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      2026.2.1  正信偈の教え
               
       

 正信偈の教え
   能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

[読み方]
 能く一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

[意 訳] 
 一念の喜びの心を起こすことができれば、煩悩をなくさないままで
       涅槃の悟りが得られるのである。

他力の信心

 ここでは、本願を信じ喜ぶ心を起こしたならば、煩悩を断つことなく必ず悟りを得ることができると述べられます。ただし、ここに言う「信じ喜ぶ心(一念喜愛心)」は、「私が信じ喜んだから救われる」というような自力の信心ではなく、「ただ本願のはたらき一つにまかせて救われる喜び」という他力の信心であることに注意しなければなりません。
 本願の名号を聞くということは、悟りから最も遠い私が、そのまま救いの目当てであることを知り(摂取)、必ず悟りを得させていただけると信知して本願にまかすことです。ですから、そこには確かな喜びがあります。しかし、その喜びは私が喜んだことを功績にして誇るものではありません。なぜなら、私が喜ぶ内容は、「私を目当てとする本願一つ(他力本願)に救われる」だからです。どこまでも自分の心のありさまを問題にするのではなく、阿弥陀さまが、いまここにいる私を目当てとして下さっていることを聞くのが他力の信心です。それを誤って、「私が喜んでいるから」と自分に「から」を付けてはいけません。「能発一念喜愛心」の一句を味わう時に間違わないことがとても大事です。
 一方、私の心に喜びの心は起こりますが、凡夫が往生し悟りを得ることができるという事態の大きさに比べたら、私たちの喜びようは小さな小さな喜びようでしかないということも大切にしたいことです。私たちが思い感じることは、阿弥陀さまのご苦労に比べればほんの少しのことなのです。それほど大きなご苦労が南無阿弥陀仏の名号一つに込められているのです。

煩悩の身のままの救い

この句では、曇鸞大師の『浄土論註』の言葉をうけて、本願を信じる者は、自分の力で煩悩を断ち切ることなく、阿弥陀さまの本願のはたらを信じる者は、自分の力で煩悩を断ち切ることなく、阿弥陀さまの本願のはたらきによって悟りを得ることができると示されます。仏教とは「断惑証理」と言われるように、煩悩の惑を断ち切って悟り(理)を証す仏道です。ですから、「煩悩を断つことなく涅槃を得る」とは、通常の仏教からは言えないことです。しかし、それが言えるのは、阿弥陀さまが「煩悩を断つことのできない者」を目当てとされたからです。自力で煩悩を断つことのできない者を救う道を切り開いてくださったからこそ、「不断煩悩得涅槃」なのです。ですから、通常の仏教の常識を超えたはたらきが、この一句には込められているのです。
 このように、阿弥陀さまのお心がそのまま届いたのが私の信心なのですから、その信心を「他力の信心」というのであり、すでに阿弥陀さまのお心が届いているのですから、必ず往生すべき身となるのです。
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涅槃会法要
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