< 雲 の 色 彩 >
千 鳥 響 (Op.25)
彼女に影がないのは、ボクの仕業だった。
黄色いヤツは、ボクを痛く、まるで刺すように攻めてくるけれど、そんな痛みには変えられない感情が、ボクの体をぷかぷかと浮かべていた。
いつも、いつも。きっといつも、だっていつも、まさか……って、そろそろ気づかれるかもしれないと少しだけ怯えながら、大きな期待をしていたけれど、有り得ないことだった。ボクの心が、ボクに心があることが、彼女の世界には有り得ないものだからだ。
わかっていた。ボクは生まれ、浮かび、漂い、やがて、消えなければならなかった。
彼女を初めて見たとき、ボクは雨を降らせた。なぜかってそれは、彼女が、泣きたいのに泣けないでいたからだ。ボクは突然の雨に走り出す彼女を、いつか見たことがあった。だけど、その日、彼女は走り出さずに立ち尽くし、顔を被った。ボクは彼女を楽にしてやった。
そんな気がして、気が気でなくなった。
そんな彼女は今日、憂鬱そうにボクの下を歩いている。
ボクは緩やかに追う。とても遠くて、とても清々しい白色で、怪しまれることもなく、彼女の背を、長い髪を追う。
「また、泣きたいのか?」そんなことを聞きたくても、ボクには聞けない。
違う。違うんだな。違うのか。
「また、泣きたいのか?」
違う。違うとわかる。だけど、そう聞きたい。
ボクも憂鬱になる。
ボクは憂鬱になると、ねずみ色になる。わかりやすい性分なんだ。でも、彼女に性分など気づかれはしない。不意に彼女は、ボクを見上げた。
「どうした?」
ボクの憂鬱に、ため息をひとつ。それは透明で、なのに、なんだかボクに似ていて、ふわりふわりと浮かんでくる。
「ボクに触れるな」彼女の息を、ボクは拒んだ。
吸い込んで潰したい、あるいは、包み込んで馴染みたい、また、抱き締めて消してしまいたいと、風に伝えた。だから、風が、それをそうした。風の仕業だ。
彼女は、こんなボクを拒みさえもしない。拒んでさえくれない。
思い返せば、あの日、彼女は確か、彼ら、といた。彼らの中には、彼女にとって特別な、彼、もいて、彼らの中には、彼女にとって切実な、別の彼女、もいた。詳細な事情はわかるよしもなく、ボクに想像できたのは、彼女が彼を想って泣いたことだった。
でも、それは、違うのかもしれなかった。
彼女の行く先に、彼が立っているのが、今、見えているからだ。彼女の影を奪う黒い影が、もうすぐ彼に届く。それは、ボクが彼を包むことだった。
「ごめんね。あたし、雨女だから」か細い声は、風が運んできてくれる。
「関係ないよ。あっちは晴れてるし、大丈夫さ」憂う彼女を、身振り手振り慰める彼。
「でも、こんなに分厚い雲がずっとついてくるみたい。ほんとに、ごめんね……」
「雨?」そう、狼狽えたのはボクだ。
いくら体がねずみ色でも、そんなつもりはなかったんだ。
ボクはしかし、無意識に、雨を降らせかねない状態であることに気づかされた。
そんなに苦しいのか。
今、ボクは、そんなにも苦しいか。
急激に、背中を刺す熱が全身に伝わってきた。僅かに体をくねらせ、振り返る。爽やかな初夏の風が通り縋る。黄色いヤツが、やけに眩しくボクを照らしていた。消してやろうか、溶かしてやろうか、そんな優しい温度でボクの体を撫で回していた。
もう、痛みは感じなかった。
わからないこともわからなくていいこともあり、知りたくても知らないほうがいいこともあり、守りたくても守れないものもある。
世界が違った。
世界が違いすぎた。
「生まれ変わったら何になりたい?」よく彼らは、そんな他愛ない空想を口にする。
「くも」そんなことを言った少女も、いつかいた。
「くも? あの、お空の雲? どうして?」少女のママは問い返す。
「ぷかぷか浮かんで、気持ちよさそうだから」
ボクはもしも、新しい姿で生きられるならば、人間になってみたいと思っていた。今は、そうだな……彼、になってみたい。
彼女たちは歩き出した。ボクは緩やかに追う。
だけど、微かに彼女に影ができている。
ボクは体を内へ折り曲げる。
「あぁ」ボクの腹が裂けていた。限界かもしれなかった。
「ちょっと、陽が射し始めたね」彼が彼女に微笑みかける。
「ほんと。よかったぁ」ほっとした様子の彼女の吐息を、ボクは吸い込むことにした。黄色いヤツを振り返る。頷くように光が折れる。
いいだろう。消えてやろう。
いいだろう。消えてしまおう。
彼女の今日の楽しみと幸せのために、ボクはここで消えていい。ここで消えるのがいい。きっと必ず、彼女が笑いますように。
「ほら、晴れてきた。あんなに分厚かった雲が、散らばってる」ぼんやりと彼の声が聞こえてくる。ボクを見上げる彼女の微笑みも、なんだか淡い。
「斑な雲も綺麗よね。わたし、実は雨も嫌いじゃないし、雲はね、大好きなのよ」
「大好き? どうして?」
「ぷかぷか浮かんで、気持ちよさそうだから」
<了>