< 朝 雨 に 蜘 蛛 の 逡 巡 >
千 鳥 響 (Op.31)
そぼ降る雨の季節に現れる、あの硬く丸い背中のヤツが絡まっている。
ほのかな月明かりのもと、カレが夜通し編み続け、ようやく作り上げた繊細で、壮大な世界に絡まっているのだ。
風通しはいいが、清々しくはない。高くて暗い場所。
なぜだ? 捕らえてしまったカレの苦悶。
硬く丸い背中に頭を隠し、ヤツはカレを見向きもしない。
それでいい。カレは動くものが好きだ。
それでいい。カレはぎりぎりまで、動くものが好きだ。
カレはいつか、ヤツに助けられたことがあった。
白雨の夕方。とある住居の軒下に、カレは世界を広げていた。石塀にしがみつき緩やかに歩くヤツの背中が、ほどよい艶を出しており、頭胸部(とうきょうぶ)にいくつもある単眼のどれかで、綺麗なヤツだ、漠然とそう認識した一瞬を覚えているのだ。
憧憬する類の見識ではなく、求愛したい類の意識でもなく、ただ肩を並べて頷き合いたいような、夢のようなものだ。
カレが、人が手に持った箒の柄で世界を破かれ叩き落とされたとき、辛うじてしがみついた石塀。ヤツはゆっくりとカレの頭上に覆いかぶさった。
さりげなく、あるいは、なにげなく通りすがっただけということもあるだろうが、助かった、それは事実だ。
「昼間の蜘蛛は神様だっていうから、殺しちゃだめ」人が人に言っていた。それならば、なぜ破くのか。カレには皆目、理解できない心情であろう。
つい、先日のことかもしれないのに、遠い遠い記憶のようで、朦朧と、気が遠のいてゆく。
生まれる以前のことではないか。
命を尊ぶとき、それほどに時間は遡るのではないか。
走馬灯のように流れ、消え失せるのではないか。
オレは神様なんかじゃない。そんなことを今、思うのかもしれない。
陽が射し始め、かすかな光が射してくる。月明かりより、いくらも痛々しい光だ。
繊細な編み目を、雨粒が通り抜けていった。
硬く丸い背中に落ちては弾けるものもあった。それでもヤツは、カレを見向きもしない。
明るく美しい雨粒は、少しずつ増す。
朝雨に、傘いらず。
儚く止むであろう。
そんな束の間だけでも雨のせいにして、カレは動かないつもりか。
そんな優しさが本当に優しさか否か、自問していることだろう。
微動だにしない幾対もの歩脚が、痺れやしないか、折れやしないか、糸がきれやしないか、そんなことを案ずるほど、踏ん張っているように見える。
行き交う人々の、朝の足音。遠慮がちにすり抜ける車の音。
カレらには、誰一人気づかずに歩を進めてゆく朝の喧騒。
死に急ぐようなその音が、雨を弾き飛ばして跳ねさせる。
たちまち消えた喧騒。
死んだのか?
オマエも死ぬか?
カレはまだ、踏ん張ったままだ。
苛立ち、憐れみ、焦り、そして惜しくなる。
誰も、そう簡単に死にはしない。生きるほうが難しいのに、死にはしないのだ。
明るく美しい雨粒は、少しずつ減る。
朝雨に、傘いらず。
儚く止んでしまう。
そんな身勝手で薄情な空を仰ぎ、緩やかな雲の動きをも威嚇したくなる。
それでいい。カレは動くものが好きだ。
それでいい。カレはぎりぎりまで、動くものが好きだ。
もう少しだけ、カレがヤツの傘になる。
ヤツにも、わかるのだろうか。
わずかに動いたかと思えば、徐々に徐々に動きだしたのだ。ツノを出し、ヤリを出すと、本当に頭や目玉を出すのだろうか。どうにも、悠長に見えるヤツの振る舞い。
そんなに自由にはさせてやらない。
世界は、そう簡単にほどけやしない。
硬く守られているヤツのすべてを、割って、壊して、引きずり出すほど、カレがカレであろうとする様が見たい。尋常では有り得ない、渾身の力を振り絞り、命がけでヤツに手をかけろ。そして、自らを誇る勇ましいカレが見たい。
硬く丸い背中が無力に見えても、ヤツはカレを見向きもせずに“血迷うな”飄々とそう言えたならば、それもまた勇ましい。
そして一瞬、ヤツの体は雨に濡れるのだ。
さぁ、いさぎよく、そろそろ、どうだ?
<了>