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      2026.7.1  正信偈の教え
               
       


      獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
   

[読み方]
 信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん すなわち横に五悪趣を超截す


[意 訳] 
 信心を得た人を見て敬って、大いに喜ぶならば、ただちに、
               横跳びに五種の迷いを超えることになる


凡夫が凡夫のままで仏になる

 親鸞聖人は、まず「獲信見敬大慶喜」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)と詠われました。「信を獲れば」というのは、まさに、この私を救ってやりたいと願われている阿弥陀仏の本願が自分に対して差し向けられていることに気づかされて、信心を感得することでした。そして信心とは、自分に向けられている願いに対して素直になることでした。そうすると、願いに気づかずに、自分の思いだけを頼りにしてきた愚かな自分の姿が、はっきりと「見えて」くるのです。そして、そのような自分には、心から本願を「敬う」こと以外に何もすることがないのだと、聖人は教えられています。このように、愚かな自分の姿にあらためて気づかされ、本願を敬う身になるならば、それはこの上なく大きな喜びとなると教えられています。

 そして、親鸞聖人は次の句「即横超截五悪趣」(すなわち横に五悪趣を超截す)で、阿弥陀仏が願っておられるその願いを敬い、願いを喜べる身になるならば、私たちは、たちまちにしてさまざまな迷いの状態を飛び超えていけると詠われています。

 まず、「五悪趣」とは、凡夫が自分の為した心と身の行いの結果として趣(おもむ)くところです。地獄・餓鬼・畜生・人・天の五つをいいます。畜生と人との間に阿修羅を加えて、六趣とか六道ともいいます。「地獄」とは、自分の行いの結果として生存中に経験しなければならなくなる耐え難い苦しみの状態です。「餓鬼」というのは、自分が引き起こす貪欲のために、自分白身が苦しまなければならなくなる状態です。「畜生」は、道理に対して無知であるために、互いに争い合い、殺し合って、結果として自分が苦しむことになる、そのような状態です。「阿修羅」というのは、自らが起こす怒り憎しみの心によって、かえって自分が傷つき苦しむことになる状態のことです。「人」は、人間らしい感情に支配されて思い悩む状態です。「天」は、精神作用の活発な状態で、六道のなかでは最も勝れた状態ではありますが、やはり迷いの状態であることには違いはないのです。それらは、実体としてどこかに存在するというものではなく、私たちが自分の行為の報いとして日常に経験している苦悩のことです。

 そして「即横超截五悪趣」の「超截」は、それを飛び超えて、五悪趣の束絆を断ち切ることです。「即」は「すなわち」と読んでありますが、「即座に」という意味です。本願について「大きに慶喜」するならば、「たちどころに」「五悪趣を超截する」ことになる。念仏を心から喜ぶならば、たちどころに、一切の迷い、一切の悩みから解き放たれるということです。念仏を喜ぶことが、そのまま、悩みの解決であるということです。逆にいうと、悩みが解決しないのは、念仏を喜べないからだということです。

 ところで、「横(よこざま)に五悪趣を超截す」とありますが、この「横」と「超」を合わせた「横超」(おうちょう)という言葉があります。これは親鸞聖人が独特の使い方をされた言葉です。「横超」というのは、順序や段階をまったく経ないで、一挙に横っ飛びをすることです。たとえば、仏に成って一切の人びとを救いたいという志を固めた菩薩は、命がけの修道を延々と重ねて、一段一段と段階を経て、徐々に仏の境地に近づいていくというのが、仏教の通常の見方でした。ところが「横超」は、それと違って、一切の段階を飛び超えて、一挙に目的に達するという見方です。徐々に仏の境地に近づくというのではなく凡夫が凡夫のままで仏に成るのです。このような不思議なことがどうして起こりえるのか、それは、私たちの常識では説明のつかない、常に私たちにはたらきかけている阿弥陀仏の本願の力、大慈悲のはたらきによるからなのです。
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