弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
[読み方]
弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、信楽受持すること、なははだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし。
[意 訳]
阿弥陀の本願による念仏は、よこしまな考えや思い上がりの衆生にとって、信じて願って、それを保つことは、はなはだ困難である。困難なことのなかで、これ以上の困難はない。
邪見と憍慢
まず、「弥陀仏本願念仏」。阿弥陀仏は、一切の衆生をもれなく救いたいという願いをおこされました。これが阿弥陀仏の本願です。そして衆生を救いとるために、阿弥陀仏はすべての人に等しく念仏を施し与えられました。つまり衆生は「南無阿弥陀仏」という名号をいただいているのです。
しかしながら「邪見憍慢悪衆生」。私たちには、「邪見」があり、「憍慢」の心が常にはたらいています。「邪見」とは、真実に背いたよこしまな考え方です。また「憍慢」は、自ら思い上がり、他を見下して満足する心のはたらきです。すなわち私たちは、邪見にとらわれ、自分を思い高めて、阿弥陀仏が願われている願いに背を向けているのです。罪悪深く重い凡夫なのです。
そのような悪衆生にとっては、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」であると言われます。阿弥陀仏の本願として施し与えられている念仏を素直な思いで受け取らせてもらい、「南無阿弥陀仏」を保ち続けることは、とてもとても困難なことであると、親鸞聖人は教えています。悪衆生が、本願を喜び、念仏をいただくことは、困難なことのなかでも、最も困難なことであって、それ以上の困難はないといわれています。「邪見」や「憍慢」が妨げとなっているからです。それはまた、同時に、阿弥陀仏が発された「本願」が、衆生にとっては容易には信じ難いほどの広い大慈心であることを意味し、また、衆生に差し向けられている「名号(南無阿弥陀仏)」も、衆生には受けとめきれないほどの深い大悲心のはたらきであることを意味しているのです。
難の中の難
「私たちは道理を見失っている、そして、そのために私たちは、今、現に悩み苦しんでいる」と、釈尊は教えています。私たちは、自分が道理に迷っているとか、今悩み苦しんでいるとか、そのような実感はないかもしれません。しかし、道理に目覚めた人「仏陀(釈尊)」は、私たちのありさまを、そのように指摘しているのです。どうやら私たちは、道理とは関係のない、自分の目先のことに、自分の思いを信用して生きています。また、たとい自分は悩み苦しんでいると感じているとしても、それは、あくまでも道理に気づいていない私たちが感じていることであって、釈尊が指摘している悩み苦しみと同じ質のものであるとは限らないのです。実は、本当に悩み苦しまなければならないこと、現に悩み苦しんでいるはずのこと、それを知らずに迷い続けているわけです。そのような自分の事実に深く目覚めて、迷いから離れることができればよいのですが、理屈ではそれがわかっていても、現実にはその事実から眼をそらせて暮らしています。それなのに、これでよいのだと思い込んでいます。あるいは、しかたがないのだといいわけをしています。救い難い愚かさというよりほかはありません。
このような私たちを哀れんで、阿弥陀仏は、私たちを深刻な悩み苦しみから救いたいという願いから、私たちに「念仏」を施し与えておられます。私たちには「南無阿弥陀仏」がおくり届けられているわけです。ところが、私たちは、道理に背いた邪悪な思い(邪見)から離れられていません。そして思い上がって(憍慢)、阿弥陀仏が願っていただいていることよりも、自分の思いの方を信用して大切にしています。まさに私たちは「邪見憍慢の悪衆生」なのです。悪衆生にとっては、阿弥陀仏の本願による念仏を「信楽し受持する」ことは、はなはだ困難なことであると、親鸞聖人は指摘しておられます。
「信楽」は、信じて楽(ねが)うことです。本願によって念仏が私たちに差し向けられていることを疑わずに素直に信ずること、そして喜んで念仏を楽い求めることです。また「受持」は、受けとめて保つことです。施されている念仏をしっかりといただき続けることです。
邪見や憍慢にとりつかれている私たちにとって、本願の念仏を素直に信じて喜ぶことがはなはだ困難であり、そればかりか、それは難の中の難であってこれに過ぎた困難、つまりこれ以上の困難はないと、聖人は教えておられます。
そうすると、私たちには、念仏を信ずることは、まったく不可能だということになりますが、実はそうではないのです。このような私たちだけれども、むしろ、このような私たちだからこそ、私たち自分自身の力によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられているのだという、七高僧の教えを親鸞聖人はこの後述べていかれるのです。
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■秋季彼岸会法要■
9月23日(水) 13時より 法要・法話
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