第31願 国土清浄の願
設い我、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見せんこと、なおし明鏡にその面像を、みるがごとくならん。もししからずんば、正覚を取らじ。
[大意]もし、わたしが仏になるとき、国中の菩薩の智慧や弁才に限りが
あるようだったら、私は決して覚りをひらきません。
もし、わたしが仏になるとき、その国土が清らかであり、光明が十方無量の数限りない諸仏の国々を照らして、ちょうど明らかな鏡にそのすがたをうつしみるようにしたい。それができないようなら私は決して覚りをひらきません。
仏法では、私たちが生活するこの世界(土)を穢土といいます。単によごれたところ、ということではなく、煩悩によって成立っているところということです。言葉をかえていえば、この土は私たちのエゴむきだしのところ、ということです。損か得か、役に立つか立たないかということだけで成立っているところです。もうかることなら手段を選ばず、便利さのためならば何でもします。第三十一願はこのような、私たちのこころと世界を見ぬき、煩悩のよごれのない清浄なる世界を願ったものです。
この第三十一願文にある「国土清浄」とは、阿弥陀仏の清浄な国土のことであり、お浄土のことです。阿弥陀仏の心中に願われた浄土は、全宇宙のあらゆる諸仏世界の全てを、明鏡のように映し出すことのできる無量光明土です。一切世界を照して障碍されることのない仏智無辺の世界です。
宮殿楼閣を備えた方便の浄土、死後に蓮台に坐れるという方便化土の浄土に対して、第十八願の真実報土は無量光明土であり、仏智の光明が照らす智慧(悟り)の世界です。仏心の中に、一切の他の世界を映し出し、万人の心を知り、万人の心と一つになる。そのためには、明鏡のように澄み、一切の世界を映すことのできる清浄国土でありたいという願いなのです。欲や色目で濁っていては、人びとの心を正しく映すことはできません。
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■定例法座■
6月18日(日) 午後1時 勤行、法話
「歎異抄」に学ぶ
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