聖徳太子(しょうとくたいし)
     
親鸞聖人は、
聖徳太子を日本仏教の開祖と仰がれました


   親鸞聖人は、聖徳太子を讃仰(さんごう)する和讃を多くつくられています。

「和国の教主聖徳皇  広大恩徳謝しがたし」
(日本国の教主である聖徳太子の恩徳は、広大であり、どれだけ感謝してもしきれない。)

 「教主」とは、本来仏教の開祖である釈尊をあらわす言葉ですが、聖人は、聖徳太子を「和国の教主」と呼んで、日本仏教の開祖であると讃仰されました。
 聖徳太子は、五七四年に、用明天皇の皇太子として誕生し、厩戸皇子、上官太子、上官法王とも呼ばれました。推古天皇の即位のとき、皇太子として摂政をつとめ、十七条憲法を制定するなど、仏教を根本理念として国政をおこないました。また、法隆寺をはじめとする寺院の建立や、『三経義疏』を著すなど、仏法の興隆に生涯をつくされました。
 親鸞聖人は、二十九歳のとき、そのようなありし日の聖徳大子を慕って、太子の創建とされる六角堂に参籠されました。聖徳太子は、仏教を中心とする理想の社会をつくろうとし、深く仏教に帰依されましたが、太子自身は在家のままでした。親鸞聖人は、そのような聖徳太子の姿に、それまでの出家中心の仏教とは違う、新しい仏教のあり方を求めていかれたのです。
  
安正寺の本堂にある「聖徳太子」の掛軸