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      2025.11.1  正信偈の教え⑪
               
       

 正信偈の教え
   成等覚証大涅槃 必至滅道願成就

[読み方]
 等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。。

[意訳] 
 正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことができるのは、必至滅度の願(第十一願)が成就されたことによる。


『無量寿経』の第十一願

 今回の「正信偈」の文は、前回の「本願名号正定業 至心信楽願為因」の文と合わせて阿弥陀仏の徳を、光明と名号の徳として讃えられたものです。
 すなわち、名号が私達の上に届いて正定の業となり、真実の信心となり、そして涅槃の覚りを獲しめて下さる事を讃えられたのです。

 まず「等覚を成る」という事はこの世において私達が信心を獲た時に正定聚の位に住する事を言い、そしてこの世が終って浄土に生れた時に「大涅槃」を証する。これが「必至滅度の願(第十一願)」に誓われている事柄であると親鸞聖人は述べられいます。「正信偈」の「等覚を成り大涅槃を証する」という言葉は、正依の経典『無量寿経』の第十一願文にはないのですが、実はこれは、唐の時代に玄奘三蔵によって翻訳された、異訳の『無量寿如来会』(むりょうじゅにょらいえ)から取られた文章なのです。その文は『顕浄土真実教行証文類(証巻)』に引用されています。 
 『無量寿如来会』(上巻)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り犬涅槃を証せずは、菩提を取らじ」と。すなわち、「私が仏になった時に、私の国に生れてきた者が、必ず浄土において等正覚を完成して、大涅槃を証する事がなかったならば、私は仏になりません」と阿弥陀仏がお誓いになっている訳です。

 この「等正覚」とは、普通は「平等の正覚」を意味します。「正覚」とは正しく真理を覚る智慧です。「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の「三菩提」が「等正覚」と呼ばれています。つまり、平等の真理を覚る完全な智慧の事を「等正覚」と、普通は言う訳です。そして「大涅槃」とは、等正覚と言われる智慧によって悟られた境地の事で、煩悩の火が完全に吹き消された、安らかな境地です。従ってこの『無量寿如来会』の第十一願は、全体として、「私の国に生れてきた者は完全な智慧を完成して、煩悩が微塵も雑わらない安らかな覚りの境地に到達せしめる」ということがその誓いの内容になります。

 ところが親鸞聖人は、この第十一願を「等正覚」と「大涅槃」の二つに分けて、「等正覚」を「等覚」という「等覚の菩薩」の位、そして「大涅槃」を仏の位なのだと仰るのです。「等覚」とは何かと言うと、「覚りに等しい」という事だと仰います。「覚りに等しい」とは、「覚りと同じ」ではない、という訳です。一方、「大涅槃」は無上涅槃の事だと言われるのです。「等覚」というのは、菩薩の最高位で、代表的な方が弥勒菩薩です。それに対して大涅槃というのは仏の位。つまり菩薩は因の位で、仏は果の位です。菩薩の中で一番高い地位にあるものを等覚と言うのです。この場合の等覚は「覚りとほとんど同じ」という意味なのです。つまり、『無量寿如来会』の「等正覚」の「等」は平等という事なのですが、親鸞聖人がここで使われている「等覚」の「等」は、「ほとんど同じ」という意味なのです。

 弥勒菩薩のように、一生が終ったらこの世に出てきて覚りを開く菩薩を「一生補処の菩薩」といいます。この一生が終ったら仏の処、場所を補う。つまり今は仏様の候補者なのです。等覚の菩薩とは一生補処の菩薩です。そこで念仏の行者もこの一生が終ったら浄土に生れて仏様になる。それだったら弥勒菩薩と同じように念仏の行者もこの一生を終えたら仏になる一生補処の菩薩だというので、親鸞聖人は、念仏の行者は弥勒菩薩と同じだといわれる訳です。また、「信心よろこぶそのひとを如来とひとしとときたまふ」(『浄土和讃』)とも言われた訳です。

 このように、親鸞聖人は『無量寿経』の第十一願文を見るのに『無量寿如来会』の第十一願文を参考にされて、「等覚を成る」という言葉を第十一願の正定聚の位として読まれ、「成等覚といふは正定聚の位なり」といわれたわけです。

 正定聚というのは「仏になる事に決定している仲間」です。正定聚は本来、煩悩を断ち切って覚りの智慧を開いた聖者で、初地以上の菩薩の位を言います。しかし聖人は、念仏の行者は本願の名号をいただいて信心を獲た時、正定聚の位に就けしめられるのだという事をいわれる訳です。 

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 11月16日 午後1時~3時
法話 『正信偈に学ぶ』