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      2024.4.1  第41願 諸根具足の願(しょこんぐそくのがん)
      2024.4.1  暮らしの仏教語「貪欲(とんよく)」
               
       

第41願 諸根具足の願
 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、仏を得んに至るまで、諸根闕陋(けつる)して具足せずんば、正覚を取らじ。


[大意] もし、わたしが仏になるとき、他方の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて仏になるまで、からだが不完全で充分そろわぬようであったならば、私はけっして覚りを開きません。


 「根」というのは植物の根のことですが、仏教用語としては、草木の根が幹や葉を支え成長させる能力があるということから、「眼耳鼻舌身の五根」をいい、一般に五官と呼ばれる感覚器官の意味に用いられています。そして同時に、五官の能力、感覚機能の意味にも用いられます。五根に「意」を加えて六根ともいいます。人間の身心全体を六根とも呼び、六根清浄とか六根具足というように用いられています。諸根具足ということは、すべての根が揃っている、欠けていない、ということで、全身または身心の全体が完全で不自由がないことを表わしています。
 第四十一願には「他方国土のもろもろの菩薩衆」とあり、阿弥陀仏の浄土の人びとではなく、他の仏国土で求道に励んでいる菩薩たちが、無事に成仏を遂げるまでの間、六根が欠けることのないように守ってやりたいと願われた願です。
 「からだが不完全で、充分そろわぬ」というのは、表面的には、からだに障がいがあって、なにもできない、という意昧にとらえがちですが、そうではなく、充分といわれるからだにめぐまれていても、それを活かすことなく、無意味な生き方をしている者ならば、それは「充分そろわぬ」生き方であるといってもいいと思います。からだが整い、充分そろっていても、それを本当に活かすことをせず、目さきのものに目を奪われて、日常に埋没している私たち。逆に、「からだが整わず、充分にそろわぬ」身の中から充分に「いのち」を発揮して、「いのち」の燃焼をはかっている人を私は多く知っています。
 人間の生き方は、身にそなわっているものの量ではなく、それをどう活かしているかという、質によって、その値打ちがきめられるのではないでしょうか。

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春季婦人会法要■
4月21日 午後1時 勤行・法話
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