正信偈の教え⑤
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
[読み方] 法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所(みもと)にましまして、
[意訳] 法蔵菩薩が仏になられる前の地位におられた時、世自在王仏の所で教えをうけておられて
阿弥陀仏の願いの由来
菩薩とは
親鸞聖人は、正信偈の冒頭に「帰命無量寿如来」と信心の宣言をされ、その後に法蔵菩薩が阿弥陀仏になったという法蔵菩薩の物語を述べられます。「法蔵菩薩」の「菩薩」というのは、人びとを導き、救うために仏に成ろうとしておられる人のことです。つまり、仏に成られる前の段階をいいます。世間の無数の人びとは、真実に気づかず、自我にこだわっています。そのために、迷いを重ね、誤った生き方をしながら、それが正しいと思い込んでいます。その結果、人びとは悩み苦しまなければならないのです。菩薩は、みずから早く覚りを得て仏に成って、そのように悩み苦しまなければならない、すべての人びとを救いたいと願われるのです。菩薩がこのような広大な願いをもって、仏に成るための修行をしておられる段階を「因位」といいます。そして、「因位」の時の菩薩の行が完成し、願いがかなえられて仏に成られた、その仏としての地位を「果位」といいます。
「因」を知る
正信偈では「法蔵菩薩因位時」と、「因」から語っていかれます。そこには二つの意味があります。
一つには、「因」を知ることの大切さです。私たちは「果(結果)」ばかりを見てしまいますが、「果」には必ず「因(こころ・思い)」があります。その「因」つまりその結果に込められたこころや思いを知るからこそ、私たちは感動し感謝の念が起こるのです。それと同じように、阿弥陀さまが仏になろうと願われた「因」を知るからこそ、私たちの心にも信心としての喜びが恵まれていくのです。なぜなら、阿弥陀さまが仏になろうと思われたのは、いまここにいる私を救うためだからです。いまここにいる私が目当てであったと知るからこそ、法蔵菩薩の物語が喜びとともに真実として受け取られていくのです。
二つには、すべての者を救うために現れたのが阿弥陀さまだからです。法蔵菩薩は、煩悩のある苦しみの世界に現れ、すべての者が救われる道を開かれました。つまり、私たちを救うために、静寂な境地ではなく、「因位」となって苦しみ多いこの世に飛び込み、すべての者が救われる道を示されたのは、阿弥陀さまがそういう仏(従果降因じゆうかこういん)であることを教えるためです。私達を助ける為に、わざわざ仏の座を降り、菩薩になったという事です。親鸞聖人が「因」から語り始められたのは、そのような意味からです。
師に出遇う
法蔵菩薩の物語は、法蔵菩薩が世自在王仏という師に出遇い、世自在王仏の教えを聞いて自分も仏になりたいと願いを起こし、それを実現するために修行して阿弥陀仏になるというものです。
私たちは多くの出会いをしますが、その中で師と呼べる人との出遇いは特別な意味を持ちます。なぜなら、師との出遇いは、この人のようになりたいという人生を決定付けていくものであり、自分では見えなかった世界との出遇いを意味しているからです。
法蔵菩薩にとって世自在王仏との出遇いとは、世自在王仏の体現している世界が法蔵菩薩を動かしていくような出遇いだったのです。世自在王仏とは、この世で悟りを得ている自在なる仏、つまり、仏の自利の面、悟りの智慧の面を表します。また、世自在王仏は「世饒王仏(せにょうおうぶつ)」とも呼ばれますが、こちらは自在に人々を豊かにする仏、つまり、仏の利他の面、悟りの慈悲の面を表します。このように世自在王仏とは、悟りそのものが自利利他(智慧・慈悲)を具えていることを教えているのです。その世界につき動かされたのが法蔵菩薩(ダルマーカラ=法の根源・法を散布するの意)なのです。
|
■定例法座■
5月18日 午後1時~3時
法話 『歎異抄に学ぶ』
|
|