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      2022.12.1  第25願 説一切智の願(せついっさいちのがん)
      2022.12.1  暮らしの仏教語 「殊勝(しゅしょう)

   
       

第25願 願説一切智の願
たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、一切の智を演説すること能わずんば、正覚を取らじ。


[大意]もし、わたしが仏になるとき、国中の菩薩たちが、あらゆる智慧をもって自在に説法することができないようならば、わたしは決してさとりをひらきません。


 二十五願では、「一切智を演説する」とある通り、仏の一切智を説くことになっています。これは、仏の智慧をもって人間の実相にめざめさせ、智慧をもってその人間を救いに導く法を説く、と言うことです。
 『仏説無量寿経』の下巻に、「無碍の智慧をもって、人のために演説す」とあります。「無碍の智慧」とは、仏のさとりの智慧のことで、自在に救いを実践する「はたらき」を意味する言葉です。「人のために演説す」とは、一切の苦悩多き人々のため法を説くということです。なぜなら、四十八願の願いすべてが、「私が仏になろうとしたときに」、「一切の人々が救われなかったならば、私は仏にならない」と誓われてあるからです。ここに阿弥陀如来の誓いの根本があります。人を救うためには、その道を知っている人でなければ不可能です。泳ぎの達者な人でなければ、おぼれている人を救うことはできません。その力を備えている人を大いなる智慧者(一切智者)といいます。知識は生きていく上では、有効なものです。しかし、誤って身につけると、ますます自分が自分から遠ざかっていくということがあります。それは、知識が無意味であるということではありません。学び方の問題です。誤りなき知の学びが私を育てはぐくんでくれるものとなります。それを智慧といってもいいと思います。私たちが教えを聴くということも同じです。聞いたことが知にとどまっているかぎり、「よくわかった」「いい話だった」「あまり感心しない話だった」ということで終わってしまいます。それは聞法ではありません。ここに知(識)というものの限界があります。
 無上の智慧を与え、自在に説法をすることができる身にしたい、という願いは、自在に人を救いたいという慈悲心の究極でもあったのです。

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