凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
[読み方]
凡聖・逆謗、斉しく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるが如し。
[意 訳]
凡夫も聖者も、五逆や謗法の者も、同じく心をひるがえせば、あらゆる川の水も、 海に入れば同じ味になるようなものである。
凡夫と聖者 平等の救い
五濁という悪い世に生きる私達には、阿弥陀仏の本願について教えられた釈尊のお言葉を信ずるほかはないと、親鸞聖人は詠われました。
釈尊のお言葉、すなわち『仏説無量寿経』の教えに素直に従うということは、どのようなことであるのか。それについて聖人は、煩悩を断じないままでも、涅槃を得させてもらえるということであると教えられました。
さらに、親鸞聖人は「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」(凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし)と続けられます。
「凡聖」というのは、煩悩にまみれて迷っている「凡夫」と、煩悩をなくして清らかになられた「聖者」とです。「凡夫」と「聖者」とは、煩悩に支配され続けているか、それとも煩悩を滅し尽くしているか、そこに違いがあるわけです。
また「逆謗」というのは、「五逆」という重い罪を犯した 人と、「謗法」の 人、すなわち仏法 を謗(そし)ると いう悪をはたらく 人です。五逆とは、
①父を殺すこと ②母を殺すこと ③聖者を殺すこと ④仏のお体を傷つけて血を流させること ⑤教団を分裂させること、をいいます。
「回入」とは、回心して帰入することといわれます。つまり、自分の思いにこだわり続ける心をひるがえして、真実に目覚めることです。常に阿弥陀仏の願いが差し向けられている身であるのに、そのことに気づかないのは、仏の願われていることよりも自分の目先の判断を大切にしているからなのです。ですから、自分のはからいを捨てて、真実に背を向ける心をひるがえすことが必要なのです。大きな願いのなかに生きている、本来の自分に立ち戻ることが必要なのです。煩悩にまみれ続けている凡夫であろうと、煩悩を滅し尽くした清らかな聖者であろうと、また、たとえ五逆というような重い罪を犯す人であろうと、さらには、仏法を謗るような人であろうと、いずれも自分の力では 「涅槃」といわれる勝れた境地にいたることはできないのです。誰も自力では「往生」することはできないのです。
しかし、凡夫であろうと、聖者であろうと、五逆であろうと、謗法であろうと、自分本位という思いを大きくひるがえして、真実に対して謙虚になり、本願を喜べるようになるならば、阿弥陀仏の願いによる救いにあずかることになると、親鸞聖人は教えておられるのです。
それはちょうど、どこから流れてきた川の水であろうと、海に注ぎ込めば、みな同じ塩味になるようなものだと教えておられるわけです。
海に流れ入る水には、どこから流れ出てくるか、それぞれ水源の違いがあります。また途中でどのような所を流れ下ってくるのか、そのたどってくる場所や状況が違っています。しかし、出発や経過がどうであれ、海に入れば同じ水になるわけです。
人はそれぞれ、今の生き方の実状に違いがあります。善し悪しの違いもあります。またこれまでに生きてきた経過や経歴もさまざまです。
けれども、どのような状態にあろうと、またどのような経歴であろうと、阿弥陀仏の願いのもとでは何の違いも区別もないと教えられているのです。
ただ問題は、私達の今のあり方がどうであるかということです。私達が、真実に背を向けたままの愚かな自分にこだわり続けるのか、それとも、そのような自分に阿弥陀仏の願いが向けられていることに気づかせてもらって喜ぶのか、というところに決定的な相違があります。
凡夫も聖者も、五逆や謗法ですら、ひとしく心をひるがえすならば、さまざまな川の水が海に流れ入って一つの味になるようなものだ、と詠われていますが、この句の直前にあるように、一念の喜愛の心を起こすならば、自ら煩悩を断ち切ることができない者たちであろうとも、涅槃、すなわち往生を得させてもらえるのです。
ここには、本願に触れた一念の喜愛の心が、何にも先立って大切であることが教えられているわけです。
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■春季彼岸会法要■
3月20日(金) 13時より 勤行・法話
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