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      2024.10.1  第47願 聞名不退の願(もんみょうふたいのがん)
      2024.10.1  暮らしの中の仏教語 「一蓮托生(いちれんたくしょう)」
    
               
       

     もんみょうふたい
第47願  聞名不退の願

 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、すなわち不退転に至ることを得ずんば、 正覚をと取らじ


[大意] もし、わたしが仏になるとき、他方国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、ただちに不退転の位に至ることができないようなら、わたしは正覚をひらきません


  自分を超えたものにあうことによって、初めて自分(の力量)もわかり、いろいろなことが身につくことが多くあります。阿弥陀如来の智慧の光明に照らされると、「わが身」の事実に目がさめます。それを親鸞聖人は、「煩悩具足」と示されました。「煩悩具足」とは、「私の思いが通れば有頂天になり、通らないと他を恨む」という私たちのありようをいいあてた言葉です。このような私たちを、かならず仏になるべき身にしようという誓いを発されたのが本願でした。第四十七願は、他方世界の菩薩がこの名号によって、不退転の位(かならず仏に成ることが約束された位)につくことがなかったならば仏にならないというものです。
 通常私たちは不退転という言葉を決意を示す言葉として使います。しかし、私たちの不退転の決意はもう次の日にはひっくり返っていることがよくあります。あてにならないものです。
 仏教でいう「退転」とは迷いの世界といわれる悪道や、自利(自分のさとり)のみを求める道におち込むことです。そして、菩薩がさとった法や、その地位を失うことをいいます。不退転とは、その逆の意味です。そして、その不退の位を不退転といいます。
 さて、親鸞聖人の教えの大きな特質は、現生(いま、ここで)に不退の位に入り、のちに滅度をさとるというものです。これを現生正定聚、現生不退といいます。親鸞聖人は真実信心をたまわればそのとき、この世で正定聚不退の位につき、未来はかならず滅度のさとり、大涅槃に至ると了解されたのです。この誓いは、すでに学んだ第十一願で、かならず滅度に至る「必死滅度の願」、また大涅槃をさとる「証第涅槃の願」という名でよばれている願です。
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