flower6月の
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いつでも どこでも だれでも 聞ける 電話のお話3分間

熊本県長洲町安正寺 住職 隈部 壽春


 六月に入りましたね。一年前半の最後の月ですが、組織によっては決算期。一年の締めくくりでもありますね。東本願寺でも六月が年度最後の月で、一年の総括と次年度の歩み立てる月でもありますが、生死一如と言う観点からしますと、いつでも今が総括であり次への一歩を決める時でもありますね。
 その事を南無阿弥陀仏の名号に示されてあります。南無と言うのは帰命、と善導大師がおっしゃいますが、帰命というのは最終的決定を意味しますね。最終的決定は人間生きている限り出来るものではありません。何を取り、何を捨てるかと言うテーマで研修会が開かれたそうですが、何を取り何を捨てると、はっきりと決定出来るものであるかどうか、八万四千の煩悩がある限り、例え二つの物があってもどちらか一つと決定出来ても、決めた事が決めた事にならない状態になって、つまりお手上げになってしまいますね。簡単に言えば、他人を捨て、自分を取るこれは当然な事でしょうね。でも他人と言うも自分と言うも、他己と自己と言う世界がありますから他も己であり自も己でなんですね。他も自も大きな自然の中での他と自ですから、分けるに分けられない生命の中でも自と他ですね。それを法(ダンマ)と言います。宇宙生命の用(ハタラキ)の中では全てが一つに結ばれているんですね。わけて見るとき、心の痛み、苦しみが生まれますね。かつて、熊本の所長さんだった武宮礼一先生がブラジルに転勤なさる時、年老いたお母さんの枕辺で、どうしょうかと相談なさった時にお母さんは、「礼一(ノリカズ)其れは仏法の為だろ仏法の為なら行きなさい」とキッパリとおっしゃったそうです。武宮先生のそのときの声とお顔がハッキリと記憶に残って居ります。
 何をとり何をすてるか、それは既に、お釈迦様がはっきりとお示し下さってあります。親鸞聖人も同じ様に、五劫思惟の本願に示される、自力の計らい分別を捨てて、全一の志願、南無阿弥陀仏の念仏を取れと、お示しになっていらっしゃいますね。それを親鸞聖人は自ら御製作になった「正信念仏偈」の始めに「帰命無量壽如来」と命の底から歌っておられます。