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      2026.4.1  正信偈の教え
               
       


      摂取心光常照護 已能雖破無明闇
   
      貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

[読み方]
 摂取の心光、常に照護したまう。すでによく無明の闇を破すといえども、
 貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり。

[意 訳] 
 すべてをおさめ取られる慈悲の光は、常に照らして護ってくださる。すでに無明
 の闇は破られてはいるけれども、欲望と怒り憎む心が雲や霧となって、常に真実
 信心を上から覆っている。


常に照らされている私

 「摂取心光常照護」の「摂取」というのは、阿弥陀仏が私たちを摂め取ってくださることです。そして、その「摂取」ということは、「心光」によることとされています。「心光」は、阿弥陀仏の大慈悲心の光です。「光」は、多くの場合、仏の「智慧」のはたらきのことをいいます。私たちは、自分の思いにこだわり続けていますから、本当のことがわからず、ものの道理についてまったく「無知」なのです。しかも、道理がわかっていないのに、わかっていると思い込んでいるのです。つまり、わかっていないこと、そのこと自体が、実はわかっていないのです。そのような心は真っ暗闇のようだと教えられています。暗闇を暗闇でなくするもの、それが「光」です。私たちの心を照らし出し、その心の暗闇を破ってくださるのが仏の「智慧の光」なのです。

 ところが、仏の「智慧」は、単に「智慧」としてだけはたらくのではありません。実は、「智慧」がはたらく時には、それは「慈悲」となって私たちにはたらきかけているのです。言い換えれば、私に差し向けられている「慈悲」を身に感ぜしめられることによって、仏の深い「智慧」のはたらきを知らしめられるのです。そのような「智慧」にもとづいた「慈悲」の心のことを、「摂取の心光」と詠われているのです。

 「摂取の心光」、すなわち阿弥陀仏の大慈悲心の光は、「常照護」(常に照護したまう)といわれています。いつも私たちの身と心を包んで照らし、私たちを護ろうとしてくださっているというわけです。

 
信心を覆うもの

  続けて、「已能雖破無明闇」(すでによく無明の闇を破すといえども)とあります。
 私たちの心の「無明」の闇は、すでに破られているのです。「無明」というのは、根元的な無知です。真実に暗く、真実を見る智慧の明るさが欠けている状態です。それが凡夫の迷いの根本となる煩悩なのです。

 「無明」の闇は、実は、阿弥陀仏の大慈悲心の光によってすでに破り尽くされているはずなのです。そして私たちは、真実に素直に向き合うことができているはずなのです。ところが、「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」(貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり)と詠われていますように、「貪愛」や「瞋憎」といわれる煩悩が、雲や霧のようにわき立ち、私たちの心に立ちこめて、「真実信心」を覆い隠してしまっているのです。

 「貪愛」は「貪欲」ともいわれます。しがみつく愛着・欲望です。「瞋憎」は「瞋恚」ともいわれ、怒り憎む心です。私たちは、何ごとについても、自分の思い通りになることを期待します。時には、思い通りになるはずのないことをも、思い通りにしようとこだわります。これも無知によって起こります。せっかく阿弥陀仏の大慈悲心の光に照らされて、無知が除かれ、「真実信心」が受けとめられるようにしてもらっているはずなのに、どこからともなくわき起こってくる「貪愛」や「瞋憎」によって、その「真実信心」を覆い隠して、それに気づかない自分になっているのです。

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