正信偈の教え⑫
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
[読み方]
如来、世に興出したもうゆえは、ただ本願海を説かんがためなり。
[意訳]
釈迦如来が世に出られたわけは、ただ海のように広く深い阿弥陀仏の本願を
お説きになるためである。
釈尊が世に出られた理由
「正信掲」の最初の部分、「弥陀章」についての説明は、前回で終わりました。それは、親鸞聖人が『仏説無量寿経』にもとづいて阿弥陀仏の本願のことを教えられている部分でした。阿弥陀仏の本願というのは、私たち一人一人を間違いなく救おうとされている、深く大きな願いのことです。そのような広大な願いが、私がこの世間に生まれてくる以前から、すでに私に差し向けられ、私のために用意されているということです。その広大な願いがはたらいているところに、実は私が生まれてきているということに私が気づくかどうか、そのような願いが現にはたらいているという事実を私が喜ぶかどうか、そのことが問題なのです。
これから、釈尊について詠われている「釈迦章」といわれている部分に入ります。まず、「如来所以興出世」「如来、世に興出したまうゆえは」とあります。「如来」というのは、「如(真実)から来た人」という意味ですが、この場合の如来は、釈迦如来、すなわちお釈迦様、釈尊のことを表しています。「世に興出したまうゆえ」というのは、「この世間にお出ましになられた理由」ということです。つまり、釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか、ということです。釈尊は、どのような目的をもってこの世に生まれてこられたのか、ということなのです。
それについて、親鸞聖人は、「唯説弥陀本願海」すなわち「ただ弥陀本願海を説かんとなり」と述べておられます。つまり、釈尊がこの世間にお生まれになって、仏に成られたのは、ただ、私たちに阿弥陀仏の本願のことを教えようとされたためであった、ということです。「本願」という言葉に、親鸞聖人は「海」という字を添えておられます。それは、どのような人もすべて浄土に迎え入れたいとされる阿弥陀仏の本願が、海のように広く深い願いであることを印象深く表現されているのだと思われます。釈尊がこの世間に出られたのは、たまたまこの世間に生まれ、たまたま仏に成られて、人びとに教えを説かれた、ということではないのです。この世間に出られたのは、それは、ただただこの私を救ってあげたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしてくださったためである、ということなのです。
仏説無量寿経
親鸞聖人のこの言葉は、『仏説無量寿経』によるものです。このお経のなかで、釈尊は、「如来、無蓋の大悲をもって三界を衿哀したまう。世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萌を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」と説いておられます。これは、「釈尊は、何ものにも覆われることのない大悲によって、果てしない迷いの状態(三界)にある人びとを哀れんでおられる。釈尊がこの世間に出られたわけは、教えを世に明らかにして、そのような人びとを救い、真実の利益を恵み与えたいと願われたからである」という意味になります。
このようにお説きになったうえで、釈尊は、法蔵菩薩が四十八の誓願を発されたこと、そしてそれらの誓願がすべて成就して、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたことなどを説かれます。つまり、阿弥陀仏の本願のことを教えられるのです。先ほどの経文に「真実の利」とありましたのは、阿弥陀仏の本願のことを釈尊が私たちに教えてくださったということなのです。
釈尊がわざわざこの世間にお出ましになられたのは、ただ、阿弥陀仏の本願のことをお説きになるためだったのだと、親鸞聖人が「正信偈」に詠っておられるのは、常識や歴史的な見方ではなくて、それは心の奥からわき出てくる宗教心による見方なのです。
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■お取越法要■
ご家庭での「御正忌報恩講」
12月1日~31日
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