たとえば、テルーの本当の名前。
ストーリー上では、アレンに生きる勇気を与えるために、テルーが真の名を告げる。
その前のシーンで「影アレン」に抱きつかれて頬を染めるテルー。
明らかにテルーは、アレンに思いを寄せていることがわかる。
この先に行く前に、「影アレン」の意味をはっきりさせておく必要がある。
先の記述で「影」は「欠点」だと位置づけた。
(ストーリーの解説では、「影」は「希望」で、逆の立場になる)
この「影アレン」は、アレンのもう一つの「人格」。
多重人格者の場合、幾つか現れる人格の中に、すべての人格を把握し、説明できる人格があるという。
「影アレン」は、テルーに、アレンの内面を伝える。
そして、テルーにアレンの本体(?)を救うように依頼する。
映像で表現されたのは、そんなシーンだ。
が、すでに、アレンの内面で、無意識のうちに崩された心の均衡が修復されようしていたのだろう。
(少なからず、ハイタカを刺した行為は、アレンにそれだけの衝撃と、真実に目を向けさせるハイタカの呼びかけを、アレンに聞かせたのだから。)
また「影アレン」がテルーに援助を求めたことで、それがアレンの意志であることもはっきりする。
アレンの心の叫びを感じ取って、テルーはアレンを救いに走れる。
この(「影」であったとしても)アレンとの触れ合いがあることで、テルーも、素直に自分の思いを打ち明けることができる。
名前を伝えるという行為そのものが、この二人にとっては、好きだという「告白」になる。
この告白は、アレンにとっても、自身の心の均衡を自覚できる確認になる。
「影アレン」が消滅しても、アレン本体のみで立ち直ることができる。
それは、アレンの心が成長したことを意味する。
純粋な二人だからこそ、このシーンがとても美しく輝いて見える。
(名前を呼び合うだけというのも説得力にかけるが、この世界では、これが精一杯ってことか…)
一方で、強引に真の名前を告げさせられて、クモに操られてしまうアレン。
ハジアのせいで、まんまとクモの誘導尋問に引っかかったとも受け取れるシーン。
この場合、先のテルーが名前を明かしたときと、正反対の意味づけがなされる。
クモに偽りのハイタカの旅の目的を聞かされ、猜疑心に悩まされるアレン。
未だ、この段階では、不安を除去しきれていないアレンは、確かなものにすがろうとする。
この段階で確かなものは、クモがアレンに吹き込んだ事実のみ。
それまでにハイタカとともに行動していて、不安を取り除くことができていれば、アレンはハイタカに疑いをもつことはなかっただろう。
しかし、現実には、まだ苦しむ自分がいる。
アレンはその模索のために、クモの言葉を信じるしかなかったのかもしれない。
現実に陥りやすい若者の危うさを、アレンも経験するしかない。
そして、真実は自身で見極めるしかない。
それはアレンにとって不可欠な試練。
アレンが名前を告げなくてはいけなかったのは、己の弱さゆえ。
心の迷いが「名前」として言葉になったのかもしれない。
勝手な解釈は承知の上で、「言葉」の裏にある「心情」を感じることが、この作品にとって必要なことではないかと考える。
(ただ、この解釈にも大きな矛盾がある…)
もう一つ、重要な意味をもつのが、世界の象徴として描かれる竜である。
竜には、「ナウシカ」でいう王蟲のような意味があるはず。
しかし、あえて言葉で表現するなら「生きる希望そのもの」といったところか…。
この世界は、真実が失われかけている世界。
しかし、まがいものに惑わされず、真実を受け入れてまっすぐに生きようとするものを、竜が「彼らが生きるべき場所ー自由の世界」へと導いていく…。
原作にそういった設定があるか、わからない。
しかし、この映画での竜の役割は、そういったものではないか。
けれども、描かれ方が弱く、たとえ、そういう意味が含ませてあったとしても、はっきりと伝わってこない。
原作ではテルーは竜の化身。
映画でテルーが竜に変身するのは「真実の名前」を告げた為に、自身の真の姿になることができたのだと解釈できる。
この文章では、あえて説明不十分と思われる指摘を省略している。
「ゲド戦記」は完成度が高いわけではなく、突っ込みだらけの作品であるのは認めるしかない。
しかし、そうでありながら、一つの世界として、成立する部分は踏まえられた作品だとも思う。
2011年に公開された「コクリコ坂から」では、この時の監督の経験がどういかされたのか。
そのあたりを注目してみていきたい。
(初出-2006年8月14日BBSに掲載。2011年8月2日修正)