獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
[読み方]
信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん すなわち横に五悪趣を超截す
[意 訳]
信心を得た人を見て敬って、大いに喜ぶならば、ただちに、
横跳びに五種の迷いを超えることになる
大きなよろこび
まず「信を獲れば」といわれています。
これは、阿弥陀仏の本願を信ずる信心が得られたならば、ということです。阿弥陀仏の本願は、多くの人びととともに、この私を悩み苦しみから救ってやりたいと願ってくださる願いです。哀れなことに、私は自分かそこまで悩み苦しんでいることにすら、気づいていないのです。眼の前の利害に心を奪われて、自分の思いに合致すれば満足し、そうでなければ、不平不満をいだいて、他を恨みます。
ところが、そのような私を救いたいと願われる願いが、私の知らないうちに、すでにはたらいているのです。それが本願です。常にはたらき続けている本願のなかに、私は今生活しているのです。私という人間は何とも情けない生きものであるということ、そしてその私を何としても救ってやりたいという願いが現にはたらいているということ、そのような事実に、ふと気づかされ、しみじみと納得させられること、それが「信を獲る」ということです。
そのような私だからこそ、願いが差し向けられているという事実に、心の底から頷かされれば、何かが見えてきて、何かを敬う心が私に起こるのだと諭されているのです。それが「信を獲れば見て敬い」というお言葉です。
阿弥陀仏の本願に気づかされると、ますますはっきりと愚かで哀れな自分自身の姿が見えてくるという理解です。そして、このような自分を救うための信心がすでに用意されているという事実を、自分としては敬いの心をもって受け入れるしかない、そのように、自分の姿を見て本願を敬う身になるならば、それこそが私にとってこの上にない喜び、「大慶喜」となるのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
(後半は次号で)
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■定例法座要■
6月21日(日) 13時より 勤行・法話
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