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      2023.3.1  第28願 見道場樹の願(けんどうじょうじゅのがん)
      2023.3.1  暮らしの仏教語 「お彼岸」(おひがん)
   
       

第28願 見道場樹の願
たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、乃至少功徳の者、その道場樹の無量の光色あって、高さ四百万里なるを知見すること能わずんば、しょうがく正覚を取らじ。


[大意]もし、わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩方で、たとえ功徳の少ないものでも、高さ四百万里の光り輝く菩提樹を見ることができなかったならば、私は決して覚りをひらきません。


 この願にある「道場樹」とは、仏がさとりを開かれた場(道場)にある樹木のことで、菩提樹のことです。この樹は道場樹、道樹、覚樹といわれることもあり、仏のさとりを意味する言葉でもあります。従って、菩提樹を見るということは、言葉をかえていえば、真実の道理、法に出会うことでもあります。高さ四百万里で、しかも光り輝くとあります。つまり、どこまでも照らしつづけて、人々を育てはぐくむはたらきを有するということの表現です。その菩提樹のある場とは、「真実に目覚める場」です。それは、仏法に出会う場のすべてを意味するもので、お寺であったり集会所であったり、そこが仏法に出会う場であったなら、そこが菩提樹を見る場なのです。そして「たとえ功徳の少ないものでも」と示されています。ここの功徳少なきものというのは、四十八願の誓いでいえば、第十九願「至心発願の願」に説かれている生き方をしている人のことで、自己の積み上げた善行をてがらにして生きる、そしてその生き方を握りしめてはなさない生き方です。自己閉鎖の生き方です。これを、「功徳の少ないもの」と表現しています。それでは、「功徳の多いもの」とはどのような人をいうのでしょうか。それは、あらゆる善根功徳をおさめた名号「南無阿弥陀仏」に生きるもののことで、煩悩具足の私のために、阿弥陀如来がふり向けてくださる功徳(回向)にいかされて生きている人のことです。しかし「功徳の少ないもの」にも、さとりの道は開かれている、と示されています。自らの力を誇り、それを誤りなきものとして、どこまでも自己を打ちたてていく、おごりの中にあるものも、決して見捨てることなく救われていくことを誓ったものが、この第二十八願なのです。


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春季彼岸会法要■
 3月21日(火) 午後1時 勤行、法話
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