如来の四十八願は衆生救済の大慈悲心
(本願文最終回)
四年前に始めた本願文(四十八願)の連載は今号で終了します。四十八願の主要な願文については学ぶことはありますが、全ての願文を学ぶことはあまりない事だと思います。 ここにあらためて四十八願の中心である十八願を掲載しておきます。(内容は第557号参照)
「第十八願」
設我得仏、十方衆生、至心信楽、
欲生我国、乃至十念。若不生者、
不取正覚。唯除五逆 誹謗正法。
もし、わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて私の国に生まれたいと願いわずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら私は決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る者だけは除かれます。
中国の高僧で七高僧の一人である善導大師が、「経教は鏡のごとし、しばしばたずぬれば智慧を開発す(経典や、仏の教えは鏡のように私自身を照らす、私の真のすがたに気づかせてくれるものである。聞けば聞くほど仏の智慧が私の身に添ってくれます)」といわれています。
仏法の学び、念仏の学びは、この「我が身」のありように気づくということです。これを「機の深信(私のまことの姿にめざめる)」といいます。しかし、そのめざめは、いうまでもなく「仏法」を聞くところからうまれるものです。これを「法の深信」といいます。言葉を変えていえば「私が本当の私にめざめるということは、自分の力では不可能だ」ということです。よく、「自分のことは自分がいちばんよく知っている」といいますが、実は、自分のことはまったく知らないのが自分であるといわなくてはなりません。知っているつもりになっているだけなのです。また、自分にとって都合のいい知り方しか私にはできないのです。「凡夫」「煩悩具足」の私という言葉は、阿弥陀如来の智慧のまなこによって見抜かれた「私」自身の本当のすがたなのです。自己の愚かさに対する深いめざめのことだったのです。この場に立ってみると、自分以外の人が物が、輝いて見えるはずです。
私は私のままで弥陀如来の教えをいただき導かれながらいのちを全うするのみです。。
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■お取越法要■
ご家庭での「御正忌報恩講」
12月1日~31日
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