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2007年 10月
インターネット法話
テレホン法話
0968-78-1333(毎月 1日、11日、21日更新)
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いつでも どこでも だれでも 聞ける
電話のお話3分間
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熊本県長洲町安正寺 住職 隈部 壽春 |
お彼岸を終えて、秋空の下、いろんな作物の収穫と共に、自然の運行の中で、恩恵に対する謝念と共に、人間としていかに心をして目覚めるべきか、考えるところに人間の真価があります。
この頃各情報機関によく取上げられる、身体不自由な方達の芸術世界での活躍があります。特に両手両足の不自由な中で素晴らしい絵と共に、詩歌の言葉に心うたるるものがありますね。それは、不自由な中でいかに思いの能力を生かしきるかと言う思いの中で心の奥深くを尋ねて、それに応える自分の心を確かめて行かれる営みにこそ人間の大事な営為があると思います。それこそ宗教の世界であります。人間としての生命は、身をもって思考して、身の置かれてある場の認識こそ一大事の問題であると思われます。
生と死の置かれてある中にあって、生を明らかにし、死を明らかにする。生命と言う事は、イノチの中に与えられているイノチの意味、イワレ(義)を明らかにする。法の中に願われている身の開眼。その身の成就としての死。とすれば今のこの時こそ、生まれた意義を明らかにする事こそ一大事の問題であります。蓮如上人は、その事を後生の一大事とお示しになりました。その義(イワレ)を明らかにして下さったのが弥陀の本願であります。自と他の接点としての念仏、そこに本願があります。それを親鸞聖人は雑行を棄てて、本願に帰す、と人間成就の姿を表されたのでありました。 | |