正信偈の教え⑨
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
[読み方]
普く、無量・無辺光・無碍・無対・光炎王・清浄・歓喜・智慧光・不断・難思・無称光・超日月光を放ちて、塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
[意訳]
ひろく、はかリ知れない光、かざりない光、さえぎられることのない光、比べようのない光、炎のような光、清らかな光、喜びの光、智慧の光、途切れることのない光、考え難い光、説きつくせない光、日月を超えた光を放って、数かぎりない国々を照らしておられる。一切の衆生はこの光の輝きを受けて照らされている。
阿弥陀仏の十二種の光明
ここには、阿弥陀仏の智慧の徳が十二種の光として述べられています。阿弥陀仏は、あらゆる方向にこの十二種の光を放って、塵のようにちらばっている無数の世界を照らしておられるというわけです。すなわち、阿弥陀仏の智慧には、人間のあらゆる状況を覆っている無知という闇を破って、すべてを光り輝かせる徳がそなわっているということです。
十二種の光の最初は「無量光」です。これは、阿弥陀仏の智慧の光明は、量り知ることができないものであって、限りのある私たちの現実のありさまは、すべてこの光の輝きを蒙っているのだから真実の光明である阿弥陀仏に帰命しなさいと教えておられるのです。
第二は、「無辺光」です。阿弥陀仏の智慧の光明は、ここから先はゆき届かないというような際はない、ということです。私たちを悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際がなく、この光に触れることができるものは、みな自分がこだわっている誤った考えから離れることができるといわれています。
第三は、「無碍光」です。何ものにも、さえぎられることがないのが阿弥陀仏の智慧の光明です。光に満ちた雲のような阿弥陀仏の智慧は、ちょうど大空をさまたげるものがないように、何ものにもさまたげられることなく、障害と思われるどのようなものであっても、阿弥陀仏の智慧のはたらきには何の障害にもならないのです。
第四は、「無対光」です。これは、対比するものがない光ということです。阿弥陀仏は、他の何ものとも比較のしようがない、勝れた智慧の徳をそなえておられるのです。
第五は、「光炎王」です。「炎」は、私たちの愚かさから起こるさまざまな迷いを焼き尽くすことをたとえたものです。阿弥陀仏の智慧の光明は、無知の暗闇を照らし、暗闇を暗闇でなくしてしまうはたらきがあるのです。
第六は、「清浄光」です。貪りに支配される私どもの心の汚れに気づかせ、心が清らかになるように、はたらきかけてくださる智慧の光です。ひとたびこの光を身に受けたならば、心身の汚れは取り除かれ、あらゆるこだわりから解き放たれるのです。
第七は、「歓喜光」です。慈しみとしてはたらく阿弥陀仏の智慧の光は、怒りや憎しみの深い私どもの心を和らげてくださるので、私どもの心は喜びに変わるのです。
第八は、「智慧光」です。私どもは、真実に暗く、愚かで無知そのものです。そのために悩まなければならないことが多いのです。しかも、自分が無知であることにも、実は無知なのです。阿弥陀仏の智慧の輝きは、私どもに無知を知らせ、無知の闇を破ってくださるのです。
第九の「不断光」は、一刻も途絶えることなく、私どもを照らし続けてくださる阿弥陀仏の智慧の光明のことをいいます。
第十の「難思光」は、凡夫の思いによっては、到底量り知ることのできない阿弥陀仏の智慧の光明のことです。あらゆる仏が、凡夫の往生を讃嘆され、それを実現される阿弥陀仏の恩徳をほめ讃えておられると、説いてあるのです。
第十一は、「無称光」です。「称」は「はかる」という意味です。どのような方法によっても説明しきれない阿弥陀仏の智慧の輝きをいいます。
最後の第十二は、「超日月光」です。阿弥陀仏の智慧の光明が、日月の光を超えた光にたとえられています。
阿弥陀仏の智慧には、塵のようにちらばっているすべての世界を照らし出し、人びとの迷妄を打ち破って、人びとを輝かせる徳がそなわっていると、親鸞聖人はいっておられます。そして、その輝きを蒙っていない者は一人もいないといっておられるのです。
|
■秋季彼岸会法要■
9月23日 午後1時~3時
法話 『正信偈に学ぶ』
|
|